旗を掲げる者
ルッツ19歳。隔離区の若者たちと向き合い、自らの道を言葉にする。
七つの顔が、蝋燭の灯りの中で俺を見ていた。
レナが用意したのは、隔離区の東端にある廃屋の地下室だった。元は染色工房の地下倉庫だったらしく、壁に色褪せた染料の痕が残っている。赤、青、緑。かつての鮮やかさを失い、灰色に近づいた色が、湿った壁に滲んでいる。
七人の若者たち。全員が十代後半から二十代前半。隔離区で生まれ、隔離区で育った旧貴族の子供たち。
一人ずつ、顔を見た。
緊張している者。疑っている者。期待している者。怒りを抑えている者。表情は違うが、目の奥にあるものは共通していた。
ここにいてはいけない、という切迫感だ。
このままでは未来がない。何かが変わらなければ、自分たちは壁の中で一生を終える。ディートリヒに従うか、何もせず朽ちるか、その二択しかなかった場所に、レナが三つ目の可能性を持ち込んだ。
俺の言葉という形で。
「こいつが、ルッツか」
最初に口を開いたのは、一番年長に見える青年だった。二十代前半。短く刈った黒髪。腕が太い。労働者の体つきだ。隔離区の中でも、市壁の補修や下水路の清掃など、体制側が嫌がる肉体労働に従事させられている若者たちがいると聞いていた。彼はその一人だろう。
「フランツ」レナが紹介した。「隔離区の東区画をまとめている」
「まとめてるなんて大げさだ。ただ、あの辺りに住んでる連中の顔を知ってるだけだ」
フランツの目が俺を値踏みしていた。敵意はない。だが信用もしていない。
「お前が英雄の息子か。紅の黎明のヒルデの」
「ああ」
「で、軍を脱走して、こっち側に来た。なぜだ」
単刀直入な男だ。気に入った。回りくどい人間よりも、ずっと話しやすい。
「あっち側にいる理由がなくなったからだ」
「具体的に言え。俺たちは言葉遊びに付き合う暇はない」
◇
俺は話し始めた。
均等裁定院の内側で見たこと。忠誠度で教育を配分する選別機関の実態。黎明作戦——母の異名を冠した侵攻計画。ヴェルナー・グラーンの論理。「統制は必要悪」という理屈で権力を手放さない構造。
そして、父の死。母の死にまつわる疑惑。
話しながら、自分の声を聞いていた。震えてはいない。怒りはある。だが怒りだけで語っているのではない。事実を、順序立てて、できるだけ正確に。
前世のコンビニで、新人にレジの操作を教えた時と同じだ。感情ではなく手順を伝える。相手が判断するための材料を揃える。
七人は黙って聞いていた。フランツが最初に口を開いた時以外、誰も遮らなかった。
話し終えた。
沈黙が地下室に落ちた。蝋燭の炎がわずかに揺れ、七つの影が壁の上で動いた。
「一つ聞いていいか」
別の若者が声を上げた。痩せた少年だ。レナと同い年くらいに見える。名をカスパーと言った。目つきが鋭い。
「お前は、体制を倒したいのか」
「倒すかどうかは結果の話だ。目的は違う」
「じゃあ目的は何だ」
「均等裁定院の廃止。隔離区の解放。市民権の回復。全員が同じ権利を持つ社会」
「それは——ディートリヒも同じことを言ってるぞ」
空気が張り詰めた。
カスパーの言葉は挑発ではなかった。本気の疑問だ。ディートリヒも隔離区の解放を掲げている。旧貴族の名誉の回復を訴えている。言葉だけを比べれば、俺の主張とディートリヒの主張は重なる部分がある。
「言葉は似ている。だが目指す場所が違う」
「どう違う」
「ディートリヒが求めているのは、旧体制の復活だ。貴族が支配する世界に戻すことだ」
「それの何が悪い。俺たちの祖父母は貴族だった。奪われたものを取り戻すのは当然だろう」
カスパーの声に、隠しきれない怒りが滲んだ。この怒りは本物だ。生まれた時から壁の中に閉じ込められ、教育も、仕事も、魔法も、すべてを奪われてきた人間の怒り。
否定してはいけない。この怒りを否定すれば、俺はヴェルナーと同じになる。
「怒りは正しい。奪われたものを返せと言うのも正しい」
カスパーが目を見開いた。反論されると思っていたのだろう。
「だが、返し方の問題だ」
「返し方?」
「貴族が支配者に戻れば、今度は平民が壁の中に入れられる。支配する側とされる側が入れ替わるだけで、壁は残る。ヘルミーネさんが言っていた。構造が変わらなければ、同じことの繰り返しだと」
カスパーは黙った。反論を探している目だ。
「じゃあ、どうするんだ。貴族でも平民でもない社会って何だ。そんなもの、あり得るのか」
正直な問いだ。俺自身、答えを完全には持っていない。
「分からない。完成した図面はない。だが少なくとも、出発点は分かっている」
「出発点?」
「生まれた家で人生が決まらない社会だ。隔離区に生まれたから教育を受けられない、元勲会の家に生まれたから優遇される。その構造を壊す。血統でも忠誠でもなく——ただ一人の人間として扱われること。母さんが最初に望んだのは、それだったはずだ」
◇
フランツが腕を組んだ。
「筋は通ってる。だが筋が通ってるだけじゃ飯は食えない」
「分かってる」
「現実の話をしよう。俺たちは七人。お前を入れて八人。レナを入れて九人。体制の軍は万単位。ディートリヒの兵力は分からないが、数百から数千。俺たちに何ができる」
「今すぐ戦えとは言わない」
「じゃあ何をする」
「まず、生き残る。体制もディートリヒも、これから本格的にぶつかる。その嵐の中で潰されないこと。それが最初の一歩だ」
「生き残るだけか」
「生き残った者だけが、次を選べる。死んだら何も変えられない」
前世の実感だ。三十一歳で死んだ俺は、何も変えられなかった。変えたいと思ったことすらなかったかもしれない。だがそれは、生き残る力がなかったからだ。
フランツが鼻を鳴らした。だが敵意の音ではなかった。
「生き残り方を教えてくれるのか」
「教えるんじゃない。一緒に探す」
「随分と謙虚な指導者だな」
「指導者じゃない。旗を掲げるだけだ。旗の下で何をするかは、全員で決める」
七人の間で、視線が交わされた。
沈黙。だが最初の沈黙とは質が違う。最初は警戒の沈黙だった。今のは、考えている沈黙だ。
その時、階段を降りてくる足音がした。
全員が身構えた。俺も腰を浮かせ、右手に魔素を集中させた。混成の構えで——旧式魔法の灰幕を新式の速度で展開する準備。マグヌスに叩き込まれた反射が、体を動かしている。
足音は一人分。重くない。杖が石の床を叩く音が混じっている。
階段の下に、小柄な影が現れた。
「物騒ね。自分の家の地下に降りてきただけなのに」
ヘルミーネだった。
◇
レナが駆け寄った。
「祖母様。体調が悪いのに——」
「悪いから来たのよ。寝ている場合ではないでしょう」
ヘルミーネは杖を突きながら、ゆっくりと階段を降りた。レナが手を貸そうとしたが、老婦人は首を振った。自分の足で歩く。それがこの人の矜持だ。
テーブルの前に置かれた椅子に座った。灰色の目が、七人の若者たちを一人ずつ見て、最後に俺の上で止まった。
「聞いていたわ。壁が薄いの、この建物は」
「全部聞いていたのですか」
「途中からね。あなたが『出発点は分かっている』と言ったあたりから」
ヘルミーネの目が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。だがすぐに戻った。元公爵夫人の、厳しい目に。
「ルッツ。あなたに一つだけ、言っておきたいことがある」
「何ですか」
「旗を掲げるなら、覚悟を決めなさい」
地下室の空気が、すっと引き締まった。
「旗を掲げた者は、最初に矢を受ける。体制からもディートリヒからも狙われる。守るべき人間が増える。失うものが増える。それでも旗を降ろさないと、今ここで、決めなさい」
ヘルミーネの声は穏やかだった。だが穏やかさの中に、刃がある。いつもそうだ。この人の言葉は、包むように切る。
「覚悟がないなら、降ろしなさい。今ならまだ間に合う。この子たちを巻き込む前に」
レナが口を開きかけた。だがヘルミーネが手で制した。
「レナ。これはルッツが答えるべきことよ」
七人の目が俺に集中した。
蝋燭の炎が揺れた。地下室に風が入り込んだのか。あるいは、誰かの息遣いが炎を揺らしたのか。
考えた。
覚悟。
前世では、覚悟を決めたことがなかった。就職もバイトも、「とりあえず」で始めて、「まあいいか」で辞めた。何かを本気で選び取ったことがない。だからこそ、三十一年間を何者にもなれずに生きた。
この世界に来てからも、ずっと迷っていた。体制の内部に入ったのも「構造を知るため」と言いながら、半ば流されてのことだった。レナと会い続けたのも、マグヌスを訪ねたのも、必要に迫られてのことだった。
だが今は違う。
ここに来たのは、誰にも命じられていない。帰還命令を無視して、脱走兵になって、下水路を這いずって、壁の穴をくぐって、自分の足でここに来た。
旗を掲げるということは、的になるということだ。的になるということは、失敗すれば死ぬということだ。
前世は死ぬのが怖くなかった。失うものがなかったから。
今は怖い。レナがいる。この七人がいる。マグヌスが教えてくれた力がある。失いたくないものがある。
失いたくないものがあるからこそ、旗を掲げなければならない。
俺は立ち上がった。
「降ろしません」
ヘルミーネの灰色の目が、俺を見つめた。
「体制にも反革命にも与しない。第三の道を歩く。均等裁定院を廃し、隔離区を解放する。だが旧体制には戻さない。誰も壁の中に閉じ込めない。その旗を、俺が掲げます」
地下室が静まり返った。
ヘルミーネが、杖を握る手に力を込めた。そして、ゆっくりと頷いた。
「なら、いいわ」
短い言葉だった。だがその三文字に、重みがあった。
「最後に一つだけ」
「何ですか」
「旗を掲げた者の仕事は、旗を振ることではない。旗の下にいる人間を、生かすことよ」
その言葉は、前世で聞いたどんな上司の訓示よりも、胸に響いた。
◇
ヘルミーネが階段を上っていった。レナが付き添って、二人の足音が消えた。
地下室に残された八人——七人の若者と俺——の間に、沈黙が流れた。
フランツが最初に動いた。
腕を組み解き、テーブルに両手を置いた。
「いい話だった。だが明日から何をする」
「まず、互いを知ることからだ。名前と、できること。それぞれの持ち場。俺はまだここの地理も人の顔も分かっていない」
「ふん。まともだな」
フランツが隣の若者を肘で突いた。
「おい。名前を言え」
一人ずつ、名乗りが始まった。
フランツ。カスパー。テレーゼ。ヨハン。マリア。ペーター。クラウス。
七人。七つの名前。七つの顔。七つの人生。
全員が、壁の中で生まれた。壁の外を知らない。だが壁の外に出たいとは限らない。ただ、壁の中にいても人間として扱われたい。それだけを求めて、ここにいる。
その当たり前の願いが、この国では命懸けだ。
蝋燭の灯りの中で、九人の影が壁に映っていた。
小さな影だ。体制の巨大な影にも、ディートリヒの暗い影にも、到底及ばない。
だが影は、光がなければ生まれない。
この蝋燭の灯りが消えなければ——影は伸び続ける。




