表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/60

最終話・朝の光

ルッツ20歳。新しい共和国の最初の朝。二度目の人生で、二度目の夜明けを迎える。

合議は三日間にわたって行われた。


 革命広場。崩れた記念碑を囲むように、椅子と机が並べられた。屋根はない。壁もない。空の下での会議だ。誰でも見られる場所で、誰でも聞ける声で、この国の形を決める。


 それが俺たちの出した、最初の答えだった。密室で決めない。


 集まったのは五十三人。旧体制の元官僚が十一人。隔離区の代表者が九人。辺境から来た自治領の長が七人。元体制軍の将校が八人。ルッツの第三勢力から十二人。そして立場を明確にしない市民代表が六人。


 全員が全員を信用しているわけではない。三週間前まで殺し合っていた者同士が、同じ机についている。空気は重い。視線は刺すように鋭い。


 だが、座っている。それだけで十分だった。


 初日は怒号が飛んだ。隔離区の代表者が元官僚に掴みかかりそうになった。元体制軍の将校が席を蹴って立ち上がった。辺境の長が「こんな茶番に付き合えるか」と吐き捨てた。


 その都度、フランツが冷静に場を整えた。感情を否定しない。だが感情だけで決定しない。


「怒りは正当だ。だが怒りで法を書けば、その法は怒りが冷めた時に機能しなくなる」


 フランツの言葉は冷たかったが、正しかった。


 二日目になると、少しだけ声が落ち着いた。具体的な議論が始まった。均等裁定院の廃止は全員一致で決まった。隔離区の正式な解放も異論なし。問題はその先だ。新しい教育制度をどう作るか。旧貴族の市民権回復の範囲。辺境領の自治権。軍の再編。


 すべてが白紙だった。すべてをゼロから作り直さなければならない。


 三日目の午後、議題は「この国の指導者を誰にするか」に移った。


 五十三人の視線が、俺に集まった。


 レナが俺を見た。フランツが腕を組んだ。カスパーが身を乗り出した。エミルが黙って俺の目を見つめた。


 分かっている。この場にいる人間の多くが、俺がその席に座ることを期待している。紅の黎明の息子。第三の旗を掲げた男。体制とディートリヒの両方を倒した英雄。


 英雄。


 その言葉が胸に刺さった。


 母もそう呼ばれた。英雄と呼ばれ、碑に名を刻まれ、そしてその名は侵略戦争の旗印にされた。英雄の名は、いつか必ず利用される。


 立ち上がった。


「俺はやらない」


 広場が静まった。


「ルッツ」


 フランツの声が低い。


「指導者には就かない。この国のトップには、俺はならない」


 ざわめきが起きた。元官僚の一人が眉をひそめた。隔離区の代表者が首を傾げた。


「なぜだ」


 カスパーが聞いた。率直な声だった。壁の中で育った若者の、飾りのない問いだった。


 俺は息を吸った。左腕の火傷が引きつれた。まだ痛む。まだ体は治りきっていない。


「俺は旗を掲げた人間だ」


 声を選んだ。広場に響くように、だが叫ばないように。


「旗を掲げた人間が権力を持つと、また同じことになる。母さんが旗を掲げた。その後に権力を握ったのはヴェルナーだ。ヴェルナーは母さんの旗を使って、この国を歪めた」


 ヴェルナーの名が出ると、元官僚たちの表情が硬くなった。だが反論はなかった。


「俺が指導者になれば、同じ構造が生まれる。『ルッツが正しいから従う』。それは人に従っているのであって、仕組みに従っているのではない。人はいつか死ぬ。いつか腐る。人に依存した体制は、その人間と一緒に崩れる」


 ディートリヒの最後の言葉が脳裏に甦った。仕組みは人が作る。人は腐る。ならば仕組みも腐る。


 その批判は正しい。だからこそ、仕組みを作った人間が権力を握り続けてはいけない。仕組みは作った人間から離れて、独立して機能しなければならない。


「この国は合議で動かしてほしい。一人の英雄ではなく、五十三人の——いや、将来はもっと多くの人間の議論で」


「それは遅い。非効率だ」


 元体制軍の将校が言った。


「遅くていい」


 俺は答えた。


「速い決定は、一人の人間の判断に依存する。遅くても、多くの人間が議論して決めた方がいい。間違えた時に修正が利くから」


 前世の記憶が重なった。コンビニのバイトでさえそうだった。店長が一人で決めたシフトは現場に合わなくて、結局パートのおばちゃんたちが裏で調整し直していた。現場の声を聞かない意思決定は、どんなに速くても結局は遠回りになる。


 国の運営も同じだろう。たぶん。


「では、ルッツ。お前はどうする」


 フランツの問いは冷静だった。だがその目に、微かな安堵があった。俺が権力を求めなかったことに対する、参謀としての安堵。


「監視者になる」


 言葉を探した。この役割に名前はまだない。


「体制が腐敗しないか、見張る人間が必要だ。合議が一部の人間に支配されないか。法が特定の立場の人間を不当に扱っていないか。声を上げられない人間が押し潰されていないか。それを見て、声を上げる役割」


「権限は」


「ない。権限があったら、それは権力だ。俺が持つのは声だけだ。おかしいと思ったら言う。それだけ」


 レナが口を開いた。


「権限のない監視者に、誰が耳を貸すの」


「貸さないかもしれない。でも、声を上げること自体に意味がある。黙れば共犯だ」


 ヘルミーネの言葉を思い出した。信念を疑わなくなった時に、人は腐る。そして父ベルントの姿。知っていて黙っていた罪。


 沈黙は共犯だ。声を上げ続けることだけが、俺にできる唯一のことだ。


「監視者がいて、合議があって、法がある。三つが互いを制限し合えば——完璧じゃなくても、一人の英雄に頼るよりはましだ」


 マグヌスが広場の端で聞いていた。腕を組み、壁に背を預けて。老人の目は何かを思い出しているようだった。


「ヒルデも、同じことを言っていた」


 マグヌスの声は小さかったが、広場の全員に届いた。


「革命が終わった夜、ヒルデは言った。『英雄はもう要らない。必要なのは仕組みだ。英雄がいなくても回る仕組みを作らなければ、革命は完成しない』と。だがその言葉は、ヴェルナーに退けられた」


 沈黙が広場を覆った。


「今、ヒルデの息子が同じことを言っている。十五年遅れたが——遅すぎることはない」


 マグヌスが壁から背を離し、まっすぐに立った。


「俺はこの若造を支持する。ルッツ・エーベルハルトを指導者にしないという提案を。英雄を作らないという選択を」


 合議は、満場一致とはいかなかった。反対も棄権もあった。だが過半数が賛成した。


 モルゲンタール共和国は、合議制を採用する。指導者は置かない。五十三人の代表が議論し、多数決で決定する。そしてルッツ・エーベルハルトは「共和国監察官」の称号を受け、体制の腐敗を監視する役割を担う。


 権限なし。俸給あり。住居は広場近くの二部屋の下宿。


 前世でフリーターをやっていた頃の住環境とさほど変わらなかった。俺にはそれで十分だ。


          ◇


 合議が終わった翌朝、俺はレナを誘って街を歩いた。


 目的地は決めていなかった。だが足は自然と、隔離区の方角に向かった。


 早朝の街は静かだった。店はまだ開いていない。石畳の上を、朝靄がゆっくりと流れている。空は東の端が白み始めていて、星が一つ二つ、まだ消え残っている。


 レナは黙って隣を歩いていた。背筋を伸ばし、足音を立てず、まっすぐ前を見て。あの紫の瞳は朝の薄明の中で、深い色を湛えていた。


「眠れなかったの」


「ああ」


「私もよ」


 それだけの会話だった。それだけで十分だった。


 隔離区が近づくにつれて、景色が変わった。整備された石畳が途切れ、砂利と泥の道になる。建物は小さくなり、壁は薄汚れている。十五年間、修繕も改築も許されなかった区画。


 そして——壁が見えた。


 あるいは、壁だったものが。


 南側と西側の壁は大部分が崩れていた。瓦礫が散らばり、その間を人が踏み固めた道ができている。壁の断面に赤い煉瓦と灰色のモルタルが露出している。


 だが北側の壁はまだ立っていた。高さ四メートルほどの石壁が、朝の光の中に影を落としている。


「まだ残っているんだな」


「全部は壊れていないわ」


 レナが壁に近づいた。手を伸ばし、石の表面に触れた。


「この壁の中で、十五年間暮らした」


「ああ」


「子供の頃、この壁の向こうに何があるのか、想像した。怖い場所なのか、楽しい場所なのか。壁の向こうからは時々笑い声が聞こえた。市場が立つ日には、食べ物の匂いがした。私たちには届かない匂いだった」


 レナの声は静かだった。感情を抑えているのではなく、感情がすでに澄み切っているような声だった。十五年分の怒りも悲しみも通り過ぎた先にある、透明な声。


「壁がなくなっても、心の中の壁はすぐには消えない」


 レナが壁から手を離した。


「隔離区の子供たちは、外の世界を怖がっている。壁の外に出ていいと言われても、足がすくむ。外の市民たちも、隔離区の住民を見ると目を逸らす。十五年間『旧い血は危険だ』と教えられてきた人たちの中には、頭では分かっていても、体が受け入れられない人もいる」


「わかってる」


 わかっている。石の壁は壊せる。だが心の中の壁は、石よりも硬い。


「でも、壁があるよりはマシだろ」


 レナが俺を見た。


 紫の瞳に、朝の最初の光が映り込んでいた。薄い金色の光が、瞳の奥で揺れていた。


「……マシ、ね。最低限の評価だわ」


「最低限から始める。前世でもそうだった。コンビニのバイト、初日の最低限は遅刻しないことだった。そこから少しずつましになっていく。いきなり完璧は無理だ」


「コンビニの例えが出てくるところが、あなたらしいわね」


 レナが笑った。声を出さない、小さな笑み。


 俺はその笑みを、もう何度も見てきた。八歳の時に壁の近くで初めて会った日。十三歳の時に隔離区の夜を共に過ごした日。十九歳の時にディートリヒの本陣から助け出した日。


 どんな時でも、レナの笑みは静かだった。大声で笑うことも、涙を流しながら笑うこともない。ただ口元が少しだけ緩む。それだけの笑み。


 だがその「それだけ」が、いつも俺の胸の奥を暖めた。


「レナ」


「何」


「ありがとう」


「急に何」


「いや。言っておきたかった。ずっと」


 レナの眉が寄った。


「具体的に何に対して言っているの」


「全部。魔法を教えてくれたこと。隔離区を案内してくれたこと。俺が間違いそうな時に止めてくれたこと。ディートリヒに捕まっても折れなかったこと。俺の隣にいてくれること」


 言葉にすると、照れくさかった。前世では「ありがとう」も「ごめんなさい」もまともに言えなかった。接客の定型句として発する以外には。


 レナは何も言わなかった。しばらく俺を見つめてから、視線を壁に戻した。


「……礼なら、もっと早く言いなさいよ」


「すまない」


「謝らなくていい」


 ディートリヒの本陣で鎖を解いた時と、同じやり取りだった。


 レナが一歩、俺に近づいた。肩が触れた。瓦礫の広場であの日、隣に座った時と同じ距離。


「私も、感謝してる。あなたが壁の近くに来てくれたこと。八歳の時に。あの日、あなたが追いかけっこの仲裁に入らなかったら——私は多分、壁の中の世界しか知らずに生きていた」


「あれは仲裁じゃなくて、うるさかったから止めただけだ」


「知ってる。あなたはいつもそう言う」


 レナの肩が俺の肩に触れたまま、離れなかった。


 恋人同士の甘い場面ではない。告白でもプロポーズでもない。ただ二人の人間が、壊れた壁の前に立って、同じ方を向いている。


 それでいい。今はそれでいい。


 この先の道を、一人で歩くつもりはない。だが二人きりで閉じるつもりもない。


 レナは俺の対等な相棒(パートナー)だ。それ以上でも以下でもない。少なくとも今は。先のことは、先の俺たちが決めればいい。


          ◇


 壁の前を離れて、街の東に向かった。


 高台がある。首都エルステモルゲンの東端、旧城壁の跡地に作られた展望台。革命前は貴族の庭園だった場所で、革命後に市民に開放された。ここからは首都の全景が見渡せる。


 朝日が昇る前に、着きたかった。


 石段を登り切った時、空は薄紫から橙に変わりつつあった。東の稜線が白く光っている。日の出まであと少し。


 展望台には、先客がいた。


 エミルだった。


 石の手すりに寄りかかり、空を見上げていた。こちらに気づくと、ばつが悪そうな顔をした。


「なんだ、お前もか」


「眠れなかった」


「俺もだ」


 三人で手すりの前に並んだ。エミル、俺、レナ。


 沈黙が流れた。風が吹いた。朝の風は冷たく、だが夜の寒さは抜けていた。


「ルッツ」


「ん」


「お前が指導者にならないって言った時、正直、腹が立った」


「なんでだ」


「お前が引っ張ってくれれば楽なのにって思った。お前についていけばいいなら、何も考えなくて済むから」


 エミルの声は正直だった。


「でもそれは——俺がヴェルナーについていった時と同じだって、後から気づいた。信じる相手を変えただけで、構造が同じだ。それじゃ駄目だって」


「気づいてくれたか」


「お前に言われなくても分かるよ。……いや、嘘だ。お前に言われなきゃ分からなかった」


 エミルが笑った。情けない笑いだった。だがその情けなさを隠さないところが、エミルの良さだ。


「俺も考える。自分の頭で。これからは」


「期待してる」


「期待するなよ。たぶん何度も間違える」


「間違えたら言う」


「容赦なくな」


「ああ」


 東の空が明るくなった。稜線の上に、光の帯が広がっていく。


          ◇


 朝日が昇った。


 東の山の向こうから、最初の光が差し込んだ。薄い金色の光が、首都エルステモルゲンの屋根を一つずつ照らしていく。


 瓦礫の残る広場も、半壊した建物も、壊れかけた隔離区の壁も、等しく光を浴びた。


 朝日は選ばない。体制の建物も反革命の拠点も、辺境の小屋も隔離区の廃屋も。光は均等に降り注ぐ。誰かが配分しなくても、誰かが裁定しなくても。


 これが均等の本当の意味かもしれない。誰かが分配するのではなく、最初から等しくそこにあるもの。光。空気。朝。


 ――皮肉だな。均等裁定院が十五年かけて歪めたものの本質が、毎朝の日の出に含まれていた。


 レナが光を見ていた。紫の瞳に朝の金色が溶けている。


 エミルが深く息を吸い込んだ。焦げた匂いと、朝露の匂いが混ざった空気。


「きれいだな」


 エミルがぽつりと言った。


「ああ」


「こういう朝を——守りたいな。誰のためでもなく。ただ、こういう朝があるってことを」


 俺は答えなかった。ただ頷いた。


 前世で、朝日を見た記憶がほとんどない。コンビニの夜勤明けに見たことはあったが、それは「ようやくシフトが終わった」という安堵の対象でしかなかった。美しいと思ったことはなかった。美しさを感じる余裕がなかった。


 三十一年間の前世で、俺は朝日に何も感じなかった。


 二十年の今生で、朝日が目に沁みる。


 それだけでも、生まれ直した意味はあったのかもしれない。


 もっとも、そんな感傷に浸っている場合ではない。今日もやることは山積みだ。外交の問題、教育制度の再建、旧貴族への市民権回復の手続き、軍の再編、辺境領との交渉。どれも一朝一夕には片付かない。五年かかるか、十年かかるか。俺が生きている間に完成するかどうかすら分からない。


 だが朝は来た。


 一度目の夜明けは偽りだった。母たちが命を懸けて起こした革命は、薄明のまま腐敗し、暗闇に堕ちた。


 二度目の夜明けが本物かどうかは、まだわからない。


 空は明るくなり始めているが、太陽がすべてを照らすにはまだ時間がかかる。雲もある。いつまた曇るかもしれない。嵐が来るかもしれない。


 だが少なくとも——夜は終わった。


 少なくとも、空は白み始めている。


「行くか」


 俺はレナとエミルに声をかけた。


「どこに」


「広場に。今日の合議が始まる。議題は教育制度の骨格案だ。配給の列に並ぶのが先だけど」


「朝飯を食って、会議か。普通だな」


「普通がいいんだ。英雄的なことはもう十分やった」


 三人で石段を降り始めた。


 途中で、カスパーとフランツに出くわした。二人はどこかへ走っていくところだった。


「おう、ルッツ。ちょうどいい。南区画の配水管が壊れたらしい。修理の人手が足りん」


「配水管?」


「戦闘で壊れたまま放置されてたやつだ。住民が困ってる」


「行く」


「お前が行くのか。監察官が配水管の修理に行くのか」


「権限のない監察官だぞ。配水管の修理くらいしか仕事がない」


 カスパーが呆れた顔で笑った。


 フランツは笑わなかった。だが口元が僅かに緩んだ。フランツにしては上出来の表情だ。


 五人で坂を下りた。朝日が背中を照らしていた。影が前に長く伸びて、石畳の上を先に歩いていく。


          ◇


 配水管の修理は、思ったより手間がかかった。


 石造りの水道管が三箇所で破損しており、応急処置には地系の魔法で石を繋ぎ直す必要があった。俺の魔法で石を接合し、レナの旧式の精密制御で水流の圧力を調整し、カスパーが力任せに瓦礫を退けた。


 周辺の住民たちが見ていた。体制側の元市民と、隔離区から出てきたばかりの旧貴族の子孫と、辺境から来た農夫。三者が並んで、水道管の修理を見ている。


 水が通った瞬間、子供たちが歓声を上げた。蛇口から清水が流れ出るのを見て、大人たちも安堵の息をついた。


 水。当たり前のもの。だが当たり前のものが失われた時、人は初めてその価値を知る。


 前世でも同じだった。東京のアパートで水道が止まった夜、コンビニで二リットルの水を買って帰った。蛇口を捻れば水が出るという日常が、いかに脆いものだったか。


 この世界でも同じだ。革命が壊したもの、戦争が壊したもの。それを一つずつ直していく。派手な仕事ではない。英雄の仕事ではない。だが誰かがやらなければ、明日の朝の水がない。


 配水管の修理を終えて、広場に向かった。


 途中で、隔離区から出てきた老婆に呼び止められた。


「あなたが——紅の黎明の息子?」


「ええ」


「ありがとう。壁を壊してくれて」


「壁を壊したのは、たくさんの人間です。俺一人じゃない」


 老婆は首を振った。


「知っていますよ。でも、最初に声を上げたのはあなたでしょう」


 最初に声を上げた。それは事実だ。だが声を上げただけだ。壁を壊したのは、声に応えた人間たちだ。


「これからも——声を上げ続けてくださいね」


「はい」


 老婆は頷いて、ゆっくりと去っていった。背が曲がり、足が遅い。だが確かに、壁の外を歩いている。


 それだけで十分だ。


          ◇


 夕方、合議が終わった後、俺は一人で下宿に戻った。


 二部屋の狭い部屋。机と椅子と寝台。窓から革命広場が見える。


 机の上に、母の日記が置いてある。革の表紙は汚れ、ヴェルナーとの戦闘で染みた血が黒く変色している。


 日記を開いた。最後のページ。何度も読んだ一節。


『ルッツ。この日記を読む頃、あなたは何を見ているだろう。もしこの国が私の望んだものでなかったら――』


 途切れた文。母が最後まで書けなかった言葉。


 俺はペンを取った。


 母の字の続きに、自分の字を書くのは畏れ多い。だが書かなければならないと思った。


 日記の最後のページの余白に、一行だけ書き加えた。


『壊して、作り直した。まだ途中だけど。 ルッツ』


 ペンを置いた。


 窓の外で、夕日が沈んでいく。赤い光が広場を染めている。明日になれば、また朝が来る。


 日記を閉じて、寝台に横になった。


 目を閉じると、前世の記憶が浮かんだ。コンビニのバックヤード。リノリウムの床。冷たい蛍光灯の光。


 あの時、俺は「何者にもなれなかった」と思って死んだ。


 今の俺は、何者になったのだろう。


 英雄ではない。指導者でもない。権限のない監察官。配水管を直して、合議で発言して、配給の列に並ぶ。前世のフリーターと、やっていることの本質はさほど変わらない。


 だが違うことが一つある。


 前世では、誰も俺を見なかった。


 今は、見てくれる人がいる。レナがいる。エミルがいる。フランツがいる。カスパーがいる。仲間たちがいる。


 見てくれる人がいるということは、俺がここにいることに意味があるということだ。


 それだけで——たぶん、一度目の人生よりはましだ。


 前世のコンビニの床は冷たかった。今の寝台は、温かくはないが、冷たくもない。


 窓の外から風の音が聞こえる。広場の向こうで、誰かが笑っている。配給の残りを分け合っているのかもしれない。


 俺は二度目の人生で、二度目の夜明けを迎えた。


 一度目よりマシかどうか、それはこれから俺たちが決める。


 目を閉じた。


 明日の朝が来る前に、少し眠ろう。


 やることは、まだたくさんある。

ここまで見ていただきありがとうございました。

初めての投稿でしたが最後まで走り切れてよかったです。

次の作品の準備もしているのでそちらも始まったら読んでいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ