二つの手
ルッツ18歳。右からも左からも手が伸びてくる。
ヴェルナーの打診から三日が経った。
残り四日。
答えは出ていない。出せるはずがない。拒否も承諾も、どちらも崖だ。
普段と変わらない顔で警護勤務を続けた。壁の一部のように立ち、出入りを管理し、来訪者を確認する。体は仕事をこなしている。頭の中だけが、止まらずに回り続けている。
クルト班長には、何も伝えていない。伝えられるはずがない。ヴェルナーから機密だと念を押されている。そもそも、誰に何を相談するというのか。
昼の休憩時間に、食堂で黒パンを齧った。味がしない。前世でも、追い詰められた時は飯の味が消えた。コンビニの廃棄弁当を食べながら、家賃の督促状を見つめていた夜と同じだ。
食堂を出て、廊下を歩いていた時だった。
「エーベルハルト」
背後から声をかけられた。
振り返ると、見覚えのない男が立っていた。三十代半ば。裁定院の官服を着ているが、どこかそぐわない。服が体に馴染んでいない。着慣れていない人間の纏い方だ。
「少し話がある。ついてきてくれ」
「失礼ですが、どちらの所属で」
「文書管理課の補佐官だ。名前はハンス。もっとも、本職は別にある」
隠す気がない。
この男は裁定院の人間ではない。
◇
ハンスに連れられたのは、裁定院の裏手にある小さな庭だった。文書管理課の資材置き場に隣接した、日当たりの悪い場所だ。石のベンチが二つ。人目につかない。
ハンスは周囲を確認してから、ベンチに座った。
「座ってくれ」
「立ったままで」
「そうか。では手短に言う」
ハンスが俺を見上げた。目の色が変わった。官服の下から、別の人間が出てきたかのように。
「ディートリヒ様が、お前に会いたがっている」
来た。
予想はしていた。あの男が俺に一度会っただけで済ませるはずがない。ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン。反革命運動の指導者。隔離区でその名を囁く人間が増えている。ルッツとの対面から数日。次の手を打ってくるのは時間の問題だった。
「俺に何の用だ」
「それはディートリヒ様から直接聞いてほしい。だが一つだけ、先に伝えておくことがある」
ハンスの声が低くなった。
「お前が均等裁定院の内部にいること。その立場の価値を、ディートリヒ様は高く評価している」
裁定院の内部情報。
それが欲しいのだ。
「会うかどうかは俺が決める」
「もちろんだ。強制はしない。ただ、エーベルハルト。お前も感じているだろう。この共和国が何に向かっているか。ディートリヒ様は、それを止めようとしている」
「止めて、その先に何がある」
ハンスが一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに取り繕った。
「正しい秩序の回復だ」
「正しい秩序か。誰にとっての」
ハンスは答えなかった。答える必要がないと思ったのか、答えを持っていなかったのか。
「場所と時間を伝えておく。明後日の夜、南東区画の旧穀物倉庫。来るかどうかはお前次第だ」
ハンスは立ち上がり、官服の襟を正し、何事もなかったかのように庭を出て行った。
俺は石のベンチに一人残された。
右からヴェルナー。左からディートリヒ。
両方の手が、同時に伸びてきている。
◇
ディートリヒに会うべきか。
会わなければ、相手の意図が分からない。分からないまま対処するのは危険だ。
会えば、相手の手の内を見られる。だが同時に、俺の手の内も見られる。
二日間、考えた。
そして結局、会うことにした。
知らないよりは知っている方がいい。前世でも、就職先の実態は面接だけでは分からなかった。入ってみて初めて見える。ディートリヒの本当の狙いを見極めるには、直接会話するしかない。
明後日の夜。南東区画の旧穀物倉庫。隔離区の近く。
一人で行くのは愚かだ。だが誰かを連れて行くわけにもいかない。
レナにだけ、会いに行くことを伝えた。
◇
旧穀物倉庫は、隔離区の外壁から二百メートルほど離れた場所にあった。
革命前は貴族領の穀物貯蔵庫だった建物が、革命後は放棄され、今は壁と屋根だけが残っている。月明かりが崩れた屋根の隙間から差し込み、埃っぽい床を照らしていた。
中に入ると、ディートリヒがいた。
前回と同じだ。長身。銀混じりの金髪。仕立ての良い外套を纏い、廃墟の中に立っているのに、まるで自分の書斎にいるかのような自然さがある。
その横に護衛が二人。腰に剣を帯びた男たちだ。旧貴族の家臣だろう。
「来てくれたか、エーベルハルト」
ディートリヒが微笑んだ。穏やかで、品があり、信頼を誘う笑みだ。
「呼ばれれば行きますよ。一度くらいは」
「一度で十分だ。長話は好まない」
ディートリヒが護衛に目配せした。二人が倉庫の入口に移動し、見張りについた。
倉庫の中に、俺とディートリヒだけが残った。
「座るか」
「いえ」
「そうか。では立ったまま話そう」
ディートリヒが外套のポケットから小さな瓶を取り出し、一口飲んだ。酒ではない。水だ。乾いた唇を湿らせてから、話し始めた。
「前回の会合で、お前は私の話を聞いてくれた。礼を言う」
「礼を言われることはしていません」
「謙遜か。いや、警戒だな。構わない。警戒してくれている方が、話しやすい」
ディートリヒの目が、月明かりの中で光った。
「率直に言おう。お前に協力してほしい」
「何に対する協力ですか」
「この共和国を、内側から崩す。そのための情報を提供してほしい」
そのままだ。飾りがない。前回は正論を語り、大義を掲げ、隔離区の子供たちの未来を憂えてみせた。今回は、本題から入ってきた。
「裁定院の内部情報か」
「その通りだ。人事、予算、作戦計画。特に——軍の動向に関するものを」
黎明作戦。
ディートリヒはその名前を知っているのだろうか。
「お前は均等裁定院の院長の膝元にいる。ヴェルナー・グラーンが何を考え、何を企んでいるか。その情報があれば、我々は的確に動ける」
「動いて、どうするんです」
「蜂起だ」
ディートリヒの声が低く、硬くなった。
「各地の旧貴族と連携し、一斉に立ち上がる。隔離区の解放。均等裁定院の打倒。革命の不正義を正す」
言葉だけを聞けば、正しい。隔離区の解放は俺も望んでいる。均等裁定院の不正は俺も知っている。
だが。
「蜂起の後、何が来るんですか」
「何、とは」
「旧貴族が立ち上がり、共和国を倒した後。この国はどうなるんです」
ディートリヒが俺を見た。数秒の間。
「正しい秩序が戻る」
ハンスと同じ言葉だ。
「正しい秩序。それは何ですか」
「魔法はかつて、家を守るための技術だった。領地を守り、民を守り、国を守る。血統によってその責任を引き継ぎ、教育によってその力を磨く。革命がそれを壊した。すべての人間に魔法を渡した結果がどうなった。軍事兵器の量産だ。大量の半端な魔法使いを作り、戦争の道具にしている」
論理の筋道がある。ヴェルナーの論理と鏡写しだ。
ヴェルナーは「旧貴族に自由を与えれば復讐に使う」と言い、ディートリヒは「平民に魔法を与えれば戦争の道具になる」と言う。どちらも、相手側に自由を与えることの危険を語っている。
「ディートリヒ様」
「様はいい。名前で呼べ」
「では、ディートリヒ。一つ聞きたい」
「何だ」
「隔離区の子供たちのことを、あなたは本当に考えていますか」
ディートリヒの目が、わずかに動いた。
「子供たちの未来を語る時、あなたの声は変わらない」
「何が言いたい」
「ヴェルナーが革命の大義を語る時、声が震える。あの男にとって、革命の理念はまだ痛みを伴う記憶だからです。本気で信じていた時代の記憶が残っている」
ディートリヒの表情が固くなった。
「あなたが隔離区の子供たちを語る時、声は変わらない。旧貴族の復権を語る時と、同じ温度です。子供たちは大義の一部であって、目的ではない」
沈黙。
倉庫の中に、風が吹き込んだ。埃が舞い上がり、月明かりの中で白く光った。
「……鋭いな」
ディートリヒが小さく笑った。だがその笑いに、前回のような余裕はなかった。
「鋭いが、的外れだ。私は旧貴族の一人として、奪われたものを取り戻す。その過程で子供たちが救われるなら、それは善いことだ。動機が純粋かどうかは問題ではない。結果が正しければいい」
「結果が正しいかどうかは、誰が決めるんですか」
ディートリヒは答えなかった。
「俺の答えは、今は出せません」
「いつまで待てばいい」
「分かりません」
「時間は有限だ、エーベルハルト。共和国が戦争を始めれば、すべてが動く。その前に、お前の立場を決めろ」
ディートリヒが外套を翻した。護衛に合図し、倉庫の奥へ消えていった。
俺は一人、廃墟の中に立ち尽くした。
◇
翌日の夜、隔離区に入った。
レナの家を訪ねた。
ヘルミーネは奥の部屋で休んでいる。居間のテーブルで、レナと二人きりだった。蝋燭が一本。揺れる炎が、レナの紫の瞳を照らしている。
「ディートリヒに会ったのね」
「ああ。情報提供を求められた」
「受けたの」
「断った。正確には、保留した」
レナが両手で湯呑みを包んだ。温かい飲み物を持っている時のレナは、少しだけ柔らかくなる。
「ルッツ。聞いてもいい」
「何でも」
「あなたはディートリヒを信用していないのよね」
「していない。前回会った時から、あの男の怒りには苦しみがないと感じた。正しいことを言っているのに、痛みが見えない。そういう人間は信用できない」
レナは湯呑みに視線を落とした。
「……分かっている。私もディートリヒを完全には信じていない。祖母も警告している。あの男は正義を語るが目的が違う、と」
「なら——」
「でも」
レナの声が、小さく震えた。
「他に誰がいるの」
その一言が、部屋の空気を変えた。
「隔離区の子供たちは、十五年間ずっと壁の中にいる。魔法を学べない。外に出られない。名前だけで差別される。この先もずっとこのままなのか、それとも誰かが変えてくれるのか。私はずっと待っていた」
レナの目が、蝋燭の光の中で揺れていた。
「あなたは体制の中に入って構造を知ると言った。二年が経った。何が変わった」
答えられなかった。
何も変わっていない。
構造を知った。矛盾を理解した。侵攻計画を発見した。だがそれらすべてが、俺の頭の中にあるだけだ。隔離区の壁は一ミリも動いていない。子供たちの暮らしは一日も変わっていない。
「ディートリヒは、少なくとも動こうとしている。蜂起の計画がある。旧貴族の連携がある。間違っているかもしれない。でも、何もしないよりは——」
「レナ」
声が、思ったよりも鋭く出た。
「ディートリヒは子供たちを駒にするだけだ」
レナが顔を上げた。紫の瞳に、怒りの色が混じっていた。
「分かっている。それくらい」
「分かっているなら——」
「じゃあ他に方法があるの」
言葉が、刃のように真っ直ぐだった。
「ルッツ。あなたは二年間、裁定院の中にいて、何も変えられなかった。ディートリヒを信用するなと言うなら、代わりの方法を示して。私に待てと言うなら、いつまで待てばいいのか答えて」
答えられなかった。
前世でもそうだった。社会の問題を見つけても、対案がなかった。テレビの前で政治家を批判することはできても、じゃあどうすればいいのかと問われれば黙るしかなかった。
批判は簡単だ。対案を出すのは難しい。
レナは立ち上がった。湯呑みをテーブルに置き、窓際に行った。窓の外は暗い。隔離区の夜は、いつも暗い。
「……ごめん。責めたいわけじゃない」
背中越しの声は、小さかった。
「ただ、もう限界なの。待つことの。何もできないことの。子供たちの顔を見るたびに、この子たちの未来はどうなるんだろうって。何年も、何年も、同じことを考え続けて」
「分かってる」
「分かってない」
レナが振り返った。目が赤かった。泣いてはいない。泣く手前の、こらえている目だ。
「あなたは壁の外側にいる。いつでも出られる。私たちは出られない。分かっていることと、体で知っていることは違う」
返す言葉がなかった。
レナは正しい。俺は壁の外側にいる。行きたい場所に行ける。学びたいことを学べる。レナにはそれがない。
前世と重なった。テレビで貧困の特集を見ながら、「大変だな」と思う自分。コンビニの暖かい店内で、路上で寝ている人を窓越しに見る自分。分かったつもりで、何も分かっていなかった。
「レナ」
「何」
「答えはまだない。でも、探している。一人じゃ見つからないかもしれない」
「……」
「だから、待ってくれとは言わない。ただ、一緒に考えてほしい」
レナは黙った。
長い沈黙の後、ゆっくりとテーブルに戻ってきた。椅子に座った。
「一緒に考える。それがあなたの答え」
「今の時点では、それしかない」
「弱いわね。ものすごく弱い」
「分かってる」
レナが、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。笑みとは呼べない。でも、完全な拒絶でもなかった。
「……一週間だけ。一週間だけ待つ。それまでに何か見つけて」
一週間。
ヴェルナーも一週間と言った。ディートリヒも時間は有限だと言った。
全員が、俺に一週間を突きつけている。
蝋燭の火が揺れた。
レナの紫の瞳が、その揺れに合わせて明滅した。
「見つける」
声に出して言った。
何を見つけるのか、まだ分からない。でも、言葉にしなければ、始まらない。
前世では、何も言葉にしないまま死んだ。
今度は、言葉から始める。




