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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

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奪われた旗

ルッツ19歳。レナが奪われる。

知らせを持ってきたのはカスパーだった。


 息を切らして地下の隠し部屋に飛び込んできた少年の顔は、白かった。蝋燭の灯りの下でさえ血の気が引いているのが分かる白さだ。


「レナが攫われた」


 体の内側で、何かが凍った。


 心臓が一拍飛んだのが分かった。次の拍動が来るまでの空白の中で、頭の中がまっ白になり、そして急速に赤く染まった。


「どこだ」


「南の排水路。避難経路の確認に出たところを、待ち伏せされた。三人組。旧貴族の若い男たちだ。ディートリヒの手の者だと思う」


 カスパーの言葉を聞きながら、既に体が動いていた。壁に立てかけた外套を掴み、腕を通す。


「ルッツ」


 フランツの声が、低く鋭く響いた。


「止まれ」


「止まってる暇はない」


「だから止まれ。五秒だけ俺の話を聞け」


 足が止まったのは、フランツの声に宿った切実さのためだった。この男は無駄なことを言わない。


「罠だ」


「分かってる」


「分かってて突っ込む気か」


「レナを放っておけと言うのか」


 声が荒くなった。自覚がある。だが抑えられなかった。


 フランツが腕を組んだ。蝋燭の灯りの中で、短く刈った黒髪の下の目が俺を射ていた。


「放っておけとは言わない。だが衝動で動いたら、お前が死ぬ。お前が死んだら、レナを助ける人間がいなくなる」


 正しい。正しいことは分かっている。前世の俺なら——いや。前世の俺は、こんな状況に置かれたことがない。誰かを取り戻しに行くということ自体が、今世で初めての経験だ。


 息を吐いた。深く。長く。


 外套を握る拳の震えが止まるまで、三回呼吸した。


「情報をくれ。全部だ」


          ◇


 カスパーが見たことを、順序立てて語った。


 レナは今朝、南の排水路の崩落箇所を確認するために一人で出ていた。非戦闘員の避難経路を確保するための下見だ。俺たちが計画した作業の一環で、本来は二人一組で行うはずだった。


「なぜ一人で出た」


「ヨハンが体調を崩して、代わりがいなかった。レナは『すぐ戻る』と言って出ていった」


 俺は唇を噛んだ。レナは守られるためにここにいるのではない。一緒に歩くためにいる。それは分かっている。だが一人で危険な場所に出たことを、今この瞬間だけは悔いている。


「待ち伏せの三人は、南側の外壁付近にいた。レナが排水路の入り口に近づいた時に襲いかかった。俺はたまたま見張りの位置から見えた。駆けつけようとしたが、間に合わなかった」


 カスパーの声が震えた。拳が白くなるまで握られている。


「レナは抵抗した。灰幕(シュライアー)を展開して逃げようとした。だが三人のうち一人が旧式魔法(アルテ)の使い手で、灰幕を打ち消された。そのまま連れ去られた」


「方向は」


「北東。隔離区の外だ。壁の穴——俺たちが使っているのとは別の箇所から、外に出ていった」


 フランツが壁に掛けた手描きの地図に視線を向けた。


「北東はディートリヒの拠点がある方角だな」


「ああ。旧い劇場を拠点にしている。壁から北東に二キロほどの場所だ」


 フランツの目が細くなった。


「狙いが読める」


「何だ」


「レナは旧貴族の名門アウアーバッハ家の生き残りだ。ディートリヒにとって、レナは駒以上の価値がある」


 フランツの分析は冷徹だった。


「ディートリヒの蜂起は、旧貴族の権利回復を掲げている。だが当の旧貴族たちが全員ディートリヒに従っているわけじゃない。特に若い世代には、ディートリヒの復古主義に疑問を持っている連中もいる。レナが俺たちの側にいるという事実が、その証拠だ」


「だからこそ、レナを取り込みたい。ディートリヒは」


「取り込むというより、利用するだな。アウアーバッハ家の孫娘がディートリヒの側に立てば、それだけで旧貴族たちの求心力になる。『革命に迫害された貴族の娘が、我々と共に立ち上がった』——絵としては最高だ」


 テレーゼが口を開いた。この話が始まってからずっと黙っていた少女が、低い声で言った。


「レナは応じないわ。絶対に」


「分かってる」フランツが頷いた。「だからこそ問題なんだ。レナが拒否すれば、ディートリヒには二つの選択肢がある。一つは、脅して従わせる。もう一つは——」


「俺たちを誘い出す餌にする」


 俺の声は自分でも驚くほど静かだった。怒りが一周回って、冷えたのだ。


「その通りだ」フランツが俺を見た。「お前が来ると分かっている。ルッツ・エーベルハルトは仲間を見捨てない。それはもう、隔離区の中でも知られている。だからこそ罠になる」


「罠だと分かっていても、行かなければならない」


「ああ。だが行き方の問題だ。罠に飛び込むのと、罠を承知で踏み込むのは、まるで違う」


 フランツの声に、参謀としての冷静さが戻っていた。


          ◇


 地下室に残っていた全員——フランツ、カスパー、テレーゼ、ヨハン、ペーター、クラウス——が集まった。マリアは東区画の老人たちへの連絡に出ている。


「まず状況を整理する」


 フランツが壁の地図を指した。


「レナが連れ去られたのはここ。南の排水路入り口。連れ去られた方向は北東。おそらくディートリヒの拠点——旧市民劇場に向かっている」


「旧市民劇場か。革命前は貴族たちの社交場だった場所よね」テレーゼが言った。「壁が厚い。地下もある。防御には向いている」


「ディートリヒの兵力は」


「正確には分からない。だが、俺たちの情報網から推測して、劇場周辺に常時二十から三十人はいる。全員が旧式魔法(アルテ)の使い手だ」


 二十から三十。こちらは俺を含めて八人。レナを引けば七人。単純な戦力比で四倍以上の差がある。


 しかも相手は旧式魔法の精鋭だ。ディートリヒ自身が育てた兵士たち。隔離区の若者たちとは練度が違う。


「正面からは無理だ」カスパーが言った。「それは全員分かってる。だったらどうする」


 俺は考えていた。


 ディートリヒの目的がレナの象徴利用であれば、レナをすぐには傷つけない。ディートリヒは理知的な男だ。暴力で従わせるよりも、説得で取り込もうとするだろう。それには時間がかかる。


 だが逆に言えば、時間が経てば経つほど状況は悪くなる。ディートリヒが蜂起の声明を出した以上、蜂起は間近だ。蜂起が始まれば混乱の中でレナの安全は保証されない。


「猶予はどれくらいだ」


「蜂起の時期次第だが、長くて二日。短ければ今夜にも動きがある」


 二日。


 焦りが喉の奥を焼いた。


 ディートリヒの拠点に突入するには準備が要る。だが準備に時間をかけすぎれば、蜂起が始まってしまう。


 全部が同時に動いている。全部が同時に壊れようとしている。


「ルッツ」


 フランツの声で、我に返った。


「一つ聞くぞ。お前はレナを取り戻すために、何を差し出す覚悟がある」


 重い問いだった。


 フランツが聞いているのは感情の話ではない。戦略の話だ。レナ一人を救うために、この拠点の防衛を手薄にしていいのか。仲間全員の安全を賭けて、一人を助けに行くのか。


 前世ならば答えられなかっただろう。一人の人間のために全体を危険にさらすことの是非。合理的に考えれば、答えは明白だ。


 だが俺は合理だけで生きると決めたわけではない。旗の下にいる人間を生かすと誓ったのだ。レナもまた、旗の下にいる。


「レナは俺たちの仲間だ。旗の下にいる人間を見捨てた瞬間に、この旗は意味を失う」


「分かった」フランツが即座に頷いた。「俺もそう思っていた。確認しただけだ」


 少しだけ、驚いた。


「ただし、やり方は俺たちで決める。お前一人で突っ込むのだけは許さん」


 フランツの目が真剣だった。その目の奥に、怒りが見えた。レナが攫われたことへの怒り。そしてレナを守れなかった自分たちへの怒り。


「全員で考える。全員で動く。旗の下の全員でな」


 カスパーが拳を握った。テレーゼが唇を引き結んだ。ヨハンが——体調が悪いはずのヨハンが、青い顔のまま立ち上がった。


「俺のせいだ。俺が体調を崩さなければ、レナは一人で出なかった」


「お前のせいじゃない」


「だが——」


「お前のせいじゃない。ディートリヒが仕掛けてきたんだ。狙うタイミングを待っていた。お前が一緒にいても、三対二になっただけだ」


 ヨハンの顔に、わずかに色が戻った。だが拳は握られたままだ。


「頼みがある。救出に俺も行かせてくれ」


 断る理由はなかった。


          ◇


 その夜、地下室で作戦を練った。


 蝋燭を三本灯し、地図を広げた。フランツが手描きで旧市民劇場の間取りを書き足していく。ヘルミーネから聞いた革命前の構造と、カスパーが偵察で得た現在の情報を突き合わせる。


「正面入り口は使えない。監視がある。裏口は二箇所。東側の搬入口と、地下に通じる旧貯水路」


「旧貯水路。ヘルミーネさんに聞けば、詳しい構造が分かるか」


「聞いた。革命前に何度も劇場に通ったそうだ。地下の通路は舞台裏に繋がっている」


 フランツの調査力には舌を巻く。レナが攫われてからまだ半日も経っていないのに、既にこれだけの情報を集めている。


「だが問題がある」


「何だ」


「レナがどこに閉じ込められているか分からない。劇場の中にいるのか、別の場所に移されたのか」


 俺は目を閉じた。


 ディートリヒの性格を考えた。あの男は理知的で、自分の行動に意味を持たせる。レナを捕らえたのは象徴として利用するためだ。であれば、レナを粗末に扱うことはしない。


 むしろ丁重に扱うだろう。「我々は革命政府とは違い、貴族の娘を人間として遇する」という姿勢を見せるために。


「レナは劇場の中にいるはずだ。ディートリヒが直接管理する場所に。客間か、あるいは舞台裏の控え室か」


「根拠は」


「ディートリヒの目的を考えれば、レナを隠す理由がない。むしろ見せたいはずだ。自分の陣営にアウアーバッハ家の孫娘がいるという事実を」


 フランツが考え込んだ。そして頷いた。


「理に適っている。だとすれば、レナの居場所は特定しやすい。劇場の上階、貴賓席のあった区画だろう。ディートリヒ自身の部屋に近い場所だ」


「レナに近づくには、ディートリヒの側近を突破しなければならない」


「ああ。問題はそこだ」


 蝋燭の炎が揺れた。風が入り込んだのか、地下室の温度が少し下がった気がした。


「ルッツ。正直に言う」


 フランツが俺を見た。


「救出の成功確率は高くない。だが、やらなければならない」


「分かっている」


「だからこそ、準備を尽くす。時間は少ないが、ゼロじゃない。明日の夜までに、できる限りの情報を集める。拠点の防衛はテレーゼとペーターとクラウスに任せる。お前と俺と——」


「俺も行く」


 カスパーだった。


「俺と、ヨハンも」


 四人。四人で三十人の拠点に潜入する。正気の沙汰ではない。


 だが正気でいられる状況でもなかった。


「フランツ。一つだけ約束してくれ」


「何だ」


「俺が失敗したら、お前は拠点を守れ。ここにいる全員を生かせ」


 フランツの目が、一瞬だけ揺れた。


「旗持ちが先に死ぬなと言ったはずだ」


「死ぬつもりはない。だが万が一の話だ」


「万が一は考えない主義だ。お前が戻ってくるのを前提に作戦を立てる。それ以外の計画は立てない」


 頑固な男だ。


 だがその頑固さに、今は救われた。


          ◇


 深夜。


 全員が準備に動く中、俺は一人で地下室の隅にいた。


 手のひらを見つめていた。レナの手を握った感触を思い出していた。壁際の痩せた木の下で、夕暮れの逆光の中で、微笑んだ顔。


 約束した。守られるためではなく、共に歩くために。


 その約束を、まだ果たしていない。


 胸の奥で何かが軋んでいた。怒りと焦りと恐怖が混じり合った、名前のない感情。前世では感じたことがない。前世では、失いたくないものがなかったから。


 今は、ある。


 レナを——取り戻す。ディートリヒの罠でも構わない。踏み抜いてみせる。


 蝋燭の灯りが揺れた。


 拳を握った。


 明日、動く。

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