前編
数多くの素晴らしい作品の中、拙作に目を留めていただいて本当にありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけますように。
君に初めて出逢ったときのことは、今でも鮮明に覚えている。
「初めまして、エメリーン・ブラッドベリーと申します。お会いできて本当に嬉しいですわ、ジョナス・ウェストウッド様」
そう言ってたおやかに微笑む君の姿は、春の庭園に咲き乱れる色とりどりの花も霞むほど、一際美しく輝いていた。
当時僅かに齢十、十二も年下の愛らしい婚約者に、僕は一目で恋に落ちたのだ。
*****
「───うーん、こうして改めて聞いてみると、ジョンが幼女趣味でよかったって心から思うわね……」
「……うっ」
しみじみと感じ入るように落とされた呟きが、懐かしい記憶に暖まっていた僕の胸を深々と抉った。
「……エ、エマ……せめてもう少し、こう、言葉を選ぼうか……?」
からかわれているのだと分かってはいつつも、思わず引きつった笑いを浮かべるしかない僕に、小さなテーブルを挟んで向かいあわせのソファにゆったりと腰かけた彼女───エマは、悪びれることもなく微笑んで、小さく首を傾けた。
「あら、でも、そういうことでしょう?二十二歳の男性が十にしかならない小娘に惚れるだなんて、やっぱり生来の嗜好がそっち寄りだったということではないの?」
「……違うから。ていうかそもそも君の場合、実年齢と外見を一緒に考えることがまず間違ってるから」
「まあ、失礼な」
低く唸るような僕の言葉にも、エマは面白がるような笑みを浮かべて、頬に片手を添えた。
「私なんて、どこからどう見ても、幼稚でいたいけな十歳児そのものだったでしょうに」
「……どの口が言うのかな」
「あら、そう思わない?」
「全くね」
きっぱりと断言し、僕はそのなめらかな額を、軽く人差し指で突いてやった。
思い返せば婚約当時も、十二歳という年の差がある僕らはそれなりに話題を集めており、やれ結婚詐欺だの、それこそ幼女趣味だのと、面白おかしく騒ぎ立てる人たちは少なからず存在した。
しかし、それらの噂が長続きすることは決してなかった。
エマの姿を一目でも見た者が、僕のことを笑えるはずもなかったからだ。
「──君はね、とにかくもうびっくりするくらい美人すぎるの。幼稚だなんてとんでもないよ。初対面で微笑まれたりなんかしたら、誰だって見惚れることしかできないんだから」
「あらやだ、そんなお世辞が言えるだなんて、ジョンもすっかり色男ね。照れるじゃない」
「……」
ちっとも照れてなどいない、溌剌とした声音でうそぶくエマに、僕は肩をすくめてため息をついた。
こんなことを言っているが、エマは自らの美しさをきちんと自覚している。
蜂蜜のようにとろりと艶めくくせのないプラチナブロンドも、透けるように白くなめらかな肌も、その淡い色彩の中に輝く、長い睫毛に縁取られた深い瑠璃色の瞳も、彼女を構成する全てが、まるで奇跡のように美しいのだから。
本気で僕の言葉を"お世辞"だと思っていたとしたら、それはもはやただの嫌味だ。
「……そもそも、もう幼いとはいえなくなった君と、八年経った今でも一緒にいる時点で、僕がそんな趣味を持っていないことは明白でしょ?」
「あら、そこはやっぱり、私の努力と誘惑の賜物ではない?あなたを落とすために、色々と試行錯誤してた日々が懐かしいわ」
細い指を花唇にあてがいながら、エマはきらりと悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「ああでも、私が落とす前にそっちから転がり込んできてくれてたのだったかしら。うふふ、つくづく自分の年齢に感謝しなくちゃだわね?」
「……」
ころころと楽しげに笑うエマに、ため息を吐いて項垂れた僕は、軽く両手をあげることでその先を制した。
「……分かった、降参だ。……君に言われると、冗談って分かっててもかなり精神を削られるよ。そろそろやめよう……」
「あら、そう?つまらないのね」
からかうときには徹底的な分、引き際も心得ているエマは、そう言いながらもそれ以上先を続けようとはせず、ただくすくすと笑って目を細めた。
「……適当に受け流さずに、君に言葉で勝とうとした僕が馬鹿だったんだよ」
「ふふ、ごめんなさいね。ジョンをからかうのって楽しくて、どうしてもやめられないの」
本当に楽しそうないい笑顔でそう言われて、僕は思わずがくりと肩を落とす。
「いや、君のそれはスキンシップなんだってもう諦めてはいるけど……さすがにその理由は酷くない?」
「だって、ジョンも毎回律儀に相手してくれるんだもの。それに、いつもは落ち着いてるあなたが、たまに慌ててるのを見るのが好きなのよ。可愛くって」
「……悪趣味だね」
にやにやと憎たらしく口角をあげて見上げてくるエマの額を、今度は少し強めにぺちりとはたいてやる。
しかし彼女は気に止めた風もなく、乗り出していた身体をソファの背もたれにゆったりと沈めて微笑んだ。
「それにしても、改めてちゃんとあなたの話が聞けてとっても楽しかったわ。まさかあのときの私があなたに一目惚れしてもらえてたなんて思ってもみなかったら、びっくりよ。話してくれて、どうもありがとう」
「どういたしまして……って、え?そうなんだ?」
満足げなエマの言葉が意外で、僕は目を丸くする。
「ええ。数ヵ月後になってやっと、これは落ちたわねって確信したけれど、それでも想定よりうまくいって良かったわって安心してたくらいだもの」
「へーえ……。僕の考えなんて、君には全部見透かされてるのかと思ってたよ」
「ふふ、まさか」
私は神様じゃないのよと、エマはおかしそうに口元をほころばせた。
しかし改めて考えてみると、一番びっくりなのは僕の方だよなと思う。
僕が、というか、男がエマに惹かれるのは、ある意味通過儀礼と言っていい。勿論、そこから想いを深くしていく過程に個人差はあるが、彼女に少しも好感を持たない男なんてほとんど存在しないんじゃないだろうかとさえ思う。
が、エマが僕を選んでくれたことについては……、それこそ神様ありがとうと言う他ない。
決してエマの気持ちを疑うわけではないのだが、実のところ彼女が僕の何を気に入ってくれているのか、僕は今でもよく分かってはいないのだ。
「……」
そこまで考えて、僕はふと顔をあげた。
「──ねえ、エマ。君の方は、どうして僕のことを気に入ってくれたのか、訊いてもいいかな?」
この際だからと尋ねてみるが、どんな答えが返ってくるのか、びっくり箱を開ける前みたいで、なんだか少しどきどきしてくる。
幾分真剣な表情になる僕に、エマは笑みを深めて軽く頷いた。
「ああ、そういえば、私もあなたにちゃんと話したことってなかったのね」
「今までなんとなく流してたけど、不思議ではあったんだよ。なんかエマって、よく初対面のときから……っていうか、その前から僕を落としにかかってたみたいな言い方するじゃない?」
「だってその通りだもの」
あっけらかんと言い放たれるが、そこが一番分からない。
「なんで?会ったこともない奴に対して、普通そんな風に思えないでしょ。そもそも、家が決めた政略結婚になんて、君は反対しそうなものだけど……」
宝石商の娘であるエマと、貿易商の息子である僕の婚約は、仕事上古くから親交のあった家同士によってまとめられたものだった。
今どき政略結婚なんて、と初めは乗り気でなかったものの、のっけから惚れさせられているちょろい僕はまあいいとして、エマはその性格上、自分の行く末を他人に決められることに反発を覚えずにはいられないはずなのだが。
しかしエマは何故かにこりと得意気に笑んで、心持ち首を傾けた。
「反対なんてするわけないわ。だって私たちのこれは初めから、家が決めた政略結婚なんかじゃないんだもの」
「……は?どういうこと?」
本人同士の意志によるものでない以上、それは政略結婚と呼ばれるのではないのだろうか。
ぱちくりと目を瞬かせる僕に、エマは笑顔で爆弾を落としてきた。
「この縁談は、私が仕組んだものだということよ」
「…………はあ?……ええっ!?った!」
あまりにもさらりと言われたため、言葉の意味を理解するのが遅れた。
一拍の後、僕は思わずソファから立ち上がりかけ──テーブルの端に膝をぶつけて、崩れるように座り直す。
「あらまあ、大丈夫?」
「……うう、大丈夫じゃないよ。ていうか何それ?聞いたこともないんだけど」
「そうよねぇ?ええほんと、うっかりしてたわ。すっかり忘れてて、ごめんなさいね」
「……まあ、うん。……いや、とにかく、説明を要求します」
なんだか、想像以上のびっくり案件を引っ張り出してしまった。
混乱したまま、それでもまっすぐエマを見据えれば、勿論よ、と彼女はしかつめらしく頷いた。