名前を呼べなかった男
ルッツ19歳。旗の下で死んだ人間の名前を、知らなかった。
最初に感じたのは痛みだった。
体中が軋んでいる。肋骨、左腕、脇腹、右肩、胸、太腿。ディートリヒの雷響と焔織に焼かれた場所が、一つ一つ正確に痛みを訴えてくる。
次に感じたのは、温かさだった。
背中の下に何かが敷かれている。毛布か外套か。固い地面ではない。誰かが用意してくれたのだろう。
目を開けた。
天井は石だった。地下だ。新しい拠点——旧穀物市場の地下室ではない。もっと狭い場所だ。排水路の分岐点にある小部屋。以前レナが避難経路として確保していた場所の一つ。
蝋燭が二本灯されていた。その灯りの中に、レナの横顔があった。
壁にもたれて座り、俺の脇腹に手を当てている。暁謡の微弱な治癒の光が、レナの手の下で細く脈打っていた。
「——起きたのね」
声は静かだった。疲労が滲んでいたが、崩れてはいなかった。
「どれくらい寝てた」
「一日と少し。夜を二つ跨いだわ」
一日。一日も意識を失っていたのか。
体を起こそうとした。左腕に激痛が走り、声が漏れた。
「動かないで。肋骨が二本折れている。左腕は脱臼を戻したけれど、まだ腫れが引いていない。脇腹の火傷は暁謡で表面は塞いだけど、深部まではまだ」
「レナがやってくれたのか」
「リーゼと交代で。リーゼは元衛生兵だから、骨の処置はあの人がやった。暁謡は私しか使えないから、その部分は私が」
レナの目の下に濃い影があった。一日以上、ほとんど眠っていないのだろう。治癒魔法は術者の体力を消耗する。旧式の暁謡は省魔力だが、長時間の持続は身体に堪える。
「ありがとう」
「お礼はいいから、報告を聞いて」
レナの声が少しだけ硬くなった。報告。そうだ。俺が意識を失っている間に、何があった。
「全員無事か」
当たり前のように訊いた。だが——レナの表情で、答えが分かった。
「——誰だ」
レナは一瞬、目を伏せた。そしてすぐに顔を上げた。
「辺境から来た人。撤退する時に、殿を務めてくれた三人のうちの一人。リーゼとヴィクトルは怪我をしたけれど生きている。もう一人が——」
「名前は」
自分の声が遠く聞こえた。
「分からない」
レナの声が震えた。一瞬だけ。
「アルノルトに聞いた。集落から来たばかりで、まだ自己紹介もしていなかった。アルノルトも本名は知らなかった。集落では皆があだ名で呼び合っているから——」
名前を、知らない。
俺の旗の下で死んだ人間の名前を、俺は知らない。
◇
しばらく、天井を見つめていた。
石の天井に蝋燭の影が揺れている。何の模様もない灰色の石だ。
名前を聞く前に死んだ。
意識が落ちる直前、カスパーの声が聞こえた。「一人、やられた」。あれが最後の記憶だった。
あの瞬間、俺は担架の上で何もできなかった。体が動かなかった。声も出なかった。旗を掲げた人間が、旗の下で死ぬ人間を見送ることすらできなかった。
前世では、人の死は遠かった。
コンビニの夜勤中に救急車のサイレンを聞くことはあった。倉庫で一緒に働いていた年配の男が、ある日来なくなって、後から心筋梗塞で死んだと聞いた。配達の途中で事故現場を通りかかったこともある。
だがどれも、遠い出来事だった。自分のせいで死んだ人間はいなかった。
今は違う。
あの男は——名前すら知らないあの男は、俺の撤退を守るために殿に残った。俺が旗を掲げたから、辺境から来た。俺が戦いに出たから、殿を務めることになった。俺がディートリヒに負けたから、撤退戦が発生した。
因果を辿れば、すべてが俺に行き着く。
「ルッツ」
レナの声で、思考が途切れた。
「自分を責めているのは分かるわ。でも今は——」
「今は、何だ」
声が荒くなった。自分でも分かっていた。レナに当たっているわけではない。だが、どこにも向けられない感情が、声に出てしまう。
レナは黙っていた。
数秒の沈黙の後、レナが言った。
「今は、生きている人間のことを考えて」
静かで、冷たい言葉だった。だがその冷たさは突き放しではなかった。必要な冷たさだった。感情に溺れている俺を、現実に引き戻すための。
「……状況を教えてくれ」
「カスパーとベルトルトが担架を担いでここまで運んだ。フランツたちと合流した後、一旦この場所に退避した。旧穀物市場の拠点は無事。体制軍もディートリヒ軍も、今は互いに集中しているから、俺たちのことは後回しになっている」
「仲間は」
「全員、拠点に戻っている。ヴィクトルは左肩を斬られたけれど、命に別状はない。リーゼは打撲。カスパーは壁に叩きつけられた時の痣が酷いけど動ける」
「ディートリヒは」
「蜂起を継続している。市街地の北東部を制圧したらしい。体制軍と膠着状態」
俺は右手で顔を覆った。左手は動かせない。
ディートリヒとの力の差を思い知った。あの男の焔織には綻びがなかった。鏡刃は通じなかった。灰織では防ぎきれなかった。正面からぶつかって、一方的に叩きのめされた。
かすり傷一つ——いや、頬の一筋の切り傷だけだ。俺の全力が、それだけだった。
それと引き換えに、人が一人死んだ。
「レナ」
「何」
「あの人の——名前も知らない、辺境から来た人の。弔いは」
レナが少し間を置いた。
「アルノルトが取り仕切った。遺体は回収できなかったけれど、辺境の風習で——空に向かって名前を呼ぶ弔いがあるそうよ。でも名前が分からないから」
「分からないから」
「アルノルトは、『旗の下で死んだ男』と呼んだ。それが弔いの名になった」
旗の下で死んだ男。
名前の代わりに、死に方が名前になった。
胸の奥で何かが崩れた。涙ではない。もっと乾いた、砂のような感覚だった。
前世で死んだ時、俺の名前を呼ぶ人間はいなかっただろう。コンビニのバックヤードで倒れた三十一歳のフリーター。「バイトの人が倒れたらしい」。それだけで片付けられたはずだ。
あの男も——名前を呼ばれないまま、死んだ。
俺と、同じだ。
◇
どれくらい時間が経ったか分からない。
レナが横で眠っていた。座ったまま壁にもたれて、浅い呼吸を繰り返している。限界だったのだろう。俺の治療と看護で、体力を使い果たしている。
蝋燭が一本消えた。残り一本の灯りの中で、レナの横顔を見た。
紫の瞳は閉じられている。薄い唇が微かに開いていて、規則的な呼吸が聞こえる。頬がこけている。食事も満足に取れていないのだろう。
この人間を、守ると決めた。
だが守るためには、力が要る。力を使えば、旗の下の人間が犠牲になる。旗を降ろせば、ここにいる全員の居場所がなくなる。
答えの出ない問いが、蝋燭の灯りの中で堂々巡りしていた。
足音が近づいてきた。
フランツだった。排水路を通ってきたらしく、膝まで泥で汚れている。
「起きたか」
「ああ」
「体は」
「最悪だ。だが死んでない」
「死んでなきゃ十分だ」
フランツがレナの隣に腰を下ろした。眠っているレナを一瞥して、声を落とした。
「話がある」
「聞く」
「お前が倒れている間に、動きがあった。二つ」
フランツが指を二本立てた。
「一つ目。辺境のアルノルトの集落から、さらに四人が合流した。あの男が死んだと聞いて、逆に来た。弔い合戦の気持ちもあるだろうが、それだけじゃない。旗の下で死んだ仲間がいるのに、自分だけ安全な場所にいるのが耐えられなかったんだろう」
死者が、生者を呼んでいる。旗を降ろさなかったことが——犠牲があったにも関わらず旗が立ち続けていることが、新しい人間を引き寄せている。
皮肉な話だ。だが、それが現実だ。
「二つ目。隔離区の中から、テレーゼが若者四人を連れて壁の外に出た。合計で二十五人になった。ヨハンとペーターは連絡役として隔離区と拠点を往復している」
二十五人。
一人減って、八人増えた。
数字だけを見れば、増えている。だがその一人の減少の重さは、八人の増加では埋められない。
「もう一つ、言っておくことがある」
フランツの声が、少しだけ変わった。冷静な分析者の声から、何か別のものが混じった声に。
「死んだ男の名前が分かった」
心臓が跳ねた。
「アルノルトの集落から来た四人のうちの一人が、あの男と同じ村の出身だった。名前は——ヨーゼフ。ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻と子供が一人いる」
ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻と子供。
前世の俺より三つ上だった。俺が死んだ時、俺は三十一歳で、妻も子供もいなかった。
ヨーゼフ・ランゲには、帰る場所があった。待っている人間がいた。それなのに、俺の旗の下に来て、俺の撤退を守って、死んだ。
「……ヨーゼフ」
名前を口にした。
声に出すと、重さが変わった。「辺境から来た名前も知らない男」から、「ヨーゼフ・ランゲ」になった。名前があると、その後ろに人生が見える。朝起きて、畑を耕して、子供を抱き上げて、妻と食卓を囲んで。そういう日常があったはずの人間が、俺の旗の下で死んだ。
「フランツ。俺は——」
「言うな」
フランツが遮った。珍しく強い口調だった。
「お前が『俺のせいだ』と言おうとしてるのは分かる。だがそれは半分正しくて、半分間違っている」
「半分?」
「お前が旗を掲げなければ、ヨーゼフはここに来なかった。それは事実だ。だがお前が旗を掲げなければ、隔離区の住民は三十四人、あの日逃げ場を失っていた。体制軍とディートリヒ軍の戦闘の中で」
第49話の朝。隔離区が戦場になった日。俺たちが広場を走り抜けて避難民を南の排水路に誘導した日。あの三十四人は、俺たちがいなければ逃げられなかった。
「旗を掲げたことで救われた人間がいる。旗を掲げたことで死んだ人間もいる。そのどちらも事実で、どちらか一方だけを見ることは——嘘だ」
フランツの目が蝋燭の灯りの中で光っていた。
「壁の中で十五年暮らして学んだことが一つある。人の命を数字で計る奴は、必ず道を間違える。三十四人救ったから一人の犠牲は許される——そういう計算をし始めた瞬間に、人は旗を掲げる資格を失う」
「じゃあ、どうすればいい」
「覚えておく。名前を覚えておく。ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻子あり。旗の下で死んだ。それを忘れずに、次の判断をする。それしかない」
フランツは立ち上がった。
「レナを起こすな。あと二時間は寝かせてやれ」
「分かった」
「それと——お前も寝ろ。明日から動く。動ける体にしておけ」
フランツが排水路に消えていった。
泥の足跡が残った。
◇
フランツが去った後、眠れなかった。
天井を見つめたまま、ヨーゼフ・ランゲのことを考えていた。
会話をした記憶がない。辺境から来た五人のうちの一人として、俺の視界の端にはいた。だが名前を聞かなかった。アルノルトとは話した。他の辺境民とも顔は合わせた。だがヨーゼフとは——直接言葉を交わした記憶がない。
なぜだ。
十七人しかいなかった。全員の顔が見える規模だった。それなのに、一人の名前を聞かなかった。
前世のコンビニでもあったことだ。新しく入ったバイトの名前を聞く前に辞めていく。「昨日来た子、もう辞めたよ」「名前なんだっけ」「知らない。一日で来なくなった」。そういうことが何度もあった。
あの時は仕方がないと思っていた。来ては去る人間の名前を、いちいち覚えていられない。
だが今は違う。
ここは職場ではない。旗の下だ。旗の下で命を懸けている人間の名前を知らないなど、あってはならなかった。
俺の怠慢だ。
指揮官として、旗持ちとして、人の上に立つ人間として——名前を聞くことを、後回しにした。
旗が立ったばかりで忙しかった? 言い訳だ。名前を聞く時間は、三秒あれば足りる。
「ヨーゼフ・ランゲ」
もう一度、声に出した。暗い天井に向かって。
返事はない。当然だ。死者は答えない。
だが、名前を呼ぶことはできる。
あの男の人生を知ることはもうできない。何が好きで、何を恐れて、何のために辺境を出てきたのか。妻の名前。子供の年齢。集落での暮らし。何一つ聞かなかった。
聞けなかった、ではない。聞かなかった。
その差は——深い。
◇
翌朝。
体に鞭を打って起き上がった。肋骨が軋む。左腕はまだ完全には動かない。だが歩ける。歩けるなら、動ける。
レナが目を覚ましたのは俺より少し後だった。
「動いて大丈夫なの」
「大丈夫じゃないが、寝ていても仕方がない」
「二日前に死にかけた人間の台詞じゃないわね」
「死にかけた程度で寝ているほど暇じゃない」
レナが呆れたように息を吐いた。だがその目の奥に、安堵の色が見えた。
排水路を通って、旧穀物市場の拠点に向かった。レナが先導し、俺はその後ろをゆっくり歩いた。体が重い。一歩ごとに脇腹が痛む。
拠点に着くと、フランツが入り口で待っていた。
「歩けるのか」
「歩いてきた」
「馬鹿だな。担架を出そうかと思ったのに」
「担架は遠慮する。もう二度と乗りたくない」
地下に降りると、全員がいた。
二十五人。新しく加わった顔が八つある。辺境からの四人と、隔離区からの四人。
全員の目が俺を見た。
心配の目。安堵の目。そして——期待の目。
期待。旗持ちが起き上がったことへの、期待。
その期待の重さが、折れた肋骨よりも痛かった。
俺は地下室の中央に立った。全員が見渡せる位置に。
「一つだけ、言わせてくれ」
二十五の顔が、俺を見ている。
「ヨーゼフ・ランゲ」
名前を呼んだ。
辺境民の何人かが、はっとした顔をした。新しく来た四人のうちの一人——同じ村の出身だというあの男が、唇を噛んだ。
「三十四歳。辺境のグレンツベルク近くの集落から来た。妻と子供がいる。俺が意識を失って担架で運ばれた時、殿を務めて、体制軍の追手と戦って——死んだ」
地下室が静まり返った。
「俺は——この人の名前を知らなかった。旗の下にいてくれた人なのに、名前を聞いていなかった。それは俺の落ち度だ。謝って済む話じゃない。だが——」
声が震えた。堪えた。
「これだけは言う。ヨーゼフ・ランゲは、俺の旗の下で死んだ。俺が旗を掲げたから、この人は辺境を出て、ここに来て、命を落とした。その責任は俺にある」
アルノルトが腕を組んだまま、黙って俺を見ていた。その目に涙はなかったが、目の奥に何かが揺れていた。
「旗の下で死んだ仲間の名前を、俺は一生忘れない。そして、もう二度と——名前を知らないまま見送ることはしない」
俺は全員を見回した。新しい顔。古い顔。隔離区の若者。体制の離脱兵。辺境の農民。
「改めて——一人ずつ、名前を聞かせてくれ」
沈黙が三秒あった。
最初に口を開いたのは、新しく来た辺境民の一人だった。ヨーゼフと同じ村の男。
「マティアス・ブルーン。三十一歳。ヨーゼフは——俺の隣人だった」
三十一歳。前世の俺と同い年だ。
「マティアス。よろしく頼む」
「ああ」
次に名乗ったのは辺境民の女だった。
「エルザ・ホフマン。二十八歳。木こりの娘だ。斧なら任せてくれ」
「エルザ。頼む」
一人、また一人と名前が挙がった。
隔離区から来た若者たち。一番若いのは十五歳の少年だった。
「クリストフ。クリストフ・ヘルツ。十五です。魔法は——火弾の基礎だけ」
「クリストフ。歳は関係ない。ここにいる全員が同じだ」
二十五人全員の名前を聞いた。
前からいた仲間も改めて名乗った。フランツは「フランツ・ヴォルフ。歳は忘れた」と言って、カスパーに「二十歳だろ」と突っ込まれていた。レナは「レナ・アウアーバッハ。十九歳。改めて、よろしく」と静かに言った。
二十五の名前が、俺の中に刻まれた。
重い。名前は重い。数字なら「二十五人」で済む。だが名前を知ると、その後ろに人生が見える。家族が見える。故郷が見える。失えば、数字が一つ減るのではなく、世界から一人の人間が消える。
ヘルミーネの言葉を思い出した。旗の下にいる人間を、生かすこと。
生かすとは、名前を呼び続けるということだ。
生きている者の名前を呼ぶ。死んだ者の名前を忘れない。それが旗持ちの仕事だ。
◇
名乗りの後、フランツが状況説明を始めた。
「現状を整理する」
壁の地図が新しく描き直されていた。レナとフランツが俺の不在中に更新したものだ。
「ディートリヒの蜂起は継続中。市街地の北東区画を制圧し、体制軍の防衛線と膠着状態にある。体制軍は西方の黎明作戦本隊から精鋭を呼び戻そうとしているが、移動に時間がかかる」
「膠着はどれくらい持つ」
「長くはない。ディートリヒは短期決戦を仕掛けたいはずだ。辺境から連れてきた傭兵は長期戦に向かない。三日から五日で次の動きがある」
「次の動きは」
「分からん。だが隔離区は戦場の中間地帯だ。ディートリヒが南下するか、体制軍が北東に攻め込むか、どちらにしても隔離区を通過する可能性がある」
隔離区の住民は、また巻き添えになる。
「テレーゼたちの避難誘導は」
「続いている。排水路を使って南に避難させる計画は生きている。だが排水路の一部が戦闘で崩落した。迂回路を確保する必要がある」
「レナ」
「もう調べてある。東の外壁沿いに、旧い水路がもう一本ある。ヘルミーネの地図に載っていた。使えるかどうかは確認が要る」
「カスパーとヘルマン、確認に行ってくれ」
「分かった」
カスパーが立ち上がった。ヘルマンも続いた。
二人が出て行った後、フランツが俺の前に来た。
「ルッツ。一つ確認する」
「何だ」
「お前は、まだ旗を掲げるか」
重い問いだった。
ヨーゼフが死んだ。旗を掲げたから死んだ。旗を降ろせば、これ以上の犠牲は出ないかもしれない。
だが旗を降ろせば、ここにいる二十五人の居場所がなくなる。体制にもディートリヒにも戻れない人間たちが、行く場所を失う。
そして隔離区の住民を守る者がいなくなる。
答えは——決まっていた。最初から決まっていた。ヨーゼフの名前を知った瞬間に、むしろ決まっていた。
「掲げる。降ろさない」
「理由は」
「降ろしたら、ヨーゼフの死が無駄になる」
「それは嘘だな」
フランツが静かに言った。
「死者のために旗を掲げるのは、弔いであって理由じゃない。本当の理由を言え」
こいつは本当に容赦がない。
「……まだ、やるべきことが終わっていないからだ。均等裁定院は廃止されていない。隔離区は解放されていない。黎明作戦は止まっていない。旗を降ろすのは、それが終わってからだ」
「よし。それでいい」
フランツが頷いた。その目に、初めて——明確な信頼の色が見えた。
「死者のために掲げるなら、旗はいずれ呪いになる。まだ終わっていない仕事のために掲げるなら、旗は生きている」
フランツの言葉が、腹の底に落ちた。
この男は壁の中で十五年間、死者と生者の境目を見てきたのだろう。壁の中で死んでいく人間を見送りながら、自分が生きる理由を——死者のためではなく、まだやるべきことがあるからだと、言い聞かせてきたのだろう。
「さて」
フランツが地図に向き直った。
「次の三日で何ができるか、考えるぞ。ディートリヒと体制がぶつかる前に、俺たちの態勢を整える」
「ああ」
俺は地図の前に立った。肋骨が痛む。左腕が重い。脇腹が熱い。
だが——立っている。
ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻子あり。辺境の農民。
お前の名前は覚えた。忘れない。
旗は降ろさない。お前のためじゃない。まだ終わっていないからだ。
蝋燭の灯りの中で、二十五の名前を胸に刻んだまま、地図を見つめた。




