奪われた旗
ルッツ19歳。レナが奪われる。
知らせを持ってきたのはカスパーだった。
息を切らして地下の隠し部屋に飛び込んできた少年の顔は、白かった。蝋燭の灯りの下でさえ血の気が引いているのが分かる白さだ。
「レナが攫われた」
体の内側で、何かが凍った。
心臓が一拍飛んだのが分かった。次の拍動が来るまでの空白の中で、頭の中がまっ白になり、そして急速に赤く染まった。
「どこだ」
「南の排水路。避難経路の確認に出たところを、待ち伏せされた。三人組。旧貴族の若い男たちだ。ディートリヒの手の者だと思う」
カスパーの言葉を聞きながら、既に体が動いていた。壁に立てかけた外套を掴み、腕を通す。
「ルッツ」
フランツの声が、低く鋭く響いた。
「止まれ」
「止まってる暇はない」
「だから止まれ。五秒だけ俺の話を聞け」
足が止まったのは、フランツの声に宿った切実さのためだった。この男は無駄なことを言わない。
「罠だ」
「分かってる」
「分かってて突っ込む気か」
「レナを放っておけと言うのか」
声が荒くなった。自覚がある。だが抑えられなかった。
フランツが腕を組んだ。蝋燭の灯りの中で、短く刈った黒髪の下の目が俺を射ていた。
「放っておけとは言わない。だが衝動で動いたら、お前が死ぬ。お前が死んだら、レナを助ける人間がいなくなる」
正しい。正しいことは分かっている。前世の俺なら——いや。前世の俺は、こんな状況に置かれたことがない。誰かを取り戻しに行くということ自体が、今世で初めての経験だ。
息を吐いた。深く。長く。
外套を握る拳の震えが止まるまで、三回呼吸した。
「情報をくれ。全部だ」
◇
カスパーが見たことを、順序立てて語った。
レナは今朝、南の排水路の崩落箇所を確認するために一人で出ていた。非戦闘員の避難経路を確保するための下見だ。俺たちが計画した作業の一環で、本来は二人一組で行うはずだった。
「なぜ一人で出た」
「ヨハンが体調を崩して、代わりがいなかった。レナは『すぐ戻る』と言って出ていった」
俺は唇を噛んだ。レナは守られるためにここにいるのではない。一緒に歩くためにいる。それは分かっている。だが一人で危険な場所に出たことを、今この瞬間だけは悔いている。
「待ち伏せの三人は、南側の外壁付近にいた。レナが排水路の入り口に近づいた時に襲いかかった。俺はたまたま見張りの位置から見えた。駆けつけようとしたが、間に合わなかった」
カスパーの声が震えた。拳が白くなるまで握られている。
「レナは抵抗した。灰幕を展開して逃げようとした。だが三人のうち一人が旧式魔法の使い手で、灰幕を打ち消された。そのまま連れ去られた」
「方向は」
「北東。隔離区の外だ。壁の穴——俺たちが使っているのとは別の箇所から、外に出ていった」
フランツが壁に掛けた手描きの地図に視線を向けた。
「北東はディートリヒの拠点がある方角だな」
「ああ。旧い劇場を拠点にしている。壁から北東に二キロほどの場所だ」
フランツの目が細くなった。
「狙いが読める」
「何だ」
「レナは旧貴族の名門アウアーバッハ家の生き残りだ。ディートリヒにとって、レナは駒以上の価値がある」
フランツの分析は冷徹だった。
「ディートリヒの蜂起は、旧貴族の権利回復を掲げている。だが当の旧貴族たちが全員ディートリヒに従っているわけじゃない。特に若い世代には、ディートリヒの復古主義に疑問を持っている連中もいる。レナが俺たちの側にいるという事実が、その証拠だ」
「だからこそ、レナを取り込みたい。ディートリヒは」
「取り込むというより、利用するだな。アウアーバッハ家の孫娘がディートリヒの側に立てば、それだけで旧貴族たちの求心力になる。『革命に迫害された貴族の娘が、我々と共に立ち上がった』——絵としては最高だ」
テレーゼが口を開いた。この話が始まってからずっと黙っていた少女が、低い声で言った。
「レナは応じないわ。絶対に」
「分かってる」フランツが頷いた。「だからこそ問題なんだ。レナが拒否すれば、ディートリヒには二つの選択肢がある。一つは、脅して従わせる。もう一つは——」
「俺たちを誘い出す餌にする」
俺の声は自分でも驚くほど静かだった。怒りが一周回って、冷えたのだ。
「その通りだ」フランツが俺を見た。「お前が来ると分かっている。ルッツ・エーベルハルトは仲間を見捨てない。それはもう、隔離区の中でも知られている。だからこそ罠になる」
「罠だと分かっていても、行かなければならない」
「ああ。だが行き方の問題だ。罠に飛び込むのと、罠を承知で踏み込むのは、まるで違う」
フランツの声に、参謀としての冷静さが戻っていた。
◇
地下室に残っていた全員——フランツ、カスパー、テレーゼ、ヨハン、ペーター、クラウス——が集まった。マリアは東区画の老人たちへの連絡に出ている。
「まず状況を整理する」
フランツが壁の地図を指した。
「レナが連れ去られたのはここ。南の排水路入り口。連れ去られた方向は北東。おそらくディートリヒの拠点——旧市民劇場に向かっている」
「旧市民劇場か。革命前は貴族たちの社交場だった場所よね」テレーゼが言った。「壁が厚い。地下もある。防御には向いている」
「ディートリヒの兵力は」
「正確には分からない。だが、俺たちの情報網から推測して、劇場周辺に常時二十から三十人はいる。全員が旧式魔法の使い手だ」
二十から三十。こちらは俺を含めて八人。レナを引けば七人。単純な戦力比で四倍以上の差がある。
しかも相手は旧式魔法の精鋭だ。ディートリヒ自身が育てた兵士たち。隔離区の若者たちとは練度が違う。
「正面からは無理だ」カスパーが言った。「それは全員分かってる。だったらどうする」
俺は考えていた。
ディートリヒの目的がレナの象徴利用であれば、レナをすぐには傷つけない。ディートリヒは理知的な男だ。暴力で従わせるよりも、説得で取り込もうとするだろう。それには時間がかかる。
だが逆に言えば、時間が経てば経つほど状況は悪くなる。ディートリヒが蜂起の声明を出した以上、蜂起は間近だ。蜂起が始まれば混乱の中でレナの安全は保証されない。
「猶予はどれくらいだ」
「蜂起の時期次第だが、長くて二日。短ければ今夜にも動きがある」
二日。
焦りが喉の奥を焼いた。
ディートリヒの拠点に突入するには準備が要る。だが準備に時間をかけすぎれば、蜂起が始まってしまう。
全部が同時に動いている。全部が同時に壊れようとしている。
「ルッツ」
フランツの声で、我に返った。
「一つ聞くぞ。お前はレナを取り戻すために、何を差し出す覚悟がある」
重い問いだった。
フランツが聞いているのは感情の話ではない。戦略の話だ。レナ一人を救うために、この拠点の防衛を手薄にしていいのか。仲間全員の安全を賭けて、一人を助けに行くのか。
前世ならば答えられなかっただろう。一人の人間のために全体を危険にさらすことの是非。合理的に考えれば、答えは明白だ。
だが俺は合理だけで生きると決めたわけではない。旗の下にいる人間を生かすと誓ったのだ。レナもまた、旗の下にいる。
「レナは俺たちの仲間だ。旗の下にいる人間を見捨てた瞬間に、この旗は意味を失う」
「分かった」フランツが即座に頷いた。「俺もそう思っていた。確認しただけだ」
少しだけ、驚いた。
「ただし、やり方は俺たちで決める。お前一人で突っ込むのだけは許さん」
フランツの目が真剣だった。その目の奥に、怒りが見えた。レナが攫われたことへの怒り。そしてレナを守れなかった自分たちへの怒り。
「全員で考える。全員で動く。旗の下の全員でな」
カスパーが拳を握った。テレーゼが唇を引き結んだ。ヨハンが——体調が悪いはずのヨハンが、青い顔のまま立ち上がった。
「俺のせいだ。俺が体調を崩さなければ、レナは一人で出なかった」
「お前のせいじゃない」
「だが——」
「お前のせいじゃない。ディートリヒが仕掛けてきたんだ。狙うタイミングを待っていた。お前が一緒にいても、三対二になっただけだ」
ヨハンの顔に、わずかに色が戻った。だが拳は握られたままだ。
「頼みがある。救出に俺も行かせてくれ」
断る理由はなかった。
◇
その夜、地下室で作戦を練った。
蝋燭を三本灯し、地図を広げた。フランツが手描きで旧市民劇場の間取りを書き足していく。ヘルミーネから聞いた革命前の構造と、カスパーが偵察で得た現在の情報を突き合わせる。
「正面入り口は使えない。監視がある。裏口は二箇所。東側の搬入口と、地下に通じる旧貯水路」
「旧貯水路。ヘルミーネさんに聞けば、詳しい構造が分かるか」
「聞いた。革命前に何度も劇場に通ったそうだ。地下の通路は舞台裏に繋がっている」
フランツの調査力には舌を巻く。レナが攫われてからまだ半日も経っていないのに、既にこれだけの情報を集めている。
「だが問題がある」
「何だ」
「レナがどこに閉じ込められているか分からない。劇場の中にいるのか、別の場所に移されたのか」
俺は目を閉じた。
ディートリヒの性格を考えた。あの男は理知的で、自分の行動に意味を持たせる。レナを捕らえたのは象徴として利用するためだ。であれば、レナを粗末に扱うことはしない。
むしろ丁重に扱うだろう。「我々は革命政府とは違い、貴族の娘を人間として遇する」という姿勢を見せるために。
「レナは劇場の中にいるはずだ。ディートリヒが直接管理する場所に。客間か、あるいは舞台裏の控え室か」
「根拠は」
「ディートリヒの目的を考えれば、レナを隠す理由がない。むしろ見せたいはずだ。自分の陣営にアウアーバッハ家の孫娘がいるという事実を」
フランツが考え込んだ。そして頷いた。
「理に適っている。だとすれば、レナの居場所は特定しやすい。劇場の上階、貴賓席のあった区画だろう。ディートリヒ自身の部屋に近い場所だ」
「レナに近づくには、ディートリヒの側近を突破しなければならない」
「ああ。問題はそこだ」
蝋燭の炎が揺れた。風が入り込んだのか、地下室の温度が少し下がった気がした。
「ルッツ。正直に言う」
フランツが俺を見た。
「救出の成功確率は高くない。だが、やらなければならない」
「分かっている」
「だからこそ、準備を尽くす。時間は少ないが、ゼロじゃない。明日の夜までに、できる限りの情報を集める。拠点の防衛はテレーゼとペーターとクラウスに任せる。お前と俺と——」
「俺も行く」
カスパーだった。
「俺と、ヨハンも」
四人。四人で三十人の拠点に潜入する。正気の沙汰ではない。
だが正気でいられる状況でもなかった。
「フランツ。一つだけ約束してくれ」
「何だ」
「俺が失敗したら、お前は拠点を守れ。ここにいる全員を生かせ」
フランツの目が、一瞬だけ揺れた。
「旗持ちが先に死ぬなと言ったはずだ」
「死ぬつもりはない。だが万が一の話だ」
「万が一は考えない主義だ。お前が戻ってくるのを前提に作戦を立てる。それ以外の計画は立てない」
頑固な男だ。
だがその頑固さに、今は救われた。
◇
深夜。
全員が準備に動く中、俺は一人で地下室の隅にいた。
手のひらを見つめていた。レナの手を握った感触を思い出していた。壁際の痩せた木の下で、夕暮れの逆光の中で、微笑んだ顔。
約束した。守られるためではなく、共に歩くために。
その約束を、まだ果たしていない。
胸の奥で何かが軋んでいた。怒りと焦りと恐怖が混じり合った、名前のない感情。前世では感じたことがない。前世では、失いたくないものがなかったから。
今は、ある。
レナを——取り戻す。ディートリヒの罠でも構わない。踏み抜いてみせる。
蝋燭の灯りが揺れた。
拳を握った。
明日、動く。




