第5話
5
運命の出会いなんてものなどある訳がないと思っていた。今朝の出来事だって、ごくありふれた日常の一場面にすぎない。シチュエーションは色々あるけれど、そんな中の一つだったのに違いない。会社に着いた頃にはすっかり忘れてしまっていた。
仕事を終えて帰って来た時、駅の階段の下でこちらを見ている女性が居るのに気が付いた。女性はともかく、彼女が乗っている自転車には見覚えがあった。きっと、誰かを迎えに来たのかもしれない。僕はそんなことを考えながら彼女の横を通り過ぎようとした。
「あの…」
不意に彼女が発した声は僕に向けられたものだと思い、立ち止まった。
「今朝はありがとうございました」
「大したことじゃないですから。誰かを迎えに来られたんですか?」
「いえ、あなたを待っていました」
「えっ?」
「そろそろ帰って来るころだと思って…」
窓から彼女が乗っていたオレンジ色の自転車が見える。僕たちは駅前の喫茶店に居た。
「どうしても、きちんとお礼をしたかったので」
「本当に大したことじゃないのに。だけど、僕もあなたにまた会えたのは嬉しいな」
僕がそう言うと、彼女の顔が赤くなったように思えた。
「でも、もし、僕が残業とかで帰りが遅かったら会えなかったね」
「でも、会えましたよ」
「まあ、そうだけど…」
ひょっとして、彼女は今朝の事で僕に一目惚れでもしたのではないか…。なんて、都合のいい考えが頭に浮かんだ。すると、彼女は小さな声で呟いた。
「運命だと思ったから…」
「えっ?」
「今朝、あなたに会えたのは運命だと思ったの」
「運命って…」
「お付き合いして頂けますか?」
おとなしそうな顔をしているのに積極的な子なんだな…。僕はそう思った。
「お付き合い?申し訳ないけれど、僕には妻も子供もいるよ」
「携帯電話の番号とメールアドレスだけでも交換してもらっていいですか?」
「それくらいなら、かまわないけれど」
「じゃあ、お願いします」
この時はまだ軽い気持ちだった。