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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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40/60

父の最期・後

ルッツ18歳。父ベルントの最後の言葉。そして別れ。

朝の光で目が覚めた。


 居間の椅子で眠っていた。首が痛い。毛布は自分で掛けた覚えがなかったが、足元に落ちている。夜のうちに無意識にかけたのだろう。


 二階を見上げた。物音がない。


 静かすぎる。


 階段を上がった。父の寝室の扉は開いていた。覗き込む。


 父は寝台にいた。目を開けている。天井を見つめていた。


「起きてたのか」


「ああ。少し前から」


 声は昨夜より弱かった。一晩眠って回復するどころか、さらに力が落ちている。


「水を持ってくる」


「いい。ここに座れ」


 寝台の脇の古い椅子に座った。小さな部屋だ。寝台と、箪笥(たんす)と、窓。窓辺に花瓶があるが、花は入っていない。何年も入っていないのだろう。埃が積もっている。


 かつてこの部屋に、母も眠っていたのだ。十六年前。この寝台で、父と母は隣り合って眠り、朝になれば戦場に出た。


「続きを話す」


 父が言った。天井を見つめたまま。


「父さん、まず水を——」


「いらん。水を飲む暇があったら話す。時間がない」


 時間がない。


 その言葉の重さを、父は自分の体で知っているのだ。


「……分かった」


「昨夜、ヴェルナーが情報の伝達を操作した疑いがあると話した」


「ああ」


「あれを聞いて、お前は——怒っているか」


 怒っているかと訊かれた。二度目だ。前回の帰省でも同じことを訊かれた。


「怒ってる」


「そうだろうな」


「でも、それよりも訊きたいことがある。父さんは——この十六年間、なぜ黙っていた。疑惑があると分かっていて、なぜ誰にも言わなかった」


 父が目を閉じた。長い息を吐いた。呼吸のたびに胸が薄く上下する。


「怖かったんだ」


 その言葉は、前回の告白でも聞いた。だが今回の声の質は違った。前回は堰を切る痛みがあった。今回は——もう痛みすら通り過ぎた、乾いた声だった。


「ヴェルナーを追及すれば、俺の身が危うくなる。それだけじゃない。お前の身も危うくなる。英雄の息子。その看板がお前を守っていた。俺がヴェルナーの疑惑を公にすれば、あの男はお前からその看板を剥がしにくる」


「俺を守るために黙った、と」


「そうだ。——と、自分に言い聞かせてきた」


 父の口元が歪んだ。自嘲。十六年間分の自嘲が、一つの表情に凝縮されていた。


「だが本当のところは——お前を守るためだけじゃなかった。俺自身が怖かったんだ。声を上げれば、戸籍管理局の職を失う。革命功労者としての待遇を失う。酒を買う金がなくなる。この家を追い出される。——そんな小さなことが、怖かった」


 小さなこと。母の死の真相に比べれば、確かに小さい。だが人間を動けなくするのは、いつも小さな恐怖の集積だ。


 前世で学んだ。大きな決断が怖いのではない。大きな決断の後に訪れる、無数の小さな変化が怖いのだ。仕事を辞めれば、明日の飯をどうする。住所が変われば、郵便物はどうなる。保険証は。生活は。


 父もそうだった。


「すまなかった、ルッツ」


 父が言った。


 目を開けて、俺を見た。寝台に横たわったまま。首を少し持ち上げるだけの力しか残っていない。


「お前にもっと早く話すべきだった。日記のことも。ヴェルナーのことも。ヒルデのことも。全部、お前が子供の頃に話すべきだった。——いや」


 父が一度言葉を切った。


「いや——話すべきだったのは、お前にじゃない。ヴェルナーにだ。あの会議の場で、ヒルデの隣で、立ち上がって言うべきだった。お前の構想は間違っている、と。ヒルデが正しい、と。たった一言——たった一言が、言えなかった」


 父の目から、水が流れた。


 前回の帰省では、一筋だけだった。今回は、止まらなかった。骨ばった頬を伝い、枕に吸い込まれていく。声は出さない。この人は最後まで、声を出して泣くことができない。


「あの一言を——言っていれば。ヒルデは一人にならなかった。二人いれば、流れが変わったかもしれない。マグヌスも声を上げたかもしれない。三人いれば——決議が変わっていたかもしれない」


「父さん」


「かもしれない、ばかりだ。何一つ確かなことはない。だが——あの会議室で俺が口を開いていたら、ヒルデは孤立しなかった。孤立しなければ、兵士に直接訴える必要もなかった。ヴェルナーが決戦の時期を操作する理由もなかった。ヒルデが先鋒に立つ必要も——」


 言葉が途切れた。咳。激しい咳。体が折り曲がるほどの咳が、父の薄い体を揺さぶった。


 俺は起き上がりかけた父の背を支えた。骨が手のひらに当たる。肋骨が数えられるほどだった。


 咳が治まった。父の唇の端に、赤いものが滲んでいた。


 血だ。


「父さん——」


「いい。まだ話す」


「医者を呼ぶ」


「呼ぶな」


 父の声に、力があった。もう体には残っていないはずの力が、声だけに宿っていた。


「呼んでどうなる。延ばしてどうなる。十六年間逃げ続けた男が、今さら数日延びたところで何ができる」


「それでも——」


「聞け、ルッツ」


 父が俺の手を掴んだ。握る力は弱かったが、離さなかった。


「『こんなはずじゃなかった』。俺がずっと言ってきた言葉だ」


「ああ」


「あの言葉の意味を——お前は分かるか」


「分かる。革命がこうなるはずじゃなかった。母さんが死ぬはずじゃなかった。この国がこうなるはずじゃなかった。そういう意味だと思ってた」


「半分は合ってる」


 父の目が、俺を真っ直ぐに見ていた。涙の跡が頬に光っている。


「もう半分は——俺のことだ」


「父さんの」


「俺が、こうなるはずじゃなかった」


 父の声が震えた。だが今度は泣いているからではなかった。


「ヒルデの死を——目の前で見たんだ。戦場から運ばれてきた時、まだ息があった。俺はヒルデの手を握った。ヒルデは俺を見て、笑った。最後に笑った。何か言おうとした。だが声が——出なかった」


 息を飲んだ。


「その瞬間に——俺の中で何かが壊れた。ヒルデの死を悲しむ前に、疑惑が浮かんだ。この決戦のタイミングは不自然だ、と。ヴェルナーが何かしたのではないか、と。悲しみの前に疑惑が来た。妻を亡くした男が最初に感じるべきは悲しみだろう。なのに俺は——疑惑を感じた。それが怖かった」


「怖かった」


「疑惑を追及する勇気がなかったんじゃない。違う。疑惑が——本当だったら、どうすればいいか分からなかった。ヴェルナーが本当にやったのなら、俺は何をすべきだった。復讐か。告発か。だがどちらも——ヒルデは戻ってこない」


 父の手が、俺の手の中で震えていた。


「こんなはずじゃなかった。俺は——もっと強い人間であるはずだった。ヒルデの夫として。お前の父として。革命を戦った兵士として。もっと強くあるはずだった。だが——俺は弱かった。弱い男だった。十六年間、弱いまま酒を飲んで、逃げて、お前を一人にして——」


「父さん」


「すまなかった」


 たった一言が、この人の全てだった。


「すまなかった。お前に。ヒルデに。——この国に」


          ◇


 父がまた眠った。


 今度は眠ったのではなく、意識が遠のいたのだ。呼吸が浅く、不規則になっていた。


 俺は椅子から立ち上がり、窓を開けた。冬の冷たい空気が部屋に入ってきた。父の額に手を当てた。熱い。体が最後の力を使って、何かと戦っている。


 医者を呼ぶべきだった。だが父は呼ぶなと言った。その意志を尊重すべきなのか、それとも無視してでも呼ぶべきなのか。


 前世では考える必要のなかった問いだ。前世の俺は、誰かの最期に立ち会ったことがなかった。母方の祖父が死んだ時も、葬式には行かなかった。シフトがあったから。——本当はシフトを理由にしただけで、行きたくなかったのだ。


 二度目の人生で初めて、死にゆく人間の傍にいる。


 逃げたかった。正直に言えば。この部屋から出て、新鮮な空気を吸いたかった。死の匂いが怖かった。


 だが逃げない。


 父は十六年間逃げ続けた。その結果がこの部屋であり、この体であり、この最期だ。


 俺は逃げない。


          ◇


 夕方、父が目を開けた。


「ルッツ」


「ここにいる」


「……もう一つだけ」


 声が糸のように細かった。


「何だ」


「ヒルデの日記。最後の一行。『もしこの国が、私の望んだものでなかったら——』」


「ああ」


「あの先に何を書くつもりだったか——ヒルデが死ぬ前に、俺に言ったことがある」


 心臓が大きく打った。


「何て言った」


「『ルッツに託す。どんな国であれ、あの子が自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分で決めればいい。私の答えを押し付けるつもりはない。あの子には、あの子の夜明けがある』」


 息が止まった。


 あの子には、あの子の夜明けがある。


 母は——答えを書こうとしていたのではなかったのだ。問いだけを残すつもりだった。答えは息子に委ねる。自分の理想を押し付けるのではなく、自分で考えて、自分で決めろ、と。


 それが、紅の黎明の最後の遺志だった。


「いい母親だった」


 父が微笑んだ。初めて見る微笑みだった。酒の苦みも、自嘲も、後悔も含まない、純粋な——ただ「あの人が好きだった」という感情だけの微笑み。


「いい母親で、強い女で、正しい人間だった。俺にはもったいなかった。だが——」


 父の目が閉じかけた。


「だが、一つだけ良いことをした。あいつとの間に、お前が生まれた。それだけは——間違いじゃなかった」


 父の手が、俺の手から力を失っていった。


「父さん」


 返事がなかった。


 呼吸は続いていた。浅く、細く。だが続いていた。


 その夜、父はもう目を開けなかった。


          ◇


 翌朝、父の呼吸が止まった。


 冬の朝日が窓から差し込んでいた。白い光が、父の顔を照らしていた。


 穏やかな顔だった。十六年分の苦悩が、ようやく解けたように見えた。


 俺は父の手を握ったまま、しばらく動けなかった。


 前世で親の死を経験しなかった。この世界で、初めて親を失った。


 悲しかった。正直に。


 父は弱い男だった。会議で黙り、妻の死の疑惑を追及する勇気がなく、酒に逃げ、十六年間沈黙した。


 だが最後に、話した。


 全てを話した。逃げずに、息子の目を見て、自分の弱さを認めて、謝って、そして——母の最後の言葉を伝えた。


 それが、この人にできた精一杯だった。


 そして俺は、その精一杯を受け取った。


          ◇


 葬儀は三日後だった。


 簡素な式だ。革命功労者としての形式的な弔辞が、共和国の官僚によって読み上げられた。「ベルント・エーベルハルトは革命の戦士として祖国に貢献し……」。紋切り型の言葉が並ぶ。その言葉の一つひとつが、嘘ではないが真実でもなかった。


 参列者は少なかった。戸籍管理局の同僚が数人。近隣の住人が数人。それだけだ。革命の戦友たちの姿はない。十六年の沈黙の間に、父はすべての繋がりを断っていた。


 墓地は、首都の外れにあった。革命功労者の墓区画。整然と並ぶ墓石の一つに、父の名が刻まれた。


 ベルント・エーベルハルト。三十一歳で革命を戦い、四十七歳で死んだ。


 墓石の横に、もう一つの墓がある。ヒルデ・エーベルハルト。二十八歳で革命を終わらせ、二十八歳で死んだ。


 ようやく隣に戻ったのだ。この二人は。


 参列者が去った後、俺は一人で墓の前に立っていた。


 冬の風が吹いていた。裸の木の枝が擦れ合う音だけが、墓地に響いていた。


「父さん」


 声に出した。


「全部、受け取った。母さんの問いも。父さんの後悔も。ヴェルナーの疑惑も。——全部」


 墓石は何も答えない。


「もう体制の中にはいられない。ヴェルナーの下にはいられない。知っていて黙ることは——父さんが一番分かってるだろう。共犯だ」


 風が強くなった。外套の裾が翻る。


「俺は自分で決める。母さんの答えでも、父さんの答えでもない。俺の答えを。——でも、二人が遺してくれたものは、ちゃんと持っていく」


 二つの墓石に背を向けた。


 歩き出した。


 行くべき場所が、一つだけあった。

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