同じ空の下で
ルッツ18歳。エミルとの決別。
追いかけた。
酒場を飛び出した時には、エミルの背中はもう通りの先にあった。軍人の歩幅は広い。外套の裾が、石畳の上を掃くように揺れている。
「エミル、待ってくれ」
声は届いている。エミルの足が一瞬だけ遅くなった。だが止まらなかった。
迅駆は使わなかった。魔法で追いつくのは違う。自分の足で追いかけた。
通りの角を曲がった先に、小さな広場があった。昼間は市が立つ場所だが、今は誰もいない。月明かりが石畳を青白く照らし、広場の中央にある井戸の影が長く伸びていた。
エミルが足を止めた。
振り返った。
月明かりの下で、エミルの顔が見えた。怒りではなかった。もっと複雑な、もっと苦い表情だった。何かを堪えている顔。殴りたいのか泣きたいのか、自分でも決められない顔。
「追いかけてくるなよ」
「来週発つんだろう。今話さなきゃ、もう話せない」
「話すことなんかあるか。お前の言い分は聞いた。俺の言い分も言った。それで終わりだ」
「終わりじゃない」
俺はエミルの三メートル手前で立ち止まった。模擬戦の開始距離の半分だ。あの時は五メートルだった。今は、もう少し近い。
「エミル。俺はお前に死んでほしくないだけだ」
エミルの表情が揺れた。
怒りの鎧に、一瞬だけ亀裂が走った。
「死なないよ。俺は鉄鷲だぞ」
「鉄鷲だろうが何だろうが、戦場に出れば死ぬ時は死ぬ。お前だって辺境で見ただろう。人が死ぬ時は、あっけない」
「それは敵に当てはまることだ。俺たちは訓練を積んでる」
「訓練を積んだ人間も死ぬ。母さんがそうだった」
言った瞬間、エミルが動きを止めた。
母の名前を出したのは、意図的ではなかった。だが出てしまったものは引っ込められない。
「お前の母親は……」
エミルが口を開きかけて、閉じた。
長い沈黙の後、エミルの声が変わった。先ほどの怒りとは異質な、冷たく研がれた声になっていた。
「お前の母親は、この国のために死んだんだぞ」
足元の石畳が、急に冷たくなった気がした。
「紅の黎明。大陸最強の魔法使い。革命の旗を掲げて、この国を作るために命を懸けた。その息子が、この国を否定してるんだぞ。それがどれだけ——」
エミルの声が震えた。怒りの震えではない。信じていたものが揺らぐ音だ。
「——どれだけ、俺を裏切ってるか、お前にわかるか」
俺を。
「この国を」ではなく、「俺を」と言った。
エミルにとって、ルッツの母の英雄譚は信仰の土台だった。紅の黎明が命を懸けたこの国を守る。それがエミルの原点だ。七歳の時に「ルッツの母さんは最高の英雄だろ」と言ったあの日から。
その英雄の息子が国を否定する。エミルにとって、それは国家への反逆以上に、個人的な裏切りなのだ。
返す言葉を探した。
見つからなかった。
◇
井戸の縁に手をついて、俺は呼吸を整えた。
エミルは三メートル先に立ったまま、俺を見ている。月明かりが二人の間を青白く照らしている。
「エミル。一つだけ聞いてくれ」
「……聞く」
「母さんは、最後の決戦の前に、革命の方向性を批判しようとしていた」
エミルの目が細くなった。
「何だと」
「母さんの日記に書いてあった。『均等とは何か。誰かが配分を決める時点で、それは均等ではない』。母さんは革命の理念を信じていた。でも、その理念がどう運用されているかに疑問を持ち始めていた。そして——」
父の告白が頭を過ぎった。決戦の時期が操作された疑い。証拠はない。だが。
「——そしてその直後に、死んだ」
エミルの顔が歪んだ。
「何を言いたいんだ」
「母さんが本当に守りたかったのは、この国の体制じゃない。革命の理念そのものだ。体制と理念は違う。体制は歪む。権力を持った人間は腐る。母さんはそれを見抜いていた」
「……妄想だ」
エミルの声は硬かった。だがその硬さは、割れそうなものを必死に保とうとする硬さだ。
「日記を読め。母さん自身の言葉だ。俺の妄想じゃない」
「たとえ本当だとしても」
エミルが一歩、前に出た。
「たとえお前の母親が体制に疑問を持っていたとしても——だったらなおさら、内側から変えるべきだろう。外から壊すんじゃなく」
「俺は壊そうとしてるんじゃない」
「じゃあ何をしようとしてるんだ」
正面から聞かれた。
答えを持っていなかった。
ディートリヒの反革命に与するつもりはない。ヴェルナーの侵攻に加担するつもりもない。だが代案がない。「どちらも間違っている」と言うことはできても、「こうすべきだ」と示すことができない。
前世の俺と同じだ。社会がおかしいと思っていた。だが投票にも行かなかった。デモにも参加しなかった。文句だけ言って何もしなかった。
「……まだ、わからない」
正直に答えた。
「わからない?」
エミルの声に、失望の色が滲んだ。
「革命を否定して、体制を否定して、戦争を否定して。全部否定して、じゃあどうするかはわからないって? それで俺に『やめろ』って言うのか」
「——」
「ルッツ。お前は頭がいい。昔からそうだ。俺より勉強もできたし、物事を深く考える力がある。でもな、考えてるだけじゃ何も変わらないんだよ」
刺さった。
「俺は考える代わりに動くことを選んだ。正しいかどうかわからなくても、この国を守るために前に出る。お前は考える代わりに立ち止まってる。立ち止まって、全部の間違いを指摘して、でも自分は何もしない」
「何もしてないわけじゃ——」
「旧式を隠れて使うことか? 裁定院の文書をこっそり覗くことか? それがお前の『何か』か?」
反論できなかった。
エミルの言葉は、痛いほど正確だった。
◇
広場の井戸の水面に、月が映っていた。
二人の間の沈黙が長くなった。先ほどまでの感情的なぶつかり合いが過ぎて、残ったのは乾いた静けさだった。
エミルが井戸の縁に座った。俺の隣ではなく、反対側に。井戸を挟んで向かい合う形になった。
「なあ、ルッツ」
声のトーンが変わっていた。怒りも失望も消えて、ただ疲れた声だった。
「俺だって何も考えてないわけじゃない」
「……」
「侵攻が正しいかどうか。正直に言えば、わからない。ヴェルトハーフェンの民を解放するって言葉が本当かどうかも、全部信じてるわけじゃない」
エミルが上を向いた。星が出ていた。
「でもな、わからないなら、今ある場所で最善を尽くすしかないだろ。俺は共和国の兵士だ。この国に生まれて、この国に育てられて、この国の飯を食って大きくなった。信じなきゃ立てないんだよ」
信じなきゃ立てない。
その言葉が、胸を抉った。
エミルは知っていたのだ。全部ではないにしても、何かがおかしいことを。辺境で見た荒廃。隔離区の存在。均等と言いながら不均等な現実。それらを目にしていないはずがない。
だがエミルは、信じることを選んだ。
疑いながら信じる。矛盾を抱えながら前に進む。それがエミルの戦い方だ。
前世の俺に、それはできなかった。だからフリーターのまま三十一年を過ごした。信じるものがなかったから。
エミルには、ある。たとえそれが歪んだ体制であっても、信じる対象がある。信じる対象がある人間は、立てる。
「ルッツ」
「うん」
「俺はこの国を信じる」
静かな宣言だった。
「お前が信じないなら——」
一拍の間。
「——もう俺たちは、同じ側にはいない」
石畳に落ちた月の影が、微かに揺れた。
風が吹いたのだ。秋の終わりの、冷たい風。
同じ側にはいない。
敵になるとは言わなかった。だが「同じ側にはいない」という言葉は、それと同じだけの重さを持っていた。
「……そうだな」
否定する言葉は出てこなかった。
嘘をつくことはできた。「俺もこの国を信じてる」と言えば、エミルはもう一度こちら側に戻ってきてくれただろう。少なくとも、この夜はそう言うことができた。
だが言わなかった。
これ以上、この男に嘘をつくことが——できなかった。
エミルが立ち上がった。
井戸の縁を回って、俺の前まで来た。
手を差し出した。
模擬戦の後と同じだ。あの時も手を差し出してくれた。負けた俺を立ち上がらせるために。
だが今回の意味は違う。
これは握手だ。
別れの握手だ。
俺はその手を取った。
エミルの手は大きかった。硬い掌。火系統の魔法を撃ち続けてきた手。人を守るために鍛えた手。
握った。
強く。
エミルも握り返した。
「死ぬなよ」
エミルが言った。
「——お前もだ」
「俺が死ぬかよ。鉄鷲をなめるな」
笑った。
エミルの笑い方は、七歳の時と変わっていなかった。あの教室で初めて手を振ってくれた時と、同じ笑い方だ。
だがその笑みの下にある感情が、十一年前とはまったく違うことを、俺たちは二人とも知っていた。
手が離れた。
エミルが背を向けた。
「ルッツ」
数歩歩いて、振り返った。
「お前が何をするつもりなのか、俺にはわからない。わからないけど——」
言葉を選んでいた。
「——お前が本気でやるなら、俺は全力で止める。友人としてじゃなく、共和国の兵士として」
「ああ」
「だから、半端なことはするなよ。中途半端にやって捕まるくらいなら、やめとけ」
最後に残された、友情の形だった。
「やるなら本気でやれ」。それは「お前がいい加減にやって処刑されるのは嫌だ」という意味だ。
敵になると宣言しながら、相手の無事を祈る。
それが、エミル・リヒターという男だった。
「ありがとう、エミル」
「礼を言うな。次に会う時は——」
その先は言わなかった。
背を向けて歩き出した。今度は振り返らなかった。
広い背中。鉄鷲の紋章。月明かりに照らされた外套の裾が、石畳の上をかすめている。
その背中が、通りの角を曲がった。
消えた。
◇
広場に一人、残された。
井戸の縁に座った。
手を見た。エミルの手の温もりが、まだ残っていた。
七歳の時に差し出された手。「お前も一緒に遊ぼうぜ」と言ってくれた手。十四歳の時に「お前の友達だ」と言ってくれた手。十六歳の時に卒業を祝って握ってくれた手。十八歳の模擬戦で、負けた俺を引き上げてくれた手。
あの手はもう、次に触れる時には——。
考えるのをやめた。
考えても、答えは出ない。
エミルは正しい。少なくとも、自分の正しさに正直だ。国を信じ、仲間を信じ、その信念のために命を懸ける。前世の俺には決してできなかったことだ。
俺は正しいのか。
体制を疑い、戦争を否定し、旧式と新式の間を漂い、どちらにも与さない。それは覚悟なのか、ただの臆病なのか。
エミルは言った。「考えてるだけじゃ何も変わらない」。
正しい。
知って、疑って、否定して。それだけでは前世と同じだ。何もしなかった三十一年間の繰り返しだ。
だが、間違った方向に動くよりは、立ち止まって考える方がましだとも思う。
——いや。
それは言い訳だ。
立ち止まっている間にも、エミルは前線に向かう。ヴェルナーは侵攻の準備を進める。ディートリヒは反革命の旗を振る。世界は動いている。動いている世界の中で、一人だけ立ち止まっていることは、何も選ばないという選択をしていることと同じだ。
前世で学んだ。何もしないことは、現状を肯定することと同義だ。
エミルの最後の言葉が耳に残っている。
「半端なことはするなよ」。
あれは忠告であり、同時に挑発だった。本気でやるなら全力で止めてやる。その覚悟があるのか、お前に。
エミルはもう覚悟を決めている。
俺は——。
空を見上げた。星が出ていた。前世の空よりも、ずっと多くの星が見える。この世界には、あの世界にはなかった澄んだ空がある。
その空の下で、友を失った。
失ったのだろうか。本当に。
あの最後の握手の力強さを思い出す。あれは「さよなら」の握手ではなかった。「覚悟を見せろ」という握手だった。
エミルは俺を試している。お前が本気なら、俺も本気で応える。お前が半端なら、俺はお前を軽蔑する。
友人として別れたのではない。
互いの覚悟を問い合ったのだ。
俺の答えは、まだ出ていない。
だが、時間はもうない。
来週、エミルは西方に発つ。侵攻が始まれば、すべてが動き出す。ヴェルナーの思惑、ディートリヒの野心、前線の兵士たちの命。何もかもが、あの文書に書かれた三ヶ月の時間表に沿って進んでいく。
井戸の水面を見た。
月の光が映っている。揺れている。
前世で、コンビニの夜勤明けに見た月を思い出した。あの月は何も照らさなかった。ただ空にあるだけだった。誰にも見られず、誰をも照らさず。
この世界の月は、二人の別れを照らした。
立ち上がった。
手の温もりが、少しずつ冷えていくのを感じながら。
歩き出した。
隔離区の方角へ。
レナに話さなければならない。エミルとの決別を。そして——自分がこれからどうするのかを。
まだ答えは見つかっていない。
だが、立ち止まることはもうやめる。
エミルが覚悟を見せた。俺も、見せなければならない。
たとえその覚悟が、友を敵に回すことを意味しても。
広場を出る時、振り返った。
井戸の水面に映った月が、まだ揺れていた。
同じ月だ。エミルが見上げた空にある月と、俺が見上げた空にある月は、同じ月だ。
同じ空の下にいる。ただ、立つ場所が違う。
それだけのことが、こんなにも——痛い。




