もう一つの魔法
ルッツ10歳。国民学校で魔法基礎教育が始まります。
魔法の授業が始まったのは、十歳の春だった。
国民学校の高等課程。初年度の最大の目玉が、魔法基礎教育だ。教室ではなく校庭に集められた生徒たちの顔は、誰もが興奮に紅潮していた。
前世の記憶を持つ俺にとっても、魔法は未知の領域だった。この世界に生まれて十年、魔法という現象は見てきたが、自分で使ったことはない。書物で理論は学んだが、理論と実践は別物だ。
正直に言えば、少し楽しみだった。
「いいか、お前たち」
教官は退役軍人の中年男だった。右頬に深い傷跡がある。革命戦争を生き延びた世代だ。
「魔法とは、大気中の魔素を体内に取り込み、意志と術式で変換・放出する技術だ。才能の差はあるが、理論上はすべての人間が使える。これが我が共和国の根幹であり、革命の大義そのものだ」
全員に使える。だから貴族の独占は不当だった。何度も聞いた建前だ。
「基礎から教える。まずは魔力の感知だ。目を閉じろ。呼吸を整えろ。体の中心に意識を集めろ」
教官の指示に従い、目を閉じた。
呼吸を整える。体の中心。腹の奥、みぞおちの少し下。
最初は何も感じなかった。
だが数分後、微かな温もりがあった。冬の日に日向に出た瞬間のような、ほのかな熱。それが腹の奥にある。
「感じたか? それが魔力だ。お前たちの中に生まれた時から存在する力だ」
教室のあちこちから「感じた」「温かい」と声が上がる。
「次だ。その魔力を手に集めろ。腹から胸を通って、腕を通って、掌に流す。川を思い浮かべろ。源流から河口へ、上から下へ」
俺は掌に意識を集中した。
腹の温もりが、ゆっくりと胸に上がり、肩を通り、腕を下る。指先に達したとき、かすかな光が掌に灯った。
薄い、橙色の光。蝋燭の炎よりも頼りない。
周囲を見た。エミルの掌には、俺よりも強い光が灯っている。赤みが強く、揺らめきも大きい。他の生徒たちにも個人差があるが、エミルは明らかに上位だ。
俺は、平均だった。突出した才能はない。魔力量も、感知速度も、制御の精度も、すべてが真ん中あたり。
「ルッツ、お前もうできたのか。さすがだな」
エミルが隣で笑った。さすがではない。平均だ。だがエミルは友人の成功を自分のことのように喜ぶ人間だ。
「次は基礎術式だ。火弾。魔力を圧縮して、前方に放出する。最も単純な攻撃魔法だ」
教官が手本を見せた。
掌を前に突き出し、短い詠唱。「火弾」。
圧縮された魔力が赤い球となり、前方に射出された。的にした木板に当たり、焦げ跡を残す。
速い。力強い。大雑把だが、即座に戦力になる実戦的な技術。これが新式魔法。革命の中で生まれた、平民の魔法だ。
生徒たちが順番に試す。成功する者、失敗する者、暴発させる者。エミルは三回目で的に当てた。やはり才能がある。
俺は五回目でようやく的に当てた。威力はクラスの中でも低い方だ。
悔しいかと問われれば、そうでもない。前世の俺は何の才能もなかったのだから、魔法が使えるだけでも十分だ。
ただ、少し物足りなかった。
火弾を放つとき、魔力の大半が拡散しているのが分かる。掌から放出した瞬間、制御を離れて散ってしまう。的に届く頃には、最初の半分以下の魔力しか残っていない。
これは、こういうものなのだろうか。
◇
壁の近くでレナに会うようになって、二年が経っていた。
月に数回、レナは壁の下の穴から出てくる。俺は東区画の裏路地で待つ。誰にも見られない場所で、一時間ほど話をして別れる。
最初の頃、レナは警戒を解かなかった。何度目かの逢瀬で、ようやく「変なやつ」から「まあ、話せるやつ」に格上げされた。
レナは頭がいい。隔離区の中で祖母から読み書きと歴史を教わっていて、知識の幅は国民学校の生徒よりも広い。ただし知識の内容が違う。俺たちが「革命の正義」を学ぶ間、レナは「革命以前の歴史」を学んでいる。同じ時代を、反対側から見ている。
魔法の授業が始まったことを話すと、レナの表情が微かに変わった。
「新式魔法」
静かな声だった。
「力任せに魔力を圧縮して撃ち出す方法でしょう」
「知ってるのか?」
「祖母から聞いた。革命軍が使っていた魔法。荒削りだけど、短期間で習得できる。だから平民でもすぐに戦力になれた」
レナは壁に背を預けて、空を見上げた。
「もう一つの魔法があるの」
「もう一つ?」
「見せた方が早い」
レナが右手を持ち上げた。
掌を上に向け、目を閉じる。
変化は、すぐには起こらなかった。十秒、二十秒。何も起きない。授業で見た新式魔法のような速さはない。
だが三十秒ほど経った時、掌の上に光が現れた。
橙色ではない。淡い青白い光。揺らめきがなく、静かで、安定している。光は少しずつ形を変え、小さな蝶の姿になった。
蝶は掌の上で羽ばたいた。
光でできた蝶が、音もなく飛ぶ。俺の周りをひとまわりして、レナの掌に戻り、溶けるように消えた。
声が出なかった。
授業で見た火弾とは、まったく違う。あちらは力で殴りつけるような魔法だった。これは、繊細な細工物を組み立てるような魔法だ。
「旧式魔法」
レナが言った。
「少ない魔力を精密に制御して、複雑な術式を組み上げる。新式のように速くはないし、派手でもない。でも、効率がいい」
「効率?」
「今の蝶、使った魔力はたぶん火弾一発の十分の一以下。少ない魔力で複雑なことができる。それが旧式の考え方」
俺は腕を組んだ。前世の記憶が、一つの比喩を呼び起こす。
新式は大型トラックだ。大量の燃料を使って、重い荷物を一気に運ぶ。旧式は精密機械だ。少ない電力で、複雑な作業をこなす。
どちらが優れているとかじゃない。設計思想が根本から違う。
「すごいな」
「すごくなんかない。こんなもの、実戦では何の役にも立たない。蝶を飛ばしたところで、敵は倒せない」
レナの声は平坦だった。
「祖母に教わったの。もう使う機会もないけど。隔離区では魔法の使用は禁止されているし、外に出ても旧式魔法を使えば正体がばれる」
「教えてくれないか」
言葉が口をついて出た。考えるより先に。
レナが目を丸くした。この二年間で初めて見る表情だった。
「なんで」
「さっき見てて思った。新式魔法は魔力の大半を無駄にしてる。撃った瞬間に拡散して、届く頃には半分以下になってる。旧式の制御術を知ってたら、その無駄を減らせるんじゃないか」
レナは数秒、俺を見つめた。
「新式と旧式は別物よ。混ぜて使うものじゃない」
「混ぜちゃいけない理由はあるのか?」
「……誰もやったことがない、ってだけ」
「じゃあ、やってみる価値はある」
レナは黙った。
壁の向こうから風が吹いてきた。秋の、少し冷たい風だ。
「教えてもいいけど」
レナは壁に寄りかかったまま、視線を逸らして言った。
「一つ条件がある」
「何だ?」
「同情でやるなら断る。『可哀想な隔離区の子に教わってあげる』なんて態度を取ったら、二度と会わない」
「同情じゃない。俺が教わりたいから教わるんだ。対等な取引だろ」
レナの唇が動いた。今度こそ、笑った。小さく、ほんの一瞬だけ。
「変なやつ」
二年前と同じ言葉だ。だが声の温度が、少しだけ変わっていた。
「じゃあ明後日、ここで。日が沈む前に来て」
「分かった」
レナは壁の穴に向かって歩き出した。
「ルッツ」
振り返らずに言った。
「旧式魔法は、簡単じゃないから。新式みたいに力任せにはいかない。覚悟しておいて」
「了解」
レナの銀色の髪が壁の陰に消えた。
俺は一人、裏路地に立っていた。
掌を見下ろす。さっき授業で灯した、頼りない橙色の光を思い出す。そしてレナの掌の上で羽ばたいた、青白い蝶を思い出す。
二つの魔法。二つの思想。二つの世界。
前世の俺は、どちらか一つしか選べない人間だった。一つの仕事をこなすので精一杯で、別の可能性を考える余裕がなかった。
でもこの人生では、両方に手を伸ばしてみてもいいのかもしれない。
足りない才能を、工夫で埋める。
それは前世のフリーター生活で、唯一身につけたことだった。




