灰の中を歩く
ルッツ19歳。マグヌスのもとを去り、首都に潜入する。
グレンツベルクの朝は、灰色だった。
山間の集落を覆う霧の中を、俺は一人で歩き出した。背中に負った革袋の中には、干し肉と黒パンが三日分。マグヌスが持たせてくれたものだ。
振り返った。
丘の上に建つ粗末な小屋の前に、老人の姿はなかった。見送りには出ないと言っていた。「湿っぽいことは嫌いだ」と。それがあの人の流儀だ。
代わりに、小屋の煙突から細い煙が上がっていた。朝飯を作っているのだろう。七十を越えた元将軍の、ごく平凡な朝。
マグヌスの最後の言葉が、頭の中で鳴っている。
「力は教えた。だが使い方を決めるのはお前だ。俺はもう戦わん」
三週間の集中指導だった。混成の根幹——旧式魔法の術式構造を新式魔法の速度で展開するための呼吸法、魔素の循環経路の切り替え、二つの流派の間にある「継ぎ目」を滑らかにする感覚。言葉ではなく、体で叩き込まれた。
まだ完成には程遠い。だが三週間前の自分とは、明確に違う。
霧が晴れ始めた。
南東に向かう。首都エルステモルゲンまで、徒歩で四日。街道を使えば三日だが、街道は使えない。軍への帰還命令を無視して二ヶ月。俺はもう脱走兵だ。
◇
四日目の夕暮れ、首都の外縁が見えた。
丘の上から見下ろすエルステモルゲンは、前と変わっていなかった。石畳の通り。赤い屋根の家並み。均等裁定院の白い建物が中心部に聳えている。
だが空気が違う。
目を細めて街を観察した。市門の前に、以前よりも多くの兵士が立っている。通行人の荷物を検めている姿も見える。
検問だ。
市門からの正面突破は無理だ。脱走兵の手配書が回っているかどうかは分からないが、軍籍を持つ人間が私服で入城すれば、それだけで不審に思われる。
ならば、別の道を使う。
前世のフリーターが身につけた技術——裏口を知っていること。コンビニの搬入口、倉庫の通用口、ビルの非常階段。表から入れない場所には、必ず裏がある。
首都の裏口は、南東の下水路だ。
◇
下水路の暗渠は狭く、湿り、腐った水の匂いが充満していた。
腰をかがめて歩いた。革のブーツの底が水を踏むたびに、不快な音が暗闇に反響する。前世の倉庫バイトで、夏場の冷蔵庫の奥を掃除した時の感覚に似ていた。あの時は時給千円のために我慢したが、今は自分の命のためだ。
一時間ほど歩いて、隔離区の外壁付近に出た。
ここからは知った道だ。十三歳の時に初めてくぐった壁の穴。五年間通い続けた道。暗闘の中でも、体が覚えている。
壁の穴に身を滑り込ませた。十九歳の肩幅には、さらに窮屈になっていた。石の角が肋骨を圧迫し、息が詰まる。歯を食いしばって体をねじ込み、向こう側に転がり出た。
隔離区の空気。土と湿気と、人が密集して暮らす匂い。変わっていない。何も変わっていない。
だが——
立ち上がって、通りを見渡した。
変わっていた。
以前よりも暗い。蝋燭や灯油の灯りが極端に少ない。配給が減っているのだろう。通りに人影はなく、窓は板で塞がれている家が増えている。
監視塔の灯りだけが、冷たく隔離区を照らしていた。以前は二基だったはずだが、三基に増えている。
締め付けが強まっている。
足音を殺して、レナの家に向かった。
◇
扉の前に立った。
手を上げて、二回叩く。間を空けて、もう一回。五年前から変わらない合図。
沈黙。
長い沈黙だった。以前はすぐに気配がした。レナか、ヘルミーネか、どちらかが扉の内側に近づく足音が聞こえた。
今日は何も聞こえない。
胸の奥が冷えた。嫌な予感がした。まさか——
もう一度叩いた。同じ間隔で。
三秒。五秒。十秒。
扉の向こうで、かすかな衣擦れの音。
覗き穴の蓋が動いた。暗闇の中に、一対の目が現れた。
薄い紫の瞳。
「——ルッツ?」
レナの声は、驚きと安堵と、それから怒りが混じっていた。
「二ヶ月も音沙汰なしで、突然現れるの?」
「すまない。色々あった」
「色々。便利な言葉ね」
だが扉は開いた。
◇
蝋燭の灯りの下で、レナの顔を見た。
痩せていた。
頬の線が以前より鋭くなり、目の下に影がある。十九歳の顔にあるべきでない疲弊の色。配給の不足と、何か別の重荷がこの二ヶ月間にのしかかっていたことが、見て取れた。
「ヘルミーネさんは」
「奥で休んでいる。最近、体調が優れないの」
レナがテーブルの向かいに座った。蝋燭は一本だけ。以前は二本あったはずだ。
「何があったか、聞かせて」
俺は話した。父の死のこと。辺境で老将軍マグヌスと出会ったこと。三週間の修行。帰還命令を無視していること。
レナは黙って聞いていた。相槌は打たない。それがレナの聞き方だ。全部を受け取ってから、考える。
「それで、脱走兵になったわけね」
「そうだ」
「軍に戻る気は」
「ない。もう戻れない」
レナが蝋燭の炎を見つめた。炎が揺れ、彼女の紫の瞳に映り込んで、金色に変わった。
「ルッツ。こっちも色々あったのよ」
俺は黙って待った。
「ディートリヒが、動いた」
◇
レナが語った現在の情勢は、俺が首都を離れた二ヶ月前とは大きく変わっていた。
「ディートリヒの反革命勢力が、各地で蜂起の準備を始めている。隔離区の外にも協力者がいるらしい。辺境の自治領、旧貴族に同情的な商人たち。ネットワークが想像以上に広い」
「情報源は」
「隔離区の中を歩き回って集めた。若者たちの一部が集会に出入りしている。そこから断片を繋ぎ合わせたの」
レナの声は淡々としていた。だがその淡々さの裏に、二ヶ月間の緊張が透けている。隔離区の中で、監視の目をかいくぐりながら情報を集め続けた。危険な行為だ。ディートリヒ側に気づかれても、体制側に気づかれても、命に関わる。
「ヴェルナーの方は」
「侵攻準備と国内鎮圧の二正面作戦を強いられているらしい。首都の兵力が増強されているのは、ディートリヒの蜂起に備えてよ。でも、侵攻計画も止めていない。西方国境への兵力移動も続いている」
二正面作戦。前世の歴史の教科書にも書いてあった。同時に二つの敵と戦うことの愚。だがヴェルナーには、どちらも捨てられない事情がある。侵攻を止めれば元勲会の中での立場が危うくなり、国内鎮圧を怠ればディートリヒに足元を掬われる。
「それと」
レナが一瞬、言葉を切った。
「もう一つ。あなたに伝えたいことがある」
「何だ」
「隔離区の若者たちの中に——あなたの考えに共鳴している人間がいる」
予想していなかった言葉だった。
「俺の考え?」
「体制にも反革命にも与しない。均等裁定院を廃し、隔離区を解放するが、旧体制への回帰ではない。あなたが以前ここで話したこと、覚えてる?」
覚えている。いつだったか、この部屋で、漠然と語った言葉。具体的な計画もなく、ただ「こうあるべきだ」と思うことを口にしただけだ。
「私が繋いでいたの。あなたがいない間に」
「繋いでいた?」
「あなたの言葉を、信頼できる人間に伝えた。ディートリヒに与したくないけれど、このままでは未来がないと感じている若者たちに」
レナが俺を見た。蝋燭の炎越しに、紫の瞳がまっすぐこちらを射ていた。
「勝手なことをしたわ。でも、誰かがやらなければ、あの子たちは全員ディートリヒの兵隊にされるか、体制に潰されるかの二択だった」
俺は息を吐いた。深く、長く。
レナは俺がいない二ヶ月の間に、俺の代わりに種を撒いていた。種を撒き、芽が出るのを待ち、俺が戻ってくることを信じて。
あるいは、俺が戻らなくても、芽が枯れないように。
「何人だ」
「七人。全員、ここで育った若者。魔法の素養がある子もいれば、ない子もいる。戦力としては心許ない。でも、意志はある」
七人。小さな数だ。体制の軍にも、ディートリヒの反革命勢力にも、数では到底及ばない。
だが七人は、ゼロではない。
「会えるか」
「明日の夜。場所を用意する」
レナが立ち上がった。蝋燭を手に取り、奥の部屋に向かいかけて、足を止めた。
「ルッツ」
「何だ」
「おかえりなさい」
振り返らずに言った。声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
◇
レナが用意してくれた隠し部屋は、隔離区の地下にある空き倉庫だった。革命前は公爵家の貯蔵庫だったらしい。天井が低く、壁が厚い。外からは見えず、声も漏れにくい。
蝋燭の灯りの中で、干し肉を噛みながら天井を見上げた。
父の死からここまで、一度も立ち止まっていない。グレンツベルクへの旅路、マグヌスとの修行、首都への潜入。常に動き続けてきた。
だが今夜は、立ち止まる時間がある。
前世の記憶が浮かんだ。転職を繰り返していた頃、次の仕事が決まるまでの空白期間が一番つらかった。動いている間は考えなくて済む。止まると、考えてしまう。自分は何をしているのか。どこに向かっているのか。
明日、若者たちと会う。
俺は彼らに何を言う。
「体制にも反革命にも与しない」。それは方針であって、計画ではない。方針だけでは人を動かせない。方針を信じてついてくる人間には、具体的な道筋を示す責任がある。
旗を掲げるということは、そういうことだ。
マグヌスの言葉が甦った。「力は教えた。だが使い方を決めるのはお前だ」
使い方。
力だけではない。言葉の使い方も。立場の使い方も。母の名前の使い方も。
すべてを、自分で決めなければならない。
蝋燭が燃え尽きかけている。
暗闇の中で目を閉じた。
明日が来る。




