解放者の名
第3章「旗の色が変わる時」開幕です。
ルッツ18歳。侵攻計画の衝撃を、壁の向こう側に持ち込む。
レナの家の灯りは、蝋燭一本だった。
テーブルの上で炎が揺れている。その小さな光の中に、俺とレナとヘルミーネの三人が座っていた。深夜の隔離区は静まり返っていて、遠くで犬が一度だけ吠えた。
「侵攻計画?」
レナが声を抑えながら繰り返した。薄い紫の瞳に蝋燭の炎が映っている。
「ああ。ヴェルナーの執務室で見た。黎明作戦と名付けられた文書だ。ヴェルトハーフェン王国への軍事侵攻」
ヘルミーネの刺繍の手が止まった。前回と同じだ。この人が手を止める時は、心が動いた時だ。
「黎明、と」
「はい。紅の黎明。母の異名です」
ヘルミーネは針を膝の上に置いた。蝋燭の炎を見つめる灰色の目に、感情が走った。怒りではない。悲しみに近い何かだった。
「あなたの母親の名を、戦争の旗印にするということね」
「そうです」
「革命の英雄が命を懸けて守ろうとしたものを、侵略の口実に使う。分かりやすい話だわ。権力者はいつもそうする。死んだ英雄は便利だもの。反論しないから」
ヘルミーネの声は穏やかだった。だが穏やかさの中に刃がある。
レナは黙っていた。テーブルの上で両手を組み、指先が白くなるほど握りしめている。
「文書の中身を、もう少し詳しく教えて」
レナが言った。
俺は記憶を辿りながら話した。作戦概要。三つの目的。理念の拡大と辺境の安定化という名目。そして本音である資源確保。時間表——三ヶ月以内に兵力集中、その後速やかに国境突破。
話している間、レナの表情は変わらなかった。だが目の奥が動いている。情報を受け取り、分析し、整理している目だ。この目を見たことがある。旧式魔法の術式を分解する時の、あの集中した目だ。
「三ヶ月以内の兵力集中。ということは、辺境巡回で聞いた国境方面への部隊移動——」
「あの時の噂は、これの準備だったんだろう」
「時期は」
「文書には具体的な日付はなかった。だが署名は全員承認済みだ。ドレスラー総帥を含めて。決定はもう下されている」
レナが息を吐いた。深く、長く。
「戦争が始まるのね」
「始めようとしている」
「止められるの」
俺は答えなかった。答えを持っていなかった。
◇
ヘルミーネが口を開いた。
「戦争が始まれば、隔離区にも影響が出るわ。むしろ最初に影響を受けるのは、ここかもしれない」
「どういう意味ですか」
「戦時体制よ。国が戦争を始める時、内部の不安要素はすべて締め付けの対象になる。隔離区への監視が強化される。配給が減る。外部との接触が完全に遮断される可能性もある」
レナの顔が強張った。
「今でさえ足りていないのに」
「足りていないものが、もっと足りなくなるの。戦争の物資は前線に回される。後方の、しかも『旧い血』への配給は真っ先に削られる」
ヘルミーネの予測は冷徹だったが、根拠がある。この人は旧体制の時代を知っている。権力がどう動くかを、支配する側の内部にいた人間の視点で理解している。
「それだけじゃない」レナが低い声で言った。「最近、隔離区の中が騒がしいの」
「騒がしい?」
「若い人たちの間で、変な空気が広がっている。ここ数ヶ月で急に。表立っては言わないけれど、集会のようなものが夜に開かれている」
「反革命運動か」
「分からない。でも——」
レナが言い淀んだ。彼女が言葉を選ぶ時は、言葉に重みがある時だ。
「名前が、一つ出てくるの。若い人たちが囁いている名前」
「誰だ」
「ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン」
◇
聞いたことのない名前だった。
「ディートリヒ。旧貴族か」
「ベルンシュタイン家は、革命前は大貴族だったわ」ヘルミーネが答えた。声のトーンが変わっていた。「大公家に次ぐ格式を持つ名門。ディートリヒはその当主の長男だった。革命の時、父親は処刑された。ディートリヒ自身は逃亡して、以後消息が途絶えていたはず」
「消息が途絶えていた人物が、今になって名前が出てくる」
「そう。それが気になるの」ヘルミーネの目が鋭くなった。
「隔離区の若者たちは、あの男のことを『解放者』と呼んでいるの」
レナの声が、わずかに震えていた。恐れではない。もっと複雑な感情だ。
「解放者」
「隔離区からの解放。旧貴族の名誉の回復。奪われた権利の奪還。そういった言葉が、ここ数ヶ月で急に広まっている。その言葉の出所を辿ると、必ずディートリヒの名前に行き着く」
俺は椅子の背にもたれた。天井を見上げた。染みだらけの天井。この部屋も、この建物も、この区画も、革命後十五年間放置されてきた場所だ。
「ヘルミーネさん」
「何かしら」
「ディートリヒという男を、あなたは知っていますか」
ヘルミーネは刺繍の針を拾い上げた。だが糸を通さなかった。針を指先で回しながら、遠くを見るような目をした。
「知っているわ。子供の頃の彼を知っている」
蝋燭の炎が揺れた。窓の隙間から風が入り込んでいる。
「ディートリヒは優秀な子供だった。教養があり、弁が立ち、魔法の才能にも恵まれていた。旧式魔法の使い手としては、同世代で最も秀でていたと思う。ベルンシュタイン家の教育は徹底していたから」
「優秀で、教養がある。反革命運動の指導者としては理想的ですね」
「そうね。そして、彼が語る言葉には力がある。旧貴族の怒りを、正確に言語化できる人間だわ。隔離区の人々が彼に惹かれるのは、理解できる」
ヘルミーネの声が低くなった。
「でも」
一呼吸の間があった。
「あの男は正義を語るけれど、目的は違うわ」
「目的が違う?」
「ディートリヒが求めているのは、旧貴族の解放ではない。旧体制の復活よ」
◇
旧体制の復活。
言葉の重さが、蝋燭の炎とともに揺れた。
「隔離区の人々の苦しみは本物よ。配給は足りない。教育は受けられない。子供たちに未来がない。それは事実。ディートリヒはその事実を正確に語る。だからこそ人々は耳を傾ける」
「でも、彼の解決策は——」
「貴族の特権を取り戻すこと。血統による支配の復活。革命前の世界に戻ること。彼にとって『解放』とは、旧貴族が支配者の座に戻ることを意味している」
レナが顔を上げた。
「祖母様。でも、今のこの状況が間違っているのは事実じゃない。隔離区の子供たちは学校に行けない。魔法を学べない。生まれた家が旧貴族だったというだけで、一生をこの壁の中で過ごす。それを変えたいと思うのは、当然のことでしょう」
「もちろんよ。変えるべきだわ。だけどレナ、変え方の問題なの。ディートリヒの方法では、今度は平民が壁の中に入れられるだけ。支配する側と支配される側がまた入れ替わるだけで、構造は何も変わらない」
ヘルミーネの言葉は、五年前に初めてこの部屋で聞いた警句と響き合っていた。「罪を血で贖うなら、この国は永遠に血を流し続ける」。
レナは黙り込んだ。反論できないのではなく、反論する言葉を飲み込んだのだ。隔離区で育った人間の怒りと、祖母の冷静な分析の間で、揺れている。
「ルッツ」
ヘルミーネが俺を見た。
「あなたに言っておくわ。ディートリヒは危険な男よ。だけど、彼の言葉には人を動かす力がある。特に、希望を持てない若者たちにとっては。正しい言葉を言うことと、正しい人間であることは別のこと。それを忘れないで」
「忘れません」
「それと、もう一つ」
ヘルミーネが針を置いた。
「侵攻計画とディートリヒの動き。この二つが同時に起きているのは、偶然ではないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「体制が外に戦争を仕掛ける時、内部の反乱分子も動く。戦争は混乱を生む。混乱は、反革命にとってのチャンスになる。ディートリヒがこのタイミングで名前を表に出してきたのだとしたら、侵攻計画を何らかの形で察知している可能性がある」
背筋が冷えた。
体制が戦争を始めようとしている。反革命もそれを利用しようとしている。二つの力が、それぞれの思惑で動き始めている。
隔離区の人々は、そのどちらからも駒として扱われる。
レナの家族も。レナ自身も。
「俺は——」
口を開きかけて、止めた。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「帰りなさい」ヘルミーネが言った。いつもと同じ、穏やかな声で。「夜が明ける前に壁の向こうに戻らないと、危険よ。今夜聞いたことは、頭の中で整理して。焦って動くのが一番まずい」
「はい」
「レナ。見送りなさい」
「分かった」
◇
壁の穴の前で、レナが立ち止まった。
月が薄い雲の向こうに隠れていて、あたりは暗かった。監視塔の灯りだけが遠くに見える。
「ルッツ」
「何だ」
「ディートリヒのこと。私、もう少し調べてみる」
「調べるって、隔離区の中で?」
「集会に出ている若者たちに話を聞く。何が語られているのか、誰がどう動いているのか」
「気をつけろ。集会に関わっていることが体制側に知れたら——」
「大丈夫。私はずっとここにいるの。この壁の中で、何が起きているか知らないふりをする方が危険よ」
レナの声は静かだった。だがその静かさの中に、決意がある。
「ルッツ。一つだけ、言っておきたいことがある」
「何だ」
「祖母様はディートリヒを否定した。彼の方法では構造が変わらないと。それは正しいと思う。でも——」
レナが俺を見た。暗闇の中で、薄い紫の瞳がかすかに光っている。
「ここの子供たちに未来がないのは事実なの。学校もない。魔法も使えない。壁の外に出ることすらできない。正しい方法で変えるべきだと言われても、正しい方法が見つからないまま、子供たちは大人になって、同じ壁の中で死んでいく」
「レナ」
「ディートリヒの方法が間違っているとしても、何もしないよりはましだと思う人間がいる。私にはその気持ちが分かるの。分かってしまうの」
レナの声が、微かに揺れた。
俺は答えられなかった。レナの言っていることは正しい。正しいから、答えられない。
「行って。夜が明ける」
「ああ」
壁の穴に身を滑り込ませながら、振り返った。
「レナ。俺は方法を探す。体制でもディートリヒでもない、別の道を。まだ何も見えていないけど——」
「知ってる。あなたはそういう人間よ」
レナの声が暗闇から聞こえた。少しだけ、柔らかかった。
「だから余計に心配なの。どちらからも敵にされるのは、あなたでしょう」
返す言葉がなかった。
穴をくぐり、壁のこちら側に出た。夜明け前の冷えた空気が肌を刺す。
東の空がわずかに白んでいた。
侵攻計画。反革命運動。ディートリヒという男。
体制は外に向かって戦争を始めようとしている。反革命は内側で蜂起しようとしている。
そしてその間に挟まれた隔離区の人々は、どちらに転んでも駒にされる。
ヘルミーネの言葉が頭を回った。「正しい言葉を言うことと、正しい人間であることは別のこと」。
ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン。
まだ顔も知らない男だが、その名前が持つ引力のようなものを、隔離区の空気の中に感じた。
宿舎に戻る足取りは重かった。知るべきことが増えた分だけ、背中の荷物が重くなっている。
前世のフリーター時代、掛け持ちの仕事が増えるたびに体が軋んだ。今の感覚はそれに似ている。ただし今回は、体ではなく頭の中が軋んでいる。
整理しなければならない。だが今夜は無理だ。
明日、ヴェルナーの前に何食わぬ顔で立たなければならない。見たものを見なかった顔で。聞いたことを聞かなかった顔で。
コンビニのレジに立つ時の、あの無表情。もう一度、それを被る。




