三日目:恋と雑多
百合ってなんだ…((哲学))
三日目
空は重苦しい鈍色を決め込んで。少女たちは縁側に佇み、そんな空を眺めていた。二人の間に会話は無く、ただ多少の距離があるだけ。軒先では相も変わらずクロが気怠げに欠伸をしている。
「ねぇ、ムラサキ……」
蒼はおずおずと尋ねる。
「ん……、どうしたの……?」
「やっぱり迷惑だった……?その、、こんな日に呼んだりしてさ……」
「えっ……?どうして……?」
「だってさ……ムラサキ、ずっと浮かない顔してるし……」
そう、今日のムラサキはこれまでとは何かが違う。どこかこう……心の奥に何かを押し込んでいるような、抱え込んでいるような……そんな雰囲気だった。
「そんなことないよ……」
ムラサキは笑いながら言う。
「ただ、ちょっと考え事をね……」
「考え事……?」
蒼は尋ねる。外の風は徐々に強くなって行く。窓のカーテンが大きく靡ぐ。数刹那の後、ムラサキはゆっくり口を開く。
「どうしてアオイは私のことを怖がらないの……?」
「どうしてって……ムラサキ全然怖くないじゃん。メッチャ可愛いし、それに友達を怖いと思うとか可笑しくない?」
「どうして……」
ムラサキは口を噤む。
「どうして、私のことを友だちって呼んでくれるの……?」
その声には力が入っていた。
「どうしてって……どうして……?どうしてだろう……」
蒼は考えるような素振りをして
「だって、一緒にご飯食べたり、お茶したり、こうしてお喋りしたり、、、それだけでもう友だちでしょ?少なくとも私はそう思ってるよ!はっ⁉︎それとも……友達以上の関係になりたいとか……⁉︎」
蒼がふざけてムラサキに抱きつくと、彼女の目から大粒の涙が溢れる。彼女は泣いていた。
「えっ⁉︎ごめん今のは悪ふざけで……!!」
「違うの、、」
ムラサキは首を横に振る。
「えっ……?」
「嬉しくて……。いままで、友達……なんて呼んでくれる人なんていなかったから……」
咽び泣きを堪えながらムラサキは語る。
私は彼女の過去を知らない。でも、それはきっととても深く、冷たく、おそらく私なんかでは背負いきれないような重い記憶だと思う。
だから、だからこそ、彼女が教えてくれるまで何も聞かないことにした。ただ彼女が立ち直るまで、じっと隣で座っていよう。
外はポツポツと雨が降り出し、庭の草花をパラパラと鳴らす。それらの音が森の静寂を淘汰する。
雨はやがて勢いをまし小雨から驟雨へ変わる。ムラサキはずっと縁側で雨の庭を眺めている。
「西瓜切ったから一緒に食べよ〜」
盆にスイカと麦茶を乗せ蒼が台所から戻ってくる。
「ん……。」
ムラサキは少しくぐもった声で答えられる。クロは雨に負けたらしく、陣地を取られて縁側の上に寝転がっていた。
「あんたはコレね。」
とクロの目の前に煮干しを落とすと、クロは眠そうな目を瞬きながらむにゃむにゃと煮干しをしゃぶる。
「幸せ者め……。」
蒼はクロの頭を撫でながら呟いた。蒸し暑い大しけの鈍色空に向けて、ぷっぷっとスイカの種を吐き飛ばす。柱の隅に置いてある蚊取り線香の残り香が鼻先を燻る。ムラサキは小さな口でパクパクとスイカを食べている。それを見て安心したように蒼はスイカを口へ運ぶ。盆の上に残っている麦茶の氷がカランと音を鳴らす。
「今日、泊まっていかない……?」
言い出したのは蒼だった。
「台風近づいてるみたいだし……」
ムラサキを心配している反面、自分も一人でいるのが不安なのだ。
「うん、いいよ。私もこのままどうやって帰ろうって思ってたし……」
とムラサキは快諾する。そうなれば善は急げ。二人は早速、台風に備え家中の雨戸を閉めることにした。ムラサキが一階、蒼が二階を担当するとこになった。
蒼は二階の雨戸を閉めると物置に置いてある新しい布団を一つ一階へ降ろす準備をしていた。今日は久々に誰かと寝るのだ。そう考えると胸が高鳴る。いや、変な意味じゃなくてね?
『変な意味じゃない』って言い切れるかと言われれば言い切れないけど……とにかく、久々に虚しい一人の夜からおさらばだ……!布団を抱えながら期待に胸を膨らめせて一階へ降りると、ムラサキの姿がなかった。
「あれ……?」
茶の間に布団を持って向かうと、縁側以外の雨戸はしっかり閉めてあった。……なんでここだけ……?
外を眺めて目を疑った。ムラサキが立っている。大雨の中を、それも裸足で。
「……ちょっと⁉︎風邪ひくよ⁉︎」
そう彼女を呼び止めようとし伸ばした手を止める。彼女がとても楽しそうなのだ。どしゃ降りの雨粒に頬を濡らしながら笑顔で空を眺める。彼女が今、私を含め取り巻く世界の中心だ。そう思った。
私に気づいた彼女は縁側に駆け戻って来た。
「何やってんの……?」
「ごめんごめん、なんか楽そうだったから、、」
彼女は濡れた黒髪を指で弾く。はだけた白いワンピースからは白桃のような肌が透けている。女同士なのに目のやり場に困る。
ーあっ、これアウトなやつだ。ーー
瞬間的に蒼は察した。
「とっ……取り敢えずお風呂沸かすから待ってて……」
そう言うと蒼は風呂場に駆け出すと同時にその場から退散した。
「ねぇ、これ読んでみていい?」
風呂上がりのムラサキは蒼が挫折したガラス玉演戯を手に取っていた。
「いいけど、難しいよ……?」
そう言うとムラサキは
「へーき。難しい本は慣れてる。」
と言い、早速ページを開く。
雨樋を打つ音が一定のリズムを作り幾刻が過ぎただろう。時計の針は六時半を指していた。
「今日、カレーでいい?」
蒼が立ち上がりながら尋ねると
「私も手伝うよ。」
とムラサキも立ち上がる。
宵闇の迫る森の境界で二人は静かに凪を待つ。先程切った野菜達が肉やルーと共に鍋の中でフツフツと煮込まれており、芳ばしい香辛料の香りが鼻をくすぐる。
「ふぁ……」
とムラサキが大きな欠伸をすると、それにつられて蒼も欠伸をした。二人は顔を合わせるとなんだか可笑しく感じて笑った。
「今日は疲れたね〜……山登ったわけでもないのに……」
蒼がそう言うと、ムラサキは
「うん……」
とだけ返した。八月のワルプルギスを彩るように、世界は静かに収束して行く。二人は雨樋を打つ夏の音を聞きながら早めの夕食を摂る。
夕間暮れに食べるカレーと、閉め切った雨戸で隔絶されたこの部屋にまるで、たった二人で世界に取り残されたような、そんな感覚を覚えた。
「おいしい……」
ムラサキが静かに言う。
「でしょ〜!やっぱカレーは夏野菜に限るね〜!」
蒼は笑いながら言う。たった二人に畳張りの八畳はやけに広くて、どこか寂しい。
「ずっと昔ね……」
ムラサキはゆっくり口を開く。
「今よりずっと昔、アオイのお婆ちゃんのお婆ちゃんのそのまたお婆ちゃんのお婆ちゃんの……遡るのも馬鹿馬鹿しいほど昔の話……」
静かに語るその口調は哀愁に満ちている。
「……私は立っていた。いつどのように生まれて、どんな経緯でそこにいたのか……思い出せない。けど、一番古い記憶は、誰もいない山道に一人立っていた。勿論、最初はどうすればいいかわからなかったし、なんで、どうしてなんて考える余裕も賢さもなかった。そん時、親切な山人に私は拾われた。彼らは生きる知恵、言葉の読み書きを教えてくれた。人として生きる為の処世術を教えてくれた。楽しかった、あの頃は、まだ自分が人間だと心の底から思い込んでいた。けど、十数年経ったある日気がついた。皆は歳を取るのに私は歳を取らない。皆は老いるのに私には老いがない。当然、私を見る皆の目が変わっていった。今まで親しかった子や人たちから疎外されるようになって、やがては拾ってくれた山人さえも私を恐れるようになった。そしてある日、彼が云った。『すまん、集の者で話し合った結果、お前をこの傘下から追い出すことが決定した……。』私はそれに従い、山人から離れることにした。行く宛てなんてないけど、あそこにはいれない。それから数年はずっと山の中で見つけた小屋に住んでいたの……」
「それが、あの家……?」
蒼が尋ねると、ムラサキは静かに頷き
「元々はただの廃屋だったんだけど……」
と付け加え、続ける。
「それから、日が昇り下りを繰り返して幾千、幾万と四季が移ろいだ頃に、今度は彼が現れたの。モサモサ頭に広袖を羽織っていつもヘラヘラ笑ってる。そんな青年だった。彼は祈祷師で、この地に仕事をしに来たのだと云った。彼は私の廃屋にちょくちょく訪れるようになり、滑稽な話や、俗世の話、御伽や、身の上話なんかもしてくれた。彼は歳を取らない私を恐れる事なく接してくれた……。あの家も彼が建て直してくれたのよ?それどころか、老いのない私に『命の使い道』なんてものを説きだした。あの時は流石におかしかったなぁ……」
彼女は嬉しそうに語る。
「彼は言ってくれたの『どんな命にも生まれてきた理由がある。命の使い道、誰かの為に、はたまた自分の為に、使えばいいんじゃないか?』ってね。でもそんな彼も歳をとり、あっという間におじいちゃんになっていた。そして、最後に会った日、彼はこう言った。『僕ぁ、ここへはもう来れない。実のところを言うと、この地へ来たのは他でもない、君を祓う為だったんだ。でも、若い僕は君に惚れてしまった。仕事を投げてしまった。だが、君がまた麓に降りればまた別の祓い屋が来るだろう。だから……』そう呟くと彼は二枚の札を取り出し『鹿面の式神と猩猩面の式神を君に施す。これらは君を護ると同時に縛るものだ。八月の間だけ、この期間だけ、君はこの花園や森を抜ける事が出来る。この場所は人が立ち寄らないよう結界で塞ぐ。こうしないと君を護ることが出来ない。本当にすまない。彼は頭を下げ、私の元から去った。後日、彼が死んだと風の噂で聞いた。私はまた、一人になった……」
独白を終えるとムラサキは静かに顔を上げ
「その彼の名は夕日紫……あなたの高祖父よ……」
蒼は言葉を失った。高祖父の事は祖母から聞いたことがある。この森に恋人が出来たと入り浸っていたのだと、周囲の人間は物狂いだとか、奇人だとか言われていたのだと……そういうことか、と彼女の中で点と点が線になる音がした。しかしそれは私の高祖父を知る彼女の話が少なくとも事実であることを物語っていた。でも……
彼女が何者なのかなんていうのは瑣末なことだ。友人がどんな存在だとしても大した問題じゃない。そう心の中で繰り返した。
「でも、今は……」
ムラサキは蒼を見ながら続ける。
「でも今は、アオイが居てくれる。」
ムラサキは顔を綻ばせる。
「いっいやぁ……!そんなこと言われると照れちゃうなぁ……」
ー急に愛の告白かよ……!ーー
蒼は真っ赤になった顔を隠すように伏せる。
ー真面目にすごい発言するから、こっちだって意識しちゃうじゃん……!ーー
普段は筒抜けの屋内だが、雨戸を閉めているので蒸し暑い。扇風機の音と蚊取り線香の匂いで夏の余韻に浸るべく。二人は布団に寝転ぶ。テレビはあるがやっているのは台風情報とニュース番組ばかり
「やることないねー……ムラサキ……」
振り返ってムラサキを見ると、彼女は既に穏やかな寝息を立てている。
ーはやっ!ーー
することもないので、蒼も早々に電気を切り布団を被った。しかし、熱帯夜に溺れた部屋は蒸し風呂のようで、何故ムラサキはこんな部屋で穏やかに寝ていることが出来るのか不思議なくらいだった。アオイは掛け布団を隅へ投げ捨て、暑い!っと八つ当たり感覚でムラサキの背中をさする。
ー⁉︎ーー
ムラサキの肌に触れて気づく。彼女の肌は氷のように冷たかった。
ーこれは……!ーー
刹那、彼女の脳裏に疚しいことは決して考えてはいないはずなのに疚しい画が浮かんできた。
ームラサキに抱きついて寝たらいいんじゃない……?ーー
発想を実行に移すべく、抱きついてみる。
ーあっこれいい……ーー
蒼は即座に睡魔の中に落ちていった。
そして、朝ぼらけを拝むことの出来ない暴風雨の朝。蒼は激しい雨音で目を覚ます。
そして気付く。
隣に彼女がいない。