父の最期・前
ルッツ18歳。エミルとの決別の直後、父が倒れたとの知らせが届く。
伝令が来たのは、エミルの背中が裁定院の廊下の角を曲がって消えた、その三十分後だった。
「エーベルハルト。戸籍管理局より緊急連絡。父君が局内で倒れたとのこと」
伝令兵の声は事務的だった。彼にとっては無数にある伝達業務の一つに過ぎない。だが俺の耳には、その言葉だけが輪郭を持って届いた。
「容態は」
「不明です。局の医務室に搬送されたと」
走った。
裁定院の白い廊下を、礼儀も体裁も無視して走った。石畳に軍靴の底が鳴る。すれ違う官僚たちの目が追ってくるのが分かったが、構っている暇はなかった。
正門を出て、列車の駅まで走り、最初の便に飛び乗った。
車窓の外を冬の景色が流れていく。枯れた木々と灰色の空。揺れる車内で膝の上に両手を置いた。指先が震えている。
エミルに言われた言葉が、まだ頭の中で反響していた。
「俺はこの国を信じる。お前が信じないなら、もう俺たちは同じ側にはいない」
あの言葉を受け取ってから、まだ一時間も経っていない。その一時間の間に、世界はもう一つ崩れようとしている。
前世で誰かの危篤を知らされた経験はない。親族との関係が希薄だったから。葬式にも出たことがなかった。中学を出てから親に会ったのは、数えるほどだ。
だから分からない。父が倒れたと聞いて、胸の奥で鳴っているこの音が何なのか。恐怖なのか、悲しみなのか、それとも——もっと別の何かなのか。
列車が父の住む街に着くまで、四十分。
その四十分が、途方もなく長かった。
◇
戸籍管理局の医務室は、建物の一階の奥にあった。
石壁に囲まれた狭い部屋。窓が一つ。薄い日差しが、粗末な寝台の上に横たわる人間の顔を照らしていた。
父だった。
最後に会った時よりも、さらに痩せていた。頬がこけ、眼窩の影が深い。首筋の腱が浮き出て、腕は枯れ枝のようだ。肌の色が悪い。白を通り越して、灰色に近い。
寝台の脇に局の医務官が立っていた。四十代の禿げかけた男で、俺の顔を見て小さく頭を下げた。
「ご子息ですか。ベルント殿は執務中に突然倒れました。意識はございます」
「原因は」
医務官は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
「肝臓です。長年の——その、飲酒による損傷が限界を超えたものと。以前から兆候はあったはずですが」
以前から。
知っていた。父の腹を押さえる無意識の動作。食事を摂らなくなったこと。流しに溜まる食器。横倒しの靴。
全部、知っていた。
知っていて——何もしなかった。
「ルッツか」
寝台から声がした。掠れた、細い声。喉の奥で空気が擦れるような音。
「ああ、俺だ」
寝台の脇の椅子に座った。父の手がシーツの上に置かれている。骨と皮だけの手。かつては剣を握り、革命の戦場で戦った手だ。
父の目が俺を見ていた。濁った目。だが、意識は明瞭だった。
「大袈裟な話だ。少し目が回っただけだ」
「倒れたと聞いた」
「立ちくらみだ。飯を食ってなかっただけだ」
嘘だ。この人は息子の前で弱さを見せることを恐れている。十六年前の会議室で黙った時と同じように、今も本当のことを言えない。
だが今の父には、嘘を維持する体力すら残っていないように見えた。
医務官が部屋を出た。扉が閉まり、親子二人きりになった。
窓の外で鳥が鳴いた。冬の鳥の、短い鳴き声。
「父さん」
「何だ」
「家に帰ろう。ここにいても仕方ない」
父は黙っていた。天井を見上げていた。染みのある白い天井。裁定院の白とは違う、古びた建物の白。
「そうだな。帰るか」
父を支えて起こした。驚くほど軽かった。十六年前の革命兵士の体に、肉がほとんど残っていない。骨を皮で包んだだけの体。
局の出口まで歩く間、父は一度も俺の手を振り払わなかった。以前なら「一人で歩ける」と意地を張っただろう。その意地すら張れなくなっている。
それが、何よりも怖かった。
◇
実家の扉を開けた。
匂いは前回より酷くなっていた。酒精が壁に染みついた、澱んだ空気。換気をしていない部屋特有の重さ。
流しには食器が山になっている。一週間分はある。前回は三日分だった。
靴は玄関に散乱していた。並べるという習慣すら、この人は手放したのだ。
父を居間の椅子に座らせた。テーブルの上には空の瓶が六本。前回の四本を超えている。杯は二つ——一つは割れていた。破片がテーブルの端に寄せてある。片付けようとして途中で諦めた形跡があった。
「水を持ってくる」
台所で水差しに水を汲んだ。杯に注ぎ、父の前に置いた。
父は杯を見つめていた。水の杯を。酒ではなく、水を。
「飲んで」
「……ああ」
父が杯を手に取った。震える手で口に運び、一口だけ飲んだ。水を飲むだけで、腕が疲れているのが分かった。
俺は流しに立った。溜まった食器を洗い始めた。
洗いながら、前世の記憶が浮かんだ。コンビニの深夜勤の後、自分のアパートに帰ると、流しに皿が溜まっていた。三日分。五日分。一週間分。洗う気力がなかった。食器が溜まるのは、生活が壊れていく最初の兆候だ。
父の生活は壊れている。体も壊れている。
分かっていた。半年前にも同じ光景を見た。その時に、もっと強く言うべきだった。医者に行け、と。酒を止めろ、と。
言えなかった。言えば父が怒る。怒るのではなく、黙る。黙って、もっと深く殻の中に閉じこもる。
この親子は、肝心な時に黙る血筋なのだ。母だけが違った。母だけが、声を上げられる人間だった。
食器を洗い終え、棚に戻した。鍋を磨いた。横倒しの靴を直した。散乱した瓶を片付けた。割れた杯の破片を拾い、布で包んだ。
小さなことだ。何の解決にもならない。
だが前世で学んだ。崩れた生活を立て直す第一歩は、いつも小さなことだ。
◇
居間に戻ると、父は椅子に沈んでいた。目を閉じている。眠っているのかと思ったが、俺の足音で目を開けた。
「飯を作る」
「いらん」
「食え。食わないから倒れるんだ」
父は何も言わなかった。反論する力もないのだ。
台所に残っていた食材は、干し豆と芋の残りだけだった。前回帰省した時に置いていった分が、ほとんど手つかずのまま残っている。父はこの半年間、まともに食事をしていなかったのだ。
粥を作った。芋を刻み、豆を煮て、崩れるまで火にかけた。塩は今回、少し多めに入れた。前回「味が薄い」と言われたことを覚えている。
椀に盛り、父の前に置いた。
「食って。頼むから」
父は椀を手に取った。一口、二口。咀嚼の動きがゆっくりだった。飲み込むのにも苦労している。
半分ほど食べて、椀を置いた。
「もう入らん」
「分かった」
その半分が、父にとっては精一杯だった。
俺も粥を食べた。二人の間に、テーブルがある。空の瓶は片付けたが、テーブルに残った輪染みが、長年の酒の痕跡を無言で語っていた。
「ルッツ」
父が口を開いた。
「何だ」
「今日、お前が来たのは——俺が倒れたからか。それとも、別の用があったか」
「倒れたからだ」
「そうか」
父は水を一口飲んだ。
「だが——ちょうどよかった。話したいことがある」
「体を休めてからでいい」
「いや。今だ。今でないと、もう話せなくなる」
父の声に、聞き覚えのある調子があった。前回の帰省で、母の日記について語り始めた時と同じ調子だ。腹の中に溜め込んだものが、蓋を押し上げてくる時の声。
だが前回と違い、今回の父にはもう猶予がないことが、その痩せ方から分かった。
「……聞く」
「前に話したこと。ヴェルナーとヒルデの対立。最後の決戦。ヒルデが先鋒を志願したこと」
「ああ」
「あの時は、あそこまでしか話せなかった。俺の中で、まだ整理がついていなかった部分がある」
父が水を飲んだ。杯をテーブルに戻す。手の震えが、前回よりも大きい。
「ヒルデの死は、戦死だ。それは事実だ。南方要塞の城門で、旧体制の守備隊長と戦い、勝ち、だが傷が深くて死んだ。それは変わらない」
「ああ」
「だが——あの決戦そのものが、あのタイミングで行われたことが、本当に必然だったのか」
部屋の空気が変わった。
時計の振り子が揺れている。かちり、かちり。母が生きていた頃から動き続けている時計。
「父さん。何が言いたい」
父が俺を見た。正面から。
濁った目の奥に、十六年間抱え続けたものが凝縮されていた。前回の告白で出し切ったと思っていたが、まだ底があったのだ。底の底に、最後の一滴が残っていた。
「ヒルデは——最後の会議でヴェルナーに敗れた後、諦めていなかった」
「知ってる。決戦が終わったらもう一度戦うと言ったんだろう。父さんが前に話した」
「ああ。だが、それだけじゃなかった」
父が息を吸った。深く。肺の奥まで空気を入れるように。だが途中で咳き込んだ。乾いた、からからの咳。体の中の何かが軋んでいる音だった。
咳が治まるまで待った。
「ヒルデは——公にするつもりだった」
「公に?」
「元勲会の統制路線を。ヴェルナーの構想の問題点を。革命軍の兵士たちに直接訴えるつもりだった。会議室で負けたなら、会議室の外で戦う。あいつはそう決めていた」
母の覚悟の深さが、初めて輪郭を結んだ。
会議で孤立し、二十人の指導者全員を敵に回しても、まだ諦めていなかった。会議室の論理で勝てないなら、兵士たちの前で——革命を共に戦った仲間たちの前で、統制路線の危険性を訴えようとしていた。
「それは——ヴェルナーにとっては」
「最悪の事態だ」
父の声が低くなった。
「ヒルデは革命最大の英雄だ。兵士たちの崇敬を一身に受けている。紅の黎明が語れば、兵士は聞く。ヴェルナーの構想に疑問を呈すれば、軍の中に反対派が生まれる。元勲会の合意が覆される可能性がある」
「ヴェルナーはそれを知っていたのか。母さんが公にするつもりだったことを」
父は答えなかった。しばらく黙って、杯の中の水を見つめていた。
「……分からん。証拠はない。だが」
一呼吸。
「決戦の時期が決まったのは、ヒルデが兵士たちに語ろうとする——その直前だった」
背筋に冷たいものが走った。
「南方の要塞の守備隊が動いたという情報が入った。だから先制攻撃を仕掛けることになった。それは事実だ。情報は本物だった。守備隊は実際に動いていた」
「だが」
「だが、その情報が入ったタイミングが——あまりにも都合が良すぎた。ヒルデが兵士たちに語ろうとしていた、まさにその日の朝に。決戦命令が出れば、すべてが戦いに集中する。政治の議論などしている場合ではなくなる」
父の手が震えていた。杯の水が小さく波打っている。
「ヴェルナーが直接手を下したとは言わない。守備隊を動かしたのはヴェルナーではない。だが——」
父が目を閉じた。
「あの男は、情報の伝達をどこかで操作したかもしれない。守備隊が動いたという情報は本物だ。だが、その情報を元勲会に上げるタイミングは——人為的に調整できる」
「つまり、決戦の時期を早めた」
「そうだ。ヒルデが声を上げる前に、戦場に送った。戦場に出ればヒルデは戦う。最も危険な場所に自ら行く。それがあいつの性分だから」
時計の音だけが、部屋を満たしていた。
「証拠はない」
父が繰り返した。
「ヴェルナーが情報の伝達を操作したという証拠は、何もない。すべては状況証拠だ。タイミングの一致。それだけだ。だが——」
父の目が開いた。赤い目。十六年分の疑惑を抱え続けてきた目。
「あの男は——ヒルデを止めたかったんだ。革命のために。革命の秩序のために。ヒルデの声が兵士に届けば、革命後の統治が混乱する。それを防ぐために——結果として、ヒルデを戦場に追いやった」
「殺したのか」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「殺したのではない。殺す必要はなかった。戦場に送れば、ヒルデは自分から先鋒に立つ。最も危険な場所に立つ。それを知っていて——止めなかった」
父が顔を覆った。
「俺と同じだ。ヴェルナーも——止めなかった。ただ、俺は勇気がなくて止めなかった。あの男は計算で止めなかった。どちらが罪深いか——俺には分からん」
部屋が暗くなっていた。窓の外の陽が傾いている。冬の日は短い。
父の肩が小さく揺れていた。だが声は出さなかった。この人は、声を出して泣くことができない。
「父さん」
俺は言った。
「今日はここまでにしよう。少し眠れ」
「まだ——」
「残りは明日だ。俺はここにいる。明日も、明後日も」
父が顔から手を離した。疲れ切った目で俺を見た。
「……エミルはどうした」
不意に出た名前に、胸が痛んだ。
「エミルは——侵攻の先鋒に志願した」
「そうか」
「もう、同じ側にはいないと言われた」
父は黙っていた。しばらくして、掠れた声で言った。
「ヒルデにも……同じことを言えなかった男が、お前に何を言ってやれるか」
返す言葉がなかった。
「寝台に行こう。支えるから」
父を起こし、二階の寝室まで支えて歩いた。階段を一段上がるたびに、父の呼吸が荒くなる。体重は俺の半分もないように感じた。
寝台に横たえ、毛布を掛けた。
「明日——」
父が目を閉じながら言った。
「続きを話す。最後まで」
「ああ」
「お前にだけは——全部、話しておかなければ」
父の声が、眠りの中に沈んでいった。
◇
階下に戻り、居間の椅子に座った。
一人になった部屋で、天井を見つめた。
母の死は、単なる戦死ではなかったかもしれない。ヴェルナーが直接手を下したのではない。だが、決戦の時期を操作し、結果として母を戦場に追いやった可能性がある。
証拠はない。父自身がそう言った。状況証拠だけだ。
だが父がこの疑惑を十六年間抱え続けてきた重さは、本物だった。この疑惑が父を蝕み、酒に溺れさせ、沈黙させ、体を壊した。
壁に掛かった母の肖像画を見上げた。革命英雄としての正装。凛とした目。二十八歳で死んだ女性の、理想化された像。
この人は、声を上げようとしていた。会議で負けても、外で戦おうとしていた。
それを阻まれた。戦場によって。
「母さん」
声に出した。誰も聞いていない部屋で。
「あなたが伝えようとしたことを——俺が引き継ぐ」
返事はない。肖像画の母は、静かに前を向いている。
二階から、父の寝息が微かに聞こえてきた。荒い呼吸。苦しそうな呼吸。
この家に、もう長くはないかもしれない命と、まだ始まっていない決意がある。
窓の外で、日が暮れた。




