私と聖獣の出会い
シャーロットにはとても可愛い妹がいる。時を同じくして生まれた片割れ、すなわち双子の妹だ。
ところがこの可愛い妹は、生まれたときから身体が弱かった。ろくな運動も出来ず、すぐに熱を出し何日も起き上がれないのは珍しいことではない。対して健康そのもののシャーロットは幼い頃から辺りをかけずり回っていたが、これが『姉君さまに栄養をすべて奪われてしまったのでは』と使用人たちに陰口を叩かれる所以である。
父も母も、使用人たちも皆可愛らしく病弱な妹にかかりきりで、シャーロットはいつも放置されていた。誰もが妹を気遣い、可愛がり、そしてシャーロットを忘れた。時折思い出してはばつが悪そうに、放っておいた分を取り戻そうと話しかけてくる者、自己を正当化するためにシャーロットを悪く言う者、開き直ってそのまま放置する者。
シャーロットの周りに、シャーロットを慈しみ、曇りない愛情を注いでくれる者はいなかった。
両親がシャーロットを嫌っていた訳ではないことは知っている。
しかしたとえシャーロットを妹同様我が子と認めてはいても、やはり病弱な妹の方を優先してしまう。妹が病に伏せるたびに母はふさぎ込み、その度にシャーロットを疎ましく思うようになっていったことに、シャーロットは気づいていた。それを父にたしなめられ、母が妹を丈夫に産んでやれなかった、ましてや罪のない我が子に八つ当たりするなんてと自己嫌悪に陥っていく。
そんな状況を産まれてからずっと見続けて、そしてシャーロットは気づいてしまった。
自分がいなければ、みんな幸せだったんじゃないか。
自分がいなければ妹は健康な身体で産まれてきて、両親は可愛く元気な娘と穏やかで幸福な日々を送れたのではないか。母が追いつめられることもなく、使用人が重苦しい職場の雰囲気に作用されて自身の思考を負に向けてしまうことも。
すべては自分がいなければ。
幼い子供にはありがちな思考だろう。ずっと放置されてきた、まだ多くを知らない子供だ。一度原因を自分に見いだしてしまえば、それが真実であるとしか思えなくなってしまった。
それから周囲が妹を大切にするたびに、シャーロットは追いつめられていった。
消えてしまいたい。消えてしまいたい。
両親に、消えろと言われる前に。
お前のせいでと責められる前に。
シャーロットは家族を愛していた。その愛する家族から、いつか冷たい目を向けられる日が来ることが、恐ろしくてたまらなかったのだ。
そうしてとうとう、ずっとこらえてきたものがはじけるときがくる。
逃げ出したのだ。あの空間から抜け出して、そして、そして———しかしシャーロットには、行く当てなどなかった。
そしてまた気づいてしまう。自分には居場所などないのだと。かといって帰ることも出来ない。あてどもなく彷徨って、気づけば森にいた。深い、深い森だ。辺りには自然が生い茂っているというのに生き物の気配はなく、虫の声すら聞こえない。
シャーロットは恐ろしくなった。まだ幼い少女が、たった一人で帰り道も分からない森の中。
ここは、不可侵の森ではないのか。
まだシャーロットが追いつめられる前、母が寝物語に話してくれたことがあった。それがすごく嬉しくて嬉しくて、だから鮮明に覚えている。
侵してはならない神秘の森。古代より不可侵を守ってきた、聖獣様のおわす森。聖獣様がこの地を守護してくださる代わりに、何人たりともその住処を汚してはならない。不入を破ればその者には天罰が下るという。
自分には天罰が下るのだろうか。天罰が何かはよく分からなかったが、恐ろしいものだろうというのは想像できた。
なにより、自分のせいで聖獣様がお怒りになって、この地の守護が失われてしまったら。
愛しい家族はきっと絶望するだろう。そして今度こそシャーロットを切り捨てるに違いない。
シャーロットの頬を、涙が伝った。
それはおおよそ子供らしくない泣き方だった。声を出さないよう、きつく唇を噛み締めて。
堪えて堪えて————もう限界だった。
そして思い出したのだ。
遠い昔の、遠い世界の誰かの記憶。それはひどく朧げで不確かで、けれど確かに壊れそうなシャーロットの心をつなぎ止めた。
きっと一種の防衛本能だったのだろう。押し寄せる未知に溜め込んできた感情がどこかへ行って、ただ混乱していた。
そして驚きのあまり思考が停止したシャーロットの背後に、それはいた。
『———童子よ』
幾重にも重なり合い響くような、不思議な声音。聞いたことのないそれに誰もいないと思っていたシャーロットは驚き、そしておそるおそる声の方を振り返った。
『童子よ』
繰り返されるその不思議な響きすらも、そのときのシャーロットには届いていなかった。ただただ、呆然とそれを見つめた。
———なんて、なんて美しい。
汚れなき白。こんなに清らかで、一点の曇りもない純白を見たことがない。
美しい獣だった。青く見えたその瞳はしかし刻々とその色彩を変え、神秘的な雰囲気を醸し出している。大きな体躯は清廉で厳かな気配を纏っており、思わずひざまづきたくなった。
『聖獣』
それがそう呼ばれる存在であると、シャーロットは理解した。そして再び、止まっていた涙が頬を伝った。先ほどまでの苦しさを堪える泣き方とは違い、ただ静かに涙を流す。
それは神秘の存在を前にした感動か、それともその美しさに圧倒されてか。それは分からないが、確かに苦しみとは無縁の涙だった。
『踏みとどまったか』
声もなく涙を流すシャーロットを見つめて、聖獣が言う。
『人は脆い。故に、いとも容易く堕ちる』
はっと、シャーロットは気づいた。
壊れそうな心を守るため、思い出した前世の記憶。その神秘とも言える現象を成したのが、目の前の尊い存在であると。
『堕ちるなよ、人の子』
動くことも出来ないシャーロットに聖獣がゆっくりと近づき、そしてその大きな身体で抱きしめるように寄り添い、赤くなった目元を舐める。
目の前にいても決して触れることなどできないと、そう思っていた遠い存在がすぐそばにある。呆然とするシャーロットの反対側の目元を舐めて、聖獣は言う。
『人は弱い。強くなれ、童子』
本当に、不思議な声だ。耳元で響くその声音からは感情など読み取れないのに、シャーロットがずっと求めていたものがあるような気がした。
愛され、慈しまれているような。聖獣はまるで我が子に接するかのように、優しく、優しくシャーロットの涙を舐めるのだ。
視界がぼやけて、美しいその姿が見えない。
『そのために、今は泣くがいい』
その言葉で張りつめていたものが溶けていくような気がした。シャーロットは聖獣にしがみついて、やっと、声を上げて泣いた。
□■□
人が堕ちれば闇の気が生まれる。光と表裏一体にあるそれは、しかし濃くなりすぎれば世の均衡を崩し災いの種となる。
聖獣は守護者。均衡を保つ者。
その本拠地である住処の均衡がくずれてしまわぬよう。そのために幼子の先の世の記憶を甦らえらせただけだった。身体を寄り添わせたのは堕ちかけた際に纏わり付いた邪気を払うため。強くなれという言葉は、励ましではなく忠告だった。
泣き疲れたのか自身に身を任せて眠る幼子。張りつめていたものがとけたからだろう、その表情は穏やかだった。
聖獣は思う。
ではなぜ自分は、幼子の涙を舐めたのだろう。
————綺麗だと、思ったからだ。音もなくこぼれ落ちる涙が美しくて、泣き方さえ忘れてしまったようなこわばった表情が哀れで。自分でも驚くほど自然に、聖獣は幼子の幸福を祈っていた。
『汝が未来に幸多からんことを』
優しく、ひたすらに優しく、聖獣は幼子の額に人の目には映らぬ印を施した。
□■□
「セシルー!セーシールー!!」
鬱蒼と生い茂る森の中をこともなく駆け回る少女の声に、湖のほとりでうつぶせに寝ていた聖獣の耳がぴくりと動いた。その耳は人には聞こえない音を聞き分ける。慌ただしくこちらに駆けてくる足音にやれやれと息をつき、のっそりと起き上がった。
「セシル大変!!」
『どうした』
肩で息をしながら現れた少女の顔はどこか焦っているようだったが、頬には赤みが差し、その目は生き生きと輝いている。聖獣はそれを見るたびに、今にも壊れそうだった幼子の放つ目映い光に目を細めるのだった。
—————
シャーロットが初めて聖獣に出会ったあの日、気づけばシャーロットは森の外にいた。家を飛び出したときとは打って変わって心が軽く、こんな気分になったのはいつぶりだろうと驚いたものだ。しかし変わったシャーロットの心とは裏腹に、家に帰ればそこは変わらず重苦しい雰囲気のままで。
帰りたくない。帰るのが怖い。怒られたらどうしよう。心配かけてごめんなさいって謝らなきゃ。沈みそうになる心を奮い立たせ、だけどやっぱり少し怖かったからこっそり家に入った。
しかし現実は、シャーロットに優しくなかった。家族も使用人も。いつもと何ら変わらない。
気づいていなかったのだ、シャーロットがいなかったことに。突きつけられたような気がした。この家の中での、自分の存在の希薄さを。軽くなったはずの心から血が溢れる。前世の記憶を思い出したことで忘れていた傷が、容赦なく痛みを訴えた。
だけど。
「(———大丈夫)」
美しい獣は、強くなれと、そう言った。
「なるよ。私は強くなる」
その日から、シャーロットの奮闘が始まった。
放置されているのをいいことに好き勝手やらかした。
まず聖獣について調べ、聖獣が食べるとされる果実を持って森に通った。不可侵の森に二度も無断で入る勇気はなく、果実を森の前に置いて毎日のように呼びかけた。
「聖獣さま。前世の記憶を授けてくれてありがとうございました」
深い感謝と、それから。
「どうか、私とお友達になってください」
駄目もとだけれど、本気のお願い。
来る日も来る日も、感謝とお願い、その日の出来事を森の前で話すシャーロットに、ひと月たってついに聖獣が折れた。
シャーロットは狂喜乱舞した。飛び上がって全身で喜びを表し、勢いよく聖獣に抱きついた(というより飛びついた)彼女に、聖獣は珍しく狼狽えたとか狼狽えなかったとか。
—————
聖獣は年を数えることなどとうにやめたが、この幼い友人をたいそう慈しんでいた。だから呆れたそぶりをしながらもシャーロットの話に耳を傾け、その目に慈愛を滲ませる。
幸あれと願った少女の喜びに、自分がなれることが嬉しかった。
「来る途中で倒れてたの!」
そう言って差し出された手に乗る、小さな生き物。手のひらサイズの人型のそれは、どうやら気を失っているらしかった。
『ふむ。妖精とはまた珍しいものを拾ったな』
「妖精?」
丸い瞳は好奇心に溢れ、全力で生を謳歌する魂は力強く輝いている。人の生など聖獣にとってはそれこそ瞬き一つ。だからこそ人は美しいと、刹那の輝きを見守り続けてきた。
時代とともに人との関係は変化し最近ではあまり干渉することもなかったが、この輝きを間近で見られるのならそれはどんなに心地いいだろうと、己が加護する少女に愛情を注ぐのだった。