壁の中の火種
ルッツ18歳。隔離区の中に広がる不穏な空気と、ディートリヒの言葉に触れる。
三日後の夜、再び壁をくぐった。
隔離区の空気が変わっていた。前回来た時は静かだった。今夜は違う。通りに人の気配がある。声は聞こえないが、影がいくつも動いている。建物と建物の隙間を、足早に移動する人影。
レナの家の前で例の合図を叩くと、すぐに扉が開いた。待っていたのだろう。
「来て。見せたいものがある」
レナはいつもの部屋ではなく、建物の裏手に俺を導いた。剥がれた壁の隙間から、隣の区画が覗ける場所だ。
「見て」
指差す先に、人が集まっていた。
二十人ほど。ほとんどが若者だった。十代後半から二十代前半。夜の闇の中で、蝋燭の灯りを一つだけ囲んで、車座に座っている。
声は風に乗って断片的に聞こえた。
「——もう待てない——」
「——配給がまた減った——」
「——子供たちはいつまでこの壁の中で——」
「——ディートリヒ様が——」
レナが俺の袖を引いた。
「これが毎晩。場所を変えながら、三日に一度くらいの頻度で開かれている」
「三日に一度。組織的だな」
「誰が仕切っているかは分からない。でも、話の流れはいつも同じなの。最初は不満の共有。次にディートリヒの名前が出て、最後に『もうすぐ変わる』で終わる」
「変わる、か。何がどう変わるんだ」
「それは誰も具体的に言わない。ただ『もうすぐ』とだけ」
集会の灯りが消えた。人々が散っていく。影が影の中に溶ける。
俺は壁の隙間から目を離した。
◇
レナの部屋に戻った。ヘルミーネはもう寝ている時間だ。テーブルの上の蝋燭を挟んで、レナと向き合って座った。
「この三日で、少し聞いて回ったの」
レナがテーブルの上に手を置いた。指先が微かに震えている。
「ディートリヒの言葉が、文書の形で出回っている。手書きの写しが、人から人へと渡っている」
「文書? どんな内容だ」
レナは服の内側から、折り畳まれた紙を取り出した。
「借りてきた。返さなきゃいけないから、ここで読んで」
紙を開いた。丁寧な筆跡だった。書き写した人間の筆跡であって、原本の筆跡ではないだろう。だが文体には独特の格調がある。
書かれていたのは、隔離区の現状に対する告発文だった。
冒頭はこうだった。
——壁の中の同胞よ。我々はなぜここにいるのか。革命が我々の罪だと言う。だが我々の罪とは何か。貴族の家に生まれたことか。生まれを選べる人間がどこにいる。
読み進めた。
——共和国は「均等」を掲げた。すべての人間が等しく扱われる社会を約束した。だが見よ。この壁を。この配給を。この監視塔を。これが均等か。これが彼らの言う平等か。
——彼らは我々を「旧い血」と呼ぶ。旧いと呼ぶことで、消えていくものであるかのように扱う。だが我々は消えてはいない。我々の子供たちは壁の中で生まれ、壁の中で育ち、壁の外を知らずに大人になっていく。これは刑罰ではない。絶滅政策だ。
筆の力が強くなっていく。
——だが、夜明けは近い。壁は永遠ではない。壁を作った者たちの手が衰えた時、壁は崩れる。その時のために、我々は力を蓄えなければならない。知識を。技術を。そして何より、誇りを。
最後の一行。
——花はいずれ再び咲く。その日まで、根を枯らすな。
紙を折り畳んで、レナに返した。
◇
正直に言えば、胸に響いた。
文章がうまい。前世でレポートや企画書を散々読んできた目から見ても、この文章は巧みだった。感情に訴えかけながら、論理も通っている。具体的な事実を挙げて不当性を示し、しかし結論では抽象的な希望で締める。扇動文書としての完成度が高い。
そして何より、書かれていることの大部分は事実だった。
隔離区の子供たちに未来がないこと。配給が足りないこと。生まれだけで人生が決まること。これらは俺が自分の目で見てきた現実だ。
「ルッツ。どう思う」
「事実は事実だ。隔離区の現状はこの文書の通りだと思う」
「でも?」
「最後の一行が引っかかる」
レナが首を傾げた。
「『花はいずれ再び咲く』か。何が引っかかるの」
「『再び咲く』という表現だ。旧貴族の文化や権利が『再び花開く』。これは回復の言葉であって、変革の言葉ではない。隔離区を解放して新しい社会を作ろう、ではなく、かつてあったものを取り戻そう、と言っている」
レナは黙った。
「ヘルミーネさんが言った通りだ。ディートリヒが目指しているのは解放ではなく復古だ。この文書は旧貴族の正当な怒りを代弁しているが、怒りの行き先が『元に戻す』に向いている」
「それは……分かってる。頭では分かってる」
レナの声に、苦いものが混じった。
「でも、ルッツ。ここの若い人たちにとって、これが初めて『自分たちのことを言ってくれる言葉』なの」
◇
レナは立ち上がり、窓辺に歩いた。鉢植えの紫の花は、この季節には枯れている。茶色くなった茎だけが残っていた。
「隔離区では、誰も私たちのことを言ってくれない。壁の外の人間は、私たちのことを知らないか、知っていても口をつぐむ。体制側は私たちを『管理対象』としか見ていない」
「俺は——」
「あなたは例外よ、ルッツ。壁の外から来て、私たちの声を聞いてくれる人は、五年間であなたしかいなかった」
レナが振り返った。蝋燭の炎が揺れ、その影が壁を滑った。
「でも、あなた一人では足りないの。ここには何百人もの人がいて、何十人もの子供がいて、みんな声を上げたくても上げられない。そこにディートリヒの言葉が来た。初めて、自分たちの怒りを代弁してくれる言葉が」
「レナ」
「私は祖母様の言うことが正しいと思っている。ディートリヒの方法では構造が変わらない。でも——」
レナの目が、蝋燭の光を受けて揺れた。
「何もしないまま、あと十年このまま過ごすの? あと二十年? 私が子供を産んだら、その子もまたこの壁の中で育つの? その子供もまた? いつまで?」
声は抑えられていたが、内側の熱が漏れていた。
俺は黙って聞いた。反論することが目的ではない。レナの怒りは正しい。正しい怒りに対して理屈で反論するのは、前世の会社で上司が不満を持つ部下にしていたことと同じだ。「気持ちは分かるが規則は規則だ」と言って、何一つ変えなかった上司たち。
あの側には立ちたくない。
「レナ」
「何」
「お前の怒りは正しい。俺にはそれを否定する資格がない。壁の外で暮らしている人間が、壁の中にいる人間に我慢しろとは言えない」
「じゃあ、何を言いに来たの」
「一つだけ聞きたい。ディートリヒは、この壁の中の子供たちをどうするつもりだ」
レナが眉を寄せた。
「どう、というのは」
「救おうとしているのか。それとも、旗として使おうとしているのか」
レナは答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのか。
「文書には『子供たち』への言及がほとんどない。怒りと誇りと復権の言葉ばかりだ。子供たちが明日食べるもの、来年学ぶこと、十年後にどんな大人になれるか。そういう話が一つもない」
「それは——まだ先の話だから——」
「先の話にしてはいけないんだ。今ここにいる子供たちの話だ。ディートリヒの言葉は大人に向けられている。怒りを持った大人を動かすための言葉だ。子供たちを救うための言葉ではない」
レナは窓辺に手をついた。枯れた鉢植えの横で、指が白くなっていた。
「ひどいことを言うのね。正しいことを、ひどく言う」
「すまない」
「謝らないで。正しいことを言う人間は謝る必要がない。祖母様がそう言ってた」
◇
帰り際、レナが小さな声で言った。
「明後日、ディートリヒ側の人間が隔離区に来るらしいの」
「ディートリヒ本人じゃなくて?」
「多分。でも、もしかしたら本人かもしれない。『特別な方が来る』とだけ聞いた」
俺は足を止めた。
「俺も来ていいか」
「あなたが? 壁の外の人間が集会に来たら、すぐにバレる」
「レナの知り合いとして紹介してくれ。旧い血の家の親戚の、外で働いている者。設定は適当に合わせる」
レナは渋い顔をした。
「危険よ。あなたの顔は裁定院で知られている」
「隔離区の中で俺の顔を知っている人間は少ないだろ。裁定院は壁の外の組織だ」
「でも、もしバレたら」
「バレない。前世でコンビニのバイトを掛け持ちしていた時、別の系列の制服を着て別人のふりをするのは得意だった」
冗談めかして言ったが、レナは笑わなかった。
「笑えないわよ、そんな例え」
「すまん」
「……分かった。でも条件がある。何があっても、あなたからは声をかけないで。聞くだけ。観るだけ。それが約束できるなら」
「約束する」
「嘘つき」
「どこが嘘なんだ」
「約束すると言う時のあなたの目が、もう次の手を考えてる目なの。五年も見てれば分かるわよ」
反論できなかった。図星だった。
壁の穴をくぐりながら、頭の中で二つのことを考えていた。
一つ。ディートリヒの文書が語る「正しさ」と、その裏にある意図の乖離。
二つ。レナの怒りは本物だ。そしてレナのような冷静な人間ですら揺れるほどに、隔離区の状況は逼迫している。
前世で、派遣切りにあった同僚が怒りに震えていたのを思い出した。「おかしいだろ、こんなの」と言った男の声を。あの時も俺は何もできなかった。「確かにおかしいな」と言って、缶コーヒーを渡しただけだった。
今回はコーヒーでは済まない。
ディートリヒに会わなければならない。
ヘルミーネの警告は頭に入っている。レナの揺れも見た。隔離区の若者たちの焦燥も感じた。
あとは、自分の目で見なければならない。ディートリヒという男が何者なのか。正義を語る声の裏に、何があるのか。
前世で学んだことがある。面接で完璧なことを言う人間ほど、中身がないことが多い。履歴書に隙がない人間ほど、現場で使えないことがある。
逆もまた然りだ。不器用な言葉で語る人間の方が、本気であることが多い。
ディートリヒの文書は、不器用ではなかった。あまりにも完成度が高かった。
それが引っかかっている。




