エミルとの再会
ルッツ19歳。ディートリヒ戦の直後、共和国軍の精鋭部隊が現れる。その先頭に立つのは、かつての親友。
ディートリヒの本陣を出た俺を待っていたのは、休息ではなかった。
カスパーが肩を貸してくれなければ、廃墟の出口まで辿り着けなかったかもしれない。継火の反動で全身の魔力回路が焼けるように軋み、ディートリヒの焔織に焼かれた左腕は感覚が半分消えている。右足を引きずりながら崩れた壁を越え、ようやく外の空気を吸った。
レナが俺の右側を支えてくれた。手首の拘束痕がまだ赤い。それでも、支える側に回ろうとする。
「ルッツ、座りなさい。動ける状態じゃない」
「あと少しだけ——」
言いかけた瞬間、空気が変わった。
フランツの声が飛んだ。
「前方、百五十メートル。十名以上。——体制軍だ」
廃墟の北側に広がる街道の向こうから、整然とした足音が近づいてくる。統制の取れた行軍。靴底が石畳を叩くリズムに、訓練された軍人特有の均質さがあった。
カスパーが俺の肩から手を離し、腰の剣に手をかけた。ヨハンが周囲を警戒する。
埃と薄煙の向こうに、軍服の列が見えた。共和国軍の濃紺の軍服。胸に鉄鷲の紋章を付けた精鋭部隊。
先頭に立つ男の顔を見た瞬間、足が止まった。
鋼色の髪を短く刈り上げ、火系統の使い手に特有の赤みがかった肌をしている。体格は俺より一回り大きい。腰の剣の柄に右手を添え、左手は部隊に停止を命じるように上げていた。
エミル・リヒター。
七歳の教室で「お前も一緒に遊ぼうぜ」と手を振ってくれた少年の面影は、もうどこにもなかった。
いや——あった。目だ。あの真っ直ぐな目だけは変わっていない。ただし、その目が今は俺を敵として見ている。
「ルッツ・エーベルハルト」
エミルの声が街道に響いた。硬い声だった。一年前の酒場で聞いた、あの掠れた声ではない。部隊を率いる指揮官の声だ。
「反革命勢力との共謀、均等裁定院への反逆、軍の帰還命令に対する不服従。以上の罪状により、お前を拘束する」
背後で、カスパーの息を呑む音がした。
「エミル」
俺は声を絞り出した。体が軋む。ディートリヒ戦の疲労が全身を錆びた鎖のように縛りつけている。
「久しぶりだな」
「……ああ」
一瞬、エミルの声から硬さが剥がれた。だがすぐに戻った。
「抵抗するな。お前の仲間も含め、全員を拘束する。俺に投降すれば、少なくとも即時処刑は避けられる」
「投降はできない」
「ルッツ」
エミルの目が細くなった。
「お前の状態は見れば分かる。ボロボロだ。ディートリヒとやり合ったんだろう。まともに立てていないじゃないか」
「それでも、投降はできない」
「なぜだ」
「今この瞬間も、ヴェルナーの侵攻軍が隣国に向けて進軍してるからだ。俺が捕まったら、それを止める人間がいなくなる」
エミルの表情が一瞬だけ揺れた。
だがすぐに、鉄のように引き締められた。
「それは軍の判断だ。お前が口を出すことじゃない」
「軍の判断が間違っていたら、誰が止めるんだ」
沈黙。
廃墟を抜ける風が、エミルの軍服の裾を揺らした。背後に並ぶ鉄鷲の兵士たちが、俺たちのやり取りを固い表情で見ている。
「お前を止めなきゃならない」
エミルの声が低くなった。指揮官の声ではなかった。もっと個人的な、もっと重い声だった。
「裏切り者として」
裏切り者。
一年前の酒場で言いかけて、飲み込んだ言葉。あの時は言い切れなかったそれを、エミルは今、正面から口にした。
「お前が裏切り者と呼ぶなら、そうなんだろう」
否定しなかった。否定する権利が俺にあるのかも分からない。
「でも聞いてくれ。あの侵攻は——」
「聞く必要はない」
エミルの右手が剣の柄を握った。
「お前の言葉は聞いた。一年前に全部聞いた。お前の考えは分かってる。分かった上で、俺は止める」
剣が鞘から抜かれた。
銀色の刃が、廃墟の隙間から差し込む夕陽を受けて燃えた。
「来い、ルッツ。言葉で決着がつかないなら、こうするしかない」
◇
レナが前に出ようとした。
「待って。ルッツはもう——」
「レナ」
俺はレナの肩に手を置いて、止めた。
「これは、俺とエミルの話だ」
「話じゃないでしょう。剣を抜いてるわ」
「そうだな。でも、他の誰かが代わりにやっていい話でもない」
レナの紫の瞳が揺れた。怒りではない。理解と、それでも許せないという感情が入り混じっている。
「……死んだら承知しないわよ」
「二回目だなその台詞」
レナが俺から手を離した。下がりながら、エミルを睨んだ。エミルはレナを一瞥し、視線を俺に戻した。
フランツが低い声で言った。
「ルッツ。魔力は残っているのか」
「少しだけ。継火の残滓がまだ体内にある」
「それで鉄鷲の精鋭と戦うつもりか」
「エミルは一人で来るよ。部隊に手を出させない」
フランツが眉を上げた。
「何を根拠に」
「あいつを十一年知ってるからだ」
エミルの方を見た。予想通り、エミルは背後の部隊に向かって右手を上げていた。
「手を出すな。これは俺がやる」
部隊の副官らしき男が一歩前に出た。
「リヒター隊長、しかし——」
「命令だ。俺が負けたら好きにしろ。だがそれまでは誰も動くな」
副官が口を閉じた。鉄鷲の兵士たちが微かに動揺しているのが見えた。だが命令には従った。
エミルが、一人で前に出てきた。
あの時と同じだ。模擬戦の時と。七歳の教室の時と。この男はいつも、一人で前に出てくる。
俺は腰の剣を抜いた。
刃が震えた。腕に力が入らない。ディートリヒ戦の疲労で、剣を握る指先が痺れている。
だが立った。
五メートルの距離を挟んで向かい合った。模擬戦の開始距離と同じだ。
あの時は訓練場の整った地面だった。今は廃墟の瓦礫が散乱する街道の上。あの時は木剣だった。今は実剣。あの時は勝敗がすべてだった。今は——。
「エミル」
「何だ」
「一つだけ、先に言っておく」
エミルが構えたまま、俺を見た。
「俺はお前を殺す気がない」
エミルの顎が微かに動いた。歯を噛んだのだろう。
「甘いんだよ、お前は。昔から」
「ああ。甘い。それでも言っておく」
「……俺も」
エミルの声が小さくなった。部隊の兵士には聞こえなかっただろう。
「俺も、殺す気はない。だが——止める」
構えが完成した。
新式の正統派。右半身を前に出し、剣を中段に構え、左手を腰に添える。火系統の魔力が刃に宿り、銀色の剣が赤みを帯びた。
俺も構えた。混成型の構え。剣を低く下げ、体の重心を後ろに置く。防御から反撃に転じるための型。今の体力では、攻めに出る余裕がない。
風が止んだ。
世界が止まったように感じた。
前世の記憶が、場違いに浮かんだ。コンビニの深夜シフトで、唯一まともに話せた同僚がいた。三か月だけ一緒に働いた、同い年の男。ある日突然辞めた。理由は聞けなかった。聞く前にいなくなった。それきりだ。
あの時、引き止めていたら——何か変わっただろうか。
何も変わらなかっただろう。前世の俺には、誰かを引き止める力がなかった。
今は違う。
今の俺には、少なくとも剣を握る力がある。
エミルが動いた。
◇
速い。
迅駆を使わずに、純粋な脚力だけでこの速度。鉄鷲の精鋭は伊達ではない。一瞬で間合いを詰めてきたエミルの剣が、斜め上から振り下ろされた。
鉄身で腕を硬化させ、剣で受ける。金属が噛み合う衝撃が肩に抜けた。腕が悲鳴を上げる。ディートリヒ戦で酷使した筋肉が、もう限界に近い。
だが、受けきった。
エミルの目が至近距離で俺を見た。
「まだ立てるのか」
「倒れるつもりはない」
鍔迫り合いを押し返し、後方に跳んだ。着地で右足が滑り、膝が地面につきかけた。踏ん張る。
エミルは追撃を仕掛けなかった。間合いを取り直し、剣を構え直す。
「ルッツ。お前の混成型、前に見た時とは違うな」
「鍛えたからな」
「鍛えただけじゃない。何か——別のものが混ざってる」
鋭い。あの模擬戦の時とは違う。継火を覚えてからの俺の魔力回路は、他者の魔力残滓を受け入れるために構造が変わっている。それをエミルは直感で感じ取っている。
エミルが再び踏み込んだ。今度は火弾を伴って。
「火弾!」
左手から放たれた火球が俺の顔面を狙い、同時に剣で右胴を薙ぐ二段攻撃。新式の正統派がまず叩き込む基本コンビネーション。
だが、見えた。
鏡刃の応用。火弾の術式構造を瞬時に解析し、魔力が最も薄い箇所を見つける。火球の左端——そこに向かって風刃の糸を一本だけ走らせた。
火弾が軌道をずらし、俺の右肩を掠めて背後の壁に着弾した。熱風が頬を焼く。だが直撃は避けた。
同時に、剣の攻撃を体を捻って回避。刃が外套の布を切り裂く音がした。
「——何だ今のは」
エミルの声に驚きが混じった。
「火弾を逸らした? 風で? そんな精密な——」
「旧式の解析を新式の速度でやってるだけだ」
「それを混成型と呼ぶのか」
「ああ。お前の知らない魔法だ。お前が見ないようにしてきた魔法だ」
エミルの目が一瞬だけ揺れた。だがすぐに、怒りで固まった。
「旧い血の魔法を使って、俺に説教するつもりか」
「説教じゃない。事実だ」
次の攻撃が来た。
連火弾。五発の火球が扇状に放たれ、逃げ場を塞ぐ。その中央をエミルの剣が貫く、強引だが確実な戦術。力で押し切る新式の真骨頂。
躱しきれない。
左から二発目の火弾が左肩に直撃した。鉄身で硬化していたが、衝撃で体が横に吹き飛んだ。瓦礫の上を転がり、背中から壁にぶつかった。
痛い。
ディートリヒの焔織で焼かれた箇所と同じ左腕に追加のダメージ。視界が白く明滅した。
だが、倒れない。
壁に手をついて体を起こした。
エミルが追撃の構えを取り——止まった。
「立てよ。ちゃんと立ってから続きをやる」
その言葉に、泣きそうになった。
敵として戦っているのに、こいつは倒れた相手を追撃しない。模擬戦でもそうだった。訓練場でも戦場でも、エミルはいつもこうだ。正々堂々と戦い、正々堂々と勝つ。それがこの男の信条だ。
信条があるから強い。信条があるから、その強さに嘘がない。
立ち上がった。
左腕がほとんど動かない。剣を右手だけで構えた。
「エミル」
「何だ」
「お前は強いよ。本当に」
「褒めるな。気持ち悪い」
「褒めてるんじゃない。強いからこそ聞いてほしいことがある」
「戦いながら話す気か」
「お前がそうさせてくれるなら」
エミルが一瞬だけ黙った。
そして、構えたまま頷いた。
「……来い」
俺は踏み込んだ。
◇
剣と剣が交差するたびに、言葉を挟んだ。
息が切れる。体が悲鳴を上げる。だがエミルとの距離が、剣を交えるたびに縮まる。物理的な距離ではなく、もっと別の何か。
エミルの下段斬りを跳んで躱しながら叫んだ。
「エミル、お前が信じた革命は——他国への侵略を始めてるんだぞ!」
「知ってる!」
予想外の答えだった。
エミルの剣が空を切り、振り返りざまに突きが来た。左に身を捻って避けながら、言葉を返す余裕がなかった。
「知ってる、か」
「黙れ。戦え」
エミルの攻撃が激しくなった。火弾を纏った剣が連続で振るわれる。一撃一撃が重い。体力が万全でも凌ぐのがやっとの猛攻だ。
だが混成型の予測不能なリズムが、エミルの正統派の読みを外す。新式の速度で動いたと思えば、旧式の精密さで術式の隙を突く。エミルが右を警戒すれば左から、上を見れば下から。
「くそ——読めない」
エミルが距離を取った。息が荒い。汗が顎から落ちている。
「お前の魔法は何なんだ。新式でも旧式でもない。どっちつかずの——」
「どっちもだ」
俺も息が切れていた。体力の限界が近い。だがここで倒れるわけにはいかない。
「新式と旧式。革命の子と旧貴族。体制と反体制。どっちか一つに決めなきゃいけないのか? なぜ両方じゃだめなんだ」
「両方なんて中途半端だ!」
「中途半端で何が悪い!」
叫んだ。
体の底から、言葉が噴き出した。
「お前は新式の正統派だ。強い。誰よりも真っ直ぐだ。でもその真っ直ぐさが、お前の目を塞いでるんだ。一本の道しか見えないから、その道が間違ってても気づけない」
「黙れ——」
「黙らない。一年間黙ってた。もう黙らない」
エミルの顔が歪んだ。苦しみの表情だ。
踏み込んだ。残った魔力を右腕に集中させ、剣に灰織を纏わせた。灰と火の微粒子が刃の周りに渦を巻く。混成型の基本術だが、今の俺にはこれが精一杯だ。
エミルが迎え撃った。火弾を纏った剣を正面から叩きつけてくる。
ぶつかった。
火と灰が弾け、衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばした。
鍔迫り合い。顔と顔が三十センチまで近づいた。
エミルの目を見た。
あの目。七歳の教室で手を振ってくれた時の、あの真っ直ぐな目。
あの目が今、揺れている。
「エミル。お前が信じた革命は、母さんたちが命を懸けた革命は——他国の民を踏みにじるためのものだったのか」
「違う——」
「じゃあなぜ、ヴェルナーの侵攻を止めない」
「俺に何ができるってんだ!」
鍔迫り合いの中で、エミルが叫んだ。
それは指揮官の声ではなかった。軍人の声でもなかった。
十九歳の青年の、剥き出しの叫びだった。
「俺はただの兵士だぞ! 命令に従って、与えられた任務をこなすことしかできない! 院長閣下の判断に口を出す立場にない! だったら——信じるしかないだろうが!」
「信じなきゃ立てないから、か」
一年前、広場の井戸の傍でエミルが言った言葉をそのまま返した。
エミルの腕の力が、一瞬だけ弱まった。
その隙を突いて、俺は鍔迫り合いを押し返した。エミルの体勢が崩れる。追い打ちはかけない。距離を取った。
二人とも、肩で息をしていた。
◇
夕陽が廃墟の向こうに沈みかけていた。
赤い光が、瓦礫の街道を染めている。エミルの軍服が赤く見えた。俺の外套も赤く見えた。同じ色に染まっている。
エミルが剣を下げたまま、立っていた。構えを解いたのではない。構えを維持する気力が、消えかけているのだ。
俺も同じだった。
剣を握る右手が震えている。膝が笑っている。次の一撃を放つ力は、もう残っていない。
「エミル」
「……何だよ」
「お前は知ってたんだな。侵攻のことも。裁定院のことも。隔離区のことも」
エミルは答えなかった。
だがその沈黙が、答えだった。
「知ってて、目を逸らしてた」
「逸らしてたんじゃない」
エミルの声が掠れていた。
「見ないようにしてたんだ。見たら——立てなくなるから」
信じなきゃ立てない。
あの言葉の本当の意味が、今やっと分かった。
エミルは疑っていたのだ。ずっと。
隔離区の壁を見る度に。辺境の荒廃を見る度に。均等と名のつくものの裏にある不均等を感じる度に。
だが疑いを認めてしまえば、自分が立っている地面が崩れる。七歳の時に誓った「共和国を守る」という約束の土台が、瓦解する。
だから見ないことにした。
信じることを選び続けた。
善良であるがゆえに。
「エミル」
剣を鞘に戻した。
エミルの目が見開かれた。
「何をしてる。まだ終わってない」
「終わりだよ。俺にはもう戦う力が残ってない。お前も分かってるだろう」
「だったら投降しろ」
「それもできない」
「じゃあどうするんだ」
「話をする。剣を抜く前にすべきだったことをする」
エミルの右手が、剣の柄を握ったまま震えていた。
斬れ、と言えば斬れるのだろう。エミルの実力なら、今の俺を倒すのは造作もない。
だが——斬れない。
斬れないことを、俺は知っていた。
この男は、友を斬れない。
「卑怯だぞ、ルッツ」
エミルの声が、震えた。
「剣を納めて無防備になるなんて、卑怯だ。俺に斬れないって分かってて——」
「ああ。卑怯だ。でもこれが俺のやり方だ。中途半端で、卑怯で、格好悪い」
エミルの目が赤くなっていた。泣いているのではない。泣くのを堪えているのだ。一年前のレナと同じだ。
「エミル。それが母さんたちの戦った理由か」
静かに問いかけた。
「革命は、魔導貴族の支配から民を解放するためのものだった。すべての子供が等しく学べる世界を作るためのものだった。母さんは、そのために命を懸けた」
エミルは黙っている。
「その革命の名を冠した軍が、今、隣国の民を踏みにじろうとしている。解放の名の下に、侵略をしようとしている。均等の名の下に、選別をしている。お前はそれを知っている。知っていて——」
「知ってるって言っただろう!」
エミルの叫びが、廃墟に反響した。
背後の鉄鷲の兵士たちが、身を硬くしたのが見えた。
「知ってるよ! 全部知ってる! 侵攻が解放なんかじゃないことも! 裁定院が均等なんかじゃないことも! 隔離区の子供たちが何も悪いことをしてないことも! 全部——全部知ってて、目を塞いでたんだよ!」
剣が地面に落ちた。
エミルの手から、力が抜けたのだ。
金属が石畳にぶつかる、硬い音がした。
その音が、何かの終わりを告げたように聞こえた。
エミルが膝をつきかけ、踏み止まった。歯を食いしばり、拳を握りしめ、地面を見つめている。
「……じゃあ、俺は何を信じればいい」
その声は、七歳の少年の声だった。
あの教室で「一緒に共和国を守ろうぜ」と笑った少年が、十二年の時を経て、同じ声で問いかけていた。
何を信じればいい。
答えが見つからない問い。俺も、ずっと同じ問いの中にいた。
前世では何も信じられなかった。社会も、仕事も、未来も。信じるものがないまま三十一年を過ごして、何者にもなれずに死んだ。
今世では、信じたいものを見つけた。だがそれが正しいかどうかは、まだ分からない。
「一緒に考えよう」
俺はエミルの前まで歩いた。
三メートル。模擬戦の距離の半分。一年前の井戸端の距離と同じ。
「昔みたいに」
手を差し出した。
エミルが顔を上げた。
赤い目。泥と汗にまみれた顔。鉄鷲の紋章が夕陽に照らされている。
エミルは俺の手を見た。長い時間、見つめていた。
前世なら、この手は取られなかっただろう。前世の俺の手は、誰かに差し伸べるには弱すぎた。
だが今の俺の手は——傷だらけで、震えているが、差し伸べている。
エミルが手を伸ばした。
握った。
あの握手と同じだった。一年前の別れの握手と。だが、意味が違う。
あの時は別れの握手だった。
今度は——。
「……昔の俺たちは、もっと単純だったな」
エミルの声がまだ震えていた。
「ああ。共和国を守ろうぜ、の一言で済んだからな」
「今はそうはいかない」
「いかないな」
「でも——」
エミルの手に力が入った。
「お前と一緒に考えるのは、嫌じゃない」
俺の目から、何かが溢れた。涙ではない。涙はもう枯れていた。もっと深い場所から、もっと熱い何かが込み上げてきた。
名前のない感情だった。
安堵でも喜びでもない。もっと複雑で、もっと痛くて、もっと温かい。
七歳の約束が、十二年の歳月と敵味方の壁を超えて、今ここで——形を変えて、もう一度結ばれた。
◇
エミルが部隊に向き直った。
鉄鷲の兵士たちが、動揺した目で隊長を見ている。
「総員、剣を納めろ」
副官が一歩前に出た。
「隊長。これは命令違反です。ルッツ・エーベルハルトの拘束は裁定院からの直接命令であり——」
「その裁定院の命令が間違っていたら、どうする」
副官の口が閉じた。
「俺たちは革命の兵士だ。革命の理念に従って戦っている。だがその理念を裏切っているのが、理念を掲げている側だったとしたら——俺たちは何を守ってるんだ」
沈黙が落ちた。
兵士たちが互いを見た。誰も剣を納めない。だが、誰も剣を振り上げもしない。
「命令に逆らう気はない。だが、俺は自分の目で見たものを信じる。ルッツ・エーベルハルトは——」
エミルが俺を振り返った。
「こいつは裏切り者じゃない。俺の友人だ。そして、この国の病をどうにかしようとしている馬鹿だ」
俺は笑いそうになった。笑う体力は残っていなかったが、口元だけが歪んだ。
副官が長い沈黙の後、ゆっくりと剣を鞘に戻した。一人、また一人と続く。全員ではない。三人はまだ剣を握ったままだ。
だが大多数が剣を納めたことで、場の緊張が解けた。
エミルが俺の隣に立った。
一年前は井戸を挟んで反対側に座っていた男が、今は隣にいる。
「ルッツ」
「何だ」
「お前、本当にボロボロだな」
「お前のせいだろ、半分は」
「半分はディートリヒだろ。あの化け物と戦って生きてるだけでも褒めてやる」
「ありがたいな」
「で、これからどうするんだ」
エミルの声に、軍人としての冷静さが戻りつつあった。だがその冷静さの底に、先ほどまでなかったものがある。迷い。そして、迷いを受け入れる覚悟。
「ヴェルナーを止める」
「院長閣下を——か」
「ああ。侵攻を止めなきゃ、何も始まらない」
エミルが目を閉じた。
数秒の沈黙。
目を開いた時、そこにあったのは鉄鷲の隊長の目ではなかった。もっと古い目だった。七歳の少年の目と、十九歳の軍人の目が重なった、複雑な光を持つ目だった。
「一緒に行く」
「……いいのか」
「いいわけないだろ。でも行く」
エミルが空を見上げた。夕陽が沈みきろうとしている。最後の赤い光が、廃墟の尖塔の先端に残っている。
「一緒に共和国を守ろうぜ、って約束しただろ」
「ああ」
「守り方が違っただけだ。俺は外から。お前は——」
「中から壊して、作り直す」
「物騒だな」
「甘いよりマシだろ」
エミルが笑った。
あの笑い方だった。七歳の教室で、初めて見た笑い方。
その笑みの下にある痛みを、俺たちは二人とも知っていた。
だが笑った。
痛みごと笑った。
それでいい。
それが、俺たちの「二度目の約束」だ。
12:00に最終話まで出します




