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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio SASAME
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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33/60

正しい言葉を語る男

ルッツ18歳。ディートリヒ・フォン・ベルンシュタインとの初対面。

その男は、笑って入ってきた。


 隔離区の奥にある廃倉庫。かつては穀物を貯蔵していたらしいが、今は天井の半分が崩れ、壁に蔦が這っている。その中に三十人ほどの若者が集まっていた。


 俺はレナの隣に座り、フードを深く被っていた。服はレナが用意してくれた隔離区の住民が着るような質素なもので、裁定院の軍服とは似ても似つかない。


「あれよ」


 レナが顎で示した。


 入り口に立つ男を見た。


 第一印象は——場違いなほど、整っている。


 四十代後半。長身で痩せている。銀交じりの黒髪を後ろに流し、顎に短い髭を蓄えている。服は質素だが仕立てが良い。隔離区の住人ではない。壁の外から来た人間の雰囲気だ。いや、もっと遠くから。


 だがそれ以上に目を引いたのは、立ち居振る舞いだった。


 廃倉庫の崩れかけた入り口を跨ぐ時、足元の瓦礫を避ける動作が自然で、優雅ですらあった。汚れた空間に立っているのに、空間の方がこの男に合わせて格を上げているような錯覚を覚える。


 前世の記憶が反応した。


 コンビニの深夜勤務中、たまに来る客でこういう空気を持つ人間がいた。高い服を着ているわけではない。態度が横柄なわけでもない。ただ、存在そのものに「格」がある。経営者か、政治家か、あるいは何かの道で頂点に立った人間。そういう人間が持つ、空気を変える力。


 ディートリヒ・フォン・ベルンシュタインは、その力を持っていた。


          ◇


 集まった若者たちが立ち上がった。敬意と緊張が入り混じった空気。


「座ってくれ。堅苦しいのは好きではない」


 ディートリヒの声は低く、穏やかだった。命令ではなく、依頼の形を取っている。だがその声を聞いた全員が、自然と腰を下ろした。声に力がある。


「遠いところまですまなかった。だが、この壁の中にいる君たちに、直接会って話がしたかった」


 ディートリヒが倉庫の中央に立った。蝋燭の灯りが一つだけ足元に置かれ、下から顔を照らしている。影が深く刻まれ、彫刻のような輪郭が浮かび上がった。


「私は来るたびに思う。この壁は、誰のために作られたのかと」


 静かな声で語り始めた。


「革命は言った。平等のために戦うのだと。魔法はすべての人間のものだと。血統による差別を終わらせるのだと」


 一つ一つの言葉が、間を置いて放たれる。急がない。聞く者に染み込む時間を与えている。


「十五年が経った。壁はまだ立っている。差別は終わっていない。終わるどころか、裏返しになっただけだ。かつて貴族が平民を壁の外に追いやった。今は、その報復として、我々が壁の中に押し込められている」


 若者たちの目が、ディートリヒに集中していた。一人残らず。


「我々の子供たちは、学校に行けない。魔法を学べない。壁の外で遊ぶことすらできない。彼らの罪は何だ。貴族の家に生まれたことか。それは罪ではない。生まれは誰にも選べない。それを罪と呼ぶ者がいるなら、その者こそが差別者だ」


 隣で、レナの呼吸が深くなった。


 ディートリヒの言葉は、一語一語が正確だった。感情的に煽るのではなく、事実を積み上げて論理的に結論に導く。大学の講義のような構成力と、詩人の言葉選び。


「均等裁定院は、均等の名の下に不均等を行っている。魔法教育の配分は忠誠心で決まる。能力ではなく、体制への従順さで人間の価値が決められる。これは教育ではない。馴致だ」


 馴致。野生の動物を飼い慣らすこと。その比喩に、若者たちの間からかすかなどよめきが起きた。


「だが諸君。絶望する必要はない。歴史は教えてくれる。不当な支配は、必ず終わる。問題はいつ終わるかではなく、我々がいつ立ち上がるかだ」


 ディートリヒの目が光った。蝋燭の炎を受けて、琥珀色の虹彩が燃えるように見えた。


「その日のために、力を蓄えよ。知恵を磨け。そして何より——誇りを失うな。諸君は『旧い血』ではない。この大陸の文化と知識を数百年にわたって守り、育ててきた者たちの末裔だ。その誇りを、壁の中にいるからといって捨てる必要はない」


 拍手が起きた。控えめだが、熱を帯びた拍手。


 レナは拍手していなかった。だが、目が潤んでいた。


          ◇


 集会が終わった後、若者たちがディートリヒの周りに集まった。一人ずつ、握手を求めている。ディートリヒは一人一人と丁寧に言葉を交わしていた。名前を聞き、家族のことを聞き、困っていることを聞く。


 その対応の一つ一つが、完璧だった。


 前世で見たことがある。選挙前の政治家が支持者と握手する光景だ。あの時も、政治家は一人一人の名前を覚え、家族の話を聞き、共感の言葉をかけていた。


 だが——あの政治家は当選した翌日から、選挙区に来なくなった。


 俺はフードを被ったまま、壁際に座っていた。レナが横にいる。


「どう思う」


 レナが小声で聞いた。


「話がうまい」


「それだけ?」


「言っていることは正しい」


「でも?」


 俺は少し考えた。ディートリヒの演説を、もう一度頭の中で再生した。


「あの男は怒っていない」


 レナが目を見開いた。


「怒っていない? 隔離区の不正を告発しているのに?」


「告発はしている。だが怒りが見えない。言葉には怒りが乗っているが、目が怒っていない」


 レナは黙った。


「前世で——昔、似たような人間を見たことがある。NPO法人の代表がテレビで貧困問題について語っていた。言葉は完璧だった。データを引用し、感情に訴え、視聴者の涙を誘った。だが後になって分かった。その男は寄付金の大半を私的に流用していた」


「それとディートリヒが同じだと?」


「同じだとは言っていない。ただ、共通点がある。本当に苦しんでいる人間は、あんなに整った言葉では語れない。怒りに震える人間の声は、もっと壊れている。あの男の声は壊れていない。完璧に制御されている」


 レナが唇を噛んだ。


「でも、苦しみを語る人間がすべて壊れた声で語るとは限らないわ。冷静に語ることが、偽りだとは——」


「その通りだ。俺の言っていることは、証拠のない推測に過ぎない」


「じゃあ何が言いたいの」


「もう少し見たい。もう少し近くで」


          ◇


 機会は思いがけず、すぐに来た。


 若者たちとの対話を終えたディートリヒが、倉庫の入り口に向かって歩いてきた。その時、レナの方に目を止めた。


「レナ・アウアーバッハか」


 レナが身を強張らせた。名前を知られている。


「あなたの祖母のヘルミーネ殿には、旧体制の頃にお世話になった。アウアーバッハ家の教養は、大陸でも有数だった」


 ディートリヒの声は穏やかだった。敬意が込められている。少なくとも表面上は。


「ヘルミーネ殿はお元気か」


「ええ、元気にしています」


 レナの声は平坦だった。感情を殺している。


 ディートリヒの視線が、レナの隣に座る俺に移った。


「こちらは」


「親戚の者です。壁の外で働いている」


 レナが即座に答えた。設定通りだ。


 だがディートリヒの目が、一瞬だけ俺の顔に留まった。フードの下の目を、見ている。


「そうか。壁の外にも、我々のことを気にかけてくれる者がいるのは心強い」


 ディートリヒが手を差し出した。握手を求めている。


 俺は手を出した。握った。


 ディートリヒの手は温かかった。だが、乾いていた。


 汗をかいていない。


 三十人の前で演説し、一人一人と握手し、隔離区の中を歩き回った後なのに、手のひらが完全に乾いている。緊張も興奮もない。すべてが計算通りに進んでいる人間の手だ。


「名前を聞いてもいいかな」


「ヨハン」


 咄嗟に偽名を出した。前世の職場の同僚の名前だ。関係ない記憶が、こういう時に役に立つ。


「ヨハン。良い名だ。いつか壁の外でも、声を上げてくれることを期待している」


 ディートリヒが笑みを浮かべた。温かい笑みだった。だがその笑みが目の奥にまで届いているかどうか、蝋燭の灯りでは判別できなかった。


「少しだけ、話を聞いてもいいですか」


 レナが横で息を飲んだ。約束を破っている。聞くだけ、観るだけ、と言ったのに。


「もちろん。何でも聞いてくれ」


「ベルンシュタイン様の目指す先を知りたいのです。隔離区の解放。その後に、何を作ろうとしているのですか」


 ディートリヒの目が、わずかに細くなった。品定めをしている目だ。俺の質問の意図を測っている。


「良い質問だ。解放はゴールではなく、出発点だ。壁を壊した後に何を建てるか。それが真に問われることだ」


「具体的には」


「共和国が掲げた均等という理念は、思想としては間違っていない。だが実行が間違っていた。均等を配分する者がいる時点で、均等は死ぬ。ヒルデ・エーベルハルトという革命家も、そう言っていたと聞く」


 母の名が、この男の口から出た。


 心臓が跳ねた。だが表情には出さなかった。コンビニのレジで万引きを見た時の無表情。あの壁を、今こそ。


「真の均等とは、配分するのではなく、すべての者が自らの力で掴み取れる状態を作ることだ。旧貴族も平民も、壁のこちら側も向こう側も、等しく魔法を学び、等しく生きる権利を持つ社会。それが私の描く未来だ」


 美しい答えだった。完璧な答えだった。


 だが、一つだけ足りないものがある。


 ディートリヒが語ったのは「社会」の話であって、「人」の話ではなかった。抽象的な理念を語ったが、具体的な人間の顔が見えなかった。隔離区のどの子供を、どう救うのか。その話は一切出てこなかった。


「ありがとうございます。勉強になりました」


「礼には及ばない。同胞であれば、同じ未来を見つめるのは当然のことだ」


 ディートリヒが軽く頭を下げ、倉庫を出て行った。護衛らしき二人の男が後に続く。旧貴族の出で立ちをした、体格の良い男たちだった。


          ◇


 ディートリヒが去った後、レナが俺の腕を掴んだ。


「約束を破ったわね」


「すまん」


「すまんじゃないでしょう。もし正体がバレていたら——」


「バレてない。たぶん」


「たぶん、じゃ困るの」


 レナの目が怒っている。だが怒りの下に、別の感情が透けていた。心配だ。


「それで。話してみてどうだったの」


 俺はしばらく黙って考えた。ディートリヒとの握手の感触を、反芻した。乾いた手。温かいが、汗をかいていない手。


「前世の話をする」


「聞くわ」


「バイト先のコンビニに、毎日来る常連客がいた。いつも笑顔で、店員にも丁寧で、他の客ともにこやかに話す。みんなに好かれていた。ある日、その人が万引きしているのを見た」


「それが何の——」


「その人は万引きしながら笑っていたんだ。棚から商品を取る時も、ポケットに入れる時も、表情が一切変わらなかった。笑顔のまま盗んでいた」


 レナは黙った。


「ディートリヒは隔離区の苦しみを語っている。正しい言葉で、正確に、力強く。だがあの男は苦しんでいない。苦しんでいる人間の怒りを語っているが、自分自身は苦しんでいない」


「それは——あの人は壁の外にいるからでは」


「壁の外にいるから苦しんでいないなら、なぜ壁の中の人間の苦しみを代弁できるんだ。共感なのか。演技なのか。それとも、利用なのか」


 レナが唇を結んだ。


「証拠はないわ」


「ない。だからこれは俺の感覚だ。間違っているかもしれない」


「でも」


「でも?」


「祖母様と同じことを言っている。祖母様もディートリヒの目的は違うと言った。あなたもそう感じている。二人が同じことを言うなら、無視はできない」


 レナの声が、かすかに揺れた。揺れているが、折れてはいない。


          ◇


 ヘルミーネの部屋に寄ると、まだ起きていた。蝋燭の灯りの中で、いつもの刺繍をしている。


「集会に行ったのね」


「はい。ディートリヒに会いました」


「そう。どうだった」


「ヘルミーネさんの言った通りでした。あの男は正義を語っているが、苦しんでいない」


 ヘルミーネが針を止めた。俺を見る目に、疲れた色があった。


「ルッツ。一つ話しておくわ」


「何でしょうか」


「ディートリヒの父、ヴォルフガング・フォン・ベルンシュタインは、旧体制で最も苛烈な支配者の一人だった。平民への搾取は徹底的で、魔法教育の独占を最も強硬に主張した男よ。処刑されたのは当然の報いだったと、私でさえ思うくらいに」


「その息子が、父の路線を継ごうとしている」


「表向きは違うわ。ディートリヒは『均等の実現』を語る。旧体制の復活ではなく、新しい社会を、と。だけど——」


 ヘルミーネが刺繍の額を見た。壁に掛かった山と河の風景。


「あの家の血は、支配を求める血よ。ヴォルフガングもそうだった。権力を握ることが自然な呼吸であるかのように、支配する。息子も同じ。言葉は新しくても、求めているものは古い」


「隔離区の人々はそれに気づいていますか」


「気づく余裕がないの。飢えている時に差し出された手を、誰が疑うかしら。まず食べる。食べた後に、差し出した手の持ち主が何者かを考える。でもその頃にはもう、手の中に閉じ込められている」


 重い言葉だった。


「ルッツ。あなたはどうするの」


「どうすべきかは、まだ分かりません」


「正直ね」


「ただ、三つの力が動き始めていることは分かります。体制。反革命。そして——」


「そして?」


 俺は言葉を探した。三つ目の力は、まだ形を持っていない。


「体制の侵攻にも、ディートリヒの復古にも与しない。何か別の道があるはずだ。隔離区を解放して、しかし旧体制に戻さない。均等を実現して、しかし体制に従属しない。その道が何なのか、まだ見えていません」


 ヘルミーネが静かに微笑んだ。五年前の、あの最初の微笑みと同じだった。


「あなたの母も、同じようなことを考えていたのだと思うわ。どちらにも属さない第三の道。ヒルデはそれを見つける前に死んでしまったけれど」


「俺は死にません」


「そう言ったのに死んだ人間を、私はたくさん知っているわ」


「それでも、です」


 ヘルミーネは何も言わなかった。ただ頷いて、刺繍に戻った。


          ◇


 壁の穴をくぐった。


 夜明け前の空に、星がまだ残っている。東の端だけがわずかに白んでいた。


 頭の中で、三つの力を整理した。


 一つ目。体制。ヴェルナーを中心とする元勲会。黎明作戦(・・・・)によるヴェルトハーフェン侵攻。母の名を使った戦争。


 二つ目。反革命。ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン。旧貴族の怒りを組織化し、体制を打倒しようとしている。だが目的は解放ではなく復古。


 三つ目。まだ名前のない力。俺がその形を探している何か。


 前世では、こういう状況では黙って見ていた。政治の話はテレビの向こう側のことで、自分には関係ないと思っていた。どの党に入れても変わらないと思い、選挙にも行かなかった。


 だがここでは、テレビの向こう側にいることはできない。俺自身が画面の中にいる。


 ディートリヒの手を思い出した。乾いた手。計算された温もり。あの男が握手する相手一人一人を、名前ではなく駒として見ていたこと。確信はないが、感覚が告げている。


 あの男は正しいことを言っている。だが正しいことを言う理由が、正義ではなく支配だ。


 ヘルミーネの言葉。「正しい言葉を言うことと、正しい人間であることは別のこと」。


 体制は腐敗している。反革命は偽りの正義を掲げている。


 では第三の道とは何だ。


 まだ答えは見えない。見えないが、輪郭だけは掴みかけている。


 母が最後に書こうとした言葉。「もしこの国が私の望んだものでなかったら——」


 母の道を継ぐのでもない。母の道を否定するのでもない。母が見つけられなかった先を、探す。


 宿舎に戻る足取りは、三日前よりも確かだった。荷物は重いが、足元は見えている。


 少なくとも、何と向き合うべきかは分かった。


 体制という敵。反革命という、もう一つの敵。


 そして、二つの敵の間にある狭い道を、一人で歩き始めなければならないという現実。


 星が消えていく空を見上げた。


 夜明けはまだ遠い。だが、夜が永遠に続くわけではない。

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