二つの刃
ルッツ19歳。レナ救出の準備を進める中、かつての親友が刃を向けてくる。
明日の夜、動く。
その決断を下してから、眠れるはずもなかった。地下室の隅で壁にもたれたまま、蝋燭の灯りを見つめていた。炎が揺れるたびに、影が壁の上で踊る。
レナがいない。
二日前までこの地下室にいた人間が一人欠けているだけで、空気の温度が違う。レナがいつも座っていた壁際の場所に、誰も座らない。暗黙の了解のように、全員がそこを避けている。
フランツが地図を前に、作戦の最終確認をしていた。旧市民劇場の間取り図。ヘルミーネから聞いた構造と、カスパーが昨夜の偵察で確認した現状を重ね合わせたもの。
「地下の旧貯水路から舞台裏に入る。そこから二階の貴賓席区画に上がる。この経路なら、劇場正面の監視を避けられる」
「見張りの数は」
「劇場の外に常時六人。内部は把握しきれないが、二十人前後と見ている。全員が旧式魔法の使い手だ」
四人で二十人の拠点に潜り込む。数字だけ見れば無謀以外の何物でもない。
だがフランツの作戦は、正面から戦うことを前提にしていない。潜入して、レナを確保して、撤退する。戦闘は最小限に。接敵したら即座に離脱。
「問題は、レナの居場所を特定してから脱出するまでの時間だ。五分が限界だ。それ以上かかれば、ディートリヒの増援が間に合う」
「五分」
「厳しいのは分かっている。だが——」
フランツが言葉を切ったのは、階段を降りてくる足音が聞こえたからだ。
ペーターだった。息を切らしている。走ってきたのだろう。顔が赤い。だが赤さの中に、血の気の引いた白さが混じっていた。
「報告がある。悪い知らせだ」
◇
「共和国軍の精鋭部隊が、東区画に向かっている」
地下室の空気が凍った。
フランツが立ち上がった。
「どこからの情報だ」
「ヘルマンだ。元の部隊にまだ繋がりがある。旧知の兵士から密かに知らせが入った」
ヘルマンは体制から離脱してこちらに合流した若い兵士だ。体制を離れてもなお、元の仲間との細い線が残っている。その線が、今、警報を鳴らした。
「精鋭部隊というのは」
「均等裁定院の直属。特務遊撃隊。ヴェルナーの手駒だ。六個小隊、約六十人」
六十人。
俺たちの拠点にいるのは、俺を含めて十数人。レナを除けば、戦闘できる人間はさらに少ない。六十人の精鋭に正面から当たれば、三分と持たない。
「指揮官は誰だ」
ペーターが一瞬、俺の目を見た。言いにくそうに口を開いた。
「——エミル・リヒター」
心臓が、掴まれたように痛んだ。
エミル。
俺の最初の友人。共和国の未来を信じて軍に入った男。最後に顔を合わせた時、「もう俺たちは同じ側にはいない」と言い残した男。
そのエミルが、俺たちを潰しに来る。
「ルッツ」
フランツの声が、遠く聞こえた。
「聞いているか」
「聞いている」
自分の声が平坦なのが分かった。感情が一瞬で凍ったのだ。前世で、突然のシフト変更を告げられた時と同じ反応。受け入れがたい現実に対して、感情が先にシャッターを下ろす。
だが今は、シャッターを下ろしたままではいられない。
「いつ来る」
「早ければ明日の昼過ぎ。遅くとも明後日の朝には、この拠点を包囲するだろう」
明日の昼過ぎ。
レナの救出に動くのは、明日の夜。
時間が、重なっている。
「二正面だ」
フランツが唸るように言った。
「レナの救出と、拠点の防衛。同時にやらなければならない」
◇
全員を集めた。
地下室に残っていた全員——フランツ、カスパー、ヨハン、ペーター、クラウス、ヘルマン、オットー、ゲルト。それに辺境組のアルノルトとヴィクトル。テレーゼとマリアは東区画の連絡網を回しに出ている。
十人の顔を、蝋燭の灯りの中で見渡した。
「状況を話す。レナの救出作戦は予定通り明日の夜に実行する。だがそれと並行して、共和国軍の精鋭部隊がこの拠点に向かっている。指揮官はエミル・リヒター。六十人規模の部隊だ」
沈黙が落ちた。
カスパーが最初に口を開いた。
「六十人。冗談だろ」
「冗談で済めばいいが」
「レナの救出と拠点の防衛、両方を同時にやるのか。人が足りないどころの話じゃない」
「分かっている」
フランツが地図を指した。
「選択肢は三つある」
地図の上に、フランツの指が三つの点を示した。
「一つ目。レナの救出を優先し、拠点を放棄する。全員で劇場に向かい、レナを取り戻してから別の場所に移動する」
「問題は」
「拠点を失えば、ここに集まった人々の居場所がなくなる。辺境との連絡路も断たれる。旗を降ろすのと同じだ」
「二つ目は」
「拠点の防衛を優先し、レナの救出を延期する」
俺の表情を見て、フランツが付け加えた。
「延期だ。中止じゃない。だが——」
「延期すれば、ディートリヒの蜂起が本格化する。蜂起が始まれば混乱の中でレナの安全は保証されない。延期は実質的に——」
「ああ。だから三つ目がある」
フランツの目が、俺を真っ直ぐ見た。
「部隊を分ける。少数精鋭がレナの救出に向かい、残りが拠点を守る」
分散。兵力の分散は、戦の定石では最も愚かな選択だ。少ない兵力をさらに割れば、どちらも中途半端になる。
だが——中途半端こそが、俺たちの戦い方ではなかったか。
「フランツ。救出組は俺とカスパーとヨハンの三人でいい」
「三人か。昨日は四人と言っていたが」
「お前は拠点に残れ。防衛の指揮はお前にしかできない」
フランツが黙った。長い沈黙だった。蝋燭の炎が二度揺れるほどの間。
「俺が残って六十人を相手にする。お前が三人でディートリヒの拠点に潜り込む。どちらも死地だぞ」
「知っている」
「知っていて、やるのか」
「他に道がない」
フランツが腕を組んだ。目を閉じた。そして、開いた。
「分かった。ただし条件がある」
「何だ」
「拠点の防衛は、六十人を正面から迎え撃つわけじゃない。時間を稼ぐだけだ。お前がレナを連れて戻るまでの時間を」
「どれだけ持つ」
「半日。それ以上は保証できない」
半日。レナの救出と帰還を、半日で。
厳しい。厳しいが、不可能ではない。
「やれるか」
「やるしかないだろう」
フランツが鼻を鳴らした。苦笑だ。この男の苦笑を、俺は信頼している。
◇
作戦の詳細を詰めた。
拠点の防衛はフランツが指揮を執る。ヘルマン、オットー、ゲルト、ペーター、クラウスが残る。七人で六十人の精鋭を相手に——正確には、相手にしない。
「正面からぶつからない。地下通路を使って移動し、拠点が複数あるように見せかける。狙いは遅延と混乱だ」
フランツの戦術は、隔離区の壁の中で培われたものだ。壁の中の人間は、力で勝てない体制軍に対して、地の利と情報戦で生き延びてきた。その経験が、今、守りの戦術に変わる。
「ヘルマン。お前は元体制兵だ。精鋭部隊の行動パターンを知っているか」
ヘルマンが頷いた。額に汗が浮いていたが、目は据わっていた。
「特務遊撃隊の基本陣形は知っています。六個小隊のうち、先行する二個小隊が偵察と制圧。残り四個小隊が包囲陣を敷きます。動き出してから包囲完成まで、約一時間」
「一時間あれば十分だ。包囲が完成する前に、こちらは移動する。一箇所に留まらない」
フランツが地図の上に、複数の退避ポイントを書き込んでいった。地下水路、廃屋、崩れた壁の隙間。隔離区の人間だけが知る、壁の外の隠れ場所。レナがヘルミーネの古い地図から写し取った情報が、ここで生きる。
「辺境組のアルノルトとヴィクトルは救出組に合流してくれ」
アルノルトが顔を上げた。
「俺たちでいいのか。魔法はろくに使えないぞ」
「劇場の外での見張りが必要だ。戦闘じゃない。撤退路の確保と合図の伝達。山で培った目と耳が要る」
アルノルトが頷いた。ヴィクトルも静かに拳を握った。
救出組は五人。俺、カスパー、ヨハン、アルノルト、ヴィクトル。
防衛組は七人。フランツ、ヘルマン、オットー、ゲルト、ペーター、クラウス、そして戻り次第テレーゼとマリア。
五人と七人。どちらも圧倒的に足りない。
だが——足りない中でどうするかを考えるのが、俺たちの戦い方だ。
◇
深夜。作戦会議が終わり、交代で仮眠を取ることになった。
だが俺は眠れなかった。
地下室の隅に座り、壁に背を預けていた。隣でカスパーが寝息を立てている。ヨハンは反対側の壁際で、膝を抱えて眠っている。
エミルのことを考えていた。
最後に会ったのは、いつだったか。軍を離反する前、模擬戦で負けた日だ。あの日、エミルは勝っても嬉しそうじゃなかった。俺の魔法に旧式の影を見て、言った。
「お前の魔法、変だぞ」
あの時のエミルの目を思い出す。疑念と、裏切られたような悲しみと、それでもまだ友であろうとする意志が混じった目。
エミルは善人だ。心の底から革命を信じている。信じているがゆえに、信じるものが腐っていることを認められない。母さんがそうだったように、父さんがそうだったように——信じることの代償を、誰よりも重く支払っている。
前世のフリーターだった俺には、何かを信じて裏切られた経験がなかった。信じるものがなかったからだ。会社も社会も国も、最初から信じていなかった。だから裏切りもなかった。
エミルは違う。この国を信じ、革命の理念を信じ、正義を信じている。その信念で精鋭部隊の指揮官にまで登りつめた。今さら「お前が信じたものは嘘だった」と言われても——
言われても、受け入れられるはずがない。
受け入れることは、自分の人生を否定することだから。レナが言っていた通りだ。
だがエミルは、俺たちを潰しに来る。命令に従って。いや、命令だけじゃない。エミルの中には怒りがあるはずだ。俺が体制を裏切ったことへの怒り。旧式魔法を使っていたことへの怒り。友だと思っていた人間に騙されていたという怒り。
その怒りを否定はできない。
俺は確かに、エミルに嘘をついていた。
「眠れないのか」
声がした。ヘルマンだった。見張りの交代で戻ってきたところだ。
「ああ」
ヘルマンが俺の隣に腰を下ろした。二十歳の元体制兵。体制に疑問を持ってこちらに来た若者。エミルと同い年くらいだ。
「エミル・リヒターのこと、考えていたんですか」
「分かるか」
「分かります。あの人の名前を聞いた時の、あなたの顔で」
ヘルマンが壁に頭をもたせかけた。
「俺、訓練所で一度だけリヒター少尉を見たことがあります。模範演武の時に。凄かったですよ。火弾の連射速度が教範の倍以上で、しかも全弾が的の中心に当たっていた。隣にいた同期が『あれが英雄の系譜か』と言ってました」
「エミルは努力の人だ。才能もあるが、それ以上に努力している。この国を守るために」
「あなたの幼馴染なんですよね」
「ああ」
「明日——いや、もう今日か。あの人が攻めてきたら、どうするつもりですか」
答えられなかった。
しばらく沈黙が続いた。蝋燭の灯りが弱くなっていく。蝋が尽きかけている。
「ヘルマン」
「はい」
「お前が体制を離れた時、元の部隊の仲間は——」
「裏切り者と呼ばれました」
ヘルマンの声は静かだった。
「当然です。俺も、あちら側にいたら同じことを言ったと思います。でも——俺は自分の目で見たものを信じたかった。隔離区の子供たちを鎮圧しろと命じられた時、もう無理でした」
「エミルはまだ、信じている」
「ええ。だからこそ強い。信じている人間は強いんです。迷いがないから」
迷いがない。
エミルの強さは、そこにある。新式の正統派として、教科書通りの魔法を教科書通りの精度で叩き込む。迷いのない剣は、迷いのある剣よりも速い。
俺は迷っている。エミルと戦いたくない。だがエミルが来る。
レナを救わなければならない。だがエミルを止めなければ、拠点の仲間が死ぬ。
全部が同時に動いている。全部が同時に——
「ルッツさん」
ヘルマンの声が、思考を引き戻した。
「拠点は俺たちが守ります。フランツさんがいれば、半日は持つ。だから——あなたはレナさんを連れて戻ってきてください。それだけを考えてください」
「それだけ、か」
「はい。全部を一人で背負おうとしないでください。旗の下にいるのは、あなた一人じゃないんですから」
ヘルマンの言葉が、胸に刺さった。
旗の下の人間。こちら側に来て日が浅いのに、もうこの若者は旗の意味を理解している。旗は一人で持つものではない。旗の下に集まった全員で、支えるものだ。
「——ありがとう」
「礼はレナさんを連れて帰ってきてからで」
ヘルマンが立ち上がり、見張りの交代に向かった。
俺は蝋燭の残り火を見つめた。
明日。全てが動く。
◇
夜明け前。
フランツが俺を呼んだ。
地下室の奥、地図を広げたテーブルの前。蝋燭を新しいものに替え、灯りの中でフランツの顔が照らされていた。
「一つ、伝えておくことがある」
「何だ」
「ヘルマンの情報をもう少し掘った。エミルの部隊が東区画に向かう理由が分かった」
「理由?」
「ヴェルナーの命令だ。均等裁定院長が直々に出した。『ルッツ・エーベルハルトの第三勢力を壊滅させ、エーベルハルトを拘束せよ。抵抗する場合は排除を許可する』」
排除。
殺してもいい、ということだ。
「ヴェルナーが俺を名指しで」
「紅の黎明の息子が体制を離反し、革命の理念を叫んでいる。ヴェルナーにとって、お前はディートリヒ以上の脅威だ」
「ディートリヒ以上?」
「ディートリヒは外の敵だ。『旧貴族の反乱を鎮圧する』と言えば、国民は納得する。だがお前は内の敵だ。革命の英雄の息子が、革命の腐敗を告発している。それは体制の正統性そのものを揺るがす」
フランツの分析は、いつも通り冷徹で正確だった。
「そしてヴェルナーはわざとエミルを指揮官に選んだ」
「わざと?」
「お前の幼馴染を。お前が最も戦いたくない相手を。ヴェルナーは情報を持っている。お前とエミルの関係も知っているだろう。お前がエミルの前で動きが鈍ることを、計算に入れている」
背筋が冷えた。
ヴェルナー・グラーン。本心と演技の境界が溶けている男。母の元戦友。体制の頂点に立つ策謀家。
あの男は、エミルを剣として使おうとしている。そしてエミル自身は、使われていることに気づいていないだろう。エミルにとって、この任務は正義の遂行だ。裏切り者を止めること。かつての友が道を誤ったのなら、力ずくでも止めること。
エミルの正義と、ヴェルナーの策略が、一つの刃になって俺に向かってくる。
「フランツ。エミルと戦うことになったら——」
「なったら、じゃない。なる。確実になる。お前が拠点にいなくても、部隊が来れば戦闘は始まる」
「だから頼む。エミルを殺すな」
フランツが一瞬、目を細めた。
「六十人の精鋭を率いて攻めてくる敵の指揮官を、殺すなと」
「エミルは敵じゃない」
「向こうはそうは思っていないぞ」
「分かっている。だが——」
言葉が詰まった。
どう言えばいいのか分からなかった。エミルは敵ではない。だがエミルは攻めてくる。仲間を守るためには戦わなければならない。だがエミルを傷つけたくない。
矛盾だ。どうしようもない矛盾。
フランツが腕を組んだ。長い沈黙の後、低い声で言った。
「やってみる。だが保証はしない。六十人を相手に手加減する余裕があるかどうかは、その場になってみなければ分からん」
「それでいい」
「甘い男だ」
「知ってる」
フランツが鼻を鳴らした。三度目の苦笑だ。
「いいか、ルッツ。お前はレナを取り戻すことだけを考えろ。こっちのことは俺に任せろ。旗持ちには旗持ちの仕事がある。参謀には参謀の仕事がある。全部を一人で抱えるな」
ヘルマンと同じことを言っている。
旗の下の人間は、俺一人じゃない。
頷いた。
拳を握った。
明日の夜——いや、今夜だ。もう夜が明ける。
今夜、レナを取り戻す。
そしてフランツが、エミルを止める。
二つの刃が、同時に俺たちに向けられている。だが俺たちにも二つの手がある。
片方でレナを掴み、片方でエミルの刃を受ける。
どちらの手も離さない。
蝋燭の新しい火が、地下室を照らした。昨日よりも少しだけ明るい灯りの中で、全員の顔が見えた。
怖い顔をしている者もいる。覚悟を決めた顔もある。まだ迷っている顔もある。
だが全員が、ここにいる。
旗の下に。




