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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

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56/60

エミルとの再会

ルッツ19歳。ディートリヒ戦の直後、共和国軍の精鋭部隊が現れる。その先頭に立つのは、かつての親友。

ディートリヒの本陣を出た俺を待っていたのは、休息ではなかった。


 カスパーが肩を貸してくれなければ、廃墟の出口まで辿り着けなかったかもしれない。継火の反動で全身の魔力回路が焼けるように軋み、ディートリヒの焔織(フラム)に焼かれた左腕は感覚が半分消えている。右足を引きずりながら崩れた壁を越え、ようやく外の空気を吸った。


 レナが俺の右側を支えてくれた。手首の拘束痕がまだ赤い。それでも、支える側に回ろうとする。


「ルッツ、座りなさい。動ける状態じゃない」


「あと少しだけ——」


 言いかけた瞬間、空気が変わった。


 フランツの声が飛んだ。


「前方、百五十メートル。十名以上。——体制軍だ」


 廃墟の北側に広がる街道の向こうから、整然とした足音が近づいてくる。統制の取れた行軍。靴底が石畳を叩くリズムに、訓練された軍人特有の均質さがあった。


 カスパーが俺の肩から手を離し、腰の剣に手をかけた。ヨハンが周囲を警戒する。


 埃と薄煙の向こうに、軍服の列が見えた。共和国軍の濃紺の軍服。胸に鉄鷲の紋章を付けた精鋭部隊。


 先頭に立つ男の顔を見た瞬間、足が止まった。


 鋼色の髪を短く刈り上げ、火系統の使い手に特有の赤みがかった肌をしている。体格は俺より一回り大きい。腰の剣の柄に右手を添え、左手は部隊に停止を命じるように上げていた。


 エミル・リヒター。


 七歳の教室で「お前も一緒に遊ぼうぜ」と手を振ってくれた少年の面影は、もうどこにもなかった。


 いや——あった。目だ。あの真っ直ぐな目だけは変わっていない。ただし、その目が今は俺を敵として見ている。


「ルッツ・エーベルハルト」


 エミルの声が街道に響いた。硬い声だった。一年前の酒場で聞いた、あの掠れた声ではない。部隊を率いる指揮官の声だ。


「反革命勢力との共謀、均等裁定院への反逆、軍の帰還命令に対する不服従。以上の罪状により、お前を拘束する」


 背後で、カスパーの息を呑む音がした。


「エミル」


 俺は声を絞り出した。体が軋む。ディートリヒ戦の疲労が全身を錆びた鎖のように縛りつけている。


「久しぶりだな」


「……ああ」


 一瞬、エミルの声から硬さが剥がれた。だがすぐに戻った。


「抵抗するな。お前の仲間も含め、全員を拘束する。俺に投降すれば、少なくとも即時処刑は避けられる」


「投降はできない」


「ルッツ」


 エミルの目が細くなった。


「お前の状態は見れば分かる。ボロボロだ。ディートリヒとやり合ったんだろう。まともに立てていないじゃないか」


「それでも、投降はできない」


「なぜだ」


「今この瞬間も、ヴェルナーの侵攻軍が隣国に向けて進軍してるからだ。俺が捕まったら、それを止める人間がいなくなる」


 エミルの表情が一瞬だけ揺れた。


 だがすぐに、鉄のように引き締められた。


「それは軍の判断だ。お前が口を出すことじゃない」


「軍の判断が間違っていたら、誰が止めるんだ」


 沈黙。


 廃墟を抜ける風が、エミルの軍服の裾を揺らした。背後に並ぶ鉄鷲の兵士たちが、俺たちのやり取りを固い表情で見ている。


「お前を止めなきゃならない」


 エミルの声が低くなった。指揮官の声ではなかった。もっと個人的な、もっと重い声だった。


「裏切り者として」


 裏切り者。


 一年前の酒場で言いかけて、飲み込んだ言葉。あの時は言い切れなかったそれを、エミルは今、正面から口にした。


「お前が裏切り者と呼ぶなら、そうなんだろう」


 否定しなかった。否定する権利が俺にあるのかも分からない。


「でも聞いてくれ。あの侵攻は——」


「聞く必要はない」


 エミルの右手が剣の柄を握った。


「お前の言葉は聞いた。一年前に全部聞いた。お前の考えは分かってる。分かった上で、俺は止める」


 剣が鞘から抜かれた。


 銀色の刃が、廃墟の隙間から差し込む夕陽を受けて燃えた。


「来い、ルッツ。言葉で決着がつかないなら、こうするしかない」


          ◇


 レナが前に出ようとした。


「待って。ルッツはもう——」


「レナ」


 俺はレナの肩に手を置いて、止めた。


「これは、俺とエミルの話だ」


「話じゃないでしょう。剣を抜いてるわ」


「そうだな。でも、他の誰かが代わりにやっていい話でもない」


 レナの紫の瞳が揺れた。怒りではない。理解と、それでも許せないという感情が入り混じっている。


「……死んだら承知しないわよ」


「二回目だなその台詞」


 レナが俺から手を離した。下がりながら、エミルを睨んだ。エミルはレナを一瞥し、視線を俺に戻した。


 フランツが低い声で言った。


「ルッツ。魔力は残っているのか」


「少しだけ。継火の残滓がまだ体内にある」


「それで鉄鷲の精鋭と戦うつもりか」


「エミルは一人で来るよ。部隊に手を出させない」


 フランツが眉を上げた。


「何を根拠に」


「あいつを十一年知ってるからだ」


 エミルの方を見た。予想通り、エミルは背後の部隊に向かって右手を上げていた。


「手を出すな。これは俺がやる」


 部隊の副官らしき男が一歩前に出た。


「リヒター隊長、しかし——」


「命令だ。俺が負けたら好きにしろ。だがそれまでは誰も動くな」


 副官が口を閉じた。鉄鷲の兵士たちが微かに動揺しているのが見えた。だが命令には従った。


 エミルが、一人で前に出てきた。


 あの時と同じだ。模擬戦の時と。七歳の教室の時と。この男はいつも、一人で前に出てくる。


 俺は腰の剣を抜いた。


 刃が震えた。腕に力が入らない。ディートリヒ戦の疲労で、剣を握る指先が痺れている。


 だが立った。


 五メートルの距離を挟んで向かい合った。模擬戦の開始距離と同じだ。


 あの時は訓練場の整った地面だった。今は廃墟の瓦礫が散乱する街道の上。あの時は木剣だった。今は実剣。あの時は勝敗がすべてだった。今は——。


「エミル」


「何だ」


「一つだけ、先に言っておく」


 エミルが構えたまま、俺を見た。


「俺はお前を殺す気がない」


 エミルの顎が微かに動いた。歯を噛んだのだろう。


「甘いんだよ、お前は。昔から」


「ああ。甘い。それでも言っておく」


「……俺も」


 エミルの声が小さくなった。部隊の兵士には聞こえなかっただろう。


「俺も、殺す気はない。だが——止める」


 構えが完成した。


 新式の正統派。右半身を前に出し、剣を中段に構え、左手を腰に添える。火系統の魔力が刃に宿り、銀色の剣が赤みを帯びた。


 俺も構えた。混成型の構え。剣を低く下げ、体の重心を後ろに置く。防御から反撃に転じるための型。今の体力では、攻めに出る余裕がない。


 風が止んだ。


 世界が止まったように感じた。


 前世の記憶が、場違いに浮かんだ。コンビニの深夜シフトで、唯一まともに話せた同僚がいた。三か月だけ一緒に働いた、同い年の男。ある日突然辞めた。理由は聞けなかった。聞く前にいなくなった。それきりだ。


 あの時、引き止めていたら——何か変わっただろうか。


 何も変わらなかっただろう。前世の俺には、誰かを引き止める力がなかった。


 今は違う。


 今の俺には、少なくとも剣を握る力がある。


 エミルが動いた。


          ◇


 速い。


 迅駆(じんく)を使わずに、純粋な脚力だけでこの速度。鉄鷲の精鋭は伊達ではない。一瞬で間合いを詰めてきたエミルの剣が、斜め上から振り下ろされた。


 鉄身(てっしん)で腕を硬化させ、剣で受ける。金属が噛み合う衝撃が肩に抜けた。腕が悲鳴を上げる。ディートリヒ戦で酷使した筋肉が、もう限界に近い。


 だが、受けきった。


 エミルの目が至近距離で俺を見た。


「まだ立てるのか」


「倒れるつもりはない」


 鍔迫り合いを押し返し、後方に跳んだ。着地で右足が滑り、膝が地面につきかけた。踏ん張る。


 エミルは追撃を仕掛けなかった。間合いを取り直し、剣を構え直す。


「ルッツ。お前の混成型、前に見た時とは違うな」


「鍛えたからな」


「鍛えただけじゃない。何か——別のものが混ざってる」


 鋭い。あの模擬戦の時とは違う。継火を覚えてからの俺の魔力回路は、他者の魔力残滓を受け入れるために構造が変わっている。それをエミルは直感で感じ取っている。


 エミルが再び踏み込んだ。今度は火弾(かだん)を伴って。


火弾(かだん)!」


 左手から放たれた火球が俺の顔面を狙い、同時に剣で右胴を薙ぐ二段攻撃。新式の正統派がまず叩き込む基本コンビネーション。


 だが、見えた。


 鏡刃(かがみば)の応用。火弾の術式構造を瞬時に解析し、魔力が最も薄い箇所を見つける。火球の左端——そこに向かって風刃の糸を一本だけ走らせた。


 火弾が軌道をずらし、俺の右肩を掠めて背後の壁に着弾した。熱風が頬を焼く。だが直撃は避けた。


 同時に、剣の攻撃を体を捻って回避。刃が外套の布を切り裂く音がした。


「——何だ今のは」


 エミルの声に驚きが混じった。


「火弾を逸らした? 風で? そんな精密な——」


旧式(アルテ)の解析を新式(ノイエ)の速度でやってるだけだ」


「それを混成型と呼ぶのか」


「ああ。お前の知らない魔法だ。お前が見ないようにしてきた魔法だ」


 エミルの目が一瞬だけ揺れた。だがすぐに、怒りで固まった。


「旧い血の魔法を使って、俺に説教するつもりか」


「説教じゃない。事実だ」


 次の攻撃が来た。


 連火弾(れんかだん)。五発の火球が扇状に放たれ、逃げ場を塞ぐ。その中央をエミルの剣が貫く、強引だが確実な戦術。力で押し切る新式の真骨頂。


 躱しきれない。


 左から二発目の火弾が左肩に直撃した。鉄身で硬化していたが、衝撃で体が横に吹き飛んだ。瓦礫の上を転がり、背中から壁にぶつかった。


 痛い。


 ディートリヒの焔織で焼かれた箇所と同じ左腕に追加のダメージ。視界が白く明滅した。


 だが、倒れない。


 壁に手をついて体を起こした。


 エミルが追撃の構えを取り——止まった。


「立てよ。ちゃんと立ってから続きをやる」


 その言葉に、泣きそうになった。


 敵として戦っているのに、こいつは倒れた相手を追撃しない。模擬戦でもそうだった。訓練場でも戦場でも、エミルはいつもこうだ。正々堂々と戦い、正々堂々と勝つ。それがこの男の信条だ。


 信条があるから強い。信条があるから、その強さに嘘がない。


 立ち上がった。


 左腕がほとんど動かない。剣を右手だけで構えた。


「エミル」


「何だ」


「お前は強いよ。本当に」


「褒めるな。気持ち悪い」


「褒めてるんじゃない。強いからこそ聞いてほしいことがある」


「戦いながら話す気か」


「お前がそうさせてくれるなら」


 エミルが一瞬だけ黙った。


 そして、構えたまま頷いた。


「……来い」


 俺は踏み込んだ。


          ◇


 剣と剣が交差するたびに、言葉を挟んだ。


 息が切れる。体が悲鳴を上げる。だがエミルとの距離が、剣を交えるたびに縮まる。物理的な距離ではなく、もっと別の何か。


 エミルの下段斬りを跳んで躱しながら叫んだ。


「エミル、お前が信じた革命は——他国への侵略を始めてるんだぞ!」


「知ってる!」


 予想外の答えだった。


 エミルの剣が空を切り、振り返りざまに突きが来た。左に身を捻って避けながら、言葉を返す余裕がなかった。


「知ってる、か」


「黙れ。戦え」


 エミルの攻撃が激しくなった。火弾を纏った剣が連続で振るわれる。一撃一撃が重い。体力が万全でも凌ぐのがやっとの猛攻だ。


 だが混成型の予測不能なリズムが、エミルの正統派の読みを外す。新式の速度で動いたと思えば、旧式の精密さで術式の隙を突く。エミルが右を警戒すれば左から、上を見れば下から。


「くそ——読めない」


 エミルが距離を取った。息が荒い。汗が顎から落ちている。


「お前の魔法は何なんだ。新式でも旧式でもない。どっちつかずの——」


「どっちもだ」


 俺も息が切れていた。体力の限界が近い。だがここで倒れるわけにはいかない。


「新式と旧式。革命の子と旧貴族。体制と反体制。どっちか一つに決めなきゃいけないのか? なぜ両方じゃだめなんだ」


「両方なんて中途半端だ!」


「中途半端で何が悪い!」


 叫んだ。


 体の底から、言葉が噴き出した。


「お前は新式の正統派だ。強い。誰よりも真っ直ぐだ。でもその真っ直ぐさが、お前の目を塞いでるんだ。一本の道しか見えないから、その道が間違ってても気づけない」


「黙れ——」


「黙らない。一年間黙ってた。もう黙らない」


 エミルの顔が歪んだ。苦しみの表情だ。


 踏み込んだ。残った魔力を右腕に集中させ、剣に灰織(はいおり)を纏わせた。灰と火の微粒子が刃の周りに渦を巻く。混成型の基本術だが、今の俺にはこれが精一杯だ。


 エミルが迎え撃った。火弾を纏った剣を正面から叩きつけてくる。


 ぶつかった。


 火と灰が弾け、衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばした。


 鍔迫り合い。顔と顔が三十センチまで近づいた。


 エミルの目を見た。


 あの目。七歳の教室で手を振ってくれた時の、あの真っ直ぐな目。


 あの目が今、揺れている。


「エミル。お前が信じた革命は、母さんたちが命を懸けた革命は——他国の民を踏みにじるためのものだったのか」


「違う——」


「じゃあなぜ、ヴェルナーの侵攻を止めない」


「俺に何ができるってんだ!」


 鍔迫り合いの中で、エミルが叫んだ。


 それは指揮官の声ではなかった。軍人の声でもなかった。


 十九歳の青年の、剥き出しの叫びだった。


「俺はただの兵士だぞ! 命令に従って、与えられた任務をこなすことしかできない! 院長閣下の判断に口を出す立場にない! だったら——信じるしかないだろうが!」


「信じなきゃ立てないから、か」


 一年前、広場の井戸の傍でエミルが言った言葉をそのまま返した。


 エミルの腕の力が、一瞬だけ弱まった。


 その隙を突いて、俺は鍔迫り合いを押し返した。エミルの体勢が崩れる。追い打ちはかけない。距離を取った。


 二人とも、肩で息をしていた。


          ◇


 夕陽が廃墟の向こうに沈みかけていた。


 赤い光が、瓦礫の街道を染めている。エミルの軍服が赤く見えた。俺の外套も赤く見えた。同じ色に染まっている。


 エミルが剣を下げたまま、立っていた。構えを解いたのではない。構えを維持する気力が、消えかけているのだ。


 俺も同じだった。


 剣を握る右手が震えている。膝が笑っている。次の一撃を放つ力は、もう残っていない。


「エミル」


「……何だよ」


「お前は知ってたんだな。侵攻のことも。裁定院のことも。隔離区のことも」


 エミルは答えなかった。


 だがその沈黙が、答えだった。


「知ってて、目を逸らしてた」


「逸らしてたんじゃない」


 エミルの声が掠れていた。


「見ないようにしてたんだ。見たら——立てなくなるから」


 信じなきゃ立てない。


 あの言葉の本当の意味が、今やっと分かった。


 エミルは疑っていたのだ。ずっと。


 隔離区の壁を見る度に。辺境の荒廃を見る度に。均等と名のつくものの裏にある不均等を感じる度に。


 だが疑いを認めてしまえば、自分が立っている地面が崩れる。七歳の時に誓った「共和国を守る」という約束の土台が、瓦解する。


 だから見ないことにした。


 信じることを選び続けた。


 善良であるがゆえに。


「エミル」


 剣を鞘に戻した。


 エミルの目が見開かれた。


「何をしてる。まだ終わってない」


「終わりだよ。俺にはもう戦う力が残ってない。お前も分かってるだろう」


「だったら投降しろ」


「それもできない」


「じゃあどうするんだ」


「話をする。剣を抜く前にすべきだったことをする」


 エミルの右手が、剣の柄を握ったまま震えていた。


 斬れ、と言えば斬れるのだろう。エミルの実力なら、今の俺を倒すのは造作もない。


 だが——斬れない。


 斬れないことを、俺は知っていた。


 この男は、友を斬れない。


「卑怯だぞ、ルッツ」


 エミルの声が、震えた。


「剣を納めて無防備になるなんて、卑怯だ。俺に斬れないって分かってて——」


「ああ。卑怯だ。でもこれが俺のやり方だ。中途半端で、卑怯で、格好悪い」


 エミルの目が赤くなっていた。泣いているのではない。泣くのを堪えているのだ。一年前のレナと同じだ。


「エミル。それが母さんたちの戦った理由か」


 静かに問いかけた。


「革命は、魔導貴族の支配から民を解放するためのものだった。すべての子供が等しく学べる世界を作るためのものだった。母さんは、そのために命を懸けた」


 エミルは黙っている。


「その革命の名を冠した軍が、今、隣国の民を踏みにじろうとしている。解放の名の下に、侵略をしようとしている。均等の名の下に、選別をしている。お前はそれを知っている。知っていて——」


「知ってるって言っただろう!」


 エミルの叫びが、廃墟に反響した。


 背後の鉄鷲の兵士たちが、身を硬くしたのが見えた。


「知ってるよ! 全部知ってる! 侵攻が解放なんかじゃないことも! 裁定院が均等なんかじゃないことも! 隔離区の子供たちが何も悪いことをしてないことも! 全部——全部知ってて、目を塞いでたんだよ!」


 剣が地面に落ちた。


 エミルの手から、力が抜けたのだ。


 金属が石畳にぶつかる、硬い音がした。


 その音が、何かの終わりを告げたように聞こえた。


 エミルが膝をつきかけ、踏み止まった。歯を食いしばり、拳を握りしめ、地面を見つめている。


「……じゃあ、俺は何を信じればいい」


 その声は、七歳の少年の声だった。


 あの教室で「一緒に共和国を守ろうぜ」と笑った少年が、十二年の時を経て、同じ声で問いかけていた。


 何を信じればいい。


 答えが見つからない問い。俺も、ずっと同じ問いの中にいた。


 前世では何も信じられなかった。社会も、仕事も、未来も。信じるものがないまま三十一年を過ごして、何者にもなれずに死んだ。


 今世では、信じたいものを見つけた。だがそれが正しいかどうかは、まだ分からない。


「一緒に考えよう」


 俺はエミルの前まで歩いた。


 三メートル。模擬戦の距離の半分。一年前の井戸端の距離と同じ。


「昔みたいに」


 手を差し出した。


 エミルが顔を上げた。


 赤い目。泥と汗にまみれた顔。鉄鷲の紋章が夕陽に照らされている。


 エミルは俺の手を見た。長い時間、見つめていた。


 前世なら、この手は取られなかっただろう。前世の俺の手は、誰かに差し伸べるには弱すぎた。


 だが今の俺の手は——傷だらけで、震えているが、差し伸べている。


 エミルが手を伸ばした。


 握った。


 あの握手と同じだった。一年前の別れの握手と。だが、意味が違う。


 あの時は別れの握手だった。


 今度は——。


「……昔の俺たちは、もっと単純だったな」


 エミルの声がまだ震えていた。


「ああ。共和国を守ろうぜ、の一言で済んだからな」


「今はそうはいかない」


「いかないな」


「でも——」


 エミルの手に力が入った。


「お前と一緒に考えるのは、嫌じゃない」


 俺の目から、何かが溢れた。涙ではない。涙はもう枯れていた。もっと深い場所から、もっと熱い何かが込み上げてきた。


 名前のない感情だった。


 安堵でも喜びでもない。もっと複雑で、もっと痛くて、もっと温かい。


 七歳の約束が、十二年の歳月と敵味方の壁を超えて、今ここで——形を変えて、もう一度結ばれた。


          ◇


 エミルが部隊に向き直った。


 鉄鷲の兵士たちが、動揺した目で隊長を見ている。


「総員、剣を納めろ」


 副官が一歩前に出た。


「隊長。これは命令違反です。ルッツ・エーベルハルトの拘束は裁定院からの直接命令であり——」


「その裁定院の命令が間違っていたら、どうする」


 副官の口が閉じた。


「俺たちは革命の兵士だ。革命の理念に従って戦っている。だがその理念を裏切っているのが、理念を掲げている側だったとしたら——俺たちは何を守ってるんだ」


 沈黙が落ちた。


 兵士たちが互いを見た。誰も剣を納めない。だが、誰も剣を振り上げもしない。


「命令に逆らう気はない。だが、俺は自分の目で見たものを信じる。ルッツ・エーベルハルトは——」


 エミルが俺を振り返った。


「こいつは裏切り者じゃない。俺の友人だ。そして、この国の病をどうにかしようとしている馬鹿だ」


 俺は笑いそうになった。笑う体力は残っていなかったが、口元だけが歪んだ。


 副官が長い沈黙の後、ゆっくりと剣を鞘に戻した。一人、また一人と続く。全員ではない。三人はまだ剣を握ったままだ。


 だが大多数が剣を納めたことで、場の緊張が解けた。


 エミルが俺の隣に立った。


 一年前は井戸を挟んで反対側に座っていた男が、今は隣にいる。


「ルッツ」


「何だ」


「お前、本当にボロボロだな」


「お前のせいだろ、半分は」


「半分はディートリヒだろ。あの化け物と戦って生きてるだけでも褒めてやる」


「ありがたいな」


「で、これからどうするんだ」


 エミルの声に、軍人としての冷静さが戻りつつあった。だがその冷静さの底に、先ほどまでなかったものがある。迷い。そして、迷いを受け入れる覚悟。


「ヴェルナーを止める」


「院長閣下を——か」


「ああ。侵攻を止めなきゃ、何も始まらない」


 エミルが目を閉じた。


 数秒の沈黙。


 目を開いた時、そこにあったのは鉄鷲の隊長の目ではなかった。もっと古い目だった。七歳の少年の目と、十九歳の軍人の目が重なった、複雑な光を持つ目だった。


「一緒に行く」


「……いいのか」


「いいわけないだろ。でも行く」


 エミルが空を見上げた。夕陽が沈みきろうとしている。最後の赤い光が、廃墟の尖塔の先端に残っている。


「一緒に共和国を守ろうぜ、って約束しただろ」


「ああ」


「守り方が違っただけだ。俺は外から。お前は——」


「中から壊して、作り直す」


「物騒だな」


「甘いよりマシだろ」


 エミルが笑った。


 あの笑い方だった。七歳の教室で、初めて見た笑い方。


 その笑みの下にある痛みを、俺たちは二人とも知っていた。


 だが笑った。


 痛みごと笑った。


 それでいい。


 それが、俺たちの「二度目の約束」だ。

12:00に最終話まで出します

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