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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: Studio Flint
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

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ヴェルナーとの対峙

ルッツ19歳。侵攻軍を率いるヴェルナー・グラーンの前に立つ。母の戦友にして、母の革命を歪めた男との最終対決。

国境に向かう街道は、一本だった。


 エルステモルゲンの西門を出て、丘陵地帯を抜け、森を越えた先にヴェルトハーフェン王国との国境がある。黎明作戦の侵攻軍は、その街道を進軍していた。


 俺たちがその行軍に追いついたのは、日が替わった頃だった。


 エミルの部隊の馬を借りた。レナ、フランツ、カスパー、エミル、そして俺。五人だけ。鉄鷲の部隊は副官に預けた。エミルは「俺個人の判断で動く。部隊を巻き込むわけにはいかない」と言った。


 馬上で体が軋む。ディートリヒ戦とエミル戦の傷がまだ塞がっていない。レナが馬を並べて走りながら、時折こちらを窺った。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないが、止まるわけにもいかない」


「せめて暁謡(モルゲン)で治療を——」


「魔力が足りない。今ある分は全部、ヴェルナーとの戦いに取っておく」


 レナが唇を引き結んだ。言いたいことはあるだろう。だが言わなかった。


 フランツが横に馬を寄せた。


「ルッツ。ヴェルナーの戦闘力について整理しておく。いいか」


「頼む」


「ヴェルナー・グラーンは革命戦争の古参。ヒルデ、カール総帥と並ぶ最前線の指揮官だった。旧貴族の精鋭を何人も打ち倒した実戦の猛者だ。純粋な魔力量ではルッツより上。実戦経験は比較にならない。新式魔法(ノイエ)の正統派だが、三十年以上の研鑽で完成の域に達している」


「つまり、正面からやったら勝てない」


「勝てない。万全でも厳しい。今のお前では——率直に言って、十に一つの勝ち目もない」


「知ってる」


「知ってて行く気か」


「行かなきゃ侵攻は止まらない」


 フランツが黙った。数秒の沈黙の後、短く言った。


「なら、勝つ以外の方法を考えろ」


 それは参謀としての最後の助言だった。


          ◇


 侵攻軍の後方に追いついた時、月が中天にあった。


 街道の両側に広がる丘陵に、天幕が並んでいる。数百の松明が夜を照らし、兵士たちの影が蠢いていた。侵攻軍の規模は少なくとも三千。対してこちらは五人。


 数で挑む戦いではない。


 頭を一つ、止めればいい。


「本陣はどこだ」


 エミルが馬上から軍の陣形を読み取った。


「中央後方。丘の上。あの大きな天幕だ。ヴェルナーは常に本陣から動かない。指揮を俯瞰するタイプだからな」


「護衛は」


「直衛の精鋭が二十名。だが侵攻軍の行軍中は半数が巡回に出ている。本陣の護衛は十名程度のはずだ」


 フランツが地形を見回した。


「丘の東斜面に死角がある。松明の配置に隙間がある。あそこから登れる」


「十名の護衛をどうする」


「俺とエミルとカスパーで引きつける」


 フランツの声は淡々としていた。


「三人で十人を抑えるのか」


「抑えるんじゃない。注意を逸らすだけだ。ルッツがヴェルナーと対峙する時間を作る」


 カスパーが拳を握った。


「任せろ。壁の中で育った俺には、隠れて動くのが一番得意だ」


 レナが口を開いた。


「私も行く」


「レナは——」


「私がヴェルナーの前に出れば、旧貴族の人間が体制に直訴する形になる。ヴェルナーは私を無視できない。あの男のプライドが許さないから」


 レナの目に迷いはなかった。ディートリヒに囚われていた時の恐怖は、もう瞳の奥に仕舞い込まれている。


「……分かった。ただし、戦闘になったら下がれ」


「下がるかどうかは私が決める」


 反論を許さない声だった。


          ◇


 丘の東斜面を登った。


 月明かりを頼りに、草の中を匍匐する。全身の傷が石や草の茎に触れるたびに痛んだ。歯を食いしばって這い続けた。


 丘の頂上近くで、フランツが合図を出した。


 カスパーが闇の中に消えた。隔離区で培った、壁の隙間を抜ける技術がここで活きる。エミルとフランツが左右に分かれ、護衛の注意を引く準備に入った。


 待った。


 長い待ち時間だった。


 前世の記憶が浮かんだ。コンビニの夜勤。午前三時の店内。客が来ない時間帯は永遠に感じた。ただし、あの退屈な時間には命の危険がなかった。今は違う。


 遠くで微かな物音がした。カスパーが天幕の支柱に石を当てたのだろう。護衛兵の足音が移動する。


 同時にエミルが丘の反対側から火弾(かだん)を放った。夜空を赤い光が走り、護衛兵たちの注意が一斉にそちらに向いた。


 今だ。


 体を起こし、走った。脚が悲鳴を上げたが、迅駆(じんく)で無理やり加速した。残った魔力の大半が脚部強化に消えるのを感じた。


 天幕の入口に辿り着いた。


 布を裂いて中に飛び込んだ。


          ◇


 天幕の中は、思ったよりも質素だった。


 折りたたみ式の机に地図が広げられ、蝋燭が三本だけ灯されている。椅子が二脚。酒も食器もない。戦場の天幕にしては、寺院のように清潔だった。


 地図の前に、男が立っていた。


 ヴェルナー・グラーン。


 五十代前半。だが背筋は棒のように真っ直ぐで、白髪交じりの黒髪は短く整えられている。均等裁定院長の正装ではなく、革命戦争時代の古い軍服を着ていた。勲章の類は一つもない。ただ左胸に、褪せた赤い布の切れ端が縫い付けてあった。


 あれは——紅の黎明の旗の端切れだ。


 母の旗の。


 ヴェルナーは振り返らなかった。


「来たか」


 静かな声だった。驚きはない。俺が来ることを、予測していたのだ。


「侵攻を止めに来たのだろう、ルッツ」


「ああ」


「ディートリヒを倒したと聞いた。そしてエミルも動かなくなった。お前は二つの障害を排除して、ここに来た」


 ヴェルナーがゆっくりと振り返った。


 目を見て、息が詰まった。


 穏やかな目だった。裁定院でルッツに酒を注いだ時と同じ、教師のような穏やかさ。だがその奥に、十五年分の疲労と、十五年分の諦観と、十五年分の——何か別のものが堆積していた。


 この男の目を見ると、いつも分からなくなる。この穏やかさは本心なのか演技なのか。


 本心と演技の境界が溶けている。フランツはかつてそう評した。


「ヒルデの息子が、ヒルデの革命を壊しに来たか」


 ヴェルナーの声は責めるようでいて、どこか感慨深げでもあった。


「壊すんじゃない。あんたたちが歪めたものを、元に戻す」


「元に戻す、か。元とは何だ。革命直後の混乱か。数百年前の貴族支配か。どの『元』に戻すつもりだ」


「母さんが信じた理念に戻す」


「ヒルデの理念」


 ヴェルナーが微かに笑った。


 寂しそうな笑みだった。


「ヒルデの理念は、美しかった。すべての子供が等しく学べる世界。血統による差別のない社会。私もそれを信じていた。本気で信じていた」


「信じていた、過去形か」


「信じなくなったのではない。信じたまま、現実に負けたのだ」


 ヴェルナーが机の地図に目を落とした。


「理想だけでは国は守れん。私は十五年間、この国を守ってきた。外の脅威、内の不安。その両方に対処しながら、革命が残したものを維持してきた。お前にこの重さが分かるか」


「分かるかどうかは問題じゃない。あんたが守ったのは国じゃない」


 俺はヴェルナーの目を真っ直ぐに見た。


「あんたが守ったのは、あんたの椅子だ」


 空気が凍った。


 ヴェルナーの穏やかさが、紙のように薄い膜であることが一瞬だけ露呈した。その下にあったのは怒りではなかった。もっと深い、もっと暗い感情——図星を突かれた人間の、反射的な苦痛。


 だがすぐに、膜は修復された。


「椅子、か。そう見えるだろうな。外から見れば」


「外からも内からもそう見える。裁定院で三週間過ごして、あんたの論理を聞いて、あんたの仕組みを見て——俺は確信した。あんたは最初は正しかったのかもしれない。だが今は、正しさを盾にして権力にしがみついてるだけだ」


「断定するのは容易い。だが代案はあるのか」


 三年前と同じ問いだった。あの食事の席で、ヴェルナーに論理で詰められた時と同じ。


 だが今の俺には、あの時なかったものがある。


「ある」


「言ってみろ」


「裁定院を解体する。教育の配分を、忠誠度ではなく、地域ごとの需要と適性に基づいて再編する。隔離区を廃止し、旧貴族を市民として統合する。旧式と新式の魔法教育を統一カリキュラムに組み込む。——完璧じゃない。穴だらけだ。だがあんたの『必要悪の永続化』よりはましだ」


 ヴェルナーが目を細めた。


「旧貴族を解放すれば、復讐が起きるぞ」


「一部は起きるだろう。だがそれは統制を続ける理由にはならない。復讐を防ぐのは抑圧じゃなく、統合だ。壁で囲えば恨みが溜まる。壁を壊して共に暮らせば、時間はかかるが融和する」


「楽観論だ」


「現実論だ。あんたの統制は十五年で国を侵略戦争に向かわせた。俺の楽観論より、あんたの現実論の方がよほど危険だ」


 ヴェルナーは黙った。


 長い沈黙だった。


 蝋燭の炎が揺れた。天幕の外で、護衛兵たちの声がした。エミルたちが引きつけている時間は、もう長くないだろう。


「口だけなら何とでも言える」


 ヴェルナーの声が変わった。穏やかさが消え、代わりに冷たい決意が滲んでいた。


「お前がここに来た理由は分かっている。私を言葉で止められると思ったか」


「できればそうしたかった」


「できない。私は十五年間、この道を歩いてきた。今更、二十歳の若者の理想論で立ち止まれるほど——」


 ヴェルナーの右手が上がった。


 魔力が膨張した。


 天幕の布が内側から膨らみ、蝋燭の炎が横に吹き飛んだ。凄まじい圧。ディートリヒのそれとは質が違う。ディートリヒの魔力は精緻な鋭さだったが、ヴェルナーの魔力は地鳴りのような重さだ。三十年の実戦が磨いた、古木のような深さと硬さ。


「——私の人生は、軽くない」


 天幕が魔力の圧で裂けた。布が四方に飛び散り、月明かりが二人を照らした。丘の頂上に、俺とヴェルナーが剥き出しで立っている。


 下方で護衛兵たちが異変に気づいた声が聞こえた。だがヴェルナーが右手を振ると、彼らの動きが止まった。


「来るな。これは私が始末する」


 始末。


 その言葉に、覚悟の色があった。


          ◇


 最初の一撃で、俺は地面に叩きつけられた。


 何が起きたか分からなかった。


 ヴェルナーの火弾(かだん)は、エミルのそれとは次元が違った。単純な火球ではない。三十年の実戦経験が凝縮された、最小の魔力で最大の衝撃を生む、研ぎ澄まされた一撃。俺の鉄身(てっしん)を紙のように貫き、胸に直撃した。


 地面を転がり、丘の斜面で止まった。口の中が血の味で満ちた。肋骨が折れた感覚。呼吸が苦しい。


「立て。ヒルデの息子がその程度か」


 ヴェルナーの声が上から降ってきた。


 見上げると、ヴェルナーは丘の頂に立っていた。月を背にして、影のように見えた。


 立ち上がった。


 膝が震える。視界が揺れる。だが立った。


灰織(はいおり)——」


 右手から灰の煙幕を放った。だが、ヴェルナーの風刃(ふうじん)が煙幕を一瞬で切り裂いた。その風刃の精度は、新式のものとは思えないほど鋭かった。三十年の研鑽が、新式の術を旧式に匹敵する域にまで高めている。


「混成型、か。マグヌスに習ったのだな」


「ああ」


「あの男は革命を捨てた臆病者だ。その弟子が革命を救おうとするとは。皮肉だな」


 二撃目。


 連火弾(れんかだん)が三方向から飛んできた。一人の術者から放たれたとは思えない多角攻撃。ヴェルナーは位置を変えずに、手の動きだけで三つの弾道を制御している。


 迅駆(じんく)で横に跳んだ。二発を避けたが三発目が左脚に掠った。焼ける痛み。足が一瞬止まった。


 その隙に四撃目が来た。


 体の正面に、圧縮された空気の塊が叩き込まれた。崩地(ほうち)風刃(ふうじん)を組み合わせた衝撃波。地面ごと体を抉り、俺は五メートル吹き飛んだ。


 背中から落ちた。息が止まった。


 視界が暗くなりかけた。


 ——駄目だ。意識を保て。


 必死に目を開けた。


 ヴェルナーが歩いてきた。急がない足取り。追い詰める必要がないほど、力の差が明白だった。


「お前は強くなった。ディートリヒを倒すほどに。だが私はディートリヒとは違う。旧式の精緻さは持たないが、三十年の実戦がすべての術を磨き上げた。一つ一つの術の完成度では旧式に劣るかもしれん。だが実戦における総合力で、私に勝てる人間はこの大陸にほとんどいない」


 立ち上がった。


 三度目。


 ヴェルナーの火弾を、継火で受けようとした。だが体内の魔力回路が悲鳴を上げた。ディートリヒ戦で継火を酷使した反動が、まだ残っている。回収できたのは残滓の三割程度。


 それでも返した。


火弾(かだん)——」


 ヴェルナーの残滓で再構築した火弾が、放ち主に向かって飛んだ。


 ヴェルナーは片手で払った。文字通り、片手で。継火で再構築された火弾は、オリジナルの三割程度の威力しかない。ヴェルナーにとっては虫を払う程度の脅威でしかなかった。


「継火、か。聞いたことがない術だが——使い捨ての魔力を拾い集めて再構築するとは。旧式にも新式にもない発想だ。この世界の体系の外にある」


 この世界の体系の外。


 その言い方が、妙に引っかかった。


「驚くな。お前が転生者であることくらい、とうに調べはついている」


 心臓が止まりかけた。


 ヴェルナーの目が冷たく光った。


「均等裁定院は情報機関でもある。お前の言動の不自然さ。子供の頃から大人びた視点。年齢にそぐわない判断力。すべて記録に残っている。転生者の存在は、大陸の古い文献にいくつか記述がある。珍しいが、前例がないわけではない。お前がこの世界とは別の世界を知っている人間だということは、分かっている」


 俺の最大の秘密が、とうに暴かれていた。


「では聞こう。前世の記憶を持つ人間が、なぜこの国を変えようとする。前世で何も変えられなかった人間が」


 それは——痛い一撃だった。


 剣よりも魔法よりも、その言葉が深く刺さった。


「前世では何も成し遂げられなかっただろう。お前のその目を見れば分かる。満たされなかった人間の目だ。誰にも見られず、何者にもなれず、死んだ。違うか」


 コンビニ。倉庫。配達。ヴェルナーは前世の詳細を知らない。だが核心だけを正確に射抜いていた。午前三時のバックヤード。棚卸しの数字。雨の中の配達。あの灰色の日々が、一瞬で蘇った。


「……違わない」


「それが答えだ。お前は前世で何も変えられなかった。今世で変えられる保証がどこにある。お前の理想は、前世の後悔の裏返しに過ぎない」


 四度目の攻撃が来た。


 雷響(ドナー)。衝撃波が地面を抉り、俺の体を浮かせた。空中で受身を取れず、肩から落ちた。左肩の骨が嫌な音を立てた。


 地面に伏せたまま、咳き込んだ。血が混じっていた。


 ヴェルナーの足音が近づいてくる。


「ルッツ。お前の気持ちは分かる。ヒルデの息子として、母の理想を継ぎたい。だがお前には力が足りない。経験が足りない。何よりも——覚悟が足りない」


 見下ろされていた。


 月を背にしたヴェルナーの顔は影になって見えない。だが声は聞こえた。静かな、教師のような声。


「帰れ。今ならまだ間に合う。侵攻が終われば、この国は安定する。安定した後で、改革を進めればいい。時間をかけて、段階的に」


「段階的に、は十五年前にも聞いた台詞だ」


 地面に手をついた。


 立ち上がろうとした。腕が折れそうだ。体中が悲鳴を上げている。


 だが立った。


 何度でも立った。


「あんたの『段階的に』は、永遠に来ない。十五年間で分かった。あんたは改革を先延ばしにし続ける。外の脅威がなくなれば内の不安を理由にし、内の不安がなくなれば外の脅威を理由にする。必要悪は永遠に必要悪のままだ」


 ヴェルナーの目が、わずかに揺れた。


「それは——」


「あんた自身が言ったんだぞ。三年前に。『条件は永遠に満たされない。外の脅威が消える日は来ない。だから統制は続く』。あんたは自分で認めてたじゃないか。永遠に続く統制は、統制じゃなく支配だ」


 五度目の攻撃。


 だが今度は火弾ではなかった。


 ヴェルナーが一歩で間合いを詰め、拳を振るった。魔力で強化された拳が、俺の腹に突き刺さった。


 内臓が潰れるかと思った。


 膝が折れ、地面に崩れた。


 ヴェルナーが俺の襟首を掴み、引き起こした。顔と顔が三十センチの距離になった。


「黙れ」


 穏やかさが完全に消えていた。


「お前に何が分かる。十五年間、この国を維持するために何を犠牲にしたか。何人の人間を切り捨てたか。何度、自分の良心を殺したか。お前に——」


「母さんも殺したのか」


 ヴェルナーの手が、止まった。


          ◇


 沈黙が、丘の頂上を覆った。


 月明かりの中で、ヴェルナーの顔が凍りついていた。


「何を——」


「母さんは、最後の決戦の前にあんたと対立していた。統制路線を公に批判しようとしていた。そして決戦の時期が、不自然に早められた」


「……誰から聞いた」


「親父から。死ぬ前に」


 ヴェルナーの手が、俺の襟首から離れた。


 俺は地面に崩れ落ちたが、すぐに上体を起こした。


「証拠はない。あんたがヒルデを直接殺したわけじゃない。だが——決戦の時期を操作したのは事実だろう」


 ヴェルナーは答えなかった。


 だがその沈黙が、否定の不在が、答えだった。


「母さんはあんたの戦友だった。革命を一緒に戦った同志だった。あんたは母さんを尊敬していた。その母さんが、あんたの統制に反対し始めた時——あんたは何を思った」


「ルッツ」


「あんたは母さんを止めようとしたんだろう。言葉で説得できないと分かったから、行動で止めた。決戦を早めて、母さんが声を上げる前に戦場に送り込んだ」


「違う——」


「違うなら、否定しろ。真っ直ぐ俺の目を見て、『そんなことはしていない』と言え」


 ヴェルナーの目が、俺の目を見た。


 見つめ返した。


 十秒。二十秒。


 ヴェルナーの目が、逸れた。


 左胸に縫い付けた紅の黎明の旗の端切れに、視線が落ちた。


「ヒルデは」


 ヴェルナーの声が掠れていた。初めて聞く、弱い声だった。


「ヒルデは、正しかった。あの時も。今から思えば、ずっと正しかった」


「なら——」


「だが正しいだけでは国は回らん!」


 ヴェルナーの叫びが丘に反響した。下方の兵士たちが身を硬くしたのが見えた。


「ヒルデが正しいことは分かっていた! だが彼女の言う通りにすれば、革命は三年で崩壊していた! 旧貴族は武装蜂起し、革命兵士たちは暴徒と化し、この国は内戦で焼け野原になっていた! 統制しなければ——統制しなければ、何もかもが壊れる!」


「統制した結果が、これだ」


 俺は地面に座ったまま、ヴェルナーを見上げた。


「隔離区。裁定院。侵攻。あんたの統制が十五年かけて作り上げたものが、これだ。壊れないように押さえつけた結果、別のかたちで壊れた。あんたは国を維持したかもしれない。だがその国は、もう母さんが望んだものとは似ても似つかない」


 ヴェルナーの拳が震えていた。


「お前に——何が——」


「俺に分かることは少ない。あんたの言う通り、前世では何も変えられなかった。今世でも、たぶん完璧には変えられない。でも——」


 胸の内ポケットに手を伸ばした。日記を取り出した。革の表紙が血と泥で汚れているが、中身は無事だ。


 開いた。最後のページ。


 声に出して読んだ。


「『もしこの国が私の望んだものでなかったら——』」


 ヴェルナーの顔が、歪んだ。


 穏やかさも冷徹さも消え、ただの五十代の男の顔がそこにあった。疲れ切った、罪を知る男の顔。


「母さんは最後にそう書いた。あんたは、この言葉を知ってたはずだ」


「……知っていた」


「知ってて、十五年間、何もしなかった」


「何もしなかったのではない。出来なかったのだ」


「出来なかったのか。しなかったのか。あんたには、もうその区別がついてないだろう」


 ヴェルナーの膝が、微かに折れた。


 大地が揺れたのではない。この男の内側の支柱が、一本、折れたのだ。


 俺は続けた。


「あんたが三年前に言った言葉を覚えてる。『この世界で最も恐ろしいのは、悪意ではない。善意だ』。あんたは自分のことを言ってたんだ」


 ヴェルナーの目が、見開かれた。


「善意で革命を戦った。善意で統制を始めた。善意で隔離区を作った。善意で侵攻を計画した。全部、善意だ。あんたは一度も悪意を持たなかった。だからこそ——止まれなかった」


 ヴェルナーの拳が、ゆっくりと開いた。


 握りしめていた力が、少しずつ抜けていく。


「母さんが最後に書いた言葉の続きは、途切れている。でも俺は、その続きを知ってる気がするんだ」


「……何だ」


「『もしこの国が私の望んだものでなかったら——やり直してほしい。もう一度、夜明けからやり直してほしい』」


 それは俺の推測に過ぎない。母が本当にそう書くつもりだったかは分からない。


 だがヴェルナーの目から、何かが零れた。


 涙ではない。もっと重いもの。十五年間、封じ込めてきたものの蓋が、壊れた音がした。


「ヒルデ」


 ヴェルナーの声は、もう院長のものではなかった。


 五十代の男が、二十年前の戦友の名を呼ぶ、ただの声だった。


「……すまなかった」


 剣が地面に落ちた。


 エミルの時と同じ——金属が石を打つ硬い音。


 だがこの音は、エミルの時よりもずっと重かった。


 十五年分の重さだった。


          ◇


 ヴェルナーが膝をついた。


 大陸で最も強い男の一人が、丘の頂上で、月明かりの中で膝をついた。


 剣は地面に転がっている。魔力は放散し、あれほどの圧力が嘘のように消えていた。


 残ったのは、一人の老いた男だった。


 俺は地面に座ったまま、ヴェルナーを見ていた。立ち上がる力は残っていなかった。ヴェルナーの攻撃で体中がぼろぼろだ。肋骨が折れ、左肩が外れかけ、全身の打撲で息をするのも痛い。


 だが、生きている。


 勝ったのではない。


 ヴェルナーが自分で止まったのだ。


「ルッツ」


 ヴェルナーの声が、低く響いた。


「お前は……ヒルデに似ている」


「母さんみたいに強くはない」


「強さの話ではない。折れない芯の話だ。ヒルデもそうだった。何度倒されても立ち上がった。言葉を曲げなかった。正しいと信じることを、最後まで言い続けた」


 ヴェルナーが空を見上げた。月が西に傾き始めている。夜明けが近い。


「私はヒルデに負けたのだな。十五年前にも、今夜もまた」


「負けたんじゃない。思い出したんだ。あんたが最初に信じたものを」


 ヴェルナーが俺を見た。


 その目に、三年前の穏やかさはなかった。代わりにあったのは、もっと生々しいもの。痛みと、悔恨と、そしてかすかな——安堵。


 荷を下ろした人間の目だった。


「侵攻を止める」


 ヴェルナーが静かに言った。


「全軍に撤退命令を出す。黎明作戦は中止だ」


 俺は何も言わなかった。言葉が出なかった。


 体の力が抜けて、地面に仰向けに倒れた。


 空が見えた。星がまだ残っている。だが東の空が、ほんの微かに白み始めていた。


 夜明け前の空だ。


 一度目の夜明けではない。


 これから来る、二度目の夜明けの——前触れだ。


 丘の下から、レナの声が聞こえた。


「ルッツ!」


 フランツとカスパーが護衛兵を抑えたのだろう。レナが斜面を駆け上がってくる足音がした。


 エミルの声も聞こえた。「おい、生きてるか」


 生きている。


 ぼろぼろだが、生きている。


 目を閉じた。


 母さん。


 あんたの戦友は、やっと剣を降ろした。


 ここから先は——俺たちの仕事だ。

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