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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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二つの手

ルッツ18歳。右からも左からも手が伸びてくる。

ヴェルナーの打診から三日が経った。


 残り四日。


 答えは出ていない。出せるはずがない。拒否も承諾も、どちらも崖だ。


 普段と変わらない顔で警護勤務を続けた。壁の一部のように立ち、出入りを管理し、来訪者を確認する。体は仕事をこなしている。頭の中だけが、止まらずに回り続けている。


 クルト班長には、何も伝えていない。伝えられるはずがない。ヴェルナーから機密だと念を押されている。そもそも、誰に何を相談するというのか。


 昼の休憩時間に、食堂で黒パンを齧った。味がしない。前世でも、追い詰められた時は飯の味が消えた。コンビニの廃棄弁当を食べながら、家賃の督促状を見つめていた夜と同じだ。


 食堂を出て、廊下を歩いていた時だった。


「エーベルハルト」


 背後から声をかけられた。


 振り返ると、見覚えのない男が立っていた。三十代半ば。裁定院の官服を着ているが、どこかそぐわない。服が体に馴染んでいない。着慣れていない人間の纏い方だ。


「少し話がある。ついてきてくれ」


「失礼ですが、どちらの所属で」


「文書管理課の補佐官だ。名前はハンス。もっとも、本職は別にある」


 隠す気がない。


 この男は裁定院の人間ではない。


          ◇


 ハンスに連れられたのは、裁定院の裏手にある小さな庭だった。文書管理課の資材置き場に隣接した、日当たりの悪い場所だ。石のベンチが二つ。人目につかない。


 ハンスは周囲を確認してから、ベンチに座った。


「座ってくれ」


「立ったままで」


「そうか。では手短に言う」


 ハンスが俺を見上げた。目の色が変わった。官服の下から、別の人間が出てきたかのように。


「ディートリヒ様が、お前に会いたがっている」


 来た。


 予想はしていた。あの男が俺に一度会っただけで済ませるはずがない。ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン。反革命運動の指導者。隔離区でその名を囁く人間が増えている。ルッツとの対面から数日。次の手を打ってくるのは時間の問題だった。


「俺に何の用だ」


「それはディートリヒ様から直接聞いてほしい。だが一つだけ、先に伝えておくことがある」


 ハンスの声が低くなった。


「お前が均等裁定院の内部にいること。その立場の価値を、ディートリヒ様は高く評価している」


 裁定院の内部情報。


 それが欲しいのだ。


「会うかどうかは俺が決める」


「もちろんだ。強制はしない。ただ、エーベルハルト。お前も感じているだろう。この共和国が何に向かっているか。ディートリヒ様は、それを止めようとしている」


「止めて、その先に何がある」


 ハンスが一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに取り繕った。


「正しい秩序の回復だ」


「正しい秩序か。誰にとっての」


 ハンスは答えなかった。答える必要がないと思ったのか、答えを持っていなかったのか。


「場所と時間を伝えておく。明後日の夜、南東区画の旧穀物倉庫。来るかどうかはお前次第だ」


 ハンスは立ち上がり、官服の襟を正し、何事もなかったかのように庭を出て行った。


 俺は石のベンチに一人残された。


 右からヴェルナー。左からディートリヒ。


 両方の手が、同時に伸びてきている。


          ◇


 ディートリヒに会うべきか。


 会わなければ、相手の意図が分からない。分からないまま対処するのは危険だ。


 会えば、相手の手の内を見られる。だが同時に、俺の手の内も見られる。


 二日間、考えた。


 そして結局、会うことにした。


 知らないよりは知っている方がいい。前世でも、就職先の実態は面接だけでは分からなかった。入ってみて初めて見える。ディートリヒの本当の狙いを見極めるには、直接会話するしかない。


 明後日の夜。南東区画の旧穀物倉庫。隔離区の近く。


 一人で行くのは愚かだ。だが誰かを連れて行くわけにもいかない。


 レナにだけ、会いに行くことを伝えた。


          ◇


 旧穀物倉庫は、隔離区の外壁から二百メートルほど離れた場所にあった。


 革命前は貴族領の穀物貯蔵庫だった建物が、革命後は放棄され、今は壁と屋根だけが残っている。月明かりが崩れた屋根の隙間から差し込み、埃っぽい床を照らしていた。


 中に入ると、ディートリヒがいた。


 前回と同じだ。長身。銀混じりの金髪。仕立ての良い外套を纏い、廃墟の中に立っているのに、まるで自分の書斎にいるかのような自然さがある。


 その横に護衛が二人。腰に剣を帯びた男たちだ。旧貴族の家臣だろう。


「来てくれたか、エーベルハルト」


 ディートリヒが微笑んだ。穏やかで、品があり、信頼を誘う笑みだ。


「呼ばれれば行きますよ。一度くらいは」


「一度で十分だ。長話は好まない」


 ディートリヒが護衛に目配せした。二人が倉庫の入口に移動し、見張りについた。


 倉庫の中に、俺とディートリヒだけが残った。


「座るか」


「いえ」


「そうか。では立ったまま話そう」


 ディートリヒが外套のポケットから小さな瓶を取り出し、一口飲んだ。酒ではない。水だ。乾いた唇を湿らせてから、話し始めた。


「前回の会合で、お前は私の話を聞いてくれた。礼を言う」


「礼を言われることはしていません」


「謙遜か。いや、警戒だな。構わない。警戒してくれている方が、話しやすい」


 ディートリヒの目が、月明かりの中で光った。


「率直に言おう。お前に協力してほしい」


「何に対する協力ですか」


「この共和国を、内側から崩す。そのための情報を提供してほしい」


 そのままだ。飾りがない。前回は正論を語り、大義を掲げ、隔離区の子供たちの未来を憂えてみせた。今回は、本題から入ってきた。


「裁定院の内部情報か」


「その通りだ。人事、予算、作戦計画。特に——軍の動向に関するものを」


 黎明作戦(・・・・)


 ディートリヒはその名前を知っているのだろうか。


「お前は均等裁定院の院長の膝元にいる。ヴェルナー・グラーンが何を考え、何を企んでいるか。その情報があれば、我々は的確に動ける」


「動いて、どうするんです」


「蜂起だ」


 ディートリヒの声が低く、硬くなった。


「各地の旧貴族と連携し、一斉に立ち上がる。隔離区の解放。均等裁定院の打倒。革命の不正義を正す」


 言葉だけを聞けば、正しい。隔離区の解放は俺も望んでいる。均等裁定院の不正は俺も知っている。


 だが。


「蜂起の後、何が来るんですか」


「何、とは」


「旧貴族が立ち上がり、共和国を倒した後。この国はどうなるんです」


 ディートリヒが俺を見た。数秒の間。


「正しい秩序が戻る」


 ハンスと同じ言葉だ。


「正しい秩序。それは何ですか」


「魔法はかつて、家を守るための技術だった。領地を守り、民を守り、国を守る。血統によってその責任を引き継ぎ、教育によってその力を磨く。革命がそれを壊した。すべての人間に魔法を渡した結果がどうなった。軍事兵器の量産だ。大量の半端な魔法使いを作り、戦争の道具にしている」


 論理の筋道がある。ヴェルナーの論理と鏡写しだ。


 ヴェルナーは「旧貴族に自由を与えれば復讐に使う」と言い、ディートリヒは「平民に魔法を与えれば戦争の道具になる」と言う。どちらも、相手側に自由を与えることの危険を語っている。


「ディートリヒ様」


「様はいい。名前で呼べ」


「では、ディートリヒ。一つ聞きたい」


「何だ」


「隔離区の子供たちのことを、あなたは本当に考えていますか」


 ディートリヒの目が、わずかに動いた。


「子供たちの未来を語る時、あなたの声は変わらない」


「何が言いたい」


「ヴェルナーが革命の大義を語る時、声が震える。あの男にとって、革命の理念はまだ痛みを伴う記憶だからです。本気で信じていた時代の記憶が残っている」


 ディートリヒの表情が固くなった。


「あなたが隔離区の子供たちを語る時、声は変わらない。旧貴族の復権を語る時と、同じ温度です。子供たちは大義の一部であって、目的ではない」


 沈黙。


 倉庫の中に、風が吹き込んだ。埃が舞い上がり、月明かりの中で白く光った。


「……鋭いな」


 ディートリヒが小さく笑った。だがその笑いに、前回のような余裕はなかった。


「鋭いが、的外れだ。私は旧貴族の一人として、奪われたものを取り戻す。その過程で子供たちが救われるなら、それは善いことだ。動機が純粋かどうかは問題ではない。結果が正しければいい」


「結果が正しいかどうかは、誰が決めるんですか」


 ディートリヒは答えなかった。


「俺の答えは、今は出せません」


「いつまで待てばいい」


「分かりません」


「時間は有限だ、エーベルハルト。共和国が戦争を始めれば、すべてが動く。その前に、お前の立場を決めろ」


 ディートリヒが外套を翻した。護衛に合図し、倉庫の奥へ消えていった。


 俺は一人、廃墟の中に立ち尽くした。


          ◇


 翌日の夜、隔離区に入った。


 レナの家を訪ねた。


 ヘルミーネは奥の部屋で休んでいる。居間のテーブルで、レナと二人きりだった。蝋燭が一本。揺れる炎が、レナの紫の瞳を照らしている。


「ディートリヒに会ったのね」


「ああ。情報提供を求められた」


「受けたの」


「断った。正確には、保留した」


 レナが両手で湯呑みを包んだ。温かい飲み物を持っている時のレナは、少しだけ柔らかくなる。


「ルッツ。聞いてもいい」


「何でも」


「あなたはディートリヒを信用していないのよね」


「していない。前回会った時から、あの男の怒りには苦しみがないと感じた。正しいことを言っているのに、痛みが見えない。そういう人間は信用できない」


 レナは湯呑みに視線を落とした。


「……分かっている。私もディートリヒを完全には信じていない。祖母も警告している。あの男は正義を語るが目的が違う、と」


「なら——」


「でも」


 レナの声が、小さく震えた。


「他に誰がいるの」


 その一言が、部屋の空気を変えた。


「隔離区の子供たちは、十五年間ずっと壁の中にいる。魔法を学べない。外に出られない。名前だけで差別される。この先もずっとこのままなのか、それとも誰かが変えてくれるのか。私はずっと待っていた」


 レナの目が、蝋燭の光の中で揺れていた。


「あなたは体制の中に入って構造を知ると言った。二年が経った。何が変わった」


 答えられなかった。


 何も変わっていない。


 構造を知った。矛盾を理解した。侵攻計画を発見した。だがそれらすべてが、俺の頭の中にあるだけだ。隔離区の壁は一ミリも動いていない。子供たちの暮らしは一日も変わっていない。


「ディートリヒは、少なくとも動こうとしている。蜂起の計画がある。旧貴族の連携がある。間違っているかもしれない。でも、何もしないよりは——」


「レナ」


 声が、思ったよりも鋭く出た。


「ディートリヒは子供たちを駒にするだけだ」


 レナが顔を上げた。紫の瞳に、怒りの色が混じっていた。


「分かっている。それくらい」


「分かっているなら——」


「じゃあ他に方法があるの」


 言葉が、刃のように真っ直ぐだった。


「ルッツ。あなたは二年間、裁定院の中にいて、何も変えられなかった。ディートリヒを信用するなと言うなら、代わりの方法を示して。私に待てと言うなら、いつまで待てばいいのか答えて」


 答えられなかった。


 前世でもそうだった。社会の問題を見つけても、対案がなかった。テレビの前で政治家を批判することはできても、じゃあどうすればいいのかと問われれば黙るしかなかった。


 批判は簡単だ。対案を出すのは難しい。


 レナは立ち上がった。湯呑みをテーブルに置き、窓際に行った。窓の外は暗い。隔離区の夜は、いつも暗い。


「……ごめん。責めたいわけじゃない」


 背中越しの声は、小さかった。


「ただ、もう限界なの。待つことの。何もできないことの。子供たちの顔を見るたびに、この子たちの未来はどうなるんだろうって。何年も、何年も、同じことを考え続けて」


「分かってる」


「分かってない」


 レナが振り返った。目が赤かった。泣いてはいない。泣く手前の、こらえている目だ。


「あなたは壁の外側にいる。いつでも出られる。私たちは出られない。分かっていることと、体で知っていることは違う」


 返す言葉がなかった。


 レナは正しい。俺は壁の外側にいる。行きたい場所に行ける。学びたいことを学べる。レナにはそれがない。


 前世と重なった。テレビで貧困の特集を見ながら、「大変だな」と思う自分。コンビニの暖かい店内で、路上で寝ている人を窓越しに見る自分。分かったつもりで、何も分かっていなかった。


「レナ」


「何」


「答えはまだない。でも、探している。一人じゃ見つからないかもしれない」


「……」


「だから、待ってくれとは言わない。ただ、一緒に考えてほしい」


 レナは黙った。


 長い沈黙の後、ゆっくりとテーブルに戻ってきた。椅子に座った。


「一緒に考える。それがあなたの答え」


「今の時点では、それしかない」


「弱いわね。ものすごく弱い」


「分かってる」


 レナが、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。笑みとは呼べない。でも、完全な拒絶でもなかった。


「……一週間だけ。一週間だけ待つ。それまでに何か見つけて」


 一週間。


 ヴェルナーも一週間と言った。ディートリヒも時間は有限だと言った。


 全員が、俺に一週間を突きつけている。


 蝋燭の火が揺れた。


 レナの紫の瞳が、その揺れに合わせて明滅した。


「見つける」


 声に出して言った。


 何を見つけるのか、まだ分からない。でも、言葉にしなければ、始まらない。


 前世では、何も言葉にしないまま死んだ。


 今度は、言葉から始める。

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