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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
最終章 二度目の夜明けを *46話〜60話

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51/60

名前を呼べなかった男

ルッツ19歳。旗の下で死んだ人間の名前を、知らなかった。

最初に感じたのは痛みだった。


 体中が軋んでいる。肋骨、左腕、脇腹、右肩、胸、太腿。ディートリヒの雷響(ドナー)焔織(フラム)に焼かれた場所が、一つ一つ正確に痛みを訴えてくる。


 次に感じたのは、温かさだった。


 背中の下に何かが敷かれている。毛布か外套か。固い地面ではない。誰かが用意してくれたのだろう。


 目を開けた。


 天井は石だった。地下だ。新しい拠点——旧穀物市場の地下室ではない。もっと狭い場所だ。排水路の分岐点にある小部屋。以前レナが避難経路として確保していた場所の一つ。


 蝋燭が二本灯されていた。その灯りの中に、レナの横顔があった。


 壁にもたれて座り、俺の脇腹に手を当てている。暁謡(モルゲン)の微弱な治癒の光が、レナの手の下で細く脈打っていた。


「——起きたのね」


 声は静かだった。疲労が滲んでいたが、崩れてはいなかった。


「どれくらい寝てた」


「一日と少し。夜を二つ跨いだわ」


 一日。一日も意識を失っていたのか。


 体を起こそうとした。左腕に激痛が走り、声が漏れた。


「動かないで。肋骨が二本折れている。左腕は脱臼を戻したけれど、まだ腫れが引いていない。脇腹の火傷は暁謡(モルゲン)で表面は塞いだけど、深部まではまだ」


「レナがやってくれたのか」


「リーゼと交代で。リーゼは元衛生兵だから、骨の処置はあの人がやった。暁謡(モルゲン)は私しか使えないから、その部分は私が」


 レナの目の下に濃い影があった。一日以上、ほとんど眠っていないのだろう。治癒魔法は術者の体力を消耗する。旧式の暁謡(モルゲン)は省魔力だが、長時間の持続は身体に堪える。


「ありがとう」


「お礼はいいから、報告を聞いて」


 レナの声が少しだけ硬くなった。報告。そうだ。俺が意識を失っている間に、何があった。


「全員無事か」


 当たり前のように訊いた。だが——レナの表情で、答えが分かった。


「——誰だ」


 レナは一瞬、目を伏せた。そしてすぐに顔を上げた。


「辺境から来た人。撤退する時に、殿を務めてくれた三人のうちの一人。リーゼとヴィクトルは怪我をしたけれど生きている。もう一人が——」


「名前は」


 自分の声が遠く聞こえた。


「分からない」


 レナの声が震えた。一瞬だけ。


「アルノルトに聞いた。集落から来たばかりで、まだ自己紹介もしていなかった。アルノルトも本名は知らなかった。集落では皆があだ名で呼び合っているから——」


 名前を、知らない。


 俺の旗の下で死んだ人間の名前を、俺は知らない。


          ◇


 しばらく、天井を見つめていた。


 石の天井に蝋燭の影が揺れている。何の模様もない灰色の石だ。


 名前を聞く前に死んだ。


 意識が落ちる直前、カスパーの声が聞こえた。「一人、やられた」。あれが最後の記憶だった。


 あの瞬間、俺は担架の上で何もできなかった。体が動かなかった。声も出なかった。旗を掲げた人間が、旗の下で死ぬ人間を見送ることすらできなかった。


 前世では、人の死は遠かった。


 コンビニの夜勤中に救急車のサイレンを聞くことはあった。倉庫で一緒に働いていた年配の男が、ある日来なくなって、後から心筋梗塞で死んだと聞いた。配達の途中で事故現場を通りかかったこともある。


 だがどれも、遠い出来事だった。自分のせいで死んだ人間はいなかった。


 今は違う。


 あの男は——名前すら知らないあの男は、俺の撤退を守るために殿に残った。俺が旗を掲げたから、辺境から来た。俺が戦いに出たから、殿を務めることになった。俺がディートリヒに負けたから、撤退戦が発生した。


 因果を辿れば、すべてが俺に行き着く。


「ルッツ」


 レナの声で、思考が途切れた。


「自分を責めているのは分かるわ。でも今は——」


「今は、何だ」


 声が荒くなった。自分でも分かっていた。レナに当たっているわけではない。だが、どこにも向けられない感情が、声に出てしまう。


 レナは黙っていた。


 数秒の沈黙の後、レナが言った。


「今は、生きている人間のことを考えて」


 静かで、冷たい言葉だった。だがその冷たさは突き放しではなかった。必要な冷たさだった。感情に溺れている俺を、現実に引き戻すための。


「……状況を教えてくれ」


「カスパーとベルトルトが担架を担いでここまで運んだ。フランツたちと合流した後、一旦この場所に退避した。旧穀物市場の拠点は無事。体制軍もディートリヒ軍も、今は互いに集中しているから、俺たちのことは後回しになっている」


「仲間は」


「全員、拠点に戻っている。ヴィクトルは左肩を斬られたけれど、命に別状はない。リーゼは打撲。カスパーは壁に叩きつけられた時の痣が酷いけど動ける」


「ディートリヒは」


「蜂起を継続している。市街地の北東部を制圧したらしい。体制軍と膠着状態」


 俺は右手で顔を覆った。左手は動かせない。


 ディートリヒとの力の差を思い知った。あの男の焔織には綻びがなかった。鏡刃は通じなかった。灰織では防ぎきれなかった。正面からぶつかって、一方的に叩きのめされた。


 かすり傷一つ——いや、頬の一筋の切り傷だけだ。俺の全力が、それだけだった。


 それと引き換えに、人が一人死んだ。


「レナ」


「何」


「あの人の——名前も知らない、辺境から来た人の。弔いは」


 レナが少し間を置いた。


「アルノルトが取り仕切った。遺体は回収できなかったけれど、辺境の風習で——空に向かって名前を呼ぶ弔いがあるそうよ。でも名前が分からないから」


「分からないから」


「アルノルトは、『旗の下で死んだ男』と呼んだ。それが弔いの名になった」


 旗の下で死んだ男。


 名前の代わりに、死に方が名前になった。


 胸の奥で何かが崩れた。涙ではない。もっと乾いた、砂のような感覚だった。


 前世で死んだ時、俺の名前を呼ぶ人間はいなかっただろう。コンビニのバックヤードで倒れた三十一歳のフリーター。「バイトの人が倒れたらしい」。それだけで片付けられたはずだ。


 あの男も——名前を呼ばれないまま、死んだ。


 俺と、同じだ。


          ◇


 どれくらい時間が経ったか分からない。


 レナが横で眠っていた。座ったまま壁にもたれて、浅い呼吸を繰り返している。限界だったのだろう。俺の治療と看護で、体力を使い果たしている。


 蝋燭が一本消えた。残り一本の灯りの中で、レナの横顔を見た。


 紫の瞳は閉じられている。薄い唇が微かに開いていて、規則的な呼吸が聞こえる。頬がこけている。食事も満足に取れていないのだろう。


 この人間を、守ると決めた。


 だが守るためには、力が要る。力を使えば、旗の下の人間が犠牲になる。旗を降ろせば、ここにいる全員の居場所がなくなる。


 答えの出ない問いが、蝋燭の灯りの中で堂々巡りしていた。


 足音が近づいてきた。


 フランツだった。排水路を通ってきたらしく、膝まで泥で汚れている。


「起きたか」


「ああ」


「体は」


「最悪だ。だが死んでない」


「死んでなきゃ十分だ」


 フランツがレナの隣に腰を下ろした。眠っているレナを一瞥して、声を落とした。


「話がある」


「聞く」


「お前が倒れている間に、動きがあった。二つ」


 フランツが指を二本立てた。


「一つ目。辺境のアルノルトの集落から、さらに四人が合流した。あの男が死んだと聞いて、逆に来た。弔い合戦の気持ちもあるだろうが、それだけじゃない。旗の下で死んだ仲間がいるのに、自分だけ安全な場所にいるのが耐えられなかったんだろう」


 死者が、生者を呼んでいる。旗を降ろさなかったことが——犠牲があったにも関わらず旗が立ち続けていることが、新しい人間を引き寄せている。


 皮肉な話だ。だが、それが現実だ。


「二つ目。隔離区の中から、テレーゼが若者四人を連れて壁の外に出た。合計で二十五人になった。ヨハンとペーターは連絡役として隔離区と拠点を往復している」


 二十五人。


 一人減って、八人増えた。


 数字だけを見れば、増えている。だがその一人の減少の重さは、八人の増加では埋められない。


「もう一つ、言っておくことがある」


 フランツの声が、少しだけ変わった。冷静な分析者の声から、何か別のものが混じった声に。


「死んだ男の名前が分かった」


 心臓が跳ねた。


「アルノルトの集落から来た四人のうちの一人が、あの男と同じ村の出身だった。名前は——ヨーゼフ。ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻と子供が一人いる」


 ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻と子供。


 前世の俺より三つ上だった。俺が死んだ時、俺は三十一歳で、妻も子供もいなかった。


 ヨーゼフ・ランゲには、帰る場所があった。待っている人間がいた。それなのに、俺の旗の下に来て、俺の撤退を守って、死んだ。


「……ヨーゼフ」


 名前を口にした。


 声に出すと、重さが変わった。「辺境から来た名前も知らない男」から、「ヨーゼフ・ランゲ」になった。名前があると、その後ろに人生が見える。朝起きて、畑を耕して、子供を抱き上げて、妻と食卓を囲んで。そういう日常があったはずの人間が、俺の旗の下で死んだ。


「フランツ。俺は——」


「言うな」


 フランツが遮った。珍しく強い口調だった。


「お前が『俺のせいだ』と言おうとしてるのは分かる。だがそれは半分正しくて、半分間違っている」


「半分?」


「お前が旗を掲げなければ、ヨーゼフはここに来なかった。それは事実だ。だがお前が旗を掲げなければ、隔離区の住民は三十四人、あの日逃げ場を失っていた。体制軍とディートリヒ軍の戦闘の中で」


 第49話の朝。隔離区が戦場になった日。俺たちが広場を走り抜けて避難民を南の排水路に誘導した日。あの三十四人は、俺たちがいなければ逃げられなかった。


「旗を掲げたことで救われた人間がいる。旗を掲げたことで死んだ人間もいる。そのどちらも事実で、どちらか一方だけを見ることは——嘘だ」


 フランツの目が蝋燭の灯りの中で光っていた。


「壁の中で十五年暮らして学んだことが一つある。人の命を数字で計る奴は、必ず道を間違える。三十四人救ったから一人の犠牲は許される——そういう計算をし始めた瞬間に、人は旗を掲げる資格を失う」


「じゃあ、どうすればいい」


「覚えておく。名前を覚えておく。ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻子あり。旗の下で死んだ。それを忘れずに、次の判断をする。それしかない」


 フランツは立ち上がった。


「レナを起こすな。あと二時間は寝かせてやれ」


「分かった」


「それと——お前も寝ろ。明日から動く。動ける体にしておけ」


 フランツが排水路に消えていった。


 泥の足跡が残った。


          ◇


 フランツが去った後、眠れなかった。


 天井を見つめたまま、ヨーゼフ・ランゲのことを考えていた。


 会話をした記憶がない。辺境から来た五人のうちの一人として、俺の視界の端にはいた。だが名前を聞かなかった。アルノルトとは話した。他の辺境民とも顔は合わせた。だがヨーゼフとは——直接言葉を交わした記憶がない。


 なぜだ。


 十七人しかいなかった。全員の顔が見える規模だった。それなのに、一人の名前を聞かなかった。


 前世のコンビニでもあったことだ。新しく入ったバイトの名前を聞く前に辞めていく。「昨日来た子、もう辞めたよ」「名前なんだっけ」「知らない。一日で来なくなった」。そういうことが何度もあった。


 あの時は仕方がないと思っていた。来ては去る人間の名前を、いちいち覚えていられない。


 だが今は違う。


 ここは職場ではない。旗の下だ。旗の下で命を懸けている人間の名前を知らないなど、あってはならなかった。


 俺の怠慢だ。


 指揮官として、旗持ちとして、人の上に立つ人間として——名前を聞くことを、後回しにした。


 旗が立ったばかりで忙しかった? 言い訳だ。名前を聞く時間は、三秒あれば足りる。


「ヨーゼフ・ランゲ」


 もう一度、声に出した。暗い天井に向かって。


 返事はない。当然だ。死者は答えない。


 だが、名前を呼ぶことはできる。


 あの男の人生を知ることはもうできない。何が好きで、何を恐れて、何のために辺境を出てきたのか。妻の名前。子供の年齢。集落での暮らし。何一つ聞かなかった。


 聞けなかった、ではない。聞かなかった。


 その差は——深い。


          ◇


 翌朝。


 体に鞭を打って起き上がった。肋骨が軋む。左腕はまだ完全には動かない。だが歩ける。歩けるなら、動ける。


 レナが目を覚ましたのは俺より少し後だった。


「動いて大丈夫なの」


「大丈夫じゃないが、寝ていても仕方がない」


「二日前に死にかけた人間の台詞じゃないわね」


「死にかけた程度で寝ているほど暇じゃない」


 レナが呆れたように息を吐いた。だがその目の奥に、安堵の色が見えた。


 排水路を通って、旧穀物市場の拠点に向かった。レナが先導し、俺はその後ろをゆっくり歩いた。体が重い。一歩ごとに脇腹が痛む。


 拠点に着くと、フランツが入り口で待っていた。


「歩けるのか」


「歩いてきた」


「馬鹿だな。担架を出そうかと思ったのに」


「担架は遠慮する。もう二度と乗りたくない」


 地下に降りると、全員がいた。


 二十五人。新しく加わった顔が八つある。辺境からの四人と、隔離区からの四人。


 全員の目が俺を見た。


 心配の目。安堵の目。そして——期待の目。


 期待。旗持ちが起き上がったことへの、期待。


 その期待の重さが、折れた肋骨よりも痛かった。


 俺は地下室の中央に立った。全員が見渡せる位置に。


「一つだけ、言わせてくれ」


 二十五の顔が、俺を見ている。


「ヨーゼフ・ランゲ」


 名前を呼んだ。


 辺境民の何人かが、はっとした顔をした。新しく来た四人のうちの一人——同じ村の出身だというあの男が、唇を噛んだ。


「三十四歳。辺境のグレンツベルク近くの集落から来た。妻と子供がいる。俺が意識を失って担架で運ばれた時、殿を務めて、体制軍の追手と戦って——死んだ」


 地下室が静まり返った。


「俺は——この人の名前を知らなかった。旗の下にいてくれた人なのに、名前を聞いていなかった。それは俺の落ち度だ。謝って済む話じゃない。だが——」


 声が震えた。堪えた。


「これだけは言う。ヨーゼフ・ランゲは、俺の旗の下で死んだ。俺が旗を掲げたから、この人は辺境を出て、ここに来て、命を落とした。その責任は俺にある」


 アルノルトが腕を組んだまま、黙って俺を見ていた。その目に涙はなかったが、目の奥に何かが揺れていた。


「旗の下で死んだ仲間の名前を、俺は一生忘れない。そして、もう二度と——名前を知らないまま見送ることはしない」


 俺は全員を見回した。新しい顔。古い顔。隔離区の若者。体制の離脱兵。辺境の農民。


「改めて——一人ずつ、名前を聞かせてくれ」


 沈黙が三秒あった。


 最初に口を開いたのは、新しく来た辺境民の一人だった。ヨーゼフと同じ村の男。


「マティアス・ブルーン。三十一歳。ヨーゼフは——俺の隣人だった」


 三十一歳。前世の俺と同い年だ。


「マティアス。よろしく頼む」


「ああ」


 次に名乗ったのは辺境民の女だった。


「エルザ・ホフマン。二十八歳。木こりの娘だ。斧なら任せてくれ」


「エルザ。頼む」


 一人、また一人と名前が挙がった。


 隔離区から来た若者たち。一番若いのは十五歳の少年だった。


「クリストフ。クリストフ・ヘルツ。十五です。魔法は——火弾(かだん)の基礎だけ」


「クリストフ。歳は関係ない。ここにいる全員が同じだ」


 二十五人全員の名前を聞いた。


 前からいた仲間も改めて名乗った。フランツは「フランツ・ヴォルフ。歳は忘れた」と言って、カスパーに「二十歳だろ」と突っ込まれていた。レナは「レナ・アウアーバッハ。十九歳。改めて、よろしく」と静かに言った。


 二十五の名前が、俺の中に刻まれた。


 重い。名前は重い。数字なら「二十五人」で済む。だが名前を知ると、その後ろに人生が見える。家族が見える。故郷が見える。失えば、数字が一つ減るのではなく、世界から一人の人間が消える。


 ヘルミーネの言葉を思い出した。旗の下にいる人間を、生かすこと。


 生かすとは、名前を呼び続けるということだ。


 生きている者の名前を呼ぶ。死んだ者の名前を忘れない。それが旗持ちの仕事だ。


          ◇


 名乗りの後、フランツが状況説明を始めた。


「現状を整理する」


 壁の地図が新しく描き直されていた。レナとフランツが俺の不在中に更新したものだ。


「ディートリヒの蜂起は継続中。市街地の北東区画を制圧し、体制軍の防衛線と膠着状態にある。体制軍は西方の黎明作戦本隊から精鋭を呼び戻そうとしているが、移動に時間がかかる」


「膠着はどれくらい持つ」


「長くはない。ディートリヒは短期決戦を仕掛けたいはずだ。辺境から連れてきた傭兵は長期戦に向かない。三日から五日で次の動きがある」


「次の動きは」


「分からん。だが隔離区は戦場の中間地帯だ。ディートリヒが南下するか、体制軍が北東に攻め込むか、どちらにしても隔離区を通過する可能性がある」


 隔離区の住民は、また巻き添えになる。


「テレーゼたちの避難誘導は」


「続いている。排水路を使って南に避難させる計画は生きている。だが排水路の一部が戦闘で崩落した。迂回路を確保する必要がある」


「レナ」


「もう調べてある。東の外壁沿いに、旧い水路がもう一本ある。ヘルミーネの地図に載っていた。使えるかどうかは確認が要る」


「カスパーとヘルマン、確認に行ってくれ」


「分かった」


 カスパーが立ち上がった。ヘルマンも続いた。


 二人が出て行った後、フランツが俺の前に来た。


「ルッツ。一つ確認する」


「何だ」


「お前は、まだ旗を掲げるか」


 重い問いだった。


 ヨーゼフが死んだ。旗を掲げたから死んだ。旗を降ろせば、これ以上の犠牲は出ないかもしれない。


 だが旗を降ろせば、ここにいる二十五人の居場所がなくなる。体制にもディートリヒにも戻れない人間たちが、行く場所を失う。


 そして隔離区の住民を守る者がいなくなる。


 答えは——決まっていた。最初から決まっていた。ヨーゼフの名前を知った瞬間に、むしろ決まっていた。


「掲げる。降ろさない」


「理由は」


「降ろしたら、ヨーゼフの死が無駄になる」


「それは嘘だな」


 フランツが静かに言った。


「死者のために旗を掲げるのは、弔いであって理由じゃない。本当の理由を言え」


 こいつは本当に容赦がない。


「……まだ、やるべきことが終わっていないからだ。均等裁定院は廃止されていない。隔離区は解放されていない。黎明作戦は止まっていない。旗を降ろすのは、それが終わってからだ」


「よし。それでいい」


 フランツが頷いた。その目に、初めて——明確な信頼の色が見えた。


「死者のために掲げるなら、旗はいずれ呪いになる。まだ終わっていない仕事のために掲げるなら、旗は生きている」


 フランツの言葉が、腹の底に落ちた。


 この男は壁の中で十五年間、死者と生者の境目を見てきたのだろう。壁の中で死んでいく人間を見送りながら、自分が生きる理由を——死者のためではなく、まだやるべきことがあるからだと、言い聞かせてきたのだろう。


「さて」


 フランツが地図に向き直った。


「次の三日で何ができるか、考えるぞ。ディートリヒと体制がぶつかる前に、俺たちの態勢を整える」


「ああ」


 俺は地図の前に立った。肋骨が痛む。左腕が重い。脇腹が熱い。


 だが——立っている。


 ヨーゼフ・ランゲ。三十四歳。妻子あり。辺境の農民。


 お前の名前は覚えた。忘れない。


 旗は降ろさない。お前のためじゃない。まだ終わっていないからだ。


 蝋燭の灯りの中で、二十五の名前を胸に刻んだまま、地図を見つめた。

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