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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

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59/60

その後

ルッツ20歳。戦いが終わった世界で、清算と再建が始まる。だが、すべてが片づいたわけではない。

戦いが終わって、三日が経った。


 三日。たった三日で、世界は動き出す。昨日まで殺し合っていた人間が、今日は同じ配給の列に並んでいる。体制軍の兵士がパンを受け取り、その隣で隔離区の老人がスープを啜っている。互いに目を合わせない。だが、互いを殺そうともしない。


 それだけで、とりあえずは十分だった。


 俺は革命広場の隅に腰を下ろし、配給の列を眺めていた。左腕の包帯が汗で湿っている。ディートリヒの焔織(フラム)で焼かれた傷は、レナの暁謡(モルゲン)でなんとか塞がったが、完治には程遠い。肋骨も二本折れたままだ。深く息を吸うと、体の奥で骨が軋む。


 配給を仕切っているのは、テレーゼだった。十七歳の少女が、体制軍の元兵站将校と並んで食料の計算をしている。将校は四十代の無愛想な男で、最初はテレーゼの指示を無視していたが、三時間ほどで折れた。テレーゼの事務処理能力が、将校のそれを上回っていたからだ。実力の前では、立場の違いなど紙切れに等しい。


 前世の記憶が重なった。コンビニでも同じだった。店長より在庫管理がうまいバイトがいて、結局そのバイトの方に皆が指示を仰ぐようになる。組織の肩書きは、現場の能力の前では驚くほど脆い。


 フランツが俺の隣に座った。右腕の布吊りはまだ外れていない。


「均等裁定院の建物が空になった」


「中にいた役人は」


「大半が逃げた。残った者は三十二人。うち十七人が自発的に文書の引き渡しに応じている。残りの十五人は沈黙を選んだ」


「拷問はするな」


「当然だ。誰もそんなことは提案していない。だが——」


 フランツが言葉を切った。


「隔離区の住民の一部が、裁定院の建物に押しかけている。復讐ではない。まだ、今のところは。だが感情が高ぶっている。十五年分の怒りだ」


「止められるか」


「カスパーが行っている。あいつは隔離区の出身だから、住民たちの言葉が通じる。だが限界はある」


 限界。


 すべてに限界がある。三日間で見えてきたのは、戦いが終わっても問題は終わらないという、当たり前すぎる事実だった。


 前世でも同じだ。大学を中退した日、俺は「これで楽になる」と思った。だが問題は何一つ解決していなかった。奨学金の返済は残り、就職先はなく、中退した理由も消えなかった。終わらせたと思ったものは、ただ形を変えて続いていただけだ。


 戦争もきっと同じだ。武器を置いた瞬間に、武器を置いた後の問題が始まる。


          ◇


 隔離区の壁は、戦闘の中で半ば崩れていた。


 壁の一部は体制軍の砲撃で破壊され、一部はディートリヒの嵐紡(ヴェーバー)で吹き飛ばされ、一部は住民たち自身の手で壊された。完全に撤去されたわけではない。北側の壁はまだ立っている。だが南側と西側に大きな穴が開き、人が自由に行き来している。


 壁が壊れた翌日から、隔離区の住民が外に出始めた。


 最初は恐る恐るだった。壁の隙間から顔を出し、外の空気を吸い、すぐに引き返す。十五年間、外に出れば捕まるという恐怖が体に染み付いている。許可されたからといって、すぐに歩き出せるものではない。


 だが子供たちは違った。壁の穴を駆け抜けて、広い通りを走り回った。生まれてから一度も見たことのない広場で、生まれてから一度も触れたことのない噴水の水に手を入れた。


 その光景を見て、大人たちも少しずつ外に出た。


 泣いている者がいた。壁の外に立って、空を見上げて、声もなく泣いていた。解放の涙ではない。奪われた十五年間の重みが、外の空を見た瞬間に体にのしかかったのだ。


 カスパーが、その老人の隣に立っていた。何も言わなかった。ただ一緒に空を見ていた。


          ◇


 四日目に、ヴェルナー・グラーンの裁判が行われた。


 裁判と呼んでいいのかどうか。正式な司法制度はまだ存在しない。均等裁定院が司法機能を兼ねていた旧体制は崩壊し、新しい法の枠組みはまだ誰も作っていない。


 だが、人々は裁きを求めていた。均等裁定院がやったことの責任を、誰かが取らなければならない。十五年間の隔離と選別と支配の責任を。


 ヴェルナーは自ら出廷を望んだ。


 拘束されている旧元勲会の庁舎の一室から、護衛もなく歩いて出てきた。鎖も手枷もない。逃げる気がないことは、その足取りを見れば分かった。背筋を伸ばし、灰色の髪を整え、五十代とは思えぬ堂々とした姿勢で広場の中央に立った。


 かつての均等裁定院長が、瓦礫の広場に立っている。三日前まで、この国の実権を握っていた男が。


 広場には三百人を超える人間が集まっていた。体制軍の元兵士、隔離区の住民、辺境から来た民、ルッツの第三勢力の若者たち。そして俺。


 裁判を仕切る者がいなかったので、フランツが暫定的にその役を引き受けた。フランツは感情で動かない。冷静で鋭い。裁判官に向いているかどうかはともかく、少なくとも私怨で判決を歪めることはしない。


「ヴェルナー・グラーン。お前に問う。均等裁定院の院長として行った施策——忠誠に基づく教育配分、旧貴族隔離政策、黎明作戦の立案——これらについて、弁明はあるか」


 フランツの声は広場に響いた。静かだが、よく通る声だった。


 ヴェルナーは一瞬、目を閉じた。


 そして開いた。


「弁明はない」


 広場がざわめいた。


「均等裁定院が行ったことは、すべて私の判断だ。忠誠による教育の選別は私が設計した。旧貴族の隔離政策は私が推進した。黎明作戦は私が立案した。責任は私にある」


 ヴェルナーの声は落ち着いていた。震えも逡巡もない。罪を認める言葉が、事実の報告のように淡々と発せられた。


 隔離区の住民の一人が叫んだ。


「十五年だぞ! 十五年間、壁の中に閉じ込められた! 子供たちは外を知らずに育った! それだけか! 『責任は私にある』で済むのか!」


 ヴェルナーはその男を見た。


「済むとは思っていない」


 それだけだった。弁解も謝罪の言葉もなかった。


 沈黙が広場を覆った。怒りの声を上げようとした者たちも、ヴェルナーの態度に面食らったように黙った。言い訳をする相手には怒れるが、すべてを認める相手にどう怒っていいか、人は案外分からないものだ。


 ヴェルナーが再び口を開いた。


「だが——一つだけ、言わせてほしい」


 フランツが頷いた。


 ヴェルナーの目が、一瞬だけ遠くを見た。革命記念碑の方角。崩れた石板が転がっている場所。母の名が刻まれた、あの碑文の方角を。


「ヒルデの理想は正しかった」


 声が、わずかに揺れた。この男が見せた、初めての動揺だった。


「すべての人間が等しく学び、等しく生きられる世界。その理想は正しかった。私はそれを信じて革命を戦った。ヒルデと共に」


 俺の胸が痛んだ。肋骨の痛みではない。もっと深い場所が。


「だが、革命が終わった後——私はその理想を守るために、理想そのものを裏切った。統制は必要だと信じた。秩序がなければ理想は実現できないと。その判断が、この十五年間の過ちのすべての出発点だ」


 ヴェルナーの背筋は、まだまっすぐだった。


「ヒルデは死の前に私に言った。『統制する者が決まった時点で、均等は死ぬ』と。私はその言葉を退けた。ヒルデが正しかった。私が間違っていた」


 広場の空気が変わった。怒りでもなく、赦しでもなく、もっと複雑な何かが漂っていた。


 前世で見たニュースを思い出した。犯罪者が法廷で泣きながら謝罪する映像。あれは見ていて気持ちのいいものではなかった。謝罪が「許されるための手段」に見えたからだ。ヴェルナーの態度はそれとは違った。許されようとしていない。ただ事実を述べ、一つだけ——母の理想が正しかったことだけを、最後に言い残そうとしていた。


 フランツが判決を言い渡した。


「ヴェルナー・グラーン。お前は投獄される。期間は、新たな法体系が整備されるまで暫定的に拘束とする。正式な量刑は、正式な司法制度のもとで決定される」


 ヴェルナーは頷いた。抵抗も不満もなかった。


 護送される時、ヴェルナーが俺の前を通った。


 足を止めた。


 灰色の目が、俺を見た。


「ルッツ」


「……ああ」


「お前の母は——最後まで、折れなかった。私はいつの間にか折れていた。折れたことにすら気づかなかった。それが最も愚かだった」


 俺は何と答えるべきか、分からなかった。


 この男を憎みきることができなかった。十五年間の過ちを犯した男。だがその出発点には、母と同じ理想があった。善意から始まった腐敗ほど、根が深いものはない。


「……母さんの言葉は、届いた」


 それだけ言った。許したわけではない。だが、届いたことは伝えるべきだと思った。


 ヴェルナーは微かに唇を動かした。笑みとは呼べない、けれど何かの感情を押し殺した表情だった。


 そのまま護送されていった。


          ◇


 ディートリヒの処分が決まったのは、その翌日だった。


 国外追放。


 死刑を求める声もあった。反革命の蜂起で多くの死者が出た。その責任は重い。だが俺は死刑に反対した。


「殺せば終わりだ。だが殺した後、『正義のために殺した』という前例が残る。それは次の権力者にとって、都合のいい道具になる」


 フランツは反対しなかった。カスパーは不満そうだったが、黙って頷いた。


 ディートリヒは最後まで、あの灰色の外套を纏っていた。汚れ、破れ、焼け焦げた外套。だが脱ごうとしなかった。それが旧貴族としての最後の矜持なのか、あるいはただの頑固なのか。


 国境まで護送される前、ディートリヒが俺の前に立った。


 手首には拘束の鎖が巻かれていたが、背筋は折れていなかった。あの廃墟で戦った時と同じ、崩れぬ姿勢。


「甘い男だ、ルッツ・エーベルハルト」


 同じ言葉だった。初めて会った時と、最後の戦いと、そして今。三度同じ言葉を聞いた。


「殺さず、追放か。その甘さがこの国を滅ぼすぞ」


「かもしれない」


「かもしれない、では済まん。いずれまた、旧い血が立ち上がる。我々の怒りは消えない。壁に閉じ込められた記憶は消えない。お前が作る新しい体制が腐敗すれば——そしていつか必ず腐敗する——その時、我々は戻ってくる」


「その時はまた止める」


「お前がいなければどうする」


「俺がいなくても止められる仕組みを作る」


 ディートリヒの灰色の目が、一瞬だけ何かを映した。嘲笑ではない。侮蔑でもない。


 もしかすると、僅かな期待だったのかもしれない。


 だが、それを確かめる前に、ディートリヒは背を向けた。


「覚えておけ。仕組みは人が作る。人は腐る。ならば仕組みも腐る。お前の夜明けなど、いずれまた薄明に堕ちる」


 外套の裾を引きずりながら、護送の列に加わった。


 その背中は、敗者のそれではなかった。信念を曲げなかった男の背中だった。正しくない信念を、最後まで曲げなかった男の。


          ◇


 五日目。


 首都の南門に、一人の老人が現れた。


 粗末な麻の上着。日に焼けた肌。白い髪を無造作に束ねた、背の高い老人。大きな革の鞄を一つだけ担いでいる。


 門番の若い兵士が呼び止めた。


「お名前と、ご用件を」


「マグヌス・シュタイン。やっと、山を降りてくる理由ができた」


 門番が固まった。マグヌス・シュタイン。革命の将軍。旧貴族出身でありながら革命に参加し、革命後の腐敗を見て山に隠棲した伝説の男。大陸最強とも噂される魔法使い。


 報せはすぐに広場に届いた。


 俺が走って門に向かった時、マグヌスはもう中に入っていた。周囲の人間が遠巻きに見ている。伝説の名前を知る古参の兵士たちが、信じられないという顔で立ち尽くしていた。


 マグヌスは俺を見つけると、しわだらけの顔でにやりと笑った。


「生きていたか」


「死なないって言ったでしょう」


「言ったな。嘘つきかと思っていた」


「嘘はつきませんよ」


「嘘をつかない人間は信用できん。だが——」


 マグヌスは広場を見回した。配給の列に並ぶ人々。壁の穴を通って外に出てきた隔離区の住民たち。体制軍の元兵士と辺境の民が同じベンチに座っている光景。


「まあ、悪くはない。悪くはないが——まだまだだな」


「分かっています」


「分かっているなら、なぜ座っている。やることは山ほどあるぞ」


 師匠の言葉は相変わらず容赦がなかった。だが声の奥に、確かな温もりがあった。山を降りてきたのだ。この老人を動かすだけの何かが、この広場にはあるということだ。


 エミルが近づいてきた。


 共和国軍の軍服を脱ぎ、一般市民の服を着ていた。右肩には体制軍の識別章を外した跡が白く残っている。


「マグヌス・シュタイン……本物か」


「知らん。偽物かもしれん」


 マグヌスが真顔で答えた。エミルが面食らった顔をした。


「冗談だ。本物だよ、若いの」


「は、はあ……」


 エミルが俺の方を見た。


「こんな人が師匠だったのか」


「ああ。辺境の山で鍛えてもらった」


「道理で、お前の魔法が読めなかったわけだ」


 エミルの口調は軽かった。だが目の奥に、まだ落ち着かない色がある。三日前まで信じていた体制が崩壊し、戦う相手だった俺の隣にいる。その位置関係を、まだ体が受け入れきれていない。


「エミル。お前、これからどうする」


「……分からない。軍はもうない。いや、あるんだろうけど、俺が信じてた軍はもうない」


「一緒にやらないか」


 エミルは答えなかった。しばらく黙って、配給の列を眺めていた。


「……俺は、お前を殺そうとした。体制の命令で」


「知ってる」


「それで一緒にやれるのか」


「やれるかどうかは、やってみないと分からない。だが、やる前から駄目だと決める理由はない」


 前世なら、こんなことは言えなかった。裏切られた相手と、もう一度組むなんて。バイト先で俺のシフトを勝手に減らした同僚に、二度と口を利かなかった。三十一年間、俺はそうやって人を切り捨ててきた。


 だが今は違う。切り捨てた先に何もないことを、俺はもう知っている。


 エミルが鼻を啜った。泣いているのかと思ったが、違った。笑っていた。不器用に、情けなく。


「お前、昔からそうだったな。甘くて、馬鹿で」


「ディートリヒにも甘いって言われた」


「あの男と同じ評価か。それは嫌だな」


「だろ」


 エミルが手を伸ばした。右手。握手ではない。拳だった。


 俺も拳を出した。軽くぶつけた。固い音がした。


 子供の頃、訓練所に入る前にやった仕草だった。十四歳の夏に。あの時はまだ、すべてが単純で、俺たちはただの友達だった。


 マグヌスがその様子を見て、何も言わずに鞄を肩に掛け直した。


「飯はどこだ。腹が減った」


「配給の列に並んでください」


「将軍に列に並べと言うのか」


「元将軍です。今は一般市民です」


 マグヌスが眉を上げた。そしてゆっくりと、列の最後尾に向かって歩いていった。


 その背中を見て、隣にいたレナが小さく笑った。


「面白い人ね」


「面白いだけじゃない。強いし、賢い。あの人がいれば——」


「あの人に頼ったら、同じことの繰り返しよ」


 レナの言葉は鋭かった。


 その通りだ。マグヌスの力に頼って国を立て直せば、マグヌスがいなくなった時に崩壊する。ヴェルナーの時と同じ構造だ。


「分かってる。だが知恵は借りる。力には頼らない」


「その区別が守れるなら」


「守れなかったら、お前が止めてくれ」


 レナの紫の瞳が俺を見た。


「止めるわよ。本気で」


「知ってる」


          ◇


 一週間が過ぎた頃、隣国ヴェルトハーフェンから使者が来た。


 黎明作戦(れいめいさくせん)は中止された。ヴェルナーの失脚と体制の崩壊によって、侵攻計画は実行されずに終わった。だがヴェルトハーフェン側の記憶は消えない。国境に大軍を集結させ、侵略の準備を進めていたという事実は、外交文書に刻まれている。


 使者の要求は三つ。


 一つ、黎明作戦の全文書の開示。二つ、責任者の処罰の確認。三つ、国境地帯からの軍の完全撤退。


 どれも当然の要求だった。だが「当然の要求」を受け入れることが、国内でどう受け止められるかは別の問題だ。


「隣国に頭を下げるのか」


 元体制軍の兵士の一人が不満を漏らした。


「頭を下げるんじゃない。嘘をやめるだけだ」


 フランツが冷たく切り返した。


 隣国との信頼回復には時間がかかる。ヴェルトハーフェンは今もモルゲンタール共和国を警戒している。侵攻計画が中止されただけで、国境の騎士魔導団は配置を解いていない。


 一つ間違えば、今度は向こうが攻めてくる可能性すらある。


 マグヌスが言った。


「外の問題と中の問題は、同時には片付かん。だが外を放置すれば中も崩れる。外を優先すれば中が荒れる。どちらを先にやるかではなく、両方を同時に少しずつ進めるしかない」


「それが一番難しい」


「だから俺が降りてきた」


 マグヌスの目は、配給の列に並んでいた時の飄々とした目ではなかった。七十年の人生で幾度も修羅場を潜った、老練な将軍の目だった。


「ルッツ。お前は外交は苦手だろう」


「得意ではないです」


「正直でよろしい。外交は俺がやる。旧貴族の出身で、革命の将軍でもあった人間は、ヴェルトハーフェンの王室に対してそれなりの信用がある。使えるものは使え」


「さっき力には頼らないと言ったばかりなのに」


「力じゃない。顔だ。顔を貸すだけだ。決定権はお前たちが持て」


 マグヌスが念を押すように言った。


「俺を便利に使え。だが俺に頼るな。この違いが分からなくなったら、お前はヴェルナーになるぞ」


 重い言葉だった。


          ◇


 十日目の夜、俺は一人で革命記念碑の前に座っていた。


 碑文の金文字はひび割れたままだ。母の名が刻まれた石板は、誰かが元の位置に戻していた。砕けた碑の台座に据え直されている。だが碑文の一部が欠けていて、「均等なる未来の礎」という文字は「未来(・・)(いしずえ)」としか読めなくなっていた。


 未来の礎。


 それだけで十分かもしれない。均等でなくても。


 ヘルミーネが歩いてきた。レナの祖母。元公爵夫人。八十近い体を杖で支えながら、ゆっくりと。


「座っていいかしら」


「どうぞ」


 ヘルミーネが俺の隣に腰を下ろした。老いた体が、石のベンチにゆっくりと沈む。


「裁判を見ました。ヴェルナーの」


「はい」


「あの男は——嫌いではなかったのよ。革命の頃は」


 意外な言葉だった。


「ヴェルナーと面識が」


「ありましたとも。革命の初期、降伏した貴族の処遇を決める会議があったの。ヴェルナーは処刑に反対した。『罪を犯した者は裁くが、血で裁いてはならない』と。あの頃の彼は——ヒルデに近い理想を持っていたわ」


 ヘルミーネの声は穏やかだった。十五年間壁の中に閉じ込めた男への、不思議な温情だった。


「いつから変わったんでしょう」


「変わったのではないのよ。変わらなかったの。『秩序が必要だ』という信念が変わらなかった。世界が変わっても、人が変わっても、自分の信念だけが変わらなかった。それが腐敗の正体よ。信念を疑わなくなった時に、人は腐る」


 重い言葉だった。


 俺は自分の信念を疑い続けられるだろうか。第三の道が正しいと信じるこの気持ちが、いつか凝り固まって、ヴェルナーと同じ轍を踏まないと——誰が保証する。


「ヘルミーネさん」


「何かしら」


「俺が間違い始めたら——教えてくれますか」


 ヘルミーネが俺を見た。老いた紫の瞳——レナと同じ色の目が、微かに笑った。


「教えるまでもないでしょう。レナがいるのだから」


 そうだった。レナは遠慮なく俺を止めると言った。


 俺がヴェルナーにならないための仕組みは、法や制度だけじゃない。遠慮なく「お前は間違っている」と言ってくれる人間が傍にいること。それも一つの仕組みだ。


 碑の前で、夜風が吹いた。焦げ臭い匂いはだいぶ薄れていた。代わりに、どこかから花の匂いが混じっている。瓦礫の隙間から、何かの草が芽を出しているのかもしれない。


 すべてが解決したわけではない。旧貴族と革命派の感情の溝は深い。隣国との関係は緊張したままだ。新しい法も制度もまだ形になっていない。


 だが十日前、この広場にいた人間は殺し合っていた。今は同じ列に並んでパンを食べている。


 その差は小さい。だが、ゼロではない。


 ゼロでないものは、積み上げていける。


 それだけを信じて、明日も動く。

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