中途半端の覚悟
ルッツ18歳。前世と今世が重なる夜に、第三の道を手探りで探し始める。
残り三日になった。
ヴェルナーへの返答期限まで三日。レナとの約束まで三日。ディートリヒはいつ動き出してもおかしくない。
時間がない。
だが俺の頭は、三日間で答えが出るようにはできていない。前世でも計画性がなかった。コンビニのシフトすら当日の朝に確認するような人間だった。
それでも考え続けた。
裁定院の警護勤務中、廊下に立ちながら。宿舎の寝台で天井を見上げながら。食堂で味のしないパンを齧りながら。
思考は堂々巡りだった。
ヴェルナーに承諾すれば、侵略に加担する。拒否すれば、体制内の立場を失う。
ディートリヒに協力すれば、反革命の手先になる。拒否すれば、隔離区での協力者を失うかもしれない。
どちらかを選べば、もう片方の敵になる。どちらも選ばなければ、両方の敵になる。
詰みだ。
前世の将棋アプリを思い出した。残業の合間にスマホで遊んでいた。俺は下手だった。いつも中盤で詰む。駒が足りなくなり、逃げ場がなくなり、何を指しても悪手になる。
あの感覚だ。
◇
残り三日の朝。勤務前に、一人で首都の外れを歩いた。
早朝のエルステモルゲンは静かだ。石畳の道を、まだ霧が覆っている。遠くで犬が吠えた。パン屋の煙突から白い煙が上がっている。
歩きながら、頭の中を整理した。
今ある手札を、一つずつ並べた。
一つ目。均等裁定院の内部情報。ヴェルナーの行動パターン。黎明作戦の存在。これらは俺だけが知っている情報だ。
二つ目。隔離区との繋がり。レナ。ヘルミーネ。壁の隙間を通る五年間の蓄積。
三つ目。混成の魔法。新式魔法と旧式魔法の両方に触れた経験。どちらの流派にも完全には属さない、不完全な技術。
四つ目。前世の記憶。社会の底辺で生き、底辺で死んだ三十一年間。
どれも、大したものではない。
情報は断片的だ。繋がりは脆い。魔法は未完成だ。前世の記憶は、戦争を止めるための武器にはならない。
エミルのような圧倒的な戦闘力があるわけでもない。ヴェルナーのような権力があるわけでもない。ディートリヒのようなカリスマがあるわけでもない。
持っているのは、どれも中途半端なものばかりだ。
——中途半端。
その言葉が、頭の中で引っかかった。
立ち止まった。
霧の中で、自分の息が白く見えた。
中途半端。
前世の俺を、最もよく表す言葉だ。
大学を中退した。中途半端。仕事を転々とした。中途半端。人間関係を築けなかった。中途半端。病院に行くか家賃を払うか、選べないまま死んだ。中途半端。
何一つ最後までやり遂げなかった人生だった。
そして今も、同じことをしようとしている。
ヴェルナーにもディートリヒにも与さない。体制の中にもいない。反体制の外にもいない。どっちつかずの場所で、答えを出せずに立ち尽くしている。
前世と同じ。
同じだ——本当に?
足が止まった。
霧の向こうに、首都の尖塔がぼんやりと浮かんでいる。
前世と同じなのか。本当に同じか。
違う。
前世の中途半端は、選べなかったからだ。選ぶ力がなく、選ぶ意志もなく、流されるままに中途半端な場所にいた。
今は違う。
選ばないことを、選ぼうとしている。
ヴェルナーの側にも、ディートリヒの側にも行かない。それは無力だからではない。どちらも間違っていると判断したからだ。
中途半端であることは、弱さの証ではないかもしれない。
どちらか一方に完全に染まれる人間は、楽だ。体制を信じて戦えるエミルは楽だ。旧貴族の正義を掲げるディートリヒは楽だ。「必要悪」を背負うと決めたヴェルナーも、ある意味では楽だ。
自分の立場が明確な人間は、迷わずに済む。
俺にはそれがない。どちらの正義も不完全だと見える以上、どちらにも立てない。半端な場所に立つしかない。
だが、半端な場所にしか見えない景色がある。
体制の内側から見た矛盾。隔離区の内側から見た痛み。両方を見た人間にしか立てない場所がある。
マグヌス・シュタインの噂を思い出した。旧貴族出身でありながら革命に参加した男。両方の流派を知る唯一の人物。あの男もまた、「中途半端」な場所にいたはずだ。
中途半端な場所から、何かが始まるかもしれない。
始まらないかもしれない。
だが前世と違って、今回は選んでそこに立つ。
◇
その日の夜、宿舎の自室で紙に書いた。
時間稼ぎの方法だ。
ヴェルナーに対しては——承諾する。ただし条件をつける。「先陣に立つ以上、作戦の詳細を知りたい。準備期間をもらいたい」。参加の意思を見せつつ、実行までの時間を引き延ばす。
ディートリヒに対しては——情報の一部を渡す。ただし、核心には触れない部分だけ。裁定院の人事異動や予算配分など、公開されても害のない情報。「まだ信頼関係を築いている段階だ」として、本当に重要な情報は先延ばしにする。
どちらにも「協力する」と見せかけて、どちらにも核心を渡さない。
危うい綱渡りだ。いつまでも持つとは思えない。ヴェルナーは鋭い。嘘を見抜くだろう。ディートリヒも甘くない。情報の価値を判断できる男だ。
だが時間が要る。
第三の選択肢を形にするための時間が。
紙を折りたたみ、蝋燭の火で燃やした。灰が落ちて、床の上で崩れた。
◇
翌日。残り二日。
レナに会いに行った。
前回のやり取りの後、レナの態度がわずかに変わっていた。怒りは引いたが、距離ができている。いつもの鋭い目はそのままだが、その目が俺を真っ直ぐに見る時間が短くなった。
「ルッツ。考えは」
「途中だ。でも、方向は決まった」
「方向」
「どちらにも与しない」
レナの眉が寄った。
「それは三日前と同じ答えじゃないの」
「同じだ。でも、意味が違う」
レナが黙って、続きを待った。
「三日前は、選べなかったから中途半端だった。今は、中途半端であることを選んでいる」
「……意味が分からない」
「俺も上手く説明できない。でも、ヴェルナーの側に立てば母の名で侵略戦争をすることになる。ディートリヒの側に立てば、旧貴族の復権に利用される。どちらも、隔離区の子供たちを救わない」
「じゃあどうするの」
「時間を稼ぐ。両方に対して。その間に、両方の枠組みの外にある道を探す」
「具体的には」
「ヴェルナーには条件付きで参加を表明する。作戦の内部に入り込む。ディートリヒには部分的な情報を渡して信頼を繋ぐ。どちらも完全には信用していないが、どちらからも情報を引き出せる位置にいる」
レナの目が細くなった。
「綱渡りね」
「そうだ」
「落ちたら死ぬわよ」
「知ってる」
「……前世でも、こういう無茶をしてたの」
「いや。前世では何もしなかった。何もしないまま死んだ」
レナの表情が、わずかに動いた。
「だから今回は、中途半端でも動く。何もしないよりはましだ」
「ものすごく頼りない」
「自覚してる」
レナが、小さく息を吐いた。溜め息ではない。こらえていた何かを、少しだけ放したような息だ。
「分かった。あなたの綱渡りに、私も乗る」
「危ないぞ」
「隔離区にいる時点で、安全な場所なんてない」
それは、反論のしようがなかった。
「ただし、条件がある」
「何だ」
「嘘をつかないで。少なくとも、私には」
紫の瞳が、蝋燭の光の中で揺れずにこちらを見ていた。
「約束する」
声に出して言った。
これは、軽い約束ではない。ヴェルナーには嘘をつく。ディートリヒにも嘘をつく。両方の間で演技を続ける。だがレナには本当のことを話す。
嘘の海の中に、一本だけ本当の糸を張る。
それが切れたら、たぶん全部が終わる。
◇
残り一日。
ヴェルナーの執務室に向かった。
「答えが出ました」
ヴェルナーが書類から顔を上げた。
「聞こう」
「参加します。ただし、条件があります」
ヴェルナーの目が光った。承諾を予想していたのか、それとも条件の中身に興味があるのか。
「作戦の詳細を事前に知りたい。先陣に立つ以上、全体像を理解していなければ、士気を上げる旗にもなれません」
「もっともだ」
「それから、準備期間をいただきたい。母の名を掲げるなら、それにふさわしい実力を身につける必要があります。今の俺では、紅の黎明の息子として恥ずかしくない戦いはできない」
ヴェルナーが椅子の背にもたれた。
「謙虚だな。あるいは、慎重か」
「臆病なだけかもしれません」
「ヒルデは臆病とは無縁の人間だった。だがお前の慎重さは、別の種類の強さだ」
ヴェルナーが頷いた。
「いいだろう。作戦の概要は追って伝える。準備期間については、一ヶ月を見ている。作戦開始までの間、お前には特別訓練を受けてもらう」
一ヶ月。
思ったよりも短い。だが、ゼロよりは長い。
「了解しました」
「エーベルハルト」
「はい」
「お前は正しい選択をした。ヒルデも喜んでいるだろう」
その言葉に、何かが軋んだ。
母は喜ばない。母が生きていたら、この作戦を止めようとしたはずだ。日記の言葉が甦る。「もしこの国が私の望んだものでなかったら——」
だが俺はそれを口にしなかった。
「ありがとうございます」
敬礼し、退室した。
◇
宿舎に戻る途中、夜空を見上げた。
星が出ている。前世の都会の空には見えなかった星が、この世界では数えきれないほど光っている。
三つ巴の構図が、頭の中で形になっていた。
ヴェルナー率いる共和国体制。革命の理念を掲げながら腐敗した権力。
ディートリヒ率いる反革命勢力。正当な怒りを原動力にしながら、旧体制の復権を目論む。
そして俺。どちらにも属さない、中途半端な一人の人間。
手札はない。仲間はレナだけ。計画は時間稼ぎだけ。
前世のフリーターが、世界を変えようとしている。笑い話だ。
いや、笑えない。笑えないが、だからこそ真剣にやる。
前世で学んだことが一つだけある。
何もしないまま死ぬのは、何かをして失敗するよりも悪い。
コンビニの床の上で最後に思ったのは、「結局、何者にもなれなかった」だった。
何者かになりたかったわけではない。ただ、何かをしたかった。何でもいいから、自分の意志で選んで、自分の足で歩きたかった。それすらできなかった。
今回は、歩く。
中途半端な場所を。どっちつかずの道を。誰にも理解されないかもしれない道を。
でも、自分で選んだ道を。
それは、前世の俺にはなかった一歩だ。
夜風が冷たかった。外套の襟を立てた。
一ヶ月。
一ヶ月で、第三の道を形にしなければならない。
道はまだ見えない。ただ、足元だけが見えている。
次の一歩を踏み出す場所だけが。




