友の旗
ルッツ18歳。エミルの選択を知る。
先に聞いたのは名前ではなく、数字だった。
裁定院の書庫で資料整理をしている時、隣の通路で警護班の同僚二人が話しているのが聞こえた。
「黎明作戦の先鋒、八十名だってな」
「少数精鋭か。鉄鷲から何名出るんだ」
「十二名。志願者が多すぎて選抜したらしい」
指先が止まった。持っていた紙束の角が、微かに震えた。
黎明作戦。あの文書。母の異名を冠した侵攻計画。ヴェルナーからの参加打診を、俺はまだ引き延ばしている。
同僚たちの会話は続く。
「鉄鷲の連中は血の気が多いからな。先陣を切りたがる」
「お前、知ってるか。リヒターも志願したらしいぞ」
心臓が、一拍止まった。
「リヒター? あの火系統の。若いのに凄い奴だな」
「ああ。先鋒の中でも最年少だとよ。志願理由が『革命の理念を守るため』だってさ。上も気に入ったんだろう」
二人が笑いながら通路を曲がっていった。
書庫に静寂が戻った。
紙束を棚に戻す手が、まだ震えていた。
エミル。
お前が、先鋒に。
◇
その夜、裁定院の裏門を出たところで、エミルが待っていた。
壁に背を預けて立っている。軍服の上に厚手の外套を羽織り、腕を組んでいる。吐く息が白い。秋が深まり、夜気に冬の匂いが混じり始めている。
俺を見て、手を上げた。
「よう」
いつもの声。いつもの仕草。だが俺には、その「いつも通り」の裏にあるものが透けて見えた。
待っていたのだ。話をしに来たのだ。
「久しぶりだな」
「ああ。三週間ぶりか」
模擬戦以来だ。あの日以来、エミルとは顔を合わせていなかった。互いに避けていたのか、単にすれ違っていたのか。たぶん、両方だ。
「飯、まだか?」
「まだだ」
「じゃあ行こうぜ。奢る」
エミルの声に軽さがあった。だがその軽さは意識して作られたものだと、俺には分かる。前世のコンビニで、退職を決めた同僚がやけに明るくなるのを何度も見た。覚悟を決めた人間は、逆に軽くなる。
◇
官庁街から少し外れた場所にある酒場に入った。
木のテーブルに向かい合って座る。黒パンと肉の煮込み。安い麦酒。前に来た時と同じ店だが、前に来た時とは何もかも違う。
エミルが麦酒を一口飲んで、テーブルに杯を置いた。
「聞いたか」
単刀直入だった。この男は、回りくどいことが苦手だ。
「先鋒に志願したって話か」
「ああ。正式に決まった。来週、西方の集結地点に移動する」
来週。
そんなに早いのか。
「鉄鷲の中でも選ばれた十二人。光栄だよ。こういう時のために鍛えてきたんだからな」
エミルの目が、あの模擬戦の時とは違っていた。あの時の硬い光ではない。もっと穏やかで、もっと確かな光。自分の選んだ道を信じている目だ。
「なぜ志願した」
聞かずにはいられなかった。
「なぜって」
エミルが肩をすくめた。
「共和国を守るためだよ。西のヴェルトハーフェンは不安定だ。放っておけば向こうからこっちに手を伸ばしてくる。だったら、先にこちらから安定を届ける。母さんたちがこの国でやったように、向こうの民にも均等な魔法教育を広げる。それが革命の次の段階だ」
革命の次の段階。
その言葉を聞いた瞬間、体の内側が冷えた。
エミルの言葉は、黎明作戦の文書に書かれていた「作戦目的」の一番目そのものだった。「革命の理念の大陸的拡大」。美しい言葉だ。だが俺は知っている。三番目の「戦略的資源の確保」が本当の狙いだということを。
エミルは本気でそれを信じている。あるいは——信じようとしている。
「安定を届ける、か」
「何だよ、その言い方」
「いや——」
言いかけて、止めた。だが一度開きかけた口は、もう閉じられなかった。
「エミル。あの作戦は侵攻だ」
エミルの手が杯の上で止まった。
「安定を届けるんじゃない。隣国に軍を送り込んで、土地と資源を奪うんだ。そのための名目として、革命の理念が利用されてるだけだ」
エミルの目から穏やかさが消えた。
「お前、何を言ってるんだ」
「事実を言ってる」
「事実? お前がどこでその『事実』を知ったんだ。裁定院の書庫で何を読んでるんだ」
鋭い質問だった。この男は馬鹿ではない。俺が体制の内部情報に触れていることを、直感で嗅ぎ取っている。
「どこで知ったかは関係ない。問題は内容だ。あの戦争で死ぬのは、お前みたいな前線の兵士だぞ。元勲会の連中は首都の安全な場所で地図を眺めてるだけだ」
「前線に出ることの何が問題なんだ。兵士は戦うために存在する。それが嫌なら軍に入るな」
「そうじゃない。戦う理由の話をしてるんだ。守るための戦いと、奪うための戦いは違う」
「奪うなんて言い方をするな」
エミルの声が低くなった。周囲の客が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。
「ルッツ。お前に一つ聞く」
「何だ」
「お前にそれを言う資格があるのか」
静かな声だった。怒鳴るよりも静かな声の方が、時に深く刺さる。
「旧い血と通じて、旧式魔法を使って、体制の内部情報を覗き見して。お前こそ革命を裏切ってるだろう」
息が詰まった。
裏切り。
その言葉が喉に引っかかった。
「俺が聞いたのは戦争の正当性の話だ」
「正当性? この国は革命で生まれた。旧体制を倒して、均等な社会を作った。その理念を広げることのどこが不正なんだ」
「理念を広げるために他国を侵略するのが正しいのか」
「侵略じゃない。解放だ」
解放。
前世の記憶が閃いた。歴史の中で「解放」と呼ばれた戦争がどれだけあったか。そのすべてが、解放される側にとっては侵略だった。
「解放される側はそう思わないだろうな」
「解放される側が旧体制の中で苦しんでるんだぞ。ヴェルトハーフェンの平民は、今も貴族に魔法教育を独占されてる。俺たちがあの壁を壊してやるんだ」
壁。
皮肉な言葉だった。この国の中にも壁がある。隔離区の壁を。エミルはその壁の存在を知っていながら——いや、知っているからこそ、外の壁を壊すことに意味を見出そうとしているのか。
あるいは、中の壁を見ないために。
「エミル」
「何だ」
「革命の理念を裏切ってるのは——この国そのものだ」
口にした瞬間、空気が変わった。
エミルの目が見開かれた。怒りではなかった。驚きでもなかった。予感が現実になった時の、あの凍りつくような表情だった。
前の食堂で俺に「お前の道と俺の道が重なるところが、どんどん減ってる」と言った時、エミルはこの瞬間を予感していたのだ。
俺がいつか、こう言うことを。
「……もう一回言ってみろ」
「革命の理念は正しかった。だがこの国は、その理念を歪めた。均等を謳いながら忠誠で選別し、解放を謳いながら旧貴族を囲い込み、平和を謳いながら侵略を始めようとしてる。母さんが命を懸けたのは、こんな国のためじゃない」
最後の一言が、テーブルの上の麦酒を揺らした。
エミルは黙っていた。
五秒。十秒。木の杯を握る指の関節が白くなっていた。
「お前は」
声が掠れていた。
「お前は、この国を否定するのか」
「国を否定してるんじゃない。この国のやり方を否定してるんだ」
「同じことだ」
エミルの手が杯を離した。テーブルの上に、両手を平らに置いた。
「ルッツ。俺は七歳の時からお前を知ってる。お前が人と違う目で世界を見てることも知ってる。お前が裁定院の中で何かを探してることも、たぶん旧い血の誰かから旧式魔法を学んだことも、全部——全部わかってて、黙ってた」
声が震えていなかった。感情を、意志の力で押し込めている。
「黙ってたのは、お前が友人だからだ。密告なんかしたくなかったからだ」
「エミル」
「でもな、ルッツ。友人だから何でも許せるわけじゃない」
エミルが立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、酒場に響いた。
「お前がこの国を否定するなら、俺はお前を——」
言いかけて、唇を噛んだ。
その先の言葉を飲み込んだ。
代わりに、外套のポケットから硬貨を出し、テーブルに置いた。飯代だ。奢ると言っていた。
「来週、発つ」
背を向けた。
「エミル」
呼び止めた。だが続く言葉が見つからなかった。
止めてくれ、とは言えない。お前が正しい、とも言えない。
エミルは振り返らなかった。
酒場の扉が開き、夜の冷気が流れ込んできた。エミルの背中が、四角い光の中に一瞬だけ浮かんで、消えた。
扉が閉まった。
テーブルの上に、半分残った麦酒と、エミルが置いた硬貨が残っていた。
硬貨の表面に、共和国の紋章が刻まれていた。交差する二本の剣の上に昇る太陽。革命の旗の意匠。
その紋章を見つめながら、俺は動けなかった。




