ソノ獣、危険 (前篇)
『たくましい彼女』のミドリ(♂)視点のお話です。
相変わらずお馬鹿ななりで書いていますので、サックリお暇つぶしにどうぞ。
どんな人間にも、天敵は一人くらい居るものだ。
俺にとって、奴は天敵と言うより、疫病神だ。
一年前、証券会社で働く俺は、自分が担当する大口契約者である、とある会社に仕事で出向いていた。
そこでの商談を終え、エントランスを出ようとした時、外からエントランスに入って来た二人の社員に目が向いた。おそらく、外回りから帰って来たこの会社の社員だろう。
それは、一人の男の姿に目を引かれたからだ。
百九十㎝を越える高身長もそうだが、サラリーマンには見えないガッチリとしたスーツが似合わない体躯に、一瞬、嫌な予感がした。
ざわりと肌をなぞったのは、懐かしい危機感。
それを感じるのは、中学を卒業して以来のこと。
一緒に歩いていた男との話が途絶え、そのでかい男が不意に顔を俺の居る方向へ向けた。
精悍な顔は、幼さが抜けたどころか重ねた年月の分だけ老けたが、見間違えようもない。
奴だ…さっさとこの場から逃げ出さないと、昔の二の舞になる。
極力、俺は平静を装い、エントランスを抜けようとしたが、一瞬だけ、その男と眼があってしまった。
まずいと思った瞬間、そいつは俺に近付いて俺の腕を掴んだ。
「…待て。お前、ミドリだろ?」
そして、相も変わらず俺の名前を間違えて呼んだ。
保田彬之介だった。
「阿保リンが。俺はアキラだって言ってるだろ」
アホは俺だ。昔の癖で、反射的に言葉を返してしまった。
「やっぱ西條翠か」
中学卒業以来、一度たりとも顔を合わせていないその男は、十四年ぶりに再会したと言うのに、一目で俺の存在を看破った。
無論、俺の方も一目で奴だと気付いたが、三歩どころか一瞬で記憶を忘却することで有名だった彬之介が俺のフルネームを覚えていると、中学の頃のツレが知ったら卒倒するだろう。
俺は驚かないが。
「お前、今晩暇だろ?俺に付き合え」
ニヤリと笑った彬之介の表情は、悪巧みを思いついた時のそれだった。
ついでに言えば、こいつに逆らって平穏無事で済んだ記憶がない。
俺は溜め息をついて承諾し、リンと携帯番号とメールアドレスを交換した。
俺の脳裏には、中学時代の悪夢が走馬灯のように駆け抜けていた。
※
保田彬之介と初めて出会ったのは、中学校の入学式。
クラスは違うし、別に何かの接点があった訳でもない。
入学式が終わり、ホームルームも終わって帰ろうとした時、俺はどういう訳か彬之介に呼び出された。
喧嘩でも吹っ掛けられるのかと思ったら、それ以上の最悪の事態に襲われた。
人気のない体育館の倉庫でバックバージンを奪われた。
別に俺が女っぽかったわけじゃない。既に身長も百七十は越えていたし、体格も良かった。声も変声期が終わって低かった。
少なくとも、普通の中学一年生の同級生と比べれば、発育は良い方だった。
が、名前の『翠』をアキラではなくミドリと読んだアイツは、その名前だけで学ランを着た俺を女とあろうことか間違え、入学式当日に人気のない体育館の倉庫に連れ込んだ。
服を剥いて身体を見て男だと分かったのに、「ま、いっか。顔は好みだし」とか言いながらなっ!
あの野郎、既にあの当時から身長も百八十越えて、ガタイも高校生並みだった。激しく抵抗したが、力技で負けた。
痛いわ、屈辱だわ、悪夢としか言いようがなかった。
あいつのお蔭で、俺のアイデンティティーは十二歳にして崩壊。
あの獣野郎は、やったあとすっきりした顔で「今日から友達な」とか、更に意味不明な理論展開しやがって、ムカついた俺はアイツを袋叩きにして締め上げてやった。
殺す気でやったのに、無駄に頑丈なアイツは骨折すらしなかった。まあ、見てくれだけは精悍で女子にもてた彬之介の顔はボコボコだったけどな。
その後、中学生活三年間、後ろは狙われなかったが、常に奴に絡まれ続けた。
おかげで、俺はあいつのツレと間違えられ、他のリンの取り巻きみたいな仲間と共に、彬之介の尻拭いに奔走させられる毎日だった。
彬之介の野郎、上級生だろうが、他校の野郎だろうが、高校生だろうが、吹っ掛けられた喧嘩は全部買うし、その時の気分で自分から相手を潰しにかかる。
しかも、自分がやった事をきれいさっぱり忘れるから性質が悪い。
そんな彬之介に喧嘩を売ろうなんていう奴は、一年もしないうちにいなくなり、狂犬の気に障る真似をするなという暗黙の約束が出来上がっていた。
俺は、入学初日に彬之介とやり合って、奴が初めて名前を覚えた存在(アキラではなくミドリで認識はされたが)として一気に有名になった。
それどころか彬之介の顔をボコボコにしたせいで、扱いを間違えると拙い奴と言う肩書きを手に入れ、まともな友達なんて言うのは出来なかった。
おかげで中学の三年間は、親父がオカマだと言う理由で、他人から詰られた事はない。小学生の時は、派手にからかいや蔑みの対象にされて、程度の低い嫌がらせを受けたが…。
そういや、俺の親父がオカマだと知っても彬之介や彬之介とつるんだ連中は、親父の事を悪く言わなかった。
そんな事もあって、掘られた恨みは忘れてないが、何となくつるむ時間の長い存在になった。
一緒に居て、彬之介の事でだんだん見えてきたものもあった。
補導も、停学も日常茶飯事。それでも、学校は普通に通う。成績は下の中。俺以外のつるんでる奴の名前は全然覚えられないし、付き合った女の名前すら覚えられない。
底抜けな記憶力の無さだが、一度も補習も追試も受けた事がない。
彬之介が、実は馬鹿を装った知性のある狂犬だと気付いたのは、奴の試験の答案用紙を見た時だ。
常に、赤点回避のギリギリラインの点数で、不正解の問題の回答欄には下らない答えを書いてある癖に、試験問題の中でもかなり難しい問題を時々、完璧に解いていた。
しかも、学年順位が常時三位以内の俺ですら解けなかった問題を、だ。
奴はまぐれ、ヤマ勘と言っていたが、そんなものが何回も続く訳がない。
傍で二年も彬之介の事を見ていれば、頭の悪い振りをしている事くらい分かる。
「彬之介、なんでバカ装ってるんだ?本当はもっとうまく立ち回れるだろ」
三年生になったある日の放課後、他の連中がいない時、俺は思いきってそう聞いてみた。
「そいつは、バカにどうしてバカなんだって聞く様なもんだぞ」
彬之介は、教室の窓際の席で脚を机の上に乗せて、ポッキー喰いながら校庭を眺めていたその視線を俺に向けた。
一瞬だけ、殺気を感じて思わず身構えたが、彬之介は俺のそんな様子を見て、鼻で笑った後、大して興味もなさそうに呟いて視線をグラウンドに戻す。
「自分がやった事を『忘れた』って言うのも、嘘だろ」
「あぁ?俺より弱い奴覚えても仕方ねぇだろ。時間と労力の無駄。めんどくせーこと嫌いなんだよ」
珍しく普通に会話できるかと思えば、何て理由をぶちまけるんだこいつは。
「めんどくさいのが嫌なら、喧嘩なんか吹っ掛けるなよ」
仕返しに来た相手に「お前、誰?」とか言ったおかげで、一緒に歩いていた俺までとばっちりで何度も襲われる羽目になったんだ。
まあ、俺の場合は正当防衛で補導とかされたりしなかったが。
「ムカつく奴は、さっさと地獄に落とすに限るだろ」
「で、俺の事もムカついたから地獄に叩き落としたって?」
何本目かのポッキーを齧りながら、彬之介は俺を見上げた。
「男装の麗人かと思ったんだよ。まあ、顔ドストライクだったし、男でもイケるって思ったんだよ」
「思うな。どういう神経してるんだお前」
「楽しけりゃ何でもいい。お前は楽しいから好きだぞ」
なんというか、何を考えているのかよく分からない、変な奴。
それが、目の前の男、保田彬之介だった。