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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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父の最期・前

ルッツ18歳。エミルとの決別の直後、父が倒れたとの知らせが届く。

伝令が来たのは、エミルの背中が裁定院の廊下の角を曲がって消えた、その三十分後だった。


「エーベルハルト。戸籍管理局より緊急連絡。父君が局内で倒れたとのこと」


 伝令兵の声は事務的だった。彼にとっては無数にある伝達業務の一つに過ぎない。だが俺の耳には、その言葉だけが輪郭を持って届いた。


「容態は」


「不明です。局の医務室に搬送されたと」


 走った。


 裁定院の白い廊下を、礼儀も体裁も無視して走った。石畳に軍靴の底が鳴る。すれ違う官僚たちの目が追ってくるのが分かったが、構っている暇はなかった。


 正門を出て、列車の駅まで走り、最初の便に飛び乗った。


 車窓の外を冬の景色が流れていく。枯れた木々と灰色の空。揺れる車内で膝の上に両手を置いた。指先が震えている。


 エミルに言われた言葉が、まだ頭の中で反響していた。


「俺はこの国を信じる。お前が信じないなら、もう俺たちは同じ側にはいない」


 あの言葉を受け取ってから、まだ一時間も経っていない。その一時間の間に、世界はもう一つ崩れようとしている。


 前世で誰かの危篤を知らされた経験はない。親族との関係が希薄だったから。葬式にも出たことがなかった。中学を出てから親に会ったのは、数えるほどだ。


 だから分からない。父が倒れたと聞いて、胸の奥で鳴っているこの音が何なのか。恐怖なのか、悲しみなのか、それとも——もっと別の何かなのか。


 列車が父の住む街に着くまで、四十分。


 その四十分が、途方もなく長かった。


          ◇


 戸籍管理局の医務室は、建物の一階の奥にあった。


 石壁に囲まれた狭い部屋。窓が一つ。薄い日差しが、粗末な寝台の上に横たわる人間の顔を照らしていた。


 父だった。


 最後に会った時よりも、さらに痩せていた。頬がこけ、眼窩の影が深い。首筋の腱が浮き出て、腕は枯れ枝のようだ。肌の色が悪い。白を通り越して、灰色に近い。


 寝台の脇に局の医務官が立っていた。四十代の禿げかけた男で、俺の顔を見て小さく頭を下げた。


「ご子息ですか。ベルント殿は執務中に突然倒れました。意識はございます」


「原因は」


 医務官は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。


「肝臓です。長年の——その、飲酒による損傷が限界を超えたものと。以前から兆候はあったはずですが」


 以前から。


 知っていた。父の腹を押さえる無意識の動作。食事を摂らなくなったこと。流しに溜まる食器。横倒しの靴。


 全部、知っていた。


 知っていて——何もしなかった。


「ルッツか」


 寝台から声がした。掠れた、細い声。喉の奥で空気が擦れるような音。


「ああ、俺だ」


 寝台の脇の椅子に座った。父の手がシーツの上に置かれている。骨と皮だけの手。かつては剣を握り、革命の戦場で戦った手だ。


 父の目が俺を見ていた。濁った目。だが、意識は明瞭だった。


「大袈裟な話だ。少し目が回っただけだ」


「倒れたと聞いた」


「立ちくらみだ。飯を食ってなかっただけだ」


 嘘だ。この人は息子の前で弱さを見せることを恐れている。十六年前の会議室で黙った時と同じように、今も本当のことを言えない。


 だが今の父には、嘘を維持する体力すら残っていないように見えた。


 医務官が部屋を出た。扉が閉まり、親子二人きりになった。


 窓の外で鳥が鳴いた。冬の鳥の、短い鳴き声。


「父さん」


「何だ」


「家に帰ろう。ここにいても仕方ない」


 父は黙っていた。天井を見上げていた。染みのある白い天井。裁定院の白とは違う、古びた建物の白。


「そうだな。帰るか」


 父を支えて起こした。驚くほど軽かった。十六年前の革命兵士の体に、肉がほとんど残っていない。骨を皮で包んだだけの体。


 局の出口まで歩く間、父は一度も俺の手を振り払わなかった。以前なら「一人で歩ける」と意地を張っただろう。その意地すら張れなくなっている。


 それが、何よりも怖かった。


          ◇


 実家の扉を開けた。


 匂いは前回より酷くなっていた。酒精が壁に染みついた、(おり)んだ空気。換気をしていない部屋特有の重さ。


 流しには食器が山になっている。一週間分はある。前回は三日分だった。


 靴は玄関に散乱していた。並べるという習慣すら、この人は手放したのだ。


 父を居間の椅子に座らせた。テーブルの上には空の瓶が六本。前回の四本を超えている。杯は二つ——一つは割れていた。破片がテーブルの端に寄せてある。片付けようとして途中で諦めた形跡があった。


「水を持ってくる」


 台所で水差しに水を汲んだ。杯に注ぎ、父の前に置いた。


 父は杯を見つめていた。水の杯を。酒ではなく、水を。


「飲んで」


「……ああ」


 父が杯を手に取った。震える手で口に運び、一口だけ飲んだ。水を飲むだけで、腕が疲れているのが分かった。


 俺は流しに立った。溜まった食器を洗い始めた。


 洗いながら、前世の記憶が浮かんだ。コンビニの深夜勤の後、自分のアパートに帰ると、流しに皿が溜まっていた。三日分。五日分。一週間分。洗う気力がなかった。食器が溜まるのは、生活が壊れていく最初の兆候だ。


 父の生活は壊れている。体も壊れている。


 分かっていた。半年前にも同じ光景を見た。その時に、もっと強く言うべきだった。医者に行け、と。酒を止めろ、と。


 言えなかった。言えば父が怒る。怒るのではなく、黙る。黙って、もっと深く殻の中に閉じこもる。


 この親子は、肝心な時に黙る血筋なのだ。母だけが違った。母だけが、声を上げられる人間だった。


 食器を洗い終え、棚に戻した。鍋を磨いた。横倒しの靴を直した。散乱した瓶を片付けた。割れた杯の破片を拾い、布で包んだ。


 小さなことだ。何の解決にもならない。


 だが前世で学んだ。崩れた生活を立て直す第一歩は、いつも小さなことだ。


          ◇


 居間に戻ると、父は椅子に沈んでいた。目を閉じている。眠っているのかと思ったが、俺の足音で目を開けた。


「飯を作る」


「いらん」


「食え。食わないから倒れるんだ」


 父は何も言わなかった。反論する力もないのだ。


 台所に残っていた食材は、干し豆と芋の残りだけだった。前回帰省した時に置いていった分が、ほとんど手つかずのまま残っている。父はこの半年間、まともに食事をしていなかったのだ。


 粥を作った。芋を刻み、豆を煮て、崩れるまで火にかけた。塩は今回、少し多めに入れた。前回「味が薄い」と言われたことを覚えている。


 椀に盛り、父の前に置いた。


「食って。頼むから」


 父は椀を手に取った。一口、二口。咀嚼の動きがゆっくりだった。飲み込むのにも苦労している。


 半分ほど食べて、椀を置いた。


「もう入らん」


「分かった」


 その半分が、父にとっては精一杯だった。


 俺も粥を食べた。二人の間に、テーブルがある。空の瓶は片付けたが、テーブルに残った輪染みが、長年の酒の痕跡を無言で語っていた。


「ルッツ」


 父が口を開いた。


「何だ」


「今日、お前が来たのは——俺が倒れたからか。それとも、別の用があったか」


「倒れたからだ」


「そうか」


 父は水を一口飲んだ。


「だが——ちょうどよかった。話したいことがある」


「体を休めてからでいい」


「いや。今だ。今でないと、もう話せなくなる」


 父の声に、聞き覚えのある調子があった。前回の帰省で、母の日記について語り始めた時と同じ調子だ。腹の中に溜め込んだものが、蓋を押し上げてくる時の声。


 だが前回と違い、今回の父にはもう猶予がないことが、その痩せ方から分かった。


「……聞く」


「前に話したこと。ヴェルナーとヒルデの対立。最後の決戦。ヒルデが先鋒を志願したこと」


「ああ」


「あの時は、あそこまでしか話せなかった。俺の中で、まだ整理がついていなかった部分がある」


 父が水を飲んだ。杯をテーブルに戻す。手の震えが、前回よりも大きい。


「ヒルデの死は、戦死だ。それは事実だ。南方要塞の城門で、旧体制の守備隊長と戦い、勝ち、だが傷が深くて死んだ。それは変わらない」


「ああ」


「だが——あの決戦そのものが、あのタイミングで行われたことが、本当に必然だったのか」


 部屋の空気が変わった。


 時計の振り子(ふりこ)が揺れている。かちり、かちり。母が生きていた頃から動き続けている時計。


「父さん。何が言いたい」


 父が俺を見た。正面から。


 濁った目の奥に、十六年間抱え続けたものが凝縮されていた。前回の告白で出し切ったと思っていたが、まだ底があったのだ。底の底に、最後の一滴が残っていた。


「ヒルデは——最後の会議でヴェルナーに敗れた後、諦めていなかった」


「知ってる。決戦が終わったらもう一度戦うと言ったんだろう。父さんが前に話した」


「ああ。だが、それだけじゃなかった」


 父が息を吸った。深く。肺の奥まで空気を入れるように。だが途中で咳き込んだ。乾いた、からからの咳。体の中の何かが軋んでいる音だった。


 咳が治まるまで待った。


「ヒルデは——公にするつもりだった」


「公に?」


「元勲会の統制路線を。ヴェルナーの構想の問題点を。革命軍の兵士たちに直接訴えるつもりだった。会議室で負けたなら、会議室の外で戦う。あいつはそう決めていた」


 母の覚悟の深さが、初めて輪郭を結んだ。


 会議で孤立し、二十人の指導者全員を敵に回しても、まだ諦めていなかった。会議室の論理で勝てないなら、兵士たちの前で——革命を共に戦った仲間たちの前で、統制路線の危険性を訴えようとしていた。


「それは——ヴェルナーにとっては」


「最悪の事態だ」


 父の声が低くなった。


「ヒルデは革命最大の英雄だ。兵士たちの崇敬を一身に受けている。紅の黎明が語れば、兵士は聞く。ヴェルナーの構想に疑問を呈すれば、軍の中に反対派が生まれる。元勲会の合意が覆される可能性がある」


「ヴェルナーはそれを知っていたのか。母さんが公にするつもりだったことを」


 父は答えなかった。しばらく黙って、杯の中の水を見つめていた。


「……分からん。証拠はない。だが」


 一呼吸。


「決戦の時期が決まったのは、ヒルデが兵士たちに語ろうとする——その直前だった」


 背筋に冷たいものが走った。


「南方の要塞の守備隊が動いたという情報が入った。だから先制攻撃を仕掛けることになった。それは事実だ。情報は本物だった。守備隊は実際に動いていた」


「だが」


「だが、その情報が入ったタイミングが——あまりにも都合が良すぎた。ヒルデが兵士たちに語ろうとしていた、まさにその日の朝に。決戦命令が出れば、すべてが戦いに集中する。政治の議論などしている場合ではなくなる」


 父の手が震えていた。杯の水が小さく波打っている。


「ヴェルナーが直接手を下したとは言わない。守備隊を動かしたのはヴェルナーではない。だが——」


 父が目を閉じた。


「あの男は、情報の伝達をどこかで操作したかもしれない。守備隊が動いたという情報は本物だ。だが、その情報を元勲会に上げるタイミングは——人為的に調整できる」


「つまり、決戦の時期を早めた」


「そうだ。ヒルデが声を上げる前に、戦場に送った。戦場に出ればヒルデは戦う。最も危険な場所に自ら行く。それがあいつの性分だから」


 時計の音だけが、部屋を満たしていた。


「証拠はない」


 父が繰り返した。


「ヴェルナーが情報の伝達を操作したという証拠は、何もない。すべては状況証拠だ。タイミングの一致。それだけだ。だが——」


 父の目が開いた。赤い目。十六年分の疑惑を抱え続けてきた目。


「あの男は——ヒルデを止めたかったんだ。革命のために。革命の秩序のために。ヒルデの声が兵士に届けば、革命後の統治が混乱する。それを防ぐために——結果として、ヒルデを戦場に追いやった」


「殺したのか」


 俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「殺したのではない。殺す必要はなかった。戦場に送れば、ヒルデは自分から先鋒に立つ。最も危険な場所に立つ。それを知っていて——止めなかった」


 父が顔を覆った。


「俺と同じだ。ヴェルナーも——止めなかった。ただ、俺は勇気がなくて止めなかった。あの男は計算で止めなかった。どちらが罪深いか——俺には分からん」


 部屋が暗くなっていた。窓の外の陽が傾いている。冬の日は短い。


 父の肩が小さく揺れていた。だが声は出さなかった。この人は、声を出して泣くことができない。


「父さん」


 俺は言った。


「今日はここまでにしよう。少し眠れ」


「まだ——」


「残りは明日だ。俺はここにいる。明日も、明後日も」


 父が顔から手を離した。疲れ切った目で俺を見た。


「……エミルはどうした」


 不意に出た名前に、胸が痛んだ。


「エミルは——侵攻の先鋒に志願した」


「そうか」


「もう、同じ側にはいないと言われた」


 父は黙っていた。しばらくして、掠れた声で言った。


「ヒルデにも……同じことを言えなかった男が、お前に何を言ってやれるか」


 返す言葉がなかった。


「寝台に行こう。支えるから」


 父を起こし、二階の寝室まで支えて歩いた。階段を一段上がるたびに、父の呼吸が荒くなる。体重は俺の半分もないように感じた。


 寝台に横たえ、毛布を掛けた。


「明日——」


 父が目を閉じながら言った。


「続きを話す。最後まで」


「ああ」


「お前にだけは——全部、話しておかなければ」


 父の声が、眠りの中に沈んでいった。


          ◇


 階下に戻り、居間の椅子に座った。


 一人になった部屋で、天井を見つめた。


 母の死は、単なる戦死ではなかったかもしれない。ヴェルナーが直接手を下したのではない。だが、決戦の時期を操作し、結果として母を戦場に追いやった可能性がある。


 証拠はない。父自身がそう言った。状況証拠だけだ。


 だが父がこの疑惑を十六年間抱え続けてきた重さは、本物だった。この疑惑が父を蝕み、酒に溺れさせ、沈黙させ、体を壊した。


 壁に掛かった母の肖像画を見上げた。革命英雄としての正装。凛とした目。二十八歳で死んだ女性の、理想化された像。


 この人は、声を上げようとしていた。会議で負けても、外で戦おうとしていた。


 それを阻まれた。戦場によって。


「母さん」


 声に出した。誰も聞いていない部屋で。


「あなたが伝えようとしたことを——俺が引き継ぐ」


 返事はない。肖像画の母は、静かに前を向いている。


 二階から、父の寝息が微かに聞こえてきた。荒い呼吸。苦しそうな呼吸。


 この家に、もう長くはないかもしれない命と、まだ始まっていない決意がある。


 窓の外で、日が暮れた。

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