第11話 不生不滅(その後のこと)
差し出されたSDカードを、海知は「ありがとう」と言って受け取った。
「うん」
机に座っているあずさは、相変わらず無表情。文章ではとてもおしゃべりなのに、学校にいる時の彼女はかなり物静かだ。
「書き直すのにちょっと時間がかかるけど、まだ大丈夫だよね?」
「来週末ぐらいまでは」
「ってことは、あと十日かぁ。思ったより時間がないかも」
「うん」
小さくうなずいた彼女を見て、これ以上話しかけるのは可哀想だと、海知は引き下がることにした。
「それじゃ」
そう言って離れかけた海知に、あずさが慌てたような素振りで話しかけてきた。
「あ、あの、佐伯くん」
「ん?」
「追伸を入れておいた」
「あっ、そうなんだ」
「うん」
彼女の顔がほんのり赤くなる。
そんな反応を見て、海知は可愛いなぁと思っていた。
もう一度礼を言って教室から出ると、追いかけてきた女子に肩をぽんと叩かれた。
「良かったね、佐伯くん。あずさと仲良くなれて」
「あ、うん、まあ」
「私の話、正しかったでしょ? あの子さ、去年の後期にも図書委員やってて、“二年でもやりたい”って言ってたの、覚えてたんだ」
「おかげさまで、創作クラブにも入りました」
「マジ?」
ポニーテールの彼女は、さも面白そうにケラケラ笑った。
「マジ。ところで、なんで協力してくれたのかが謎なんだけど」
「だってさ、あずさに近づこうとして必死な佐伯くんを見てたら、なんかしてあげようって思うじゃん?」
「必死?」
「だったよ。廊下であずさの前に教科書を落としたり、音楽室はどこだって尋ねたり、そのほかにも色々」
三学期から新学期にかけての自分の行動を指摘され、なんだか恥ずかしくなる。
「か、神薙さんには……」
「言わないよ。でもこれからは独りで頑張ってね」
少女は、海知の肩をぽんぽんと叩いて、教室へと戻っていく。そんな彼女を見送って、海知は照れ隠しに頭を掻いた。
やがて、たった今話していた少女の声が聞こえてきた。
「あずさ、帰ろー」
(あ、やばっ)
今顔を見せるのはあまりにもバツが悪い。たぶん自分もさっきのあずさのような顔をしているかもしれない。そう思った海知は慌てて玄関まで駆け下りる。
下駄箱にスリッパを突っ込んで、外履きを引っかけ、下校する生徒の間を急ぎ足ですり抜けてた。
校門まで到着するとようやく落ち着いて、大きく深呼吸。その時になって、自分の行為があまりにも馬鹿みたいで、また恥ずかしくなってしまった。
(でもしかたないよなぁ。だって黙ってること多いし)
ポケットに突っ込んだSDカードを指先でまさぐる。自分では上手く書いたつもりだけれど、バレているんじゃないかっていう心配もどこかにあった。
本当は今回の事件を書けと言われた時、海知は断ろうかと思っていた。けれど想い出として残すの悪くないかと思い直し、不承不承に書くことを決めた。
実際に書き始めてからすぐに、色んな問題に気がついた。だから隠していることをバレないように、ネタを入れてごまかしてみた。でもさすがにやり過ぎたかもしれない。途中で不自然だと言われた箇所も、真実を悟られないよう書き急いでしまったためだ。
花畑でコガネムシの妖魔を見たことも、教室で宝来の体にいるのが見えていたことも、いつかは気づかれるかもしれないけど、できればもう少し先がいい。
(ま、いいか。なんとかなるさ)
気を取り直して、海知はふたたび歩き出した。
これからは長い長い帰路が待っている。徒歩で約一時間。バスでの通学もできるけれど、父親が修行だと言って許してはくれなかった。
学校を出て、国道を東に進む。
花咲山を左手に置いて、国道はその山を回るようにして伸びていた。
歩き始めて三十分を過ぎた頃、海知は左へと曲がった。そこから先は緩やかな山道だ。
見上げた花咲山の山頂付近には切り立った岩壁があり、そのせいかどこか雄々しく感じられる。一羽のトンビがその崖から舞い降りるのが見えた。
国道から離れるとともに、民家の数が少しずつ減っていく。
やがて人の気配が感じなくなる場所まで来ると、海知はふと歩を止めた。ずっと背後に感じている気配が、邪気に変わっている。
(そろそろかな)
左手をポケットに突っ込んだその刹那__
『オノレェェエエエエエ!!!!! ユルサヌゾォォォォ!!』
間違いなく、半月前に聞いたあの声だ。
振り返れば、果たして、道の中央に緑色の煙がうねるように渦巻いていた。
「せっかく逃がしてあげたのに」
『キサマサエ、イナケレバァァァアアアア!!』
「もう諦めなって」
しかし妖魔は止まらなかった。
邪気を散らし、緑色の煙が虫へと変化する。
「しかたがないなぁ」
のんびりと言いつつも、海知は左手をポケットから素早く抜いた。
黒光りをする数珠。
その法具を左手でしっかり握ると、次の瞬間、巨大なコガネムシが、羽根を広げて海知へと突っ込んできた。
後ろに数歩下がる。構える時間など与えてくれやしない。
「そんなに焦らなくても、ちゃんと成仏させてやるさ」
数珠を持つ左手を、前に突き出す。
「烈!!」
声と同時に、見えない力が妖魔へと打ち出された。
『グォォォォオオオオ!!!』
憎しみの怒号が山裾に響き渡る。水田の上で低空飛行を繰り返していたツバメが、驚いて上空へと飛んでいった。
だが妖魔は、まだ執着を捨ててはいない。それはこの世に生きとし生けるものすべてに、この身もある煩悩がそうさせるのだ。
だからこそ、煩悩を滅しなければならない。制裁ではなく帰依のために。
それが父の教えでもあった。
息を整えつつも、敵の動きに集中した。
右手の四指を伸ばし、左下段に構える。
“ユルサヌゾォォオオオオ!! ユルサヌゾォォオオオ!!”
魑魅と化した虫けらが、海知の体を飲み込もうと口を広げて襲いかかる。
それを見据え、右手を斜めに振り上げた。
「破!!」
内にあるは浄化の力だ。
その力が妖魔の体を真っ二つに切り裂いていく。もう虫であったことすら、形あるものであったことすら、許さぬようかのように。
それでもなお魑魅は、醜い煩悩をむき出しにして攻めてきた。
(まだか)
心の中で念を唱え、右手を頭上で構える。数珠が左手のひらに食い込んでいた。
「滅!!」
振り下ろしたその瞬間、内にある力が浄化の光を放つ。その光が、苦しみの断末魔はあげさせなかった。
そうして右手が完全に振り下ろされた時、悪霊の体は四散して、現世から去っていった。
やがて虚無の中から、小さな虫の体が地に落ちてきた。ただし前回のように一つではなく、右と左が別々の場所へと。それを見て、海知は右手の指を伸ばしたまま、顔の前へと持っていった。
「舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明 亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故、菩提菩薩、依般若波羅蜜多故……」
唱え終わると、肩の力を抜いて両手を下ろした。
(独りでやれば、確かに簡単なんだよな……)
独りでやりたくないのは、弱さの表れだろう。
そういう自分は、まだまだ父の域まで達していないと海知は思った。
『やっぱりお兄ちゃん、強いね』
振り返る。
土埃が残る道の真ん中に、ピンクの髪をした妖魔が立っていた。
「やあ、久しぶり。元気?」
『うん、元気元気!』
その場でぴょんぴょんと跳ねてから、小さな妖魔は怖々と海知の足もとを覗き込んだ。
『死んじゃったの……?』
「まあね。でもいずれ生まれてくるさ。今度は蝶か蜂かもね」
『ボク、蝶さんも蜂さんも優しいから好きー』
「蝶と蜂がなにかは知ってるんだ」
“うんうん”とうなずいたものの、すぐに小さな妖魔は悲しそうな表情で首を傾げた。
『アヤメのお姉ちゃんも、サルスベリのおじさんも死んじゃったんだよね』
「今頃はどこかで新芽になって、出て来てるじゃないかなぁ。暖かくなってきたし」
『そっか』
小さな妖魔は嬉しそうに微笑んだ。それから空を見上げて、紫色の瞳を輝かせる。
『もうすぐ夏が来ちゃうねー』
「きみの花の時期もそろそろ終わりだ」
『来年はもっともっと、いっぱいいっぱい、きれいにきれいに咲くから』
「サルスベリのおじさんも、きっと喜ぶよ」
瀕死の妖魔が、海知の父親のもとを訪れたのは、半年ほど前だった。
自分の住んでいる霊山が悪い物に狙われているという。どうか山を助けてくれと言って、その妖魔は無に帰った。
それを聞いた父親は、さっそく花咲山であると調べ上げた。しかしそれからの行動は、今までの父親とは違った。
母が死んでから、父はずっと客僧として各地を転々として、人間にあだなす魑魅魍魎のたぐいを退治する仕事をしていた。
だれにも言えない裏の家業だ。たとえ帰依する力であっても、怪しげな技を使い、悪霊退治をしているなど広まれば、宗派から破門される可能性すらある。だからこそ、一年以上は同じねぐらに留まらず、旅僧としての修行を選んでいた。
その父が、花咲山に廃寺があると知り、つてを頼って住職となった。
父親が一所に留まることなどないと思っていた海知にとって、まさに青天の霹靂だった。
「そろそろ、お前のために腰を下ろさないとな」
寂れた寺に着いた時、父が言った言葉に海知は耳を疑った。
ところが次の言葉は、さらに耳を疑うようなものだった。
「今回はお前が独りでがやりなさい」
そんな話は聞いてないと、もちろん拒絶した。父の手伝いは何度もしたが、やりたくてやっていたわけではない。けれど父は「修行だ」と言って許してはくれなかった。
やり方は知っている。
力もあると自負している。
けれど独りでやれる自信はまだなかった。
そういうわけで、三ヶ月のらりくらりと調べ、どうにも実態がつかめないのは山の反対側にある神社のせいだとわかり、さらにそこの娘が同じ高校にいると知った。
最初はあずさが協力してくれたらいいなぁと、漠然とした気持ちで近づこうとした。そのうち彼女と親しくなることが目的となってしまい、山のことはすっかり放置して、結局はあんな事件に発展してしまったというわけだった。
『でもさでもさー、お兄ちゃん強いのに、どうして独りでやらなかったの?』
気持ちを見透かしたように、芝桜の妖魔が明るく言った。
「んー、みんな同じ気持ちでいる時が楽しいから、かな?」
たぶんこれが一番妥当な答えだろう。
『だよねーだよねー。ボクもみんな楽しいのが好きー』
無邪気に言う芝桜を見て、色々問題あるけどまあいいかと海知も納得した。
『今度さ今度さ、白いツバメさんにもお兄ちゃんのこと教えてあげようっと。困ってるみたいなの』
「ちょっ!? 教えなくていいし!」
なんだかイヤな予感がして海知が即答するも、妖魔は聞いてはいないようだった。
『じゃあ、ボク行くねー』
「行くってどこに?」
『んとねんとね、あのでっかい人間のところ! 山神様がいいよーって!』
「子門の伯父さんのところ!? でも来ちゃダメだって言ってたよ」
『でもねでもね、あそこはホワホワして気持ちいいの。それからボクがごめんなさいって言った時に撫でてくれた手、すごく暖かかったし』
「赦しの手か、なるほど。ま、山神様がいいって言うんだからいいか。夜になる前には帰るんだよ、危ないから」
妖魔の体は徐々に消えていく。
それを見届けてから、海知はまた足もとに転がる虫の死骸を見下ろした。もう蟻がたかり始めている。無に帰り、輪廻をするために……。
その後しばらく人気のない山道を歩いた海知は、やがて長い階段の前で立ち止まった。見上げた石段は、豊表神社ほどはないけれどそれなりの段数がある。半年ずっと上り下りした階段だ。
(自分の帰る場所があるのって、やっぱりいいなぁ)
石段の上にある大きくて古い山門の、その脇にある門札には
<華香山秋月院裏守寺>
と記されてあった。
軽快に石段を登り詰めると、門に近い場所に初老の男の姿があった。彼は庭に落ちたモクレンの白い花びらを、竹ぼうきでかき集めている。
「田所さん、こんにちは」
「お帰りなさい、海知さん」
「いつもすみません」
海知は深く頭を下げて、礼を尽くした。
「いやいや、檀家の私らとしたら、住職がいないほうが大変なことですからね。これくらいのことはなんでもないですよ」
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言うと、海知は老人の横を通り過ぎた。
前方には古びた本堂がある。建立されたのは西暦1500年、つまり明応八年のことだ。豊表神社と同じ年に、この裏守寺が造られた理由をいつか調べてみたいと思った。
(あ、そうだ、報告しなくちゃ)
家屋に向かいかけていた足を戻して、本堂を目指す。途中でバッグを置き、制服についていた埃を払い、姿勢を整える。少し緊張しているのは、様々なことを父に悟られるのではないかと恐れているせいだろう。
本堂の土間に入り、海知は畳敷きの広い外陣をそっと覗き込んだ。鼻をくすぐる白檀の香りが心地良い。御仏の前には、今日は法事でもあったのだろう、薄い紫の法衣に身を包んだ僧侶が座っていた。
声をかけようか。もしこれから勤行を始めようというのなら、邪魔などできるはずがない。
息を殺して、海知はしばらく待った。
だがその息子の存在を父親は背中に感じていたようだ。
「海知、なにか用か?」
「父さん、例の件は終わったよ」
「ずいぶん時間がかかったなぁ」
「僕にも色々あるんだよ。なにしろ青春まっただ中だし」
「青春とは、煩悩の海に沈んでいることを言うんだぞ」
「だね」
思い出してしまったあずさの顔に少々罪悪感を覚え、海知は御仏に尻を向けないように注意して、土間の上に斜めに座った。
「いずれにしても、お前はまだまだ修行が足りないな」
「ゆっくり行くよ。それにさ、最近色んな人と知り合って、それで思ったんだ。どんな道を信じていても、地に立ち、天を敬い、命あるモノもそうでないモノも尊べて、暖かく見守れるなら、真理を知る尊者だと思うんだよね」
「ほぉ?」
きれいに剃った父の頭が、わずかに横を向いた。
「そういう人がこの世界にわりといるなって思ったのさ、父さんみたいなさ」
言ってしまってから、照れくさいことを言った自分を、海知は凄まじく後悔した。
「ほめてもなにもでないぞ」
「分かってるよ。でもいつか、絶対に父さんを越えるから」
「それは楽しみだ。だが今は勤行をきちんとしなさい。もうそろそろ時間だぞ」
そう言われて、腕時計をチラリと見る。時刻は午後六時になろうとしていた。
「あ、ヤバッ!」
慌てて立ち上がり、海知は本堂をあとにした。
数分後、里山に寺の鐘が鳴り渡る。
その音は、今日一日の喜びと、悲しみと、苦しみと、寂しさと、その全てを払うように優しく強く、薄暗くなった山へ、野へ、そして町へと広がっていった。