崩れゆく均衡
ルッツ19歳。全部が同時に壊れようとしている。
その知らせは、最悪のタイミングで届いた。
レナ救出の最終準備を進めていた昼過ぎ。旧貯水路への潜入経路を実地で確認するため、カスパーとヨハンと共に拠点を出ようとした矢先だった。
テレーゼが走ってきた。
テレーゼが走ること自体が珍しい。この少女は常に冷静で、声を荒げることがほとんどない。レナと同じ隔離区育ちの、十七歳の静かな少女。
その少女が、息を切らして地下室に飛び込んできた。
「ルッツ。大変なことになった」
「大変なこと」という言葉を、テレーゼの口から聞いたのは初めてだった。
「何があった」
「黎明作戦が発動した」
◇
黎明作戦。
母の異名——紅の黎明——を冠した、ヴェルトハーフェン王国への侵攻計画。
ヴェルナー・グラーンが立案し、元勲会が承認した侵略戦争。革命の理念の拡大を名目とした、国外への武力侵攻。
その作戦が、今日、発動した。
「情報の出所は」
「マリアが西区画で拾った。体制軍の伝令兵が市街地を走っていて、その一人を捕まえた。——捕まえたというか、倒れている兵士を助けたら、口を割った。蜂起の混乱で部隊からはぐれた若い兵士よ。怪我の手当をしている間に、断片的に話した」
テレーゼの報告は正確だった。この少女もまた、隔離区の壁の中で情報収集の技術を磨いた一人だ。
「その兵士によると、今朝未明に首都の西門から侵攻軍の先遣隊が出発した。主力は昨日のうちに西方の集結地に移動している。総兵力は約三千。指揮はカール・ドレスラー総帥の名代として、副官のシュレーダーが執っている」
「ヴェルナーは」
「首都に残っている。均等裁定院から指揮を執るらしい」
三千の侵攻軍が、国境を越える。
国内ではディートリヒの反革命軍が蜂起し、俺たちの第三勢力が声を上げ、首都は三つ巴の混戦状態。その中で——ヴェルナーは侵攻を強行した。
「正気か」
カスパーが吐き捨てるように言った。
「国内がこんな状態で、三千人も外に出す? 守りはどうするんだ」
フランツが地図を見ていた。炭で描かれた略図の上に、新たな線を引いている。西方への矢印。侵攻軍の進路。
「正気だよ。ヴェルナーの論理では、これが正解だ」
「正解?」
「外に敵を作れば、内がまとまる。ディートリヒの蜂起も、ルッツの離反も、『国難に際して一致団結しろ』の一言で潰せる。侵攻が成功すれば領土と資源が手に入り、体制の求心力は回復する。反対者は『戦時中に後方を攪乱した売国奴』として処罰できる」
フランツの分析が、冷たい論理で状況を照らし出した。
「ヴェルナーにとって、国内の混乱は侵攻の障害ではない。むしろ侵攻の口実だ。『内も外も敵だらけだからこそ、強い指導が必要だ』と言える」
俺は拳を握った。
母さんの名前を冠した作戦で、隣国を侵略する。
母さんが命を懸けて守ろうとした理念を、侵略の旗印にする。
怒りで視界が赤くなった。だが怒りに飲まれている暇はない。
「テレーゼ。侵攻軍の進路は」
「西街道を通ってグレンツ峠を越え、ヴェルトハーフェン領内に入る。峠を越えれば二日でヴェルトハーフェンの辺境城砦に到達する」
「阻止は——」
言いかけて、止めた。
三千人の軍を阻止する? 十数人で?
不可能だ。
物理的に不可能だ。
◇
地下室に、重い沈黙が落ちた。
全員が事態の大きさを飲み込もうとしていた。
エミルの精鋭部隊が東区画に向かっている。レナがディートリヒの拠点に囚われている。そして今、三千の侵攻軍が国境を越えようとしている。
三つ。
三つの危機が、同時に迫っている。
前世の記憶が、不意に甦った。
コンビニの深夜勤務。レジに行列ができて、裏では納品のトラックが来て、冷蔵庫の温度計がアラームを鳴らしている。全部が同時に起きて、体が一つしかなくて、どれから手をつければいいか分からない。
あの時は——一番近い問題から片づけた。レジの客を捌いて、冷蔵庫を確認して、それからトラックの対応をした。全部を同時にはできない。だが順番をつければ、一つずつ片づけられる。
だが今は、コンビニのトラブルじゃない。
順番をつければ、後回しにした方で人が死ぬ。
「ルッツ」
フランツの声で、我に返った。
「状況を整理するぞ。一つずつだ」
フランツが地図を叩いた。
「第一。エミルの精鋭部隊。六十人がこの拠点に向かっている。到着は今夜遅くから明日の朝。これは俺たちが対処する。さっき決めた通りだ」
「第二。レナの救出。今夜、旧市民劇場に潜入する。これもさっき決めた通りだ」
「第三。黎明作戦の発動。三千人の侵攻軍。これは——」
フランツが言葉を切った。
「正直に言う。今の俺たちにできることは、ない」
分かっている。分かっているが、聞くと胸が潰れそうになる。
「ないのか」
「ない。三千人の正規軍を止める力は、俺たちにはない。仮にエミルの部隊を退け、レナを取り戻したとしても、侵攻軍は止まらない。あれを止められるのは——」
「ヴェルナーだけだ。命令を出したヴェルナー本人が撤回するか、ヴェルナーを倒すかしなければ」
「ああ。だが今のお前にヴェルナーと戦う力はない。ディートリヒと互角に戦えるかどうかという段階で、ヴェルナーは格が違う」
ヴェルナー・グラーン。革命の英雄の一人。母の戦友。ディートリヒと並ぶ——いや、おそらくディートリヒ以上の実力者。
今の俺では、手が届かない。
「だが」
俺は立ち上がった。
「だが、何もしないわけにはいかない」
「どうするつもりだ」
「分からない。だが——レナを取り戻す。エミルを止める。その二つをまずやる。侵攻を止める方法は、その後に考える」
「考える余裕があればな」
「なくても考える」
フランツが俺を見た。長い視線だった。
「お前は——本当に、全部を何とかしようとするんだな」
「全部を何とかしないと、全部が壊れるんだ」
全部が同時に壊れようとしている。
その言葉が、頭の中で反響した。
だが壊れるのを黙って見ているわけにはいかない。手が二本しかなくても、三つの問題があっても、一つずつ掴みにいくしかない。
◇
昼下がり。
救出前の最後の偵察に出た。
カスパーと二人で、旧市民劇場の外周を確認する。ヨハンは拠点に残って、出発の準備をしている。
市街地は荒れていた。
蜂起から数日が経ち、戦闘の跡が街のあちこちに刻まれている。崩れた壁、焦げた石畳、割れた窓硝子。通りに人影はほとんどない。時折、体制軍の巡回兵が走り過ぎるだけだ。
巡回兵の数が減っている。侵攻軍に兵力を割いたせいだろう。首都の守りが薄くなっている。
「ルッツ。あれ」
カスパーが路地の角から、北東の方角を指した。
旧市民劇場の屋根が見えた。煉瓦造りの重厚な建物。革命前は貴族たちの社交場で、革命後は倉庫として使われていた。今はディートリヒの拠点。
建物の周囲に、見張りが立っている。数えた。四人。フランツの情報より少ない。
「見張りが減っている」
「蜂起の本隊に兵を出したのかもしれない。ディートリヒも体制軍との戦闘に人手を割いているはずだ」
見張りが減っているのは好都合だ。だが楽観はできない。劇場の内部の兵力は外からでは分からない。
劇場の南側。地面に鉄格子がある。旧貯水路の入口だ。ヘルミーネの地図によれば、この貯水路は劇場の地下を通り、舞台裏に通じている。
「鉄格子は」
「錆びている。カスパーの鉄身なら壊せるだろう」
「こっちは任せろ。壊すのは得意だ」
カスパーが不敵に笑った。この少年は、追い詰められるほど肝が据わる。隔離区育ちの度胸だ。壁の中で十九年間生き延びた人間は、恐怖の扱い方を知っている。
偵察を終えて拠点に戻ろうとした時、路地の先で人影が動いた。
体制軍の制服だ。だが巡回兵ではない。一人で歩いている。若い。二十代前半。片足を引きずっている。怪我をしているのか。
「体制の兵だ。どうする」
「放っておけ。関わるな」
だが兵士がこちらに気づいた。
目が合った。
兵士の目が大きくなった。俺の顔を知っているのか。あるいは——
「エーベルハルト」
兵士が掠れた声で言った。
「お前が——紅の黎明の——」
俺は黙って兵士を見た。逃げるべきか。だが片足を引きずっている兵士が追ってくるとは思えない。
「助けてくれ」
兵士が壁にもたれかかった。片足の太腿から、血が滲んでいた。治療されていない傷だ。
「蜂起の鎮圧で——部隊がやられた。俺だけ逃げた。衛生兵がいない。後方に戻ろうとしたが——道が分からない」
前世の記憶。路上で倒れている人を見たことがある。深夜のコンビニの前で、酔い潰れた男。店長は「関わるな」と言った。だが俺は水を持って行った。翌日、店長に怒られた。
今も同じだ。関わるべきではない。体制の兵士だ。俺たちの敵だ。
カスパーが俺を見ていた。
「ルッツ。また助けるのか」
「……ちっ」
舌打ちが出た。自分でも呆れている。
だが目の前で血を流している人間を放っておけない。前世からの——いや、二つの人生を通じて変わらない、俺の欠点だ。
カスパーがため息をついた。
「やっぱりな。俺も慣れてきたぞ、お前のそういうところに」
兵士の傍にしゃがんだ。太腿の傷を確認する。深くはないが、出血が止まっていない。布を裂いて圧迫止血を施した。前世のバイト先で、倉庫で怪我をした同僚に同じことをした経験がある。
「体制の兵を助けるのか。お前は」
兵士が呆然とした目で俺を見た。
「敵だぞ、俺は」
「出血が止まれば、好きにしろ。戦いたいなら戦え。だが今は動くな」
止血を終えた。兵士は壁にもたれたまま、俺を見ていた。
「黎明作戦のことは知っているか」
兵士の目が揺れた。
「知っている。俺の部隊の半分は——侵攻軍に編入された。残りが蜂起の鎮圧に回された」
「侵攻軍はもう出たのか」
「今朝だ。西門から。三千人。先遣隊は昨日の夜に出発している」
テレーゼの情報と一致する。
「ヴェルナーは何と言っている」
「均等裁定院から声明が出た。『革命の理念を守るため、外敵を排除する。国内の叛乱分子も同時に制圧する。モルゲンタール共和国の正義は揺るがない』と」
正義。
その言葉が、いちばん薄汚れている。
「お前は——侵攻をどう思う」
兵士が黙った。長い沈黙だった。
「分からない。革命の理念を守るためなら——でも、こんなことのために入隊したんじゃない。隣国の人間を殺すために兵士になったわけじゃない」
「なら考えてくれ。自分の頭で」
立ち上がった。カスパーが待っていた。
背を向けて歩き出す。
「エーベルハルト」
兵士の声が追いかけてきた。
「あんたは——本当に、何がしたいんだ」
振り返らずに答えた。
「全部が壊れるのを、止めたいだけだ」
◇
拠点に戻った。
夕刻。出発まであと数時間。
地下室で、救出組の最終打ち合わせをした。俺、カスパー、ヨハン、アルノルト、ヴィクトルの五人。
「もう一度確認する。アルノルトとヴィクトルは劇場の南側、旧貯水路の入口で待機。俺たちが内部に入ったら、撤退路を確保してくれ。合図は火弾一発。空に向けて撃つ」
「了解だ」
アルノルトが頷いた。辺境の農民の顔が、蝋燭の灯りの中で険しく見えた。この男は戦いの素人だ。だが山の中で獣を追い、嵐の中で道を見つけてきた人間だ。肝は据わっている。
「内部ではカスパーが先行する。鉄身で前衛。俺が晶鏡で敵の位置を探りながら、鏡刃で排除する。ヨハンは後衛で退路を確保」
「レナの居場所が分からなかったら」
ヨハンが訊いた。
「晶鏡で魔力反応を探る。レナの魔力の波長は知っている。劇場の中にいれば、見つけられるはずだ」
「見つけられなかったら」
「見つける。見つけるまで探す」
ヨハンが頷いた。この男も責任を感じている。レナが一人で出たのは、ヨハンが体調を崩したからだ。その負い目が、ヨハンの目の奥に棲んでいる。
「行くぞ。全員、準備は」
「ある」
「ある」
「ある」
「ある」
四つの声が重なった。
◇
出発前に、フランツと言葉を交わした。
地下室の入口。蝋燭の灯りが、二人の影を壁に映していた。
「フランツ」
「何だ」
「エミルが来たら——伝えてくれ。俺から」
「何と」
「『まだ間に合う。目を開けてくれ』と」
フランツが黙った。
「……届くと思うか」
「分からない。だが言わなければ、永遠に届かない」
「お前のその楽観主義は、前世の何から来ているんだ」
「楽観じゃない。コンビニの深夜勤務で学んだことだ。どんなに不機嫌な客でも、声をかけなければ何も変わらない。声をかけて怒鳴られることもある。だが声をかけなければ、可能性すらない」
フランツが口の端を歪めた。
「コンビニというのが何かは知らないが、お前がそこで学んだことだけは信用する」
拳を突き出した。フランツが拳を合わせた。
それだけの別れだった。
言葉は少ないほうがいい。長い別れの言葉は、二度と会えない前提で語るものだ。
また会う。必ず会う。だからこれは、行ってくるだけの話だ。
◇
夜の市街地を、五人で移動した。
月のない夜だった。雲が空を覆い、星もほとんど見えない。蜂起以来、市街地の街灯は消されている。体制側が灯火管制を敷いたのか、あるいは単に管理する人間がいなくなったのか。
暗闇の中を、壁伝いに進んだ。灰織の微粒子を薄く体の周囲に展開し、気配を消す。完全な隠蔽術ではないが、遠くからの視認を妨げる程度の効果はある。
旧市民劇場が近づいてきた。
煉瓦の壁が、暗闇の中で黒い影として浮かんでいる。窓から灯りが漏れている。ディートリヒの兵がまだ起きているのか。
南側に回り込んだ。旧貯水路の入口——昼間に確認した鉄格子の前に、身を屈めた。
アルノルトとヴィクトルが、道の両側で身を隠した。
「合図を待っていてくれ。火弾を上げたら、ここから全力で南に走る。撤退路はこの道をまっすぐ二百メートル。左に曲がって排水溝の入口に入る」
「分かった。気をつけろ」
アルノルトの声は低く、落ち着いていた。山の男の落ち着き。
「行くぞ」
カスパーが鉄格子に手をかけた。鉄身で強化した指が、錆びた鉄を握り込む。力を入れると、鋲が音を立てて折れた。
鉄格子を静かに外した。地下への入口が開いた。暗い穴が口を開けている。水の匂い。古い石の匂い。
三人で、闇の中に降りた。
旧貯水路の天井は低く、腰を屈めなければ進めなかった。足元に浅い水が流れている。壁は苔むした石で、触れると冷たい。
先頭のカスパーが鉄身の微弱な光を掌に灯した。魔力を極限まで絞った灯火。三歩先までしか見えない。だが目が慣れれば十分だ。
五十メートルほど進んだところで、通路が分岐した。ヘルミーネの地図によれば、右が舞台裏に通じている。
「右だ」
小声で指示した。カスパーが頷いて右に進む。
足音を殺す。呼吸を浅くする。魔力の循環を最小限に抑える。旧式魔法の基礎——存在の希薄化。レナに教わった技術だ。
レナ。今、この建物のどこかにいる。
取り戻す。
通路の先に、上に続く階段が見えた。石段が苔に覆われている。この先が舞台裏だ。
階段の上から、微かに声が聞こえた。人の声。複数。
晶鏡を静かに発動した。魔力の波を極薄く広げ、建物内部の魔力反応を探る。
反応が——ある。
一階に八つ。舞台と客席周辺。見張りか、あるいは休息中の兵士か。
二階に三つ。貴賓席区画。
そのうちの一つが——馴染みのある波長だった。
レナの魔力だ。
二階にいる。フランツの読み通りだ。
だが二階にはレナ以外に二つの魔力反応がある。そのうちの一つは——重い。大きい。大気を押しつぶすような圧を持っている。
ディートリヒ。
あの男が、レナの近くにいる。
心臓の鼓動が速くなった。深呼吸した。一度。二度。三度。
行ける。行くしかない。
「カスパー、ヨハン」
最小の声で二人に伝えた。
「レナは二階だ。ディートリヒもいる。一階に八人。——予定通りにやる」
カスパーが拳を握った。ヨハンが唇を引き結んだ。
階段を、上った。
舞台裏の暗がりに、三つの影が滑り込んだ。
ここから先は——第55話で語ることになる。
だがこの瞬間、俺の頭の中には三つの景色が同時にあった。
目の前の暗闇——ディートリヒの拠点。レナがいる場所。
背後の拠点——フランツたちが守っている場所。エミルが向かっている場所。
そして遥か西方——三千の兵が国境を越えようとしている場所。母の名前が、侵略の旗印にされている場所。
全部が同時に壊れようとしている。
だが——一つずつだ。
まずは、目の前のことから。
レナを取り戻す。
闇の中で、拳を握った。




