三つの旗
ルッツ19歳。三つの旗が立つ。
第3章「旗の色が変わる時」最終話。
隔離区の朝は、鐘の音で始まる。
監視塔の鐘が六つ鳴ると、配給所の前に列ができる。黒パンと薄い粥。一日一回の食事。列に並ぶ人々の顔は灰色で、目は地面を見ている。
地下の隠し部屋から出て、その光景を路地の隙間から見ていた。レナが隣にいる。
「配給、前よりさらに減ってないか」
「先月から半分になった。西方への兵站に物資が回されている、という噂よ」
黎明作戦の準備だ。侵攻のための物資が、国内の末端を削って集められている。削られる末端の中でも、最初に削られるのが隔離区だ。ヘルミーネの予測が正確だったということだ。
列の中に、子供の姿があった。五歳くらいの女の子が、母親の手を握って立っている。母親の空いた手には空の器が握られている。
前世の記憶が重なった。生活保護の窓口に並ぶ人々の列。あの列と、この列は、何が違う。何も違わない。社会の底にいる人間は、どの世界でも同じ顔をしている。
「ルッツ」
レナが小声で言った。
「見て。監視塔」
目を上げた。
三基の監視塔のうち、東の塔に異変があった。いつもは二人の監視兵が立っているが、今日は四人いる。しかも双眼鏡を使って、隔離区の内部だけでなく、外——市街地の方角を重点的に監視している。
「外を見ている」
「ディートリヒの蜂起を警戒しているのよ。体制側も、もう動きを察知しているわ」
時間がない。
体制とディートリヒが激突すれば、隔離区は戦場になる。壁の内側に閉じ込められた人々は、逃げ場がない。
◇
その日の午後、フランツが情報を持ってきた。
「ディートリヒが声明を出した」
地下室に集まった九人の顔に、緊張が走った。
「声明?」
「隔離区の中を通じて回ってきた。口伝だ。内容はこうだ——」
フランツが記憶を辿るように目を閉じた。
「『革命の名のもとに奪われたすべてを取り戻す時が来た。旧き血を持つ者たちよ、立ち上がれ。諸君の剣と魔法は、諸君のものだ。共和国の旗が倒れる日は近い。その日のために、備えよ』」
沈黙が落ちた。
カスパーが拳を握っていた。若者たちの中には、この言葉に心を動かされる者がいるのが見て取れた。当然だ。壁の中で一生を終えろと言われてきた人間にとって、「立ち上がれ」という言葉は、渇いた喉に注がれる水だ。
たとえその水が毒を含んでいたとしても。
「各地の隔離区にも同じ声明が回っているらしい。首都だけじゃない。東部の三都市、南部の二都市。ディートリヒのネットワークは俺たちが思っていたより遥かに広い」
フランツの声に焦りが混じっていた。この男は冷静だが、状況の深刻さを正確に理解している。
「蜂起の時期は」
「声明には書いていない。だが、すぐだろう。こういう声明は、行動の直前に出すものだ」
俺は壁にもたれた。
ディートリヒが動く。体制はそれを察知している。二つの力が衝突する。
その間に挟まれた俺たちは——
「ルッツ。どうする」
レナが俺を見ていた。
七人の若者たちも、全員が俺を見ていた。
旗を掲げると言った。旗の下の人間を生かすと誓った。ならば、答えなければならない。
「動く。今日中に」
「何をする」
「まず、ここにいる全員と家族の安全を確保する。蜂起が始まれば隔離区は混乱する。逃げ場を作る。地下の通路——レナ、この下から外に出る道はあるか」
「ある。昔の排水路が南の外壁の下を通っている。崩れかけているけれど、人が通れなくはない」
「それを使う。フランツ、東区画の住人で、ディートリヒに与していない家族はどれくらいいる」
「老人と子供を含めて、三十から四十人はいる」
「その人たちに、蜂起が始まったら地下に逃げるよう伝えてくれ。戦いに巻き込まれないように」
フランツが頷いた。
「次に——」
言いかけて、止まった。
次に何をする。
安全の確保は最低限の話だ。だがその先に、もう一つのことをしなければならない。昨夜から考え続けていたこと。ヘルミーネの言葉に背中を押されて決意したこと。
「俺は、体制からの離反を正式に宣言する」
地下室が静まった。
カスパーが目を見開いた。テレーゼが息を呑んだ。フランツだけが、腕を組んだまま微動だにしなかった。
「正式にとは、どういう意味だ」
「体制にも反革命にも与しない第三の立場を、名乗りを上げて示す。隠れて動くのではなく、旗を見せる」
「誰に見せるんだ」
「全員にだ。体制にも。ディートリヒにも。隔離区の人々にも」
「正気か」フランツが初めて声を荒げた。「旗を見せれば的になるぞ。お前が昨日言ったことだろう」
「言った。そして的になる覚悟も、昨日決めた」
「覚悟があればいいという話じゃない。的になれば、俺たちも巻き添えだ」
「だからこそ、先に逃げ道を確保する。旗を掲げるのは俺一人でいい。お前たちは——」
「馬鹿言うな」
カスパーだった。
痩せた少年が、蝋燭の灯りの中で立ち上がっていた。
「昨日、旗の下で何をするかは全員で決めるって言っただろう。なら、旗を掲げるかどうかも全員で決める」
フランツが唇を歪めた。苦笑だ。
「カスパーの言う通りだ。勝手に一人で背負うな。そういう英雄気取りが一番困る」
七つの目が俺を見ていた。
昨夜とは違う目だ。昨夜は値踏みしていた。今は——選ぼうとしている。
「付き合うぞ。ただし条件がある」
「何だ」
「死ぬな。旗持ちが先に死んだら、後に残された方は格好がつかない」
フランツの言葉に、何人かが笑った。張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
レナは笑わなかった。だが俺を見る紫の瞳に、光があった。
◇
夕暮れが近づいていた。
地下室を出て、レナと二人で壁際の路地を歩いた。西の空が赤く染まっている。隔離区の高い壁の向こうに沈む夕日が、壁の上部だけを照らしている。壁の下にいる俺たちには、直接の光は届かない。
「ルッツ。一つ聞いていい?」
「何だ」
「離反の宣言は、具体的にどうやるの」
「考えている。ディートリヒが蜂起の声明を出した。体制は鎮圧に動く。その二つがぶつかる前に——あるいはぶつかった直後に、第三の声を上げる」
「声を上げるだけで、届くの」
「届かせる。方法は——まだ考え中だ」
「正直ね」
「嘘をつくよりマシだろ」
レナが足を止めた。
壁際に一本だけ残った痩せた木の下で、俺に向き直った。夕暮れの逆光で、彼女の表情は影になっている。だが声は、はっきりと聞こえた。
「私も行くわ」
「何?」
「あなたが旗を掲げるなら、私もその旗の下にいる。隔離区の中だけじゃない。外に出る。壁の向こう側で、一緒に声を上げる」
「レナ。壁の外に出れば——」
「捕まれば投獄される。知ってる。でも、壁の中にいても未来はない。それも知ってる」
レナの声は静かだった。怒りでも悲壮感でもない。覚悟を決めた人間の、凪いだ声だ。
「祖母様がさっき、旗の下の人間を生かせと言ったわね。でもね、ルッツ。私は守られるためにここにいるんじゃない。一緒に歩くためにいるの。それを忘れないで」
返す言葉を探した。見つからなかった。
だから代わりに、頷いた。
「忘れない」
「約束よ」
「約束だ」
レナが一瞬だけ微笑んだ。蝋燭ではなく夕暮れの光に照らされた、初めて見る笑顔だった。
◇
夜が来た。
地下室に戻り、準備を進めた。フランツが東区画の家族に連絡を回し、カスパーとヨハンが排水路の状態を確認しに行った。テレーゼとマリアが食料と水の備蓄を数えた。ペーターとクラウスが隔離区内の監視兵の巡回パターンを記録した。
全員が動いていた。指示を出したのは俺だが、動き方は各自が考えた。壁の中で育った人間は、生きるための知恵を体に刻んでいる。見張りの目をかいくぐる方法。物資を隠す場所。音を立てずに移動する技術。それらはすべて、隔離区という牢獄の中で磨かれた生存の技だ。
俺にはない技術だ。
前世では、生き残ることすらできなかった人間だ。
だからこそ、この人たちの力が要る。
深夜。
全員が地下室に戻った時、フランツが新しい情報を持ってきた。
「西の城門の近くで、軍の動きがあった。歩兵連隊が二つ、市内から出ていった」
「どの方向へ」
「西だ。ヴェルトハーフェン方面。侵攻の本隊が動き始めたんだろう」
俺は目を閉じた。
ヴェルナーが動いた。侵攻と国内鎮圧の二正面作戦。西方への侵攻部隊を送り出しながら、残った兵力でディートリヒの蜂起に備える。
エミルは、あの部隊の中にいるのだろうか。先鋒に志願した男。革命の理念を信じて、剣を取った男。
胸が軋んだ。
エミルのことを考えている暇はない。だが考えずにはいられない。
「ルッツ」
レナの声で、思考が戻った。
「今夜、決めなければならないことがあるわ」
「分かってる」
立ち上がった。
九人の顔を見渡した。蝋燭の灯りに照らされた九つの顔。疲れている。怖がっている。だが——ここにいる。
「明日、ディートリヒの蜂起が始まる可能性が高い。体制はそれを鎮圧しようとする。二つの力がぶつかる」
全員が頷いた。
「俺たちは、そのどちらにも与しない」
声を、はっきりと出した。
「均等裁定院の廃止。隔離区の解放。だが旧体制の復活ではない。この旗を、俺は掲げる」
地下室に、俺の声が反響した。低い天井に跳ね返り、七人の若者の耳に届いた。
「ディートリヒの蜂起が始まれば、体制は隔離区を封鎖する。その混乱の中で、俺たちは隔離区の非戦闘員を地下に避難させる。そして——」
息を吸った。
「俺は壁の外に出る。体制にもディートリヒにも届く場所で、第三の声を上げる。脱走兵ルッツ・エーベルハルトとしてではなく——紅の黎明の息子として」
母の名を使う。ヴェルナーが侵略の旗印にしようとした名前を。ディートリヒが打倒しようとしている革命の象徴を。
母の名を、母が本来望んだ意味で、取り戻す。
「母さんが最後に書いた言葉がある。『もしこの国が私の望んだものでなかったら』。母さんの問いに、答える時が来た」
沈黙。
フランツが口を開いた。
「紅の黎明の息子が、体制を離反する。それだけで、衝撃がある」
「ああ。だからこそ、今しかない。侵攻軍が出発し、ディートリヒが蜂起する。体制が最も揺らぐ瞬間に、第三の旗を立てる」
「三つの旗、か」フランツが呟いた。「体制の旗。反革命の旗。そして俺たちの旗」
「三つ巴だ。数では圧倒的に劣る。だが——」
「だが?」
「旗が立っている限り、選択肢がある。体制かディートリヒかの二択じゃなくなる。どちらにも与したくない人間が、行く場所ができる」
カスパーが腕を組み、天井を見上げた。
「行く場所、か。俺たちがずっと欲しかったものだな」
その言葉が、地下室の空気を変えた。
七人の顔から、恐怖が消えたわけではない。だが恐怖の隣に、別のものが生まれていた。
それを何と呼ぶのか、俺には分からない。前世では持ったことのない感情だ。
仲間と共に、何かを始める時の、あの感覚。
◇
夜明け前。
地下室から一人で外に出た。
隔離区の空は、まだ暗い。星が見えている。前世の東京では見えなかった星々が、この世界の空には散りばめられている。
東の空の端が、かすかに白んでいた。
夜が明ける。
明日——いや、今日から、すべてが変わる。
体制から離反する。反革命にも与しない。第三の道を歩く。
小さな灯りだ。蝋燭一本分の光。だが暗い夜には、蝋燭一本でも道を照らせる。
母さん。あなたの旗を、あなたが本当に望んだ色に塗り替える。
ヴェルナー。あなたが歪めた革命の理念を、取り戻す。
ディートリヒ。あなたの怒りは否定しない。だが、その先にあるのは同じ過ちの繰り返しだ。
エミル。お前とはまた会う。その時、俺は俺の答えを持っている。
レナ。約束する。守られるためではなく、共に歩くために。
東の空が白くなっていく。
二度目の夜明けには、まだ早い。だが夜は、確実に終わりに近づいている。
俺は壁に背を預け、朝が来るのを待った。
次に陽が昇る時、ルッツ・エーベルハルトは旗を掲げる。
体制にも反革命にも染まらない、第三の旗を。
三つの旗が、この国の空に立つ。
新しい戦いが、始まる。




