夜の森
冥い夜。うっそうと繁る森を貫く、細く荒れた道路を一人の女が車を走らせている。女は背が高く、肉付きの良い身体をしていた。伸ばされた金色の髪を、頭の後ろでまとめて一つの束にしていた。白いブラウスと黒いパンツ、サンダルを身につけ、時速百数十キロで駆る車は赤いオープンカーだった。煙草をくわえ、ハンドルを人差し指で叩いていた。
女は煙草を車の灰皿に押し付ける。吸殻を捨てる。空いた左手で、今度は携帯電話を持つ。待機状態から復帰させ、つかの間目を通す。
「なんでまだ圏外なの……」
女はうんざりした声を出す。彼女はかれこれ一時間以上は森の中を走っていた。いくら速度を上げても、ちっとも景色はかわらず、ずっと同じ森の中に彼女はいた。彼女は、夜通し森の中で自動車を走らせていなければならないのかと危惧していた。
「勘弁してよ」
思わずこぼれる呟き。彼女は朝までにこの道の向こう側にある町へと行かなくてはならなかった。焦り、アクセルを踏みつける。高速で木々が流れ去っていく。真っ暗な夜に溶け込んでいく。とろりと濁った夜に。
ふと、女はこの森で噂されるとある話を思い出した。それはひどくありふれた怪談だった。
人を食らう森。森はそう噂されていた。夜になるたび、立ち入った人間を殺し、貪り食うなにかがいるのだと。皮や肉はおろか、髪や骨まで食われ、残るのは哀れな獲物が着ていた服だけだと。これまでに何人も殺され食われ、行方不明になった人たちのリストは長大なものになっていると。人を食べるのは野犬や熊、殺人鬼に、挙句の果てには人食い鬼などという、今日日子供向けのスリラーでも流行らないようなものもあった。
馬鹿げた話だ。女はそう思っていた。確かに最近、行方不明者の数が増加しているらしいが、偶然に決まっている。というより、行方不明者が増えたことをネタにして、どこかの暇人が創作したに違いない。所詮は町の喫茶店や駅の待合室で、時間つぶしに語られる類の、つまらない都市伝説だ。
だが、こうして一人、闇夜の森を車に乗っていると、ひたひたと、得体の知れないなにかが追ってきているような不安感が、彼女の背筋をぬらりと伝う。
「人食い鬼だなんて、馬鹿馬鹿しい。」
女はそう口にする。だが、ひゅうひゅうと啼く冷たい風が、ねっとりと纏わりつく空気が、森の中の獣たちの荒い息遣いが、ぞわりとした感情を否応なしに掻きたてる。
「人食い鬼だなんて、馬鹿馬鹿しい」
もう一度、女は口にする。ガムを道路めがけて吐き捨て、煙草を呑もうとする。シガーライターをソケットに押し込む。つかない。さっきまで正常に動いていたのにシガーライターは機嫌を損ね、ソケットに嵌まり込んだまま、うんともすんともいわなくなってしまった。
「なんなのよ、もうっ」
女は苛立ち、思わず煙草のフィルターを噛み切ってしまう。苦い味が口いっぱいに広がったようで、更に苛立つ。火の点っていない煙草を灰皿に捨てる。ハンドルを叩く指が、無意識の内に力を強めている。
女はダッシュボードの上にある缶コーヒーを取り、プルタブを開け、一息に中身を空ける。空き缶を森に向かって投げる。樹木にぶつかるなりして聴こえる筈の、明るく抜けるような金属音はなく、幹は夜の闇に吸い込まれて消えていった。
女はその身を震わせる。ちらちらとバックミラーに目をやり、後方を確認する。得体の知れないものが、オープンカーの後ろに取り付いているとでも言いたげな、せわしなく子供じみた動きだった。何度となく鏡を見、黒い地面と白い線と赤い車体を見、皮革製の後部座席を見る。強迫観念に駆られたような反復行動を、ひっきりなしに繰り返す。
と、小さく擦れた、コツコツ、コツコツ、コツコツという音が彼女の耳に届く。車の扉をノックするようであり、コツコツ、コツコツ、コツコツと執拗に続けられている。何度も、何度も、何度も。繰り返して。女の注意を向けたがるように。気付かないのか、まだ気付かないのか、あなたはわたしに気付かないのか、と。
わたしはあなたのすぐ傍にいるのに。
ノックを思わせる音と合奏をするように、カチカチ、カチカチ、カチカチと小さな音が鳴っている。音源は女の歯だった。歯の根は合わず、呼吸は短く速くなり、心臓の鼓動は早鐘を打ち鳴らす。じりじりした不安が身を凍えさせ、彼女は慄然としてハンドルを握り締める。
森はまだ途切れない。
女はアクセルをべた踏みする。出力を上げるはずのエンジンは、しかし逆にか細く頼りなく、速度は緩んでいるような気すらしてくる。
身体の震えが止まらない。
「ありえない。絶対にありえない」
女は何度も唱える。呪文のように。経文のように。信じてもいない神や仏に、彼女は縋りたい気持ちでいっぱいだった。
だが無情にも森は夜の闇を飲み込んで、一切の光もなく更に女の恐怖をあおる。無音の内にざわめき、おぞましいなにかを孕んでいる。女は夜闇に慣れた眼に、狐のようにそばだてた耳に、ブラウスの下で粟立つ膚に、おぞましいなにかを感じたのか。
突然、車の前方に、青白く光る眼が爛々と輝いた。ぬっと気配もなく現れ、女の行く手を阻んだ。
人食い鬼だ。
そう思ったのか、女は悲鳴すら忘れ、ただ必死にブレーキを踏み、身体を縮こまらせる。目をつぶり、頭を覆って顔を伏せる。もう駄目だ、わたしは鬼に食われるのだ。
タイヤが喚く。ゴムの焼ける焦げ臭いにおいをかぐ。衝撃はない。自分が死んでいないことに気付き、女は恐る恐る顔を上げる。
青白い瞳の持ち主は、野生の猪だった。車のライトに照らされた獣は、何事もなかったように前を通り過ぎ、森の中へと消えていった。
女はぽかんと口を開いていた。そして堰を切ったように大声で笑い、再び車を発進させる。ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと嗤い声が響く。
女は安心し切っていた。自分は一体、何にここまで脅えていたのだろうと。人食い鬼なんて、いるわけないじゃないと。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
ふっと体の力を抜いて女はシートにもたれかけ、そのまま助手席へと倒れこむ。首なしの胴体が、ずるりと血の跡を曳いて。
女の首は後部座席へと移動している。笑っていたときの表情のまま、すっぱりと切り離されている。ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと嗤い声。主を喪った身体は力なく、鮮やかな切り口からは鮮血が噴水のように溢れ、ブラウスを車体と同じ色に染めている。通り過ぎた道路の宙には、紅く濡れた一筋の鋼糸が渡され、それが剃刀のような鋭利さで女の首元を切断したのだった。
辺りに鉄錆のにおいが充満する。食欲をそそる香りを撒き散らし、運転手のいないオープンカーは疾走する。どうせ人もいないのだから、敢えて停める必要もあるまい。
それより、久しぶりの食事だ。味は良くないだろうが、肉はしっかりついていて食べ甲斐はありそうだ。
わたしは舌なめずりをし、未だ血を噴き出す温かな身体にかぶりつく。