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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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三つの旗

ルッツ19歳。三つの旗が立つ。

第3章「旗の色が変わる時」最終話。


隔離区の朝は、鐘の音で始まる。


 監視塔の鐘が六つ鳴ると、配給所の前に列ができる。黒パンと薄い粥。一日一回の食事。列に並ぶ人々の顔は灰色で、目は地面を見ている。


 地下の隠し部屋から出て、その光景を路地の隙間から見ていた。レナが隣にいる。


「配給、前よりさらに減ってないか」


「先月から半分になった。西方への兵站に物資が回されている、という噂よ」


 黎明作戦の準備だ。侵攻のための物資が、国内の末端を削って集められている。削られる末端の中でも、最初に削られるのが隔離区だ。ヘルミーネの予測が正確だったということだ。


 列の中に、子供の姿があった。五歳くらいの女の子が、母親の手を握って立っている。母親の空いた手には空の器が握られている。


 前世の記憶が重なった。生活保護の窓口に並ぶ人々の列。あの列と、この列は、何が違う。何も違わない。社会の底にいる人間は、どの世界でも同じ顔をしている。


「ルッツ」


 レナが小声で言った。


「見て。監視塔」


 目を上げた。


 三基の監視塔のうち、東の塔に異変があった。いつもは二人の監視兵が立っているが、今日は四人いる。しかも双眼鏡を使って、隔離区の内部だけでなく、外——市街地の方角を重点的に監視している。


「外を見ている」


「ディートリヒの蜂起を警戒しているのよ。体制側も、もう動きを察知しているわ」


 時間がない。


 体制とディートリヒが激突すれば、隔離区は戦場になる。壁の内側に閉じ込められた人々は、逃げ場がない。


          ◇


 その日の午後、フランツが情報を持ってきた。


「ディートリヒが声明を出した」


 地下室に集まった九人の顔に、緊張が走った。


「声明?」


「隔離区の中を通じて回ってきた。口伝だ。内容はこうだ——」


 フランツが記憶を辿るように目を閉じた。


「『革命の名のもとに奪われたすべてを取り戻す時が来た。旧き血を持つ者たちよ、立ち上がれ。諸君の剣と魔法は、諸君のものだ。共和国の旗が倒れる日は近い。その日のために、備えよ』」


 沈黙が落ちた。


 カスパーが拳を握っていた。若者たちの中には、この言葉に心を動かされる者がいるのが見て取れた。当然だ。壁の中で一生を終えろと言われてきた人間にとって、「立ち上がれ」という言葉は、渇いた喉に注がれる水だ。


 たとえその水が毒を含んでいたとしても。


「各地の隔離区にも同じ声明が回っているらしい。首都だけじゃない。東部の三都市、南部の二都市。ディートリヒのネットワークは俺たちが思っていたより遥かに広い」


 フランツの声に焦りが混じっていた。この男は冷静だが、状況の深刻さを正確に理解している。


「蜂起の時期は」


「声明には書いていない。だが、すぐだろう。こういう声明は、行動の直前に出すものだ」


 俺は壁にもたれた。


 ディートリヒが動く。体制はそれを察知している。二つの力が衝突する。


 その間に挟まれた俺たちは——


「ルッツ。どうする」


 レナが俺を見ていた。


 七人の若者たちも、全員が俺を見ていた。


 旗を掲げると言った。旗の下の人間を生かすと誓った。ならば、答えなければならない。


「動く。今日中に」


「何をする」


「まず、ここにいる全員と家族の安全を確保する。蜂起が始まれば隔離区は混乱する。逃げ場を作る。地下の通路——レナ、この下から外に出る道はあるか」


「ある。昔の排水路が南の外壁の下を通っている。崩れかけているけれど、人が通れなくはない」


「それを使う。フランツ、東区画の住人で、ディートリヒに与していない家族はどれくらいいる」


「老人と子供を含めて、三十から四十人はいる」


「その人たちに、蜂起が始まったら地下に逃げるよう伝えてくれ。戦いに巻き込まれないように」


 フランツが頷いた。


「次に——」


 言いかけて、止まった。


 次に何をする。


 安全の確保は最低限の話だ。だがその先に、もう一つのことをしなければならない。昨夜から考え続けていたこと。ヘルミーネの言葉に背中を押されて決意したこと。


「俺は、体制からの離反を正式に宣言する」


 地下室が静まった。


 カスパーが目を見開いた。テレーゼが息を呑んだ。フランツだけが、腕を組んだまま微動だにしなかった。


「正式にとは、どういう意味だ」


「体制にも反革命にも与しない第三の立場を、名乗りを上げて示す。隠れて動くのではなく、旗を見せる」


「誰に見せるんだ」


「全員にだ。体制にも。ディートリヒにも。隔離区の人々にも」


「正気か」フランツが初めて声を荒げた。「旗を見せれば的になるぞ。お前が昨日言ったことだろう」


「言った。そして的になる覚悟も、昨日決めた」


「覚悟があればいいという話じゃない。的になれば、俺たちも巻き添えだ」


「だからこそ、先に逃げ道を確保する。旗を掲げるのは俺一人でいい。お前たちは——」


「馬鹿言うな」


 カスパーだった。


 痩せた少年が、蝋燭の灯りの中で立ち上がっていた。


「昨日、旗の下で何をするかは全員で決めるって言っただろう。なら、旗を掲げるかどうかも全員で決める」


 フランツが唇を歪めた。苦笑だ。


「カスパーの言う通りだ。勝手に一人で背負うな。そういう英雄気取りが一番困る」


 七つの目が俺を見ていた。


 昨夜とは違う目だ。昨夜は値踏みしていた。今は——選ぼうとしている。


「付き合うぞ。ただし条件がある」


「何だ」


「死ぬな。旗持ちが先に死んだら、後に残された方は格好がつかない」


 フランツの言葉に、何人かが笑った。張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 レナは笑わなかった。だが俺を見る紫の瞳に、光があった。


          ◇


 夕暮れが近づいていた。


 地下室を出て、レナと二人で壁際の路地を歩いた。西の空が赤く染まっている。隔離区の高い壁の向こうに沈む夕日が、壁の上部だけを照らしている。壁の下にいる俺たちには、直接の光は届かない。


「ルッツ。一つ聞いていい?」


「何だ」


「離反の宣言は、具体的にどうやるの」


「考えている。ディートリヒが蜂起の声明を出した。体制は鎮圧に動く。その二つがぶつかる前に——あるいはぶつかった直後に、第三の声を上げる」


「声を上げるだけで、届くの」


「届かせる。方法は——まだ考え中だ」


「正直ね」


「嘘をつくよりマシだろ」


 レナが足を止めた。


 壁際に一本だけ残った痩せた木の下で、俺に向き直った。夕暮れの逆光で、彼女の表情は影になっている。だが声は、はっきりと聞こえた。


「私も行くわ」


「何?」


「あなたが旗を掲げるなら、私もその旗の下にいる。隔離区の中だけじゃない。外に出る。壁の向こう側で、一緒に声を上げる」


「レナ。壁の外に出れば——」


「捕まれば投獄される。知ってる。でも、壁の中にいても未来はない。それも知ってる」


 レナの声は静かだった。怒りでも悲壮感でもない。覚悟を決めた人間の、凪いだ声だ。


「祖母様がさっき、旗の下の人間を生かせと言ったわね。でもね、ルッツ。私は守られるためにここにいるんじゃない。一緒に歩くためにいるの。それを忘れないで」


 返す言葉を探した。見つからなかった。


 だから代わりに、頷いた。


「忘れない」


「約束よ」


「約束だ」


 レナが一瞬だけ微笑んだ。蝋燭ではなく夕暮れの光に照らされた、初めて見る笑顔だった。


          ◇


 夜が来た。


 地下室に戻り、準備を進めた。フランツが東区画の家族に連絡を回し、カスパーとヨハンが排水路の状態を確認しに行った。テレーゼとマリアが食料と水の備蓄を数えた。ペーターとクラウスが隔離区内の監視兵の巡回パターンを記録した。


 全員が動いていた。指示を出したのは俺だが、動き方は各自が考えた。壁の中で育った人間は、生きるための知恵を体に刻んでいる。見張りの目をかいくぐる方法。物資を隠す場所。音を立てずに移動する技術。それらはすべて、隔離区という牢獄の中で磨かれた生存の技だ。


 俺にはない技術だ。


 前世では、生き残ることすらできなかった人間だ。


 だからこそ、この人たちの力が要る。


 深夜。


 全員が地下室に戻った時、フランツが新しい情報を持ってきた。


「西の城門の近くで、軍の動きがあった。歩兵連隊が二つ、市内から出ていった」


「どの方向へ」


「西だ。ヴェルトハーフェン方面。侵攻の本隊が動き始めたんだろう」


 俺は目を閉じた。


 ヴェルナーが動いた。侵攻と国内鎮圧の二正面作戦。西方への侵攻部隊を送り出しながら、残った兵力でディートリヒの蜂起に備える。


 エミルは、あの部隊の中にいるのだろうか。先鋒に志願した男。革命の理念を信じて、剣を取った男。


 胸が軋んだ。


 エミルのことを考えている暇はない。だが考えずにはいられない。


「ルッツ」


 レナの声で、思考が戻った。


「今夜、決めなければならないことがあるわ」


「分かってる」


 立ち上がった。


 九人の顔を見渡した。蝋燭の灯りに照らされた九つの顔。疲れている。怖がっている。だが——ここにいる。


「明日、ディートリヒの蜂起が始まる可能性が高い。体制はそれを鎮圧しようとする。二つの力がぶつかる」


 全員が頷いた。


「俺たちは、そのどちらにも与しない」


 声を、はっきりと出した。


「均等裁定院の廃止。隔離区の解放。だが旧体制の復活ではない。この旗を、俺は掲げる」


 地下室に、俺の声が反響した。低い天井に跳ね返り、七人の若者の耳に届いた。


「ディートリヒの蜂起が始まれば、体制は隔離区を封鎖する。その混乱の中で、俺たちは隔離区の非戦闘員を地下に避難させる。そして——」


 息を吸った。


「俺は壁の外に出る。体制にもディートリヒにも届く場所で、第三の声を上げる。脱走兵ルッツ・エーベルハルトとしてではなく——紅の黎明の息子として」


 母の名を使う。ヴェルナーが侵略の旗印にしようとした名前を。ディートリヒが打倒しようとしている革命の象徴を。


 母の名を、母が本来望んだ意味で、取り戻す。


「母さんが最後に書いた言葉がある。『もしこの国が私の望んだものでなかったら』。母さんの問いに、答える時が来た」


 沈黙。


 フランツが口を開いた。


「紅の黎明の息子が、体制を離反する。それだけで、衝撃がある」


「ああ。だからこそ、今しかない。侵攻軍が出発し、ディートリヒが蜂起する。体制が最も揺らぐ瞬間に、第三の旗を立てる」


「三つの旗、か」フランツが呟いた。「体制の旗。反革命の旗。そして俺たちの旗」


「三つ巴だ。数では圧倒的に劣る。だが——」


「だが?」


「旗が立っている限り、選択肢がある。体制かディートリヒかの二択じゃなくなる。どちらにも与したくない人間が、行く場所ができる」


 カスパーが腕を組み、天井を見上げた。


「行く場所、か。俺たちがずっと欲しかったものだな」


 その言葉が、地下室の空気を変えた。


 七人の顔から、恐怖が消えたわけではない。だが恐怖の隣に、別のものが生まれていた。


 それを何と呼ぶのか、俺には分からない。前世では持ったことのない感情だ。


 仲間と共に、何かを始める時の、あの感覚。


          ◇


 夜明け前。


 地下室から一人で外に出た。


 隔離区の空は、まだ暗い。星が見えている。前世の東京では見えなかった星々が、この世界の空には散りばめられている。


 東の空の端が、かすかに白んでいた。


 夜が明ける。


 明日——いや、今日から、すべてが変わる。


 体制から離反する。反革命にも与しない。第三の道を歩く。


 小さな灯りだ。蝋燭一本分の光。だが暗い夜には、蝋燭一本でも道を照らせる。


 母さん。あなたの旗を、あなたが本当に望んだ色に塗り替える。


 ヴェルナー。あなたが歪めた革命の理念を、取り戻す。


 ディートリヒ。あなたの怒りは否定しない。だが、その先にあるのは同じ過ちの繰り返しだ。


 エミル。お前とはまた会う。その時、俺は俺の答えを持っている。


 レナ。約束する。守られるためではなく、共に歩くために。


 東の空が白くなっていく。


 二度目の夜明けには、まだ早い。だが夜は、確実に終わりに近づいている。


 俺は壁に背を預け、朝が来るのを待った。


 次に陽が昇る時、ルッツ・エーベルハルトは旗を掲げる。


 体制にも反革命にも染まらない、第三の旗を。


 三つの旗が、この国の空に立つ。


 新しい戦いが、始まる。

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