隔離区の夜
ルッツ13歳。初めて隔離区の内部に足を踏み入れます。
壁の向こう側に入ったのは、十三歳の夏だった。
「本当に来るの」
レナが壁の穴の前で振り返った。五年前に比べて背が伸び、銀色の髪は腰まで届いている。表情の乏しさは変わらないが、声の温度は少し上がった。少なくとも俺に対しては。
「来るって言っただろ」
「見たら、後悔するかもしれない」
「見ないで後悔する方が嫌だ」
レナは何も言わず、壁の穴に身を滑り込ませた。俺もそれに続く。十歳の頃は楽に通れた穴が、十三歳の体には窮屈になっていた。あと一、二年もすれば通れなくなるだろう。
穴を抜けると、空気が変わった。
比喩ではない。本当に空気が違う。壁のこちら側は石畳が掃き清められ、街路樹が手入れされ、パン屋の焼きたての匂いが漂っている。向こう側は、土と湿気と、どこか酸っぱいような生活の匂いが混じっている。
目の前に広がる光景は、同じ街の中とは思えなかった。
◇
隔離区の通りを歩いた。
建物の壁は剥がれ、窓は木板で塞がれている。石畳は割れて雑草が生え、排水路が詰まって水溜まりができている。
人がいた。
通りを歩く大人たち。痩せた男がバケツを運んでいる。女性が軒先で繕い物をしている。老人が壁に寄りかかって座っている。
そして、子供たちがいた。
路地で走り回っている。笑い声を上げている。棒きれを振り回して遊んでいる。壁のこちら側の子供たちと、何も変わらない。ただ、服がぼろぼろで、靴を履いていない子もいる。
レナは何も説明しなかった。ただ黙って歩いた。説明は必要ない。見れば分かる。
配給所の前を通った。木箱が積まれている。中身はパンと乾燥豆と、少量の塩漬け肉。二十世帯分に満たない量だった。この区画に住んでいるのは、百世帯以上のはずだ。
「足りないだろ、これ」
「足りたことはない」
レナの声は平坦だった。怒りですらない。日常だ。
角を曲がると、監視塔が見えた。壁の内側に立てられた木造の塔。上に兵士が一人、退屈そうに立っている。
「あの塔から、区画全体を見下ろせるの。どこで誰が何をしているか、全部見えている」
「プライバシーなんかないってことか」
「そんな言葉、ここでは意味がない」
◇
レナの家は、区画の奥にあった。
他の建物と同じく壁は剥がれていたが、窓辺に小さな鉢植えが置かれている。紫色の花が咲いていた。
「祖母がいるから。失礼なことを言わないで」
「言わないよ」
「あと、同情の目もやめて」
「してないって」
レナは俺を一瞥してから、扉を開けた。
室内は狭かったが、清潔だった。床は磨かれ、少ない家具は丁寧に配置されている。壁に一枚の刺繍が飾られていた。色褪せた糸で、山と河の風景が縫い取られている。
奥の椅子に、老女が座っていた。
白髪を後ろで束ね、背筋をまっすぐに伸ばしている。痩せてはいるが、弱々しさはない。目は薄い灰色で、こちらを見据える視線に曇りがなかった。
「祖母様。こちらが、前にお話しした」
「ルッツ・エーベルハルトか」
老女の声は静かだった。穏やかだが、芯がある。
「ヒルデの息子。あの娘の目を持っているね」
俺は頭を下げた。前世の日本式の礼ではなく、この世界の礼法で。
「ルッツ・エーベルハルトです。お会いできて光栄です」
「ヘルミーネ・フォン・アウアーバッハ。もっとも、『フォン』はとうの昔に剥奪されたけれど」
元公爵夫人。レナの祖母。すべてを奪われた女性だ。
だがその佇まいには、壁のこちら側の誰よりも深い品位があった。
「座りなさい。お茶を出す……と言いたいところだけれど、茶葉は先月で切れたの。水でよければ」
「いただきます」
水の入った杯を受け取った。杯は古い陶器で、縁に金の装飾が残っている。かつての暮らしの名残だ。
◇
「レナから聞いている。壁のこちら側の子供が、旧式魔法を学びたいと言っていると」
「はい」
「理由を聞いてもいいかしら」
「新式魔法だけでは足りない部分があると思ったからです。旧式の制御術には、新式にない精密さがある」
ヘルミーネは静かに微笑んだ。
「正直な子ね。打算がある。打算があることを隠さない。嫌いじゃないわ」
「ありがとうございます」
「一つ、聞きたいことがある」
ヘルミーネの目が、真っ直ぐに俺を見た。
「あなたは、革命が間違いだったと思う?」
直球だった。
この問いに対する答えを、俺は二年間ずっと考えてきた。母の日記を読んでから、ずっと。
「分かりません」
正直に答えた。
「革命の前、貴族が平民から魔法を奪っていたのは事実です。それは間違いだった。だから革命そのものが間違いだったとは言えない」
ヘルミーネは黙って聞いている。
「でも、革命の後に起きていることも間違いだと思います。壁を作って、人を閉じ込めて、教育を奪うことは、貴族がやっていたことと構造が同じです」
「構造が同じ、か」
ヘルミーネは杯を置いた。
「その通りよ。革命が間違いだったとは言わない。貴族にも罪はあった。私たちの世代は、特権の上にあぐらをかいていた。その報いだと言われれば、返す言葉がない」
一拍の間。
「だけど」
ヘルミーネの声が低くなった。
「罪を血で贖うなら、この国は永遠に血を流し続ける。貴族が平民に流させた血を、今度は平民が貴族に流させている。次は誰が誰の血を流すの。終わらないのよ、その連鎖は」
重い言葉だった。
前世の記憶と、今世の経験が、頭の中で交差した。
前世では、社会の底辺にいた。搾取される側だった。今世では、英雄の息子という恵まれた側にいる。
両方の景色を知っている。搾取する側の論理も、される側の痛みも。
だからこそ、どちらか一方に立つことができない。
「ヘルミーネさん」
「なに」
「俺は、両方を見ました。この壁のこちら側と、向こう側と。どちらにも、正しい部分と間違っている部分がある。どちらかを全否定して済む問題じゃない」
ヘルミーネは俺を見つめた。長い時間。
「あなた、本当に十三歳?」
「よく言われます」
ヘルミーネが笑った。皺が深くなったが、その笑顔には温かさがあった。
「レナの目は確かだったようね。この子と付き合いなさい、と私が言うまでもなさそうだけれど」
レナが横を向いた。横顔の耳が、わずかに赤い。
「祖母様。余計なことを」
「年寄りの楽しみよ」
◇
帰り道、壁の穴をくぐる前にレナが言った。
「祖母に気に入られたみたいね」
「そうだといいけど」
「祖母が笑ったのを見たの、久しぶりだった」
レナの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ルッツ。さっき祖母に言ったこと、本心?」
「どれのこと」
「どちらか一方に立てないって」
「本心だ」
「それは、楽な立場じゃないわよ。どちらからも敵だと思われる」
「知ってる」
「知ってて、それでもそう言うの」
「ああ」
レナは黙った。壁の穴の前で立ち止まり、こちらを見た。
暗がりの中で、薄い紫の瞳が光っていた。
「変なやつ」
三度目の、その言葉。だが声は、五年前とはまったく違っていた。
俺は壁の穴をくぐって、こちら側に戻った。
夜の街を歩きながら、ヘルミーネの言葉を反芻していた。
「罪を血で贖うなら、この国は永遠に血を流し続ける」。
前世の歴史知識が裏づける。報復の連鎖は、人類の歴史を通じて繰り返されてきた。革命が体制を打倒し、打倒された側が復讐を誓い、その復讐がまた新たな革命を生む。
この連鎖を止めるには、どちらかの勝利ではなく、構造そのものを変えるしかない。
だがそれは、両方の側から敵と見なされる道だ。
レナの言う通り、楽な道ではない。
それでも。
前の人生で、楽な道を選び続けた結果がどうなったか、俺は知っている。
コンビニのバックヤードで、冷たい床の上で、独りで死んだ。
あの結末だけは、もう二度と御免だ。




