第74話
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仕事が終わると僕はアパートへ立ち寄る。そこに誰も居ないのを確認してから帰宅する。そんな日が何日か続いた。優里からの連絡はない。
「もう、終わったよ」
そうは言ってみたものの、僕の中にはまだ優里が居る。“運命の人”彼女が僕に言った言葉だ。それも今では僕の中で違う意味を持つ。僕が彼女の運命の人ではなかった。彼女が僕の運命の人だったのだ。
「なんだか寂しそうね?」
菜穂子が言う。僕と優里のことを知ってからも菜穂子はそれまでと変わりなく僕に接してくれている。
「そんなことはないよ」
僕はそんな菜穂子に精いっぱい感謝しなければならないのだろう。
「はい、これにサインして」
「これは…」
離婚届だった。
「一度きちんと整理した方がいいよ。もちろん、あなたが良ければ、ずっとここで二人一緒に居てもいいし、しばらく私が実家に戻ってもいいし。それで、またお互い好きになったら一緒に暮らせばいいし。私、これをお役所に持って行くつもりはないのよ。今でもあなたのことが好きだから。そして、そのことは私の中ではずっと変わらないわ。たぶんね。だけど、あなたはここにサインして、一度気持ちをリセットした方がいいと思う。そのうえでやっぱりアオちゃんと一緒に居たいのなら、その時はあなたがこれをお役所に持って行けばいいわ。だから、これはあなたが持っていてね」
菜穂子はまるでいたずらをした子供に言い聞かせるように強い口調で、しかし、優しく言った。その間、ずっと僕の目を見ていた。そして、最後に微笑んだ。
「私、バレーに行ってくるから。あーあ、アオちゃんが抜けるのは痛いなあ。せっかくいいセッターが見つかったと思ったのに」
菜穂子が去った後、テーブルの上に置かれたその紙切れがとてつもない存在感を示していた。僕はそこに自分の名前を書いてはんを押した。そして、書斎の机の引き出しにそれをしまい込み、鍵をかけた。居間へ戻ると携帯電話が振動していた。僕が携帯を手にと取った瞬間、震えが止まった。着信履歴には優里の名前が表示されていた。




