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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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同じ空の下で

ルッツ18歳。エミルとの決別。

追いかけた。


 酒場を飛び出した時には、エミルの背中はもう通りの先にあった。軍人の歩幅は広い。外套の裾が、石畳の上を掃くように揺れている。


「エミル、待ってくれ」


 声は届いている。エミルの足が一瞬だけ遅くなった。だが止まらなかった。


 迅駆(じんく)は使わなかった。魔法で追いつくのは違う。自分の足で追いかけた。


 通りの角を曲がった先に、小さな広場があった。昼間は市が立つ場所だが、今は誰もいない。月明かりが石畳を青白く照らし、広場の中央にある井戸の影が長く伸びていた。


 エミルが足を止めた。


 振り返った。


 月明かりの下で、エミルの顔が見えた。怒りではなかった。もっと複雑な、もっと苦い表情だった。何かを堪えている顔。殴りたいのか泣きたいのか、自分でも決められない顔。


「追いかけてくるなよ」


「来週発つんだろう。今話さなきゃ、もう話せない」


「話すことなんかあるか。お前の言い分は聞いた。俺の言い分も言った。それで終わりだ」


「終わりじゃない」


 俺はエミルの三メートル手前で立ち止まった。模擬戦の開始距離の半分だ。あの時は五メートルだった。今は、もう少し近い。


「エミル。俺はお前に死んでほしくないだけだ」


 エミルの表情が揺れた。


 怒りの鎧に、一瞬だけ亀裂が走った。


「死なないよ。俺は鉄鷲だぞ」


「鉄鷲だろうが何だろうが、戦場に出れば死ぬ時は死ぬ。お前だって辺境で見ただろう。人が死ぬ時は、あっけない」


「それは敵に当てはまることだ。俺たちは訓練を積んでる」


「訓練を積んだ人間も死ぬ。母さんがそうだった」


 言った瞬間、エミルが動きを止めた。


 母の名前を出したのは、意図的ではなかった。だが出てしまったものは引っ込められない。


「お前の母親は……」


 エミルが口を開きかけて、閉じた。


 長い沈黙の後、エミルの声が変わった。先ほどの怒りとは異質な、冷たく研がれた声になっていた。


「お前の母親は、この国のために死んだんだぞ」


 足元の石畳が、急に冷たくなった気がした。


「紅の黎明。大陸最強の魔法使い。革命の旗を掲げて、この国を作るために命を懸けた。その息子が、この国を否定してるんだぞ。それがどれだけ——」


 エミルの声が震えた。怒りの震えではない。信じていたものが揺らぐ音だ。


「——どれだけ、俺を裏切ってるか、お前にわかるか」


 俺を。


 「この国を」ではなく、「俺を」と言った。


 エミルにとって、ルッツの母の英雄譚は信仰の土台だった。紅の黎明が命を懸けたこの国を守る。それがエミルの原点だ。七歳の時に「ルッツの母さんは最高の英雄だろ」と言ったあの日から。


 その英雄の息子が国を否定する。エミルにとって、それは国家への反逆以上に、個人的な裏切りなのだ。


 返す言葉を探した。


 見つからなかった。


          ◇


 井戸の縁に手をついて、俺は呼吸を整えた。


 エミルは三メートル先に立ったまま、俺を見ている。月明かりが二人の間を青白く照らしている。


「エミル。一つだけ聞いてくれ」


「……聞く」


「母さんは、最後の決戦の前に、革命の方向性を批判しようとしていた」


 エミルの目が細くなった。


「何だと」


「母さんの日記に書いてあった。『均等とは何か。誰かが配分を決める時点で、それは均等ではない』。母さんは革命の理念を信じていた。でも、その理念がどう運用されているかに疑問を持ち始めていた。そして——」


 父の告白が頭を過ぎった。決戦の時期が操作された疑い。証拠はない。だが。


「——そしてその直後に、死んだ」


 エミルの顔が歪んだ。


「何を言いたいんだ」


「母さんが本当に守りたかったのは、この国の体制じゃない。革命の理念そのものだ。体制と理念は違う。体制は歪む。権力を持った人間は腐る。母さんはそれを見抜いていた」


「……妄想だ」


 エミルの声は硬かった。だがその硬さは、割れそうなものを必死に保とうとする硬さだ。


「日記を読め。母さん自身の言葉だ。俺の妄想じゃない」


「たとえ本当だとしても」


 エミルが一歩、前に出た。


「たとえお前の母親が体制に疑問を持っていたとしても——だったらなおさら、内側から変えるべきだろう。外から壊すんじゃなく」


「俺は壊そうとしてるんじゃない」


「じゃあ何をしようとしてるんだ」


 正面から聞かれた。


 答えを持っていなかった。


 ディートリヒの反革命に与するつもりはない。ヴェルナーの侵攻に加担するつもりもない。だが代案がない。「どちらも間違っている」と言うことはできても、「こうすべきだ」と示すことができない。


 前世の俺と同じだ。社会がおかしいと思っていた。だが投票にも行かなかった。デモにも参加しなかった。文句だけ言って何もしなかった。


「……まだ、わからない」


 正直に答えた。


「わからない?」


 エミルの声に、失望の色が滲んだ。


「革命を否定して、体制を否定して、戦争を否定して。全部否定して、じゃあどうするかはわからないって? それで俺に『やめろ』って言うのか」


「——」


「ルッツ。お前は頭がいい。昔からそうだ。俺より勉強もできたし、物事を深く考える力がある。でもな、考えてるだけじゃ何も変わらないんだよ」


 刺さった。


「俺は考える代わりに動くことを選んだ。正しいかどうかわからなくても、この国を守るために前に出る。お前は考える代わりに立ち止まってる。立ち止まって、全部の間違いを指摘して、でも自分は何もしない」


「何もしてないわけじゃ——」


「旧式を隠れて使うことか? 裁定院の文書をこっそり覗くことか? それがお前の『何か』か?」


 反論できなかった。


 エミルの言葉は、痛いほど正確だった。


          ◇


 広場の井戸の水面に、月が映っていた。


 二人の間の沈黙が長くなった。先ほどまでの感情的なぶつかり合いが過ぎて、残ったのは乾いた静けさだった。


 エミルが井戸の縁に座った。俺の隣ではなく、反対側に。井戸を挟んで向かい合う形になった。


「なあ、ルッツ」


 声のトーンが変わっていた。怒りも失望も消えて、ただ疲れた声だった。


「俺だって何も考えてないわけじゃない」


「……」


「侵攻が正しいかどうか。正直に言えば、わからない。ヴェルトハーフェンの民を解放するって言葉が本当かどうかも、全部信じてるわけじゃない」


 エミルが上を向いた。星が出ていた。


「でもな、わからないなら、今ある場所で最善を尽くすしかないだろ。俺は共和国の兵士だ。この国に生まれて、この国に育てられて、この国の飯を食って大きくなった。信じなきゃ立てないんだよ」


 信じなきゃ立てない。


 その言葉が、胸を抉った。


 エミルは知っていたのだ。全部ではないにしても、何かがおかしいことを。辺境で見た荒廃。隔離区の存在。均等と言いながら不均等な現実。それらを目にしていないはずがない。


 だがエミルは、信じることを選んだ。


 疑いながら信じる。矛盾を抱えながら前に進む。それがエミルの戦い方だ。


 前世の俺に、それはできなかった。だからフリーターのまま三十一年を過ごした。信じるものがなかったから。


 エミルには、ある。たとえそれが歪んだ体制であっても、信じる対象がある。信じる対象がある人間は、立てる。


「ルッツ」


「うん」


「俺はこの国を信じる」


 静かな宣言だった。


「お前が信じないなら——」


 一拍の間。


「——もう俺たちは、同じ側にはいない」


 石畳に落ちた月の影が、微かに揺れた。


 風が吹いたのだ。秋の終わりの、冷たい風。


 同じ側にはいない。


 敵になるとは言わなかった。だが「同じ側にはいない」という言葉は、それと同じだけの重さを持っていた。


「……そうだな」


 否定する言葉は出てこなかった。


 嘘をつくことはできた。「俺もこの国を信じてる」と言えば、エミルはもう一度こちら側に戻ってきてくれただろう。少なくとも、この夜はそう言うことができた。


 だが言わなかった。


 これ以上、この男に嘘をつくことが——できなかった。


 エミルが立ち上がった。


 井戸の縁を回って、俺の前まで来た。


 手を差し出した。


 模擬戦の後と同じだ。あの時も手を差し出してくれた。負けた俺を立ち上がらせるために。


 だが今回の意味は違う。


 これは握手だ。


 別れの握手だ。


 俺はその手を取った。


 エミルの手は大きかった。硬い掌。火系統の魔法を撃ち続けてきた手。人を守るために鍛えた手。


 握った。


 強く。


 エミルも握り返した。


「死ぬなよ」


 エミルが言った。


「——お前もだ」


「俺が死ぬかよ。鉄鷲をなめるな」


 笑った。


 エミルの笑い方は、七歳の時と変わっていなかった。あの教室で初めて手を振ってくれた時と、同じ笑い方だ。


 だがその笑みの下にある感情が、十一年前とはまったく違うことを、俺たちは二人とも知っていた。


 手が離れた。


 エミルが背を向けた。


「ルッツ」


 数歩歩いて、振り返った。


「お前が何をするつもりなのか、俺にはわからない。わからないけど——」


 言葉を選んでいた。


「——お前が本気でやるなら、俺は全力で止める。友人としてじゃなく、共和国の兵士として」


「ああ」


「だから、半端なことはするなよ。中途半端にやって捕まるくらいなら、やめとけ」


 最後に残された、友情の形だった。


 「やるなら本気でやれ」。それは「お前がいい加減にやって処刑されるのは嫌だ」という意味だ。


 敵になると宣言しながら、相手の無事を祈る。


 それが、エミル・リヒターという男だった。


「ありがとう、エミル」


「礼を言うな。次に会う時は——」


 その先は言わなかった。


 背を向けて歩き出した。今度は振り返らなかった。


 広い背中。鉄鷲の紋章。月明かりに照らされた外套の裾が、石畳の上をかすめている。


 その背中が、通りの角を曲がった。


 消えた。


          ◇


 広場に一人、残された。


 井戸の縁に座った。


 手を見た。エミルの手の温もりが、まだ残っていた。


 七歳の時に差し出された手。「お前も一緒に遊ぼうぜ」と言ってくれた手。十四歳の時に「お前の友達だ」と言ってくれた手。十六歳の時に卒業を祝って握ってくれた手。十八歳の模擬戦で、負けた俺を引き上げてくれた手。


 あの手はもう、次に触れる時には——。


 考えるのをやめた。


 考えても、答えは出ない。


 エミルは正しい。少なくとも、自分の正しさに正直だ。国を信じ、仲間を信じ、その信念のために命を懸ける。前世の俺には決してできなかったことだ。


 俺は正しいのか。


 体制を疑い、戦争を否定し、旧式と新式の間を漂い、どちらにも与さない。それは覚悟なのか、ただの臆病なのか。


 エミルは言った。「考えてるだけじゃ何も変わらない」。


 正しい。


 知って、疑って、否定して。それだけでは前世と同じだ。何もしなかった三十一年間の繰り返しだ。


 だが、間違った方向に動くよりは、立ち止まって考える方がましだとも思う。


 ——いや。


 それは言い訳だ。


 立ち止まっている間にも、エミルは前線に向かう。ヴェルナーは侵攻の準備を進める。ディートリヒは反革命の旗を振る。世界は動いている。動いている世界の中で、一人だけ立ち止まっていることは、何も選ばないという選択をしていることと同じだ。


 前世で学んだ。何もしないことは、現状を肯定することと同義だ。


 エミルの最後の言葉が耳に残っている。


 「半端なことはするなよ」。


 あれは忠告であり、同時に挑発だった。本気でやるなら全力で止めてやる。その覚悟があるのか、お前に。


 エミルはもう覚悟を決めている。


 俺は——。


 空を見上げた。星が出ていた。前世の空よりも、ずっと多くの星が見える。この世界には、あの世界にはなかった澄んだ空がある。


 その空の下で、友を失った。


 失ったのだろうか。本当に。


 あの最後の握手の力強さを思い出す。あれは「さよなら」の握手ではなかった。「覚悟を見せろ」という握手だった。


 エミルは俺を試している。お前が本気なら、俺も本気で応える。お前が半端なら、俺はお前を軽蔑する。


 友人として別れたのではない。


 互いの覚悟を問い合ったのだ。


 俺の答えは、まだ出ていない。


 だが、時間はもうない。


 来週、エミルは西方に発つ。侵攻が始まれば、すべてが動き出す。ヴェルナーの思惑、ディートリヒの野心、前線の兵士たちの命。何もかもが、あの文書に書かれた三ヶ月の時間表に沿って進んでいく。


 井戸の水面を見た。


 月の光が映っている。揺れている。


 前世で、コンビニの夜勤明けに見た月を思い出した。あの月は何も照らさなかった。ただ空にあるだけだった。誰にも見られず、誰をも照らさず。


 この世界の月は、二人の別れを照らした。


 立ち上がった。


 手の温もりが、少しずつ冷えていくのを感じながら。


 歩き出した。


 隔離区の方角へ。


 レナに話さなければならない。エミルとの決別を。そして——自分がこれからどうするのかを。


 まだ答えは見つかっていない。


 だが、立ち止まることはもうやめる。


 エミルが覚悟を見せた。俺も、見せなければならない。


 たとえその覚悟が、友を敵に回すことを意味しても。


 広場を出る時、振り返った。


 井戸の水面に映った月が、まだ揺れていた。


 同じ月だ。エミルが見上げた空にある月と、俺が見上げた空にある月は、同じ月だ。


 同じ空の下にいる。ただ、立つ場所が違う。


 それだけのことが、こんなにも——痛い。

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