第三話「くのいちの掟」
雨が、静かに降っていた。
細く、冷たい雨。
地面を濡らし、音を消していく。
その雨の中を、お凛は一人で歩いていた。
足音はない。
気配もない。
だが――
(消えない……)
胸の奥にあるものだけは、消えなかった。
影丸の言葉。
「迷うな」
そして――
あの、わずかな“揺れ”。
(あの人は、本当に……)
考えかけて、止める。
――無駄だ。
忍にとって、感情は毒。
そう教えられてきた。
そう信じてきた。
それなのに。
「……なんでよ」
小さく、呟く。
雨に溶けるような声。
その時だった。
「お凛」
低い声が、前から落ちてきた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは――
里の長老だった。
白髪交じりの髪。
鋭い目。
その存在だけで、空気が張り詰める。
「……長」
お凛はすぐに膝をつく。
「呼ばれていないはずだが」
「……巡回です」
短く答える。
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
長老は、しばらくお凛を見下ろしていた。
そして――
「顔を上げろ」
命じる。
お凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
長老の目が、わずかに細くなる。
「……目が濁っているな」
「……!」
胸が、強く打つ。
「何を迷っている」
「迷ってなど――」
「ある」
言い切られる。
逃げ場はない。
「お前は、くのいちだ」
低く、重い声。
「何のために存在する」
「……任務のために」
「違う」
即座に否定される。
お凛の呼吸が止まる。
「伊賀のためだ」
長老の声が、さらに低くなる。
「己ではない」
「……」
「情ではない」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「忍は、影だ」
雨が、強くなる。
「存在してはならぬもの」
その一言で、
すべてが覆われる。
「感情を持つな」
「名を残すな」
「愛するな」
一つ一つの言葉が、
刃のように降り注ぐ。
「それが――くのいちの掟だ」
沈黙。
雨の音だけが、世界を満たす。
お凛は、何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
だが――
(愛するな……?)
その言葉だけが、強く残る。
心の奥に、引っかかる。
「……はい」
やっとのことで、答える。
声が、少し震えた。
長老は、それを見逃さなかった。
「お凛」
「……は」
「一つ、聞く」
静かな声。
だが、その重さは計り知れない。
「影丸と、接触しているな」
「……!」
息が止まる。
なぜ、それを――
「答えろ」
「……任務上の連携です」
必死に言葉を選ぶ。
嘘ではない。
だが――
それだけではない。
長老は、しばらく沈黙した。
雨が、二人の間に落ち続ける。
やがて。
「……そうか」
それだけを言う。
だが、その声には、
わずかな疑念が混じっていた。
「気をつけろ」
「……何を、ですか」
「影に近づきすぎるな」
その言葉に、
お凛の胸が強く打つ。
「影は、触れれば消える」
長老の目が、鋭く光る。
「そして」
ほんのわずかに間を置く。
「触れた者も、消える」
その意味は、明白だった。
「……肝に銘じます」
頭を下げる。
それしかできなかった。
長老は、それ以上何も言わず、
静かに背を向ける。
そのまま、雨の中へと消えていった。
⸻
一人、残される。
雨は、まだ降り続いている。
「……」
お凛は、立ち尽くしていた。
動けない。
心が、重い。
「愛するな……か」
ぽつりと呟く。
その言葉が、
やけに現実味を帯びていた。
忍として生きるなら、
それは絶対だ。
破れば――
死。
それだけではない。
里からも、存在を消される。
(……分かってる)
そんなことは、最初から。
それでも――
脳裏に浮かぶのは、
あの男の姿。
無表情な顔。
冷たい声。
なのに――
ほんの一瞬だけ見せた、
あの“揺れ”。
「……馬鹿ね」
自分に言い聞かせる。
「ただの忍じゃない」
「ただの影よ」
そうだ。
あれは人ではない。
感情もない。
心もない。
だから――
(好きになる理由なんて、ない)
そう、思おうとした。
その時。
背後に、気配。
「……また?」
振り返らずに言う。
「趣味悪いわよ、あんた」
「任務だ」
影丸の声。
やはり、そこにいた。
「……いつからいたの」
「最初からだ」
「嘘でしょ」
「事実だ」
いつものやり取り。
だが――
お凛の心は、落ち着かなかった。
さっきの言葉が、まだ残っている。
「……聞いてたの?」
「何をだ」
「全部よ」
少しだけ、意地になる。
影丸は、わずかに沈黙した。
そして。
「……ああ」
短く答える。
「……最低」
思わず呟く。
「盗み聞きとか」
「必要な情報だ」
淡々と返す。
だが――
お凛は、振り返った。
まっすぐに、影丸を見る。
「ねえ」
「何だ」
「私が……」
言葉が詰まる。
だが、止まらない。
「もし、掟を破ったら」
空気が、わずかに変わる。
「どうする?」
問い。
それは、試しでもあり、
確認でもあった。
影丸は、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬。
本当にわずかな間。
そして――
「斬る」
静かな答え。
迷いのない、断言。
胸が、痛む。
分かっていたはずなのに。
「……そう」
お凛は笑う。
うまく笑えているかは、分からない。
「やっぱり、あんたは影ね」
「そうだ」
「……じゃあ」
一歩、近づく。
自分でも、なぜそんなことをしたのか分からない。
「もし」
声が、震える。
「私が……あんたを好きになったら?」
その瞬間。
時間が、止まったように感じた。
雨の音さえ、遠くなる。
影丸は、動かない。
ただ、見ている。
お凛を。
まっすぐに。
そして――
わずかに、
本当にわずかに。
その瞳が、揺れた。
「……」
だが、次の瞬間には消える。
いつもの無表情に戻る。
「あり得ない」
冷たい言葉。
だが――
その一瞬を、お凛は見逃さなかった。
「……そ」
小さく呟く。
胸は痛い。
でも、不思議と――
絶望ではなかった。
(今、揺れた)
確かに。
ほんの一瞬でも。
影は、揺れた。
「……行くぞ」
影丸が背を向ける。
それ以上は語らない。
「ええ」
お凛も歩き出す。
雨の中を。
並んで。
だが――
その距離は、まだ遠い。
決して触れてはいけない距離。
触れれば、
どちらかが消える。
それでも。
ほんの少しだけ。
近づいた気がした。




