灰塵の三角
ルッツ19歳。三つの旗が、初めてぶつかる。
轟音で目が覚めた。
地下室の天井から砂が降ってきた。蝋燭が倒れ、闇が一瞬で広がる。誰かが叫んでいる。フランツの声だ。
「来たぞ! 全員起きろ!」
体が動いていた。マグヌスに叩き込まれた反射が、意識よりも先に筋肉を動かしている。地面に転がしていた革袋を掴み、階段を駆け上がった。
地上に出た瞬間、目を疑った。
隔離区の東の壁が崩れていた。
高さ五メートルの石壁に大穴が開き、朝日の光が隔離区の路地を射している。壁の外側に、人影が見えた。軍服ではない。革鎧と長剣。そして——手に纏った魔力の光が、旧式のものだった。
「ディートリヒの兵か」
レナが隣に来ていた。寝起きとは思えない、澄んだ声だった。
「蜂起が始まったわ」
壁の穴から、反革命軍の兵士が隔離区に雪崩れ込んでくる。十人、二十人。数え切れない。革鎧の胸に、白い鷹の紋章が描かれている。
同時に、反対方向——西側の監視塔から、鐘が狂ったように鳴り始めた。体制軍の警報だ。
隔離区が、二つの軍に挟まれた。
◇
路地を走った。
フランツが先頭で、カスパーとヨハンが後ろについている。レナは俺の隣を走っている。テレーゼとマリアは先に地下の避難路に向かい、非戦闘員の誘導を始めている。ペーターとクラウスは監視塔の巡回兵の動きを偵察に出ている。
フランツが短い報告を入れてきた。
「東の壁を破ったのはディートリヒの先遣隊だ。本隊はまだ市街の北側にいるらしい。西からは体制軍の鎮圧部隊が隔離区に向かっている」
「挟撃される」
「ああ。体制軍はディートリヒを潰すために来る。隔離区は戦場になる」
走りながら、頭の中で状況を整理した。前世のフリーター時代に身につけた癖だ。混乱した時ほど、情報を箇条書きにする。
一、ディートリヒの反革命軍が東から隔離区に侵入。
二、体制軍が西から鎮圧に向かっている。
三、俺たちの第三勢力は、その間にいる。
四、避難民の誘導は始まっている。地下の排水路を通じて南へ。
五、俺たちが今やるべきことは——
「ルッツ。正面」
レナの声で思考が断ち切られた。
路地の先に、三人の兵士が立っていた。白い鷹の紋章。ディートリヒの兵だ。
三人の目が俺たちを捉えた。先頭の男が剣を構えた。
「共和国の兵か?」
「違う」
俺は両手を開いて見せた。武器は持っていない。だが魔素は体内で循環させている。マグヌスに教わった混成の待機状態——旧式魔法の精密な魔力制御を、新式魔法の速度で切り替えられる準備。
「共和国の脱走兵だ。体制とは敵対している」
「脱走兵?」先頭の男が眉を寄せた。「なら、ディートリヒ様の旗の下に来い。旧体制の血を持つ者たちも一緒だろう。我々は解放者だ」
「断る」
空気が変わった。
男の目が細くなった。後ろの二人が剣を抜いた。
「断る、だと。お前の名は」
「ルッツ・エーベルハルト」
男の顔から血の気が引いた。名前の力だ。紅の黎明の息子。革命の英雄の遺児。ディートリヒの反革命軍にとって、その名は敵の象徴そのものだ。
「裏切り者の息子か」
男が焔織を発動した。
複数の火線が手から伸び、俺の体を包囲するように広がる。旧式魔法特有の精密な火術。美しく、無駄がなく——だが読める。
晶鏡の原理。マグヌスに教わった構造解析の基礎を、新式の速度で走らせる。焔織の術式構造が「見えた」。火線は六本。制御点は三つ。術者の右手が主導。左手が補助。二つの手の間の魔力のやりとりに、微かな遅延がある。
そこが綻びだ。
鏡刃。
構造解析で見つけた綻び——左手の制御が右手に一瞬遅れる隙間に、風刃を叩き込んだ。
圧縮した空気の刃が、焔織の制御線を断ち切った。六本の火線が制御を失い、空中で散った。火の粉が夜明けの光の中を舞い、路地の壁に当たって消えた。
「な——」
男が驚愕した顔を見せた一瞬に、迅駆で距離を詰めた。鉄身で硬化させた右拳を、男の鳩尾に叩き込む。
男が膝をついた。残り二人が反応する前に、灰織を展開した。
地系の微粒子を火系の残熱で帯電させ、散弾状に放射する。煙幕と攻撃を兼ねた、俺だけの術。灰色の霧が路地に充満し、二人の視界を奪った。その隙に全員で脇の小路に転がり込んだ。
「走れ!」
息を切らしながら走った。背後で反革命軍の怒声が聞こえたが、追ってくる気配はない。灰織の微粒子が残留し、追跡を妨害している。
フランツが横目で俺を見た。
「あの魔法、実戦で初めて見た」
「初めて使った」
「嘘だろ。綺麗に決まってたぞ」
「綺麗かどうかは分からない。だが——」
手を見た。指先が微かに震えている。戦闘の後の反動だ。マグヌスの修行中には何度も模擬戦をしたが、殺意を持った相手への実戦は次元が違う。
「動いてくれた。それだけで、今は十分だ」
◇
隔離区の中央広場で、さらに大きな戦闘が始まっていた。
路地の隙間から覗いた光景に、息を呑んだ。
体制軍の鎮圧部隊が西門から突入し、ディートリヒの先遣隊と正面からぶつかっている。火弾と焔織が交差し、地壁と鉄帳が衝突する。新式と旧式の激突。速度と精密さの戦い。
その間に、住民が逃げ惑っていた。
老人が路地の隅でうずくまっている。子供が泣き叫びながら母親を探している。怪我をした男が壁にもたれて血を流している。
戦場になった隔離区の中で、戦うことも逃げることもできない人々。
「テレーゼたちの誘導は」
「南の排水路から避難を始めている。だが全員は間に合わない。まだ三十人以上が地上にいる」
フランツの声は冷静だが、拳が白くなるほど握り締められていた。
判断しなければならない。
この広場を抜けなければ、南の排水路には行けない。だが広場は今、二つの軍の交戦地帯だ。
「迂回は」
「東も西も塞がれている。通れるのは広場を突っ切るか、北の建物群の屋根伝いかだ」
カスパーが提案した。
「屋根を行こう。広場に出たら的だ」
「屋根は反革命軍の射手が張ってるかもしれない」
「広場よりマシだ」
俺は広場を再び覗いた。
体制軍の鎮圧部隊の中に、見覚えのある制服があった。均等裁定院の治安部隊。黒い外套に銀の徽章。あの制服をまとった人間の行動原理を、俺は内側から知っている。
彼らの目的はディートリヒ軍の排除だ。だが——隔離区の住民を保護する気はない。ヴェルナーの論理では、隔離区の住民は「潜在的な反革命勢力」だ。ディートリヒと一緒に制圧される側だ。
「全員を守れない」
口に出した。フランツが振り向いた。
「だが、手の届く範囲は守る。カスパー、屋根伝いに北側に回ってくれ。広場の東端に残っている住民を南の排水路に誘導する。フランツは俺と一緒に広場の端を走る。注意を引く」
「注意を引く? 両方の軍から?」
「ああ。脱走兵ルッツ・エーベルハルトが第三の旗を掲げたことは、まだどちらにも届いていないかもしれない。だが——」
息を吸った。
「今日、届ける」
フランツが一瞬、目を閉じた。
「付き合うよ。死ぬなよ」
「死なない。旗持ちが先に死んだら格好がつかないんだろ」
フランツが鼻を鳴らした。笑いなのか呆れなのか、分からない音だった。
◇
広場の東端を走った。
灰織を薄く展開しながら走った。煙幕というほどではないが、体の輪郭をぼやけさせる程度の微粒子の幕。完全な不可視ではないが、遠距離からの狙撃精度を落とす効果はある。
マグヌスの修行で学んだことの一つ——魔法は派手に使うものではなく、必要な分だけ使うものだ。旧式の省魔力の思想。それを新式の速度で回す。
体制軍の兵士が一人、こちらに気づいた。
「そこの者、止まれ!」
止まらなかった。迅駆で加速する。兵士が火弾を放ったが、灰織の微粒子が火弾の軌道をわずかにずらした。地系の微粒子は火系の魔力を吸収する性質がある。完全な防御ではないが、直撃を逸らすには十分だ。
広場の端を走り抜けながら、残留していた住民に声をかけた。
「南に走れ! 排水路の入口に案内がいる!」
老人が呆然と俺を見ている。子供を抱いた女が、涙の跡がある顔で俺を見ている。
「走れ!」
もう一度叫んだ。今度は動いた。老人がよろめきながら立ち上がり、女が子供を抱え直して走り出した。
その間にも、体制軍とディートリヒ軍の交戦は続いている。火弾と焔織の光が広場を照らし、夜明けの空を赤く染めている。
体制軍の別の兵士が俺を捉えた。今度は二人だ。
「脱走兵か! 投降しろ!」
投降すれば軍法会議。脱走兵の処罰は重い。だがそれ以前に、投降する気がない。
二人が同時に火弾を放った。正面から二発。新式の教科書通りの連携射撃。
鏡刃の応用。二つの火弾の術式構造を同時に読んだ。右の火弾は魔力の圧縮が甘い。左の火弾は軌道が直線的すぎる。
右に半歩ずれて左の火弾を避け、右の火弾には灰織の微粒子を集中させて威力を減衰させた。残った衝撃を鉄身で受ける。体が軋んだが、倒れない。
反撃。風刃を二つ、低い角度で放った。兵士の足元の石畳を砕き、体勢を崩す。殺さない。殺す必要はない。
二人が転び、体勢を立て直す前に走り抜けた。
フランツが後ろから続いた。
「お前の戦い方、変だぞ。殺さないのか」
「殺す意味がない。時間を稼げればいい」
「甘いな」
「甘くていい。今は」
広場を抜けた。南の路地に入る。排水路の入口が見える。テレーゼが住民を誘導しているのが見えた。何人かが既に地下に入っている。
カスパーが屋根伝いに東から回り込み、さらに十数人の住民を連れてきていた。
全員ではない。全員は救えなかった。だが——
排水路の入口で、一度だけ振り返った。
広場では、体制軍と反革命軍の戦闘がまだ続いていた。朝日が戦場を照らしている。煙と塵と魔力の残光が混ざり合い、灰色の光が隔離区を覆っている。
この場所で生まれ、この場所で育った人間たちが、今日、壁の穴から逃げ出していく。
旗を掲げた日の翌朝が、こうなるとは思わなかった。いや——覚悟はしていた。覚悟していたが、覚悟と現実は違う。
「ルッツ。行くぞ」
フランツの声で前を向いた。
地下に潜った。
排水路の暗闇の中を、三十人以上の足音が反響していた。




