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第一話 血に染まる手

挿絵(By みてみん)


夜は、静かすぎるほどに澄んでいた。




 風が竹を揺らし、さらさらと乾いた音を立てる。


 その音の中に、ひとつだけ異質なものが混じっていた。




 ――人の息だ。




 荒く、乱れた呼吸。


 逃げようとする気配。




 だが、それはもう遅い。




 屋根の上に立つ一人の影。


 黒装束に身を包んだ女――お凛は、静かに目を細めた。


挿絵(By みてみん)




(任務……)




 それだけを心に刻む。




 情は捨てろ。


 迷いは死を招く。




 くのいちとして生きるために、何度も叩き込まれてきた言葉だった。




 次の瞬間、お凛の姿は消えていた。




 音もなく地を蹴り、闇の中を滑るように進む。


 そして――




 「っ……誰だ!」




 振り返った男の喉元に、刃が突きつけられていた。




 銀色に光る短刀。


 その刃先が、男の皮膚に触れる。




 「や、やめてくれ……!俺は……ただ……」




 男は震えていた。


 その目は恐怖に歪み、涙がにじんでいる。




 「家族がいるんだ……娘が……まだ小さくて……」




 その言葉を聞いた瞬間、


 お凛の心が、わずかに揺れた。




(関係ない……)




 これは任務だ。


 命令は絶対。




 相手がどんな人間であろうと、関係ない。




 そう、自分に言い聞かせる。




 だが――




 「頼む……助けてくれ……」




 男の声が、耳に残る。




 その瞬間、


 お凛の脳裏に浮かんだのは――




 幼い頃の、自分だった。




 誰にも助けられず、ただ泣いていた少女。




(……違う)




 ぎゅっと唇を噛む。




 これは過去じゃない。


 これは今だ。




 そして自分は――忍だ。




 「……ごめん」




 小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟く。




 次の瞬間。




 ――ズッ




 刃が、深く沈んだ。




 男の体が、崩れ落ちる。




 血が溢れ、地面を濡らしていく。


 温かいそれが、お凛の手に伝わった。


挿絵(By みてみん)



 静寂が戻る。




 何事もなかったかのように、夜は再び息を潜める。




 だが――




 お凛の手は、震えていた。






 止まらない。


 何度、人を斬っても。


 何度、任務を果たしても。




 この震えだけは、消えない。




(どうして……)




 視線を落とす。




 血に染まった自分の手。


挿絵(By みてみん)




 その手が、ひどく汚れて見えた。




 「……私は……」




 言葉が続かない。




 胸の奥が、苦しい。




 息が、うまくできない。




 そして――




 ぽたり、と。




 一滴の涙が、血の上に落ちた。




 「……なぜ……」




 自分でも分からなかった。




 なぜ泣いているのか。




 任務は成功した。


 失敗はしていない。




 なのに――




 「なぜ、私は……涙を……」




 その時だった。




 ――気配。




 背後に、確かに“何か”が立っている。




 お凛は反射的に振り向き、短刀を構えた。




 「誰――!」




 だが、その言葉は途中で止まる。




 そこにいたのは――




 闇だった。




 いや、違う。




 闇の中に、立つ男。




 気配が薄すぎる。


 まるで“影”そのもののような存在。




 月明かりが、わずかにその顔を照らす。




 無表情。


 感情の欠片もない、冷たい瞳。




 ――影丸。




 その名を、お凛は知っていた。




 伊賀の中でも異質な存在。


 “感情を持たぬ忍”と呼ばれる男。




 「……任務は終わった」




 低く、淡々とした声。




 それだけを告げる。




 だが――




 影丸の視線が、ゆっくりとお凛の手に向けられた。




 血に濡れた手。


 そして、その上に落ちた涙。




 ほんの一瞬。




 本当に一瞬だけ。




 その瞳が、揺れたように見えた。




 「……なぜ泣く」


挿絵(By みてみん)


 感情のないはずの声。




 なのに、その問いだけは――


 どこか、違って聞こえた。




 お凛は答えられなかった。




 ただ、震える手を握りしめる。




 「……分からない……」




 それが、精一杯の答えだった。




 影丸は何も言わなかった。




 ただ静かに、お凛を見つめる。




 そして――




 「……ならば、捨てろ」




 冷たく、言い放つ。




 「情は、忍を殺す」




 その言葉は、刃よりも鋭く胸に突き刺さった。




 だが。




 お凛は、すぐに頷くことができなかった。




 なぜなら――




 その瞬間。




 影丸の姿が、わずかに滲んで見えたからだ。




 涙で。




 「……捨てられない……」




 小さく、呟く。




 それは、誰に向けた言葉でもなかった。




 ただ、心からこぼれた本音。




 影丸は、しばらく沈黙した。




 そして背を向ける。




 「……弱いな」




 そう言い残し、闇の中へと消えていく。




 まるで最初から存在しなかったかのように。




 残されたのは、お凛一人。




 血の匂いと、静寂の夜。




 そして――




 消えない震えと、涙。




 お凛は、空を見上げた。




 月が、冷たく輝いている。




(私は……忍として、生きていけるの……?)




 その問いに、答えはなかった。




 ただ一つ、確かなのは――




 あの“影”の存在が、


 自分の中に残り続けているということだけだった。

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