二日目:ムラサキの庭
佳境のページに差し掛かったよ?
二日目。
朝、庭を眺めるとムラサキはそこに立っていた。昨日はよく見てなかったが、彼女の体躯は真っ白で碧眼に絹のような黒髪はまるで人形のようだ。私が男なら間違いなく惚れるな……。そんな事を思い耽りながら寝具を片付ける。
時計を見ると、午前九時。私が遅いのか、それとも彼女が早いのか……考えるまでもなく前者だろうけど……顔を洗い、歯を磨き、タロにエサをあげてから、ムラサキの元へ向かった。彼女はじっと一つの花を見つめては顔を綻ばせ、つぎの花を見つめる。まるで、花と会話をしているように。
「あっ、アオイ!おはよ〜。」
彼女は蒼に気づいて立ち上がる。
「ムラサキおはよ〜、本当に花好きなんだね。」
「うん、ここの花達は幸せそう。本当に愛情込めて育てられてられてるみたいで……」
庭を見渡しムラサキは恍惚と語る。本当に花が好きなのだろう。
「あっそうだ、ムラサキ朝ごはん食べた?」
自分が朝食を取っていないことに気づき尋ねる。
「朝餉?いつも食べないけど……?」
ムラサキは答える。
「こらこら、ちゃんと食べないと〜。だからガリガリなんだよ〜!」
と蒼が笑いながら叱ると、それを聞いて
「アオイ、なんかおばあちゃんみたい……」
ムラサキはクスクスと笑う。考えてみれば、昨日知り合ったばっかりの女の子とこんな親しげに話している。不思議な感覚だ。
「お昼から私の庭に来ない?」
味噌汁を啜りながらムラサキは尋ねた。大きめな卓袱台の上には冷蔵庫にあった漬物と即席で作った味噌汁と目玉焼きと白米が並んでいる。
二人は朝食とも昼食とも言えない微妙な時間帯に食事をしていた。
「庭……?それって、ムラサキの家ってこと……?」
「うーん、、そんな感じかなぁ……」
「行きたい!」
断る理由などない。蒼は浅漬けのキュウリと白米を頬張り即答した。
「そもそも、ムラサキってどこに住んでんの?」
今度は蒼が尋ねる。
「ん〜……?あの森の奥……とか……?」
ムラサキはお米を口に運ぶと、箸で庭の向こうの森を指す。
「とかって……」
「ご馳走様でした。ありがとね、アオイ。」
お皿を流しへ運びながらムラサキが礼を言う。
「こんなのお安い御用で!」
蒼は伸びをすると、皿を片付け
「さて、じゃあ行きますかっ!」
と縁側に靴を運ぶ。
「うん、こっちよ。」
ムラサキはゆっくりと森へ手招きをする。
アロマセラピーと言うやつだろうか、森の中は程よく涼しく、狭霧の感触が心地よい。木々の間から溢れる木漏れ日が自然を実感させてくれる。こんな森なら何時間でも歩ける。
歩ける。
歩ける……
まぁ、無理だ。都会育ちの蒼の、ヤワな身体と精神に早くも限界が訪れた。ずっと坂道!虫除け忘れた!蚊にさされた!痒い!涼しかった!けどもう暑い!何か飲みたい!言いたいことは山ほどあったがとりあえず一言、
「疲れた……。」
とだけ呟いた。そんな蒼の変化に気づいたのか、ムラサキは蒼に駆け寄り
「大丈夫……?」
と心配そうに尋ねる。
「だ、大丈夫……。ただ、ちょっと休みたいかな……」
笑顔じゃない笑顔を作り平然を繕う。
「大丈夫そうじゃないね……」
ムラサキの苦笑いに、自然と顔が綻ぶ。ふと視線を逸らすと木々の隙間から巨大な何かが立っているのが見えた。2メートルもあろうそれは赤褐色の毛に覆われており、その様相はまるで熊のようだった。
蒼は声が出なかった。目の前に熊がいるのだ。ビビるのは当然であろう。
「あっ……あっ…………。っ……ま……が……」
よくわからない生き物を指差して出ない言葉を必死に出そうとするがうまく声に出せない。ムラサキは振り向くと
「あぁ、彼は悪い子じゃないよ。」
とだけ言ってよくわからない怪物に手招きをする。
「大きいでしょ、野坊くんっていうんだよ。」
野坊と呼ばれる巨大な怪物はその巨体に似合わない辿々(たどたど)しい足取りで歩み寄り、ペコペコと頭を下げる。顔は角の生えた仮面で隠れているが、明らかに人ではない。巨大なそれは大きな手で蒼に何かを差し出す。杖だ。登山杖程の長さの木の杖を彼は持って来てくれたのだ。
「えっ、あたしに……?」
尋ねると彼はコクリと頷く。
「あっ、ありがとね……」
そう言うと彼はソソクサと森の奥へ消えていった。
「もしかして……ヒバゴン……?」
蒼は唖然と尋ねる。
「ヒバゴンって何……?」
ヒバゴンといえばツチノコやタキタロウと並ぶ、日本を代表する未確認生物の類人猿である。詳しく述べると長くなるので要約するが、、、。オカルト好きでなくとも聞いた聞いたことがある人も多いのではないだろうか。とにかく、蒼には野坊くんに類似する生物が類人猿しか思い浮かばかった。
「本当はね、鹿面ノ燭陰っていうらしいんだけど……彼、そう呼ばれるのが嫌らしくって……」
とムラサキは言う。つまり、野坊と意思の疎通がとれるということだ。なんて少女だ……
蒼の論点は最早、野坊くんではなく彼女に向けられていた。
「ほら〜がんばって〜、あと少し〜。」
力のこもっていないムラサキの声援が、少し上の陽だまりで聞こえる。野坊くんが届けてくれた杖を使ってなんとか山道を登る。あと少しということは、あの陽だまりが彼女の家の場所なのだろうか……?渾身の力を込めて登りきった先で、彼女は目を疑った。
そこには巨大な花園があったのだ。千紫万紅、百花繚乱、まさにそれらの言葉でしか言い表せない程の花々が空間を埋め尽くしていた。
不思議だ、私はここに初めて来た。初めて来たはずなのにこの景色を私は覚えている……?夢で見たような曖昧な……これはデジャヴ?
「ここが私の庭で、あの小屋が家。」
ムラサキが指差す先、花園の少し向こう側に白壁の可愛らしい、小さな家があった。花畑に作られた一本道をムラサキの後を追いながら歩いていると、またしても見たことのない生物がいた。外見はラクダのようだが全身が真っ黒で顔は猿のようなお面で覆われている。ものすごく奇妙だし、不可解だし、この情景に微塵もマッチしていない生物だが、もう然程気にならなかった。
玄関の前まで来るとムラサキは錻力の古鍵を取り出し扉を開けると、中へ入るよう手招きをする。
家の中はカントリーな家具で整っており、まさに欧州民家っという感じだ。
『はい、お水〜。』
ムラサキに水の入ったカップを手渡され、つい先刻まで登山をしていたことを思い出す。貰った水を浴びるように飲むと
「ちょっと待ってて、今お茶を淹れるから。」
と言い私を残して部屋の奥へ入って行った。置いてけぼりをくらった私は、とりあえず窓の外を眺める。外ではあのラクダなのか馬なのか、はたまた猿なのかわからない生物がまた奇声を発しながら走り回っている。野坊さんのお面もそうだけど、、あのお面ってどっかで見たことあるんだよなぁ……なんだっけ、、東洋のお祭りとか、、?そんな思想を巡らしていると
「お待たせ〜加密列は苦手?」
とムラサキが帰ってきた。
二人でテラスの椅子に掛け庭を眺めながらお茶を飲む。
「ねぇムラサキ、あの変な生き物何……?」
蒼は奇声を発し走り回るラクダのような生き物を指して尋ねる。
「ん?あれ……?あれは白沢ちゃんだよ〜。」
「シロちゃん⁉︎何処が⁉︎真っ黒じゃない!」
蒼がツッこむと
「本当は猩猩面ノ駱駝っていうんだけどね〜……走るのが好きだし、それに意外とお茶目なのよ〜、だからシロちゃん♪」
理由になっているような、いないような、、そんな気持ちを呑み込んで、蒼はそうなんだ、、と苦笑いを作る。
「さっきの野坊さんにしろ白沢ちゃんにしろ、ムラサキのペットか何かなの?」
蒼は尋ねる。
「うーん……ぺットとは違うかなぁ……強いて言うなら……」
ムラサキは口を噤む。
「どうしたの?」
蒼が不思議そうに尋ねると
「ううん、何でもないよ。それよりも紅茶の味はいかが?」
と切り返してきた。
「うん、美味しい!それにしてもすごいよね〜、ムラサキは……こんな素敵な庭をある家に一人で住んでて……それにあんな不思議な生き物と仲良しで、まるで魔法使いみたい!お茶も美味しいし〜!」
蒼は何気なくムラサキを見て異変に気づく。震えているのだ、まるで何かに怯えているように……
「ムラサキ……大丈夫……?」
心配そうに声をかけると
「……⁉︎うん、大丈夫……ごめんね……」
ハッと我に返ったようにムラサキに答える。
壁に掛けてある鳩時計は五時過ぎを指している。あと少しでクロの散歩の時間だ。
「そろそろお暇しようかな……」
蒼がゆっくり立ち上がると
「庭先まで送るよ。」
とムラサキも立ち上がる。向夏の夕は日の入りが遅い。山の上というのもあり、まだ空は明るい。しかし、庭の敷居を出た森の中は真っ暗で蒼は少し怖くなった。そんな彼女に気づいたのか、ムラサキは蒼の肩に手をかけ
7大丈夫、真っ直ぐ道を歩けば大丈夫。ただ、絶対に後ろを振り返っちゃダメ。それだけは約束して……?」
「振り返っちゃダメってどういう意味?」
またムラサキは口を噤む。
「いや……、振り返ったりして転けたりしたら危ないじゃない……?」
「あっ、確かに……!」
蒼は閃いたように呟くと納得して
「今日は、ありがとう!明日もウチおいで!朝ごはん食べよ!」
と笑顔で言う。
「うん、ありがとう。」
ムラサキは少し苦しそうな笑顔で返す。
「……あのね……」
ムラサキが踵を返し、庭から出ようとしていた蒼を呼び止める。
「どうしたの……?」
「…………。」
「……ん……?」
「ごめん……なんでもない……」
「そっか……、じゃあ、また明日ね!」
そう呟くと森の中へ駆けて行った。
夕刻のラジオは淡々と事実を語る。
ージー、ジー……今年最大級の台風が日本列島に上陸〜明日、明後日にかけて広島県に直撃する模様……ジー……ジーーー。