英雄の席
ルッツ18歳。ヴェルナーが、ある席をルッツのために用意する。
呼び出しは、朝の警護交代の直後だった。
「エーベルハルト。院長がお呼びだ」
クルト班長の声に感情はない。いつも通りだ。だが今日は、その後に一言が付け加えられた。
「正装で行け」
正装。警護勤務に正装の指定が出ることは、まずない。つまり、これは警護の任務ではない。
宿舎に戻り、軍服を整えた。襟元のボタンを留め、靴を磨き、外套の皺を伸ばす。鏡の中の自分を見た。赤みがかった茶色の髪は母から受け継いだものだが、目は父に似ている。どちらにも似た、どちらとも違う顔だ。
廊下を歩いた。裁定院の白い壁が、朝日を反射して光っている。
ヴェルナーの執務室の前に着いた。扉は閉じている。ノックした。
「入れ」
扉を開けた。
執務室には、ヴェルナーだけではなかった。
机の横に、二人の軍人が立っていた。肩章の星が多い。将官クラスだ。見覚えのない顔だが、背筋の立て方と目の光に、戦場を知る人間の気配がある。
ヴェルナーは机の向こう側に座っていた。窓から差し込む光を背にして、いつもの穏やかな顔をしている。だが今日は、その穏やかさの奥に、別の温度があった。
期待だ。
この男が俺に何かを期待する時、背中に冷たいものが走る。
「掛けろ、エーベルハルト」
椅子を示された。将官たちの前に用意された、一脚の椅子。
座った。
「紹介しよう。ホフマン中将。西方戦区の司令官だ」
左側の将官が短く頷いた。五十代半ば。頬の傷痕が革命戦争の古参であることを示している。
「ドルン大佐。作戦参謀を務めている」
右側の男は四十代。眼鏡をかけた、知性的な顔つき。軍人というよりも学者に見える。
「それで、院長。この少年が」
ホフマン中将が俺を見た。値踏みする目だ。
「ヒルデ・エーベルハルトの息子だ。紅の黎明の、唯一の遺児」
ヴェルナーの声に力が籠もった。「紅の黎明」という異名を口にする時、この男の声は変わる。敬意と、後悔と、それから俺には読みきれない何かが混じった、複雑な色。
「顔は似ているな。髪の色は特に」
ホフマンが呟いた。
「目は父親似だが」
俺は黙って座っていた。品定めされている。何の値がつけられるのか、まだ分からない。
ヴェルナーが机の上の書類を一枚、こちらに向けて滑らせた。
「エーベルハルト。先日の辺境巡回での報告書を読んだ。戦闘の判断が的確だと、現地の指揮官が評価している」
「恐縮です」
「控えめだな。実戦で魔法を使い、仲間を守り、冷静に状況を判断した。十八歳としては十分以上だ」
褒められている。だがこの男の褒め言葉は、いつも導入部だ。本題は、この後に来る。
◇
「本題に入ろう」
ヴェルナーが書類の束を手に取った。
「共和国は今、新たな段階に入ろうとしている。革命から十五年。国内の安定は概ね達成された。次は、革命の理念を大陸全体に広げる時だ」
黎明作戦。
その名前は出さなかった。だが俺には、ヴェルナーが何の話をしているか分かっていた。あの日、半開きの扉の向こうで見た文書。母の名を冠した侵攻計画。
「西方のヴェルトハーフェン王国は、いまだに魔法を貴族の特権としている。我々が革命で打ち倒した旧体制を、あの国はそのまま維持している。あの国の平民は、この国の平民がかつてそうだったように、魔法を学ぶ権利を奪われている」
正論だ。事実だけを並べれば、間違っていない。
だがこの男の正論には、いつも裏がある。
「軍は近く、ヴェルトハーフェン東部に対する作戦行動を計画している。詳細は機密だが、お前には概要を知る必要がある」
「なぜ、俺にですか」
「それを今から話す」
ヴェルナーが立ち上がった。窓際に歩き、街を見下ろした。俺に背を向けたまま、言った。
「この作戦には、象徴が要る」
象徴。
「革命の大義を掲げた戦いだ。ならば、その旗を持つにふさわしい人間が先頭に立つべきだ」
振り返った。
「ヒルデの息子。紅の黎明の遺児。十八歳にして実戦経験を持ち、裁定院の内部を知り、革命の理念を体現する若者。——お前以上の適任者がいるか」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
石が水面に落ちるように、波紋が広がった。静かに、確実に。
「具体的には、どのような任務ですか」
声は平静に保った。前世のコンビニで、理不尽なクレームを受けた時と同じ制御。感情を封じ、事実だけを確認する。
「先鋒部隊の一員として前線に立つ。お前自身が指揮を執る必要はない。ただ、そこにいればいい」
ホフマン中将が口を挟んだ。
「紅の黎明の息子が先陣に立てば、兵の士気は上がる。革命の第二世代が、大義のために剣を取る。それだけで、この戦いの正統性が強化される」
ドルン大佐が補足する。
「戦後処理においても、エーベルハルトの名前は有効です。ヴェルトハーフェンの民衆に対して、この戦いが侵略ではなく解放であることを示す象徴になる」
二人の言葉は滑らかだった。用意されていた台詞だ。ヴェルナーが事前に打ち合わせたのだろう。
俺に求められているのは、同意することだけだ。
◇
頭の中で、複数の思考が同時に走った。
一つ目。この提案を断った場合の結果。
ヴェルナーの信頼を失う。裁定院の内部にいる意味がなくなる。最悪の場合、「忠誠に疑いあり」として監視対象に格下げされる。ここまで二年かけて築いた立場が崩壊する。
二つ目。この提案を受けた場合の結果。
侵略戦争に加担する。母の名のもとに、他国の人間を殺す。「革命の理念の拡大」という美しい嘘に、自ら旗を振ることになる。
三つ目。保留した場合。
時間を稼げる。だが永遠には先延ばしにできない。
前世の経験が重なった。
就職面接だ。「弊社に入社したら、どんな貢献ができますか」。答えが「わかりません」では落とされる。しかし嘘をつけば、嘘の上に仕事が積み上がっていく。
あの時は、いつも嘘をついた。面接用の笑顔を作り、用意した台詞を暗唱し、採用されればそれでよかった。辞めることはいつでもできるから。
だがこれは面接ではない。辞めたら済む話ではない。
「光栄なお話です」
口が動いた。
「ですが、即答はできません」
ヴェルナーの目が細まった。将官二人が顔を見合わせた。
「理由を聞こう」
「俺は母を知りません」
自分でも意外な言葉が出た。だが止まらなかった。
「紅の黎明の名は知っています。英雄としての功績も。ですが、母がどんな人間だったか、何を考え、何のために戦ったか。俺はそれを、まだ理解しきれていません」
嘘ではない。だが全部を語っているわけでもない。
「母の名を旗に掲げるなら、母の意志を理解していなければならない。中身のない旗は、風で簡単に倒れます」
沈黙が落ちた。
ホフマンの眉が寄った。ドルンが眼鏡の位置を直した。
ヴェルナーだけが、動かなかった。
数秒の間の後、ヴェルナーが口を開いた。
「良い答えだ」
意外だった。怒ると思っていた。
「考える時間をやろう。一週間で答えを出せ」
「ありがとうございます」
「ただし、エーベルハルト」
ヴェルナーの声が低くなった。
「この話は機密だ。誰にも漏らすな。——もし漏れれば、それがどういう意味になるか、分かるな」
「了解しました」
俺は立ち上がり、敬礼し、退室した。
◇
廊下に出た。
白い壁。白い天井。白い床。
清潔な白に囲まれた廊下を歩きながら、手のひらが汗で濡れていることに気づいた。
「英雄の息子が先陣に立てば、士気が上がる」。
ヴェルナーの言葉を反芻した。
これは栄誉ではない。呪いだ。
前世で俺は名前のない人間だった。誰にも名前を呼ばれず、誰の記憶にも残らず、コンビニの床の上で独りで死んだ。名前がないことは、存在しないことと同じだった。
この世界では逆だ。名前が大きすぎる。エーベルハルト。紅の黎明の遺児。その名前が、俺の意志とは無関係に、旗になり、象徴になり、道具になる。
名前がなかった前世。名前が重すぎるこの世界。
どちらも同じだ。俺自身を見ている人間は、どちらにもいない。
ヴェルナーが見ているのは「ヒルデの息子」という肩書きだ。ホフマンが見ているのは「士気を上げる道具」だ。ドルンが見ているのは「戦後処理の象徴」だ。
誰も、ルッツ・エーベルハルトという人間を見ていない。
廊下の窓から、首都の街並みが見えた。石畳の通り。朝の市場。行き交う市民たち。
この人たちは知らない。自分たちの国が、戦争を始めようとしていることを。そしてその戦争の先頭に、革命の英雄の息子が立たされようとしていることを。
一週間。
一週間で、答えを出さなければならない。
拒否すれば疑われる。承諾すれば侵略に加担する。
どちらを選んでも、行き詰まる。
前世と同じだ。病院に行けば家賃が払えない。家賃を払えば病院に行けない。どちらを選んでも詰みだったから、どちらも選ばないまま、床の上で死んだ。
だが今回は、死ぬわけにはいかない。
この世界には、俺を名前で呼んでくれた人がいる。
レナの顔が浮かんだ。紫色の瞳で俺を見る、あの目。「ルッツ」と呼ぶ声。英雄の息子でも、革命の象徴でもなく、ただの「ルッツ」として見てくれる目。
一週間で答えを出す。
だがその答えは、ヴェルナーが用意した二択の中にはない。
第三の選択肢を、見つけなければならない。




