紋のない少女
ルッツ8歳・秋。壁の近くで、ある少女と出会います。
それは、壁の近くを通りかかった日のことだった。
八歳の秋。放課後、エミルたちとの遊びを終えて帰る途中、普段は通らない裏路地に入った。理由はない。強いて言えば、夕焼けが綺麗だったから少し遠回りをしたくなった。
前世では、遠回りをする余裕がなかった。シフトとシフトの間、一分でも惜しんで移動していた。だからこの体になってからは、無駄な寄り道をする贅沢を密かに楽しんでいる。
裏路地を二つ曲がったところで、声が聞こえた。
「旧い血め!」
「壁から出てくるな!」
「貴族のなれの果てが!」
子供の声だ。複数。罵声と、それに混じって何かが倒れる音。
角を曲がると、光景が目に入った。
少女が一人、地面に押し倒されていた。
銀色の髪。壁の隙間から見た、あの少女だ。
取り囲んでいるのは四人の少年たち。俺と同い年か、一つ上くらい。全員がこちら側の子供で、服も靴もきちんとしている。
少女の服は違った。繕いだらけの薄い上着、擦り切れた靴。壁の向こう側の人間だと、一目で分かる格好だ。
少年の一人が少女の腕を掴んでいた。
「隔離区から出てきたんだろ。監視兵に突き出してやる」
少女は無言だった。暴れもしない。ただ、まっすぐに少年を睨みつけている。
その目に、怯えはなかった。
怒りすらも薄い。ただ、冷たい軽蔑があった。こんなことは慣れている、と言わんばかりの目。
俺は立ち止まった。
前世の俺なら、たぶん通り過ぎていた。
コンビニのレジに立っているとき、店の前で酔っ払いに絡まれている女性を見たことがある。通報するべきだと思った。だがレジを離れられなかった。店長に怒られる。シフトを減らされる。今月の家賃が払えなくなる。そうやって自分に言い訳をして、目を逸らした。
今は違う。
レジの向こう側ではない。シフトも家賃もない。何より、俺は八歳の子供だ。子供が子供の喧嘩に口を出しても、失うものは何もない。
前世で失った選択肢が、今の俺にはある。
「おい」
声をかけた。四人が振り返る。
「何だよ、お前」
リーダー格らしい少年が、顎を上げた。
ここで殴り合いをするのは下策だ。四対一では勝てないし、仮に勝っても問題になる。前世のサービス業で学んだことがある。トラブルは力で解決するな。場の空気を変えろ。
「その子、隔離区から出てきたんだろ? それなら監視詰所に連れていくべきじゃないか。お前たちが私刑をやったら、お前たちが怒られる」
少年たちの顔に、戸惑いが走った。
正義感で止めようとしたのではなく、合理的な指摘をした。「お前たちが損をする」という言い方。これがサービス業で培った場の収め方だ。相手の感情ではなく、利害に訴える。
「別に私刑なんか……」
「腕を掴んで地面に押し倒してるだろ。監視兵に見られたら、問題を起こしたのはお前たちの方だと思われる」
リーダーの少年の目が泳いだ。こいつは根っからの悪党じゃない。集団になって気が大きくなっただけの、普通の子供だ。「怒られる」という現実を突きつければ、引く。
「それに」
俺は少し声を落とした。
「俺、ルッツ・エーベルハルトなんだけど」
名前を出すのは本意ではなかった。だが効果は確実だ。
四人の顔色が変わった。ルッツ・エーベルハルト。英雄ヒルデの息子。この街で最も有名な姓。
「エーベルハルト……」
「母さんの名前がついた学校に通ってるだろ。同じ学校だと思うけど」
少年たちは顔を見合わせた。英雄の息子に逆らうつもりはない。こういう権威主義的な反応は、前世の日本でもこの国でも変わらない。
「……行こうぜ」
リーダーが仲間に声をかけ、四人は足早に去っていった。
残されたのは、俺と少女の二人だ。
◇
少女は自力で立ち上がった。俺が手を貸す前に。
膝が汚れている。肘に擦り傷がある。だが気にした様子もなく、服の土を払っている。
「大丈夫か」
俺が声をかけると、少女はこちらを見た。
近くで見ると、壁の隙間から覗いたときよりも幼い印象だった。俺と同い年くらいか。銀色の髪は陽の光を受けて白に近い色をしていて、瞳は薄い紫だ。
整った顔立ちだった。前世の基準で言えば、確かに「高貴な血筋」を思わせる造形をしている。それがこの世界では罪になるのだから、理不尽なものだ。
「同情なら要らない」
少女が言った。
声は低く、硬い。年齢にそぐわない重さがある。
「同情じゃない」
「じゃあ何。英雄の息子が、貴族の子供を助けたって武勇伝にでもするの」
棘のある言い方だ。だがその棘は、俺に向けられたものではない。これまでの人生で、壁のこちら側の人間から受けてきた全てに対する棘だ。
「ただ、あいつらがうるさかっただけだ」
本心だった。正義感で動いたわけじゃない。見て見ぬふりができなかっただけだ。前世の俺に対する、俺自身のけじめだ。
少女は黙って俺を見ていた。嘘を探すような目だった。
「……変なの」
しばらくして、少女がぽつりと言った。軽蔑でも感謝でもない、ただの感想だった。
「壁のこっち側の人間に、お前みたいなのがいるとは思わなかった」
「お前みたいなの、って?」
「こっちの目を見る人間」
少女はそう言って、俺から視線を外した。壁の方を見ている。帰る道を確認しているのだろう。
「隔離区から出てきたのか。見つかったらまずいんじゃないのか」
「壁の下に穴がある。子供なら通れる。たまに抜け出して、こっちの空気を吸いに来る」
淡々とした口調だった。脱出が日常の一部になっている。
「名前は?」
訊いたのは、自然な流れだったと思う。
少女は少し間を置いた。名前を教えるかどうか、計りにかけているようだった。
「レナ」
短く答えた。
「レナ・アウアーバッハ」
アウアーバッハ。どこかで聞いた名だ。歴史の教科書か、家にある書物か。記憶を辿る前に、レナが先に言った。
「元公爵家。処刑された祖父の姓。要するに、この国で一番嫌われる姓よ」
その声に悲嘆はなかった。事実を述べているだけの、乾いた声だった。
「俺はルッツ」
「知ってる。さっき自分で言ってたでしょ」
少女の口元が、ほんの僅かに動いた。笑ったのかもしれない。
「英雄の息子と、処刑された公爵の孫。変な組み合わせね」
「変かもな」
レナは壁の方に歩き出した。数歩行ってから、振り返った。
「ルッツ。さっきのことは、誰にも言わないで。壁から出てきたことがばれたら、祖母に迷惑がかかる」
「言わない」
レナは頷いた。それから、もう振り返らずに裏路地を歩いていった。壁の陰に消えるまで、背筋はまっすぐだった。
◇
帰り道、夕焼けの色が変わっていた。橙から赤紫へ。夜が近い。
頭の中で、エミルとレナの顔が並んだ。
エミルは革命の子だ。革命を誇り、共和国を信じ、明日を疑わない。太陽のように明るい。
レナは壁の向こうの子だ。革命に奪われ、共和国に閉じ込められ、明日に期待しない。だが折れていない。
二人の間に、灰色の壁がある。
俺は壁のこちら側にいる。英雄の息子として、恵まれた側にいる。
だが前世の俺は、壁の向こう側にいた。社会の底辺で、見て見ぬふりをされる側にいた。
どちら側の気持ちも分かる。どちらも間違っていない。どちらも、ただ生まれた場所が違っただけだ。
この壁を壊すべきなのか。壊せるのか。壊した後に何が起こるのか。
八歳の俺に、答えはなかった。
ただ、一つだけ決めたことがある。
あの少女に、また会いに行こう。
壁のこちら側から覗くのではなく、向こう側の目線で話を聞こう。
前世で、俺はいつも壁の向こう側の声を聞こうとしなかった。聞く余裕がなかったと言い訳をしていた。
今度は、聞く。
それが俺にできる、最初の一歩だと思った。




