山の隠者
ルッツ18歳。父を葬り、辺境の山村へ向かう。マグヌス・シュタインを探して。
フェアラント辺境領への道は、長かった。
首都エルステモルゲンから辺境行きの列車に乗り、西へ向かう。車窓の景色が変わっていく。石造りの建物が減り、木造の家屋が増え、やがて家屋そのものが減る。平野が丘陵に変わり、丘陵が山の裾野に変わった。
列車の終着駅は、名前もないような小さな停車場だった。
ここからグレンツベルクまでは、徒歩だ。
三日間歩いた。
山道は険しく、冬の風が容赦なく吹きつけた。外套の襟を立て、迅駆で脚部を強化しながら山を登った。魔力の消耗は大きいが、通常の歩行では辿り着けない道もあった。
道中、前世と今世の記憶を行き来した。
前世で一人旅をしたことはない。旅行に行く金がなかった。一番遠くに行ったのは、配達の仕事で隣の県まで荷物を運んだ時だ。景色を見る余裕はなかった。
今世で初めて、景色を見るために歩いている。
——いや。景色を見るためではない。人を探すために歩いている。
二日目の夕方、山村の集落が見えた。木の柵で囲まれた数軒の家屋。煙突から煙が上がっている。
「グレンツベルクを知りませんか」
水場にいた老婆に声をかけた。
「ここから北に半日だ。山の上の方だよ。ただし、あそこにはもう人は住んでおらん。村というより、小屋が二つか三つあるだけだ」
「その小屋に、一人で暮らしている老人がいるとか」
老婆は訝しげに俺を見た。
「お前さん、あの隠者に何の用だい」
隠者。その呼び方が、マグヌス・シュタインの今の姿を物語っていた。
「会いたい人がいるんです。遠くから来ました」
「ふうん」老婆は水桶を持ち上げた。「まあ行ってみな。あの人が会ってくれるかは知らんがね。人嫌いだからね」
◇
三日目の昼過ぎ、山の上に辿り着いた。
グレンツベルクは、老婆の言う通り、村と呼べるものではなかった。放棄された小屋が三つ。屋根が落ちかけたものが二つ。そして——一つだけ、煙が上がっている小屋があった。
粗末な丸太小屋だった。壁は不揃いの丸太を積み上げたもの。屋根は板葺き。窓は一つだけ。扉の前に、薪が整然と積まれている。
積み方が几帳面だった。大きさ別に分類され、隙間なく組まれている。この薪を割った人間は、秩序を好む人間だ。
扉の前に立った。
ノックをする前に、中から声がした。
「入るなら入れ。立っているなら帰れ」
低い声だった。年齢を感じさせる嗄れた声だが、芯がある。こちらの存在を扉越しに察知していた。気配を読む技術——旧式の使い手に共通する特徴だ。
扉を開けた。
薄暗い室内に、一人の老人がいた。
囲炉裏の前に座っている。背筋がまっすぐだった。七十を超えているはずだが、座った姿勢に弛みがない。白い髪を短く刈り込み、顎には無精髭がある。顔には深い皺が刻まれているが、肌の色は健康的だ。山の空気の中で暮らしてきた人間の色だった。
目が俺を見た。
灰色の目。冷たくはない。だが温かくもない。相手を測っている目。ヴェルナーの目とは違う。ヴェルナーは人を観察する時に好奇心が混じる。この老人の目には、好奇心はなかった。ただ事実を見ている目だった。
「誰だ」
「ルッツ・エーベルハルトです。首都から来ました」
老人の目が、僅かに動いた。
「エーベルハルト」
「はい。ヒルデ・エーベルハルトの息子です」
沈黙が落ちた。
囲炉裏の火が爆ぜる音だけが、小屋の中に響いていた。
老人——マグヌス・シュタインは、俺を見つめたまま動かなかった。五秒。十秒。二十秒。
それから、小さく息を吐いた。
「ヒルデの息子か」
「そうです」
「そうか」
それだけだった。驚きも喜びも見せなかった。ただ「そうか」と言って、囲炉裏の火に目を戻した。
「座れ」
囲炉裏の向かい側に示した。古い蓙が敷いてある。座ると、火の熱が顔に当たった。三日間の山歩きで冷え切っていた体に、ようやく温もりが戻った。
「茶でも淹れるか」
「いただきます」
マグヌスは立ち上がった。背が高い。百八十を優に超える長身。年齢にしては筋肉質で、動きに無駄がない。薪を割り、水を汲み、山で暮らす生活が、この老人の体を維持しているのだろう。
鉄瓶を囲炉裏にかけ、乾いた草を二つの杯に入れた。湯が沸くまでの間、マグヌスは黙っていた。
俺も黙っていた。
この沈黙は、試されている沈黙だった。言葉を急ぐ人間か、待てる人間か。相手の間合いを尊重できるか。マグヌスは俺を測っている。
前世のコンビニで、寡黙な常連客の対応を覚えた。話しかけすぎてはいけない。待つべき時は待つ。相手が口を開く準備ができるまで、こちらは黙っている。
湯が沸いた。マグヌスが杯に注いだ。渋い香りの茶だった。山の草を乾かしたもの。味は素朴だが、体の芯に染みた。
「三日かかったか」
マグヌスが言った。
「はい」
「列車の終着から、よく歩いた。冬の山は楽ではない」
「迅駆を使いました」
「新式か」
「はい。脚部強化です」
マグヌスが俺を見た。今度は先ほどとは違う目だった。わずかに興味が混じっている。
「新式の使い手が、わざわざ旧貴族の隠居を訪ねてきた。理由を聞こうか」
「マグヌス将軍。あなたに教えを請いたいことがあります」
「将軍ではない。ただの老人だ。敬称は要らん」
「……マグヌスさん」
「まあいい。で、何を教わりたい」
「旧式魔法と新式魔法の統合です」
マグヌスの眉が微かに上がった。この老人が表情を動かしたのは、これが初めてだった。
「旧式と新式の統合。大きなことを言う」
「俺は混成を使っています。新式の速度で展開し、旧式の精密さで制御する。切り替え方式で成功率は八割まで上がりました。だが壁があります。切り替えの時にラグが生じる。そのラグを消す方法が分からない」
「混成か」
マグヌスが茶を一口すすった。
「誰に旧式を学んだ」
「隔離区に住む旧貴族の娘です。彼女の祖母——ヘルミーネという方が、旧式の基礎を伝えていました」
ヘルミーネの名を出した瞬間、マグヌスの手が止まった。杯を口元に止めたまま、動かなかった。
一拍。二拍。三拍。
杯を下ろした。
「ヘルミーネか」
声が低かった。感情の揺れを押し殺しているのが分かった。この老人の中で、何かが動いた。
「ヘルミーネさんから伝言を預かっています」
「伝言」
「『庭の花は枯れたが、根は生きている』と」
マグヌスは囲炉裏の火を見つめた。
長い沈黙だった。今度の沈黙は、試しではなかった。記憶と向き合っている沈黙だった。
五年前、マグヌスがヘルミーネに送った伝書。「庭の花はまだ咲いているか」。それへの返答が、今ようやく届いた。
花は枯れた。だが根は生きている。
旧貴族の文化は隔離区の中で衰えた。だが完全には死んでいない。ヘルミーネのような人間が、地下で、根のように、知識を伝え続けている。
「……そうか。根は生きているか」
マグヌスが呟いた。独り言に近い声だった。
それから俺を見た。
今度の目は、最初の冷静な観察とも、二度目の微かな興味とも違っていた。何か——決定的な問いを投げかけようとしている目だった。
「小僧。一つ訊く」
「はい」
「お前は何がしたい。何のために、この山まで来た」
「混成の完成のために——」
「違う」
マグヌスが遮った。声は低いが、断ち切るような力があった。
「混成は手段だ。俺が訊いているのは目的だ。力を手に入れて、何をするつもりだ。復讐か。正義か。それとも革命のやり直しか」
囲炉裏の火が爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、煙と共に天井の隙間から抜けていった。
マグヌスの問いが、胸の奥に突き刺さった。
何がしたいのか。
父の死の疑惑を暴くこと? ヴェルナーへの復讐? 母の理想を実現すること? 隔離区の解放? 侵攻計画の阻止?
全部だ。全部やりたい。
だが全部では、答えにならない。全部やりたいと言うのは、何がしたいか分かっていないのと同じだ。
「……分からない」
正直に言った。
「分からない。でも、このままじゃいけないことだけは分かる」
マグヌスは俺を見つめていた。しばらくの間。
それから、微かに——本当に微かに——口元が動いた。笑みとは呼べない。だが、肯定に近い何かだった。
「分からん、か。正直だな」
「嘘を言っても仕方がないので」
「ヒルデもそうだった。あの女は嘘が下手だった。怒った時は怒り、疑った時は疑いを口にした。嘘をつくくらいなら黙る方を選ぶ。——だが、黙ることもしなかった」
母を知っている人間の言葉。父の記憶の中の母、日記の中の母に加えて、もう一つの角度から母が見えた。
「嘘が下手で、黙ることもできない人間は、敵が多い。ヒルデは敵が多かった。だが——」
マグヌスが囲炉裏の火に薪を一本くべた。
「味方になった人間は、最後まで離れなかった。俺もそうだ。あの女には——借りがある」
「借り?」
「革命の中で、俺を人間として扱った最初の人間だった。旧貴族の出だと知っても、態度を変えなかった。他の連中は俺を利用した。旧式の知識を搾り取って、用が済めば遠ざけた。ヒルデだけが——対等に接した」
マグヌスの声に、初めて熱が宿った。
「だから俺は、会議で声を上げるべきだった。ヒルデの隣で。だが——できなかった。貴族の出が発言すれば、反革命の嫌疑をかけられる。恐れた。お前の父と同じだ。恐れて、黙った」
「父も同じことを言っていました」
「ベルントもか。そうだろうな。あいつも俺も——ヒルデの問いから逃げた男だ」
マグヌスが茶を飲み干した。杯を囲炉裏の脇に置いた。
「小僧。お前が分からないと言ったことは、俺には答えられん。だが——」
マグヌスが立ち上がった。長身が天井に届きそうだった。
「お前の魔法を見せろ。混成とやらを。話はそれからだ」




