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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: Studio Flint
3章 旗の色が変わる時 *31話〜45話

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解放者の名

第3章「旗の色が変わる時」開幕です。

ルッツ18歳。侵攻計画の衝撃を、壁の向こう側に持ち込む。

レナの家の灯りは、蝋燭一本だった。


 テーブルの上で炎が揺れている。その小さな光の中に、俺とレナとヘルミーネの三人が座っていた。深夜の隔離区は静まり返っていて、遠くで犬が一度だけ吠えた。


「侵攻計画?」


 レナが声を抑えながら繰り返した。薄い紫の瞳に蝋燭の炎が映っている。


「ああ。ヴェルナーの執務室で見た。黎明作戦(・・・・)と名付けられた文書だ。ヴェルトハーフェン王国への軍事侵攻」


 ヘルミーネの刺繍の手が止まった。前回と同じだ。この人が手を止める時は、心が動いた時だ。


「黎明、と」


「はい。紅の黎明。母の異名です」


 ヘルミーネは針を膝の上に置いた。蝋燭の炎を見つめる灰色の目に、感情が走った。怒りではない。悲しみに近い何かだった。


「あなたの母親の名を、戦争の旗印にするということね」


「そうです」


「革命の英雄が命を懸けて守ろうとしたものを、侵略の口実に使う。分かりやすい話だわ。権力者はいつもそうする。死んだ英雄は便利だもの。反論しないから」


 ヘルミーネの声は穏やかだった。だが穏やかさの中に刃がある。


 レナは黙っていた。テーブルの上で両手を組み、指先が白くなるほど握りしめている。


「文書の中身を、もう少し詳しく教えて」


 レナが言った。


 俺は記憶を辿りながら話した。作戦概要。三つの目的。理念の拡大と辺境の安定化という名目。そして本音である資源確保。時間表——三ヶ月以内に兵力集中、その後速やかに国境突破。


 話している間、レナの表情は変わらなかった。だが目の奥が動いている。情報を受け取り、分析し、整理している目だ。この目を見たことがある。旧式魔法の術式を分解する時の、あの集中した目だ。


「三ヶ月以内の兵力集中。ということは、辺境巡回で聞いた国境方面への部隊移動——」


「あの時の噂は、これの準備だったんだろう」


「時期は」


「文書には具体的な日付はなかった。だが署名は全員承認済みだ。ドレスラー総帥を含めて。決定はもう下されている」


 レナが息を吐いた。深く、長く。


「戦争が始まるのね」


「始めようとしている」


「止められるの」


 俺は答えなかった。答えを持っていなかった。


          ◇


 ヘルミーネが口を開いた。


「戦争が始まれば、隔離区にも影響が出るわ。むしろ最初に影響を受けるのは、ここかもしれない」


「どういう意味ですか」


「戦時体制よ。国が戦争を始める時、内部の不安要素はすべて締め付けの対象になる。隔離区への監視が強化される。配給が減る。外部との接触が完全に遮断される可能性もある」


 レナの顔が強張った。


「今でさえ足りていないのに」


「足りていないものが、もっと足りなくなるの。戦争の物資は前線に回される。後方の、しかも『旧い血』への配給は真っ先に削られる」


 ヘルミーネの予測は冷徹だったが、根拠がある。この人は旧体制の時代を知っている。権力がどう動くかを、支配する側の内部にいた人間の視点で理解している。


「それだけじゃない」レナが低い声で言った。「最近、隔離区の中が騒がしいの」


「騒がしい?」


「若い人たちの間で、変な空気が広がっている。ここ数ヶ月で急に。表立っては言わないけれど、集会のようなものが夜に開かれている」


「反革命運動か」


「分からない。でも——」


 レナが言い淀んだ。彼女が言葉を選ぶ時は、言葉に重みがある時だ。


「名前が、一つ出てくるの。若い人たちが囁いている名前」


「誰だ」


「ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン」


          ◇


 聞いたことのない名前だった。


「ディートリヒ。旧貴族か」


「ベルンシュタイン家は、革命前は大貴族だったわ」ヘルミーネが答えた。声のトーンが変わっていた。「大公家に次ぐ格式を持つ名門。ディートリヒはその当主の長男だった。革命の時、父親は処刑された。ディートリヒ自身は逃亡して、以後消息が途絶えていたはず」


「消息が途絶えていた人物が、今になって名前が出てくる」


「そう。それが気になるの」ヘルミーネの目が鋭くなった。


「隔離区の若者たちは、あの男のことを『解放者(かいほうしゃ)』と呼んでいるの」


 レナの声が、わずかに震えていた。恐れではない。もっと複雑な感情だ。


「解放者」


「隔離区からの解放。旧貴族の名誉の回復。奪われた権利の奪還。そういった言葉が、ここ数ヶ月で急に広まっている。その言葉の出所を辿ると、必ずディートリヒの名前に行き着く」


 俺は椅子の背にもたれた。天井を見上げた。染みだらけの天井。この部屋も、この建物も、この区画も、革命後十五年間放置されてきた場所だ。


「ヘルミーネさん」


「何かしら」


「ディートリヒという男を、あなたは知っていますか」


 ヘルミーネは刺繍の針を拾い上げた。だが糸を通さなかった。針を指先で回しながら、遠くを見るような目をした。


「知っているわ。子供の頃の彼を知っている」


 蝋燭の炎が揺れた。窓の隙間から風が入り込んでいる。


「ディートリヒは優秀な子供だった。教養があり、弁が立ち、魔法の才能にも恵まれていた。旧式魔法の使い手としては、同世代で最も秀でていたと思う。ベルンシュタイン家の教育は徹底していたから」


「優秀で、教養がある。反革命運動の指導者としては理想的ですね」


「そうね。そして、彼が語る言葉には力がある。旧貴族の怒りを、正確に言語化できる人間だわ。隔離区の人々が彼に惹かれるのは、理解できる」


 ヘルミーネの声が低くなった。


「でも」


 一呼吸の間があった。


「あの男は正義を語るけれど、目的は違うわ」


「目的が違う?」


「ディートリヒが求めているのは、旧貴族の解放ではない。旧体制の復活よ」


          ◇


 旧体制の復活。


 言葉の重さが、蝋燭の炎とともに揺れた。


「隔離区の人々の苦しみは本物よ。配給は足りない。教育は受けられない。子供たちに未来がない。それは事実。ディートリヒはその事実を正確に語る。だからこそ人々は耳を傾ける」


「でも、彼の解決策は——」


「貴族の特権を取り戻すこと。血統による支配の復活。革命前の世界に戻ること。彼にとって『解放』とは、旧貴族が支配者の座に戻ることを意味している」


 レナが顔を上げた。


「祖母様。でも、今のこの状況が間違っているのは事実じゃない。隔離区の子供たちは学校に行けない。魔法を学べない。生まれた家が旧貴族だったというだけで、一生をこの壁の中で過ごす。それを変えたいと思うのは、当然のことでしょう」


「もちろんよ。変えるべきだわ。だけどレナ、変え方の問題なの。ディートリヒの方法では、今度は平民が壁の中に入れられるだけ。支配する側と支配される側がまた入れ替わるだけで、構造は何も変わらない」


 ヘルミーネの言葉は、五年前に初めてこの部屋で聞いた警句と響き合っていた。「罪を血で贖うなら、この国は永遠に血を流し続ける」。


 レナは黙り込んだ。反論できないのではなく、反論する言葉を飲み込んだのだ。隔離区で育った人間の怒りと、祖母の冷静な分析の間で、揺れている。


「ルッツ」


 ヘルミーネが俺を見た。


「あなたに言っておくわ。ディートリヒは危険な男よ。だけど、彼の言葉には人を動かす力がある。特に、希望を持てない若者たちにとっては。正しい言葉を言うことと、正しい人間であることは別のこと。それを忘れないで」


「忘れません」


「それと、もう一つ」


 ヘルミーネが針を置いた。


「侵攻計画とディートリヒの動き。この二つが同時に起きているのは、偶然ではないかもしれない」


「どういう意味ですか」


「体制が外に戦争を仕掛ける時、内部の反乱分子も動く。戦争は混乱を生む。混乱は、反革命にとってのチャンスになる。ディートリヒがこのタイミングで名前を表に出してきたのだとしたら、侵攻計画を何らかの形で察知している可能性がある」


 背筋が冷えた。


 体制が戦争を始めようとしている。反革命もそれを利用しようとしている。二つの力が、それぞれの思惑で動き始めている。


 隔離区の人々は、そのどちらからも駒として扱われる。


 レナの家族も。レナ自身も。


「俺は——」


 口を開きかけて、止めた。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。


「帰りなさい」ヘルミーネが言った。いつもと同じ、穏やかな声で。「夜が明ける前に壁の向こうに戻らないと、危険よ。今夜聞いたことは、頭の中で整理して。焦って動くのが一番まずい」


「はい」


「レナ。見送りなさい」


「分かった」


          ◇


 壁の穴の前で、レナが立ち止まった。


 月が薄い雲の向こうに隠れていて、あたりは暗かった。監視塔の灯りだけが遠くに見える。


「ルッツ」


「何だ」


「ディートリヒのこと。私、もう少し調べてみる」


「調べるって、隔離区の中で?」


「集会に出ている若者たちに話を聞く。何が語られているのか、誰がどう動いているのか」


「気をつけろ。集会に関わっていることが体制側に知れたら——」


「大丈夫。私はずっとここにいるの。この壁の中で、何が起きているか知らないふりをする方が危険よ」


 レナの声は静かだった。だがその静かさの中に、決意がある。


「ルッツ。一つだけ、言っておきたいことがある」


「何だ」


「祖母様はディートリヒを否定した。彼の方法では構造が変わらないと。それは正しいと思う。でも——」


 レナが俺を見た。暗闇の中で、薄い紫の瞳がかすかに光っている。


「ここの子供たちに未来がないのは事実なの。学校もない。魔法も使えない。壁の外に出ることすらできない。正しい方法で変えるべきだと言われても、正しい方法が見つからないまま、子供たちは大人になって、同じ壁の中で死んでいく」


「レナ」


「ディートリヒの方法が間違っているとしても、何もしないよりはましだと思う人間がいる。私にはその気持ちが分かるの。分かってしまうの」


 レナの声が、微かに揺れた。


 俺は答えられなかった。レナの言っていることは正しい。正しいから、答えられない。


「行って。夜が明ける」


「ああ」


 壁の穴に身を滑り込ませながら、振り返った。


「レナ。俺は方法を探す。体制でもディートリヒでもない、別の道を。まだ何も見えていないけど——」


「知ってる。あなたはそういう人間よ」


 レナの声が暗闇から聞こえた。少しだけ、柔らかかった。


「だから余計に心配なの。どちらからも敵にされるのは、あなたでしょう」


 返す言葉がなかった。


 穴をくぐり、壁のこちら側に出た。夜明け前の冷えた空気が肌を刺す。


 東の空がわずかに白んでいた。


 侵攻計画。反革命運動。ディートリヒという男。


 体制は外に向かって戦争を始めようとしている。反革命は内側で蜂起しようとしている。


 そしてその間に挟まれた隔離区の人々は、どちらに転んでも駒にされる。


 ヘルミーネの言葉が頭を回った。「正しい言葉を言うことと、正しい人間であることは別のこと」。


 ディートリヒ・フォン・ベルンシュタイン。


 まだ顔も知らない男だが、その名前が持つ引力のようなものを、隔離区の空気の中に感じた。


 宿舎に戻る足取りは重かった。知るべきことが増えた分だけ、背中の荷物が重くなっている。


 前世のフリーター時代、掛け持ちの仕事が増えるたびに体が軋んだ。今の感覚はそれに似ている。ただし今回は、体ではなく頭の中が軋んでいる。


 整理しなければならない。だが今夜は無理だ。


 明日、ヴェルナーの前に何食わぬ顔で立たなければならない。見たものを見なかった顔で。聞いたことを聞かなかった顔で。


 コンビニのレジに立つ時の、あの無表情。もう一度、それを被る。

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