戦争の匂い
ルッツ18歳。ヴェルナーの執務室で、ある文書を目にする。
第2章最終話。
ヴェルナーの執務室の警護勤務は、三日に一度の頻度で回ってきた。
仕事の内容は変わらない。扉の前に立ち、出入りを管理し、来訪者の確認をする。壁の一部のように立ち、見て、聞いて、黙る。
だがここ数週間、執務室の空気が変わっていた。
来訪者の顔ぶれが違う。以前は裁定官や教育行政の官僚が中心だったが、最近は軍の高官が増えている。肩章の星の数が多い男たちが、低い声で密談し、書類を交換して帰っていく。
廊下に漏れる会話の断片を拾った。「辺境の増強」「兵站線の確保」「西方戦区の偵察報告」。
裁定院の仕事ではない。軍事の言葉だ。
均等裁定院の院長が、なぜ軍事に関わっているのか。
答えは分かっていた。ヴェルナーは裁定院長であると同時に、元勲会の中核メンバーだ。この国の意思決定は元勲会の合議で行われる。そして元勲会の合議とは、事実上、数人の実力者の談合だ。
ヴェルナーは教育だけでなく、国家の方針そのものに手を伸ばしている。
◇
その日の午後、ヴェルナーの執務室の前に立っていた。
室内にはヴェルナーが一人。書類に目を通しながら、時折万年筆を走らせている。扉は半開きで、俺の位置からは机の上がかろうじて見える。
いつもと変わらない光景だった。
変わったのは、突然だった。
廊下の奥から伝令兵が駆けてきた。
「院長、緊急の招集です。元勲会議場に出頭願います。ドレスラー総帥からの直命です」
ヴェルナーの筆が止まった。
「ドレスラーから? 議題は」
「不明です。至急とのことです」
ヴェルナーが椅子から立ち上がった。灰色の外套を掴み、素早く羽織る。この男が慌てる姿を見るのは珍しい。カール・ドレスラー。共和国総帥。革命の最高指導者にして、大陸最強の魔法使い。その名前が持つ重みは、ヴェルナーにとっても軽くはないということだ。
「行ってくる。戻りは遅くなるかもしれん」
ヴェルナーが俺の横を通り過ぎながら言った。
「この部屋の警護を続けろ。誰も入れるな」
「了解しました」
ヴェルナーが廊下を去っていった。外套の裾が角を曲がって消える。
伝令兵もその後を追い、廊下は静かになった。
俺は扉の前に立ち続けた。
◇
十分が経った。
廊下に人の気配はない。午後の陽光が窓から差し込み、白い壁を温めている。裁定院の白。清潔で、整然として、公正に見える白。
俺は扉の前に立っている。
扉は半開きのままだった。
ヴェルナーが慌てて出て行ったため、閉め忘れたのだ。
普段であれば、俺が閉める。警護の基本だ。部屋の主が不在の時は、扉を閉じて施錠する。クルト班長に最初に教わったことの一つだ。
だが俺は閉めなかった。
半開きの扉の隙間から、机の上が見えていた。
ヴェルナーが読んでいた書類が、広げたまま残されている。急いで出たために、片付ける暇がなかったのだろう。
見るべきではない。
頭ではそう分かっている。警護の人間は裁定の内容に口を出さない。見たこと聞いたことを外に漏らさない。クルトの言葉。規則。
だが俺がこの場所にいる理由は、規則を守るためではない。
一歩だけ、室内に踏み込んだ。
机まで三メートル。書類は二枚。横に並んで置かれている。
一枚目は元勲会の内部通達文書だった。宛先はヴェルナー・グラーンを含む元勲会の主要メンバー五名。分類は「極秘」。
二枚目が、俺の目を釘付けにした。
◇
文書の上部に、赤い文字で作戦名が記されていた。
「黎明作戦」
全身の血が、一瞬で冷えた。
黎明。
紅の黎明。母の異名だ。
偶然の一致であるはずがない。革命の最大の英雄の異名を冠する作戦名。それは意図的に選ばれた名前だ。
目が文書の内容を追った。
「作戦概要」の欄。
——ヴェルトハーフェン王国に対する軍事行動の実施。共和国軍の主力をもって、西方国境を越え、ヴェルトハーフェン東部地域の制圧を行う。
侵攻計画だ。
「作戦目的」の欄に、三項目が記されていた。
一、革命の理念の大陸的拡大。魔法教育の均等化をヴェルトハーフェン国民にも広げる。
二、辺境地域の安定化。ヴェルトハーフェン東部の混乱が共和国西部に波及することを防止する。
三、戦略的資源の確保。ヴェルトハーフェン東部の鉱山地帯および農業地帯の管理下への編入。
一番目と二番目は名目だ。三番目が本音だ。
革命の理念の拡大。美しい言葉だ。だがこの国の内部で「均等」がどう運用されているかを知っている俺には、その言葉の空虚さが骨身に染みる。
辺境の安定化。辺境が不安定なのは共和国自身が原因だ。革命後に辺境を切り捨て、支援を打ち切り、自治に任せると称して放置した結果が今の辺境だ。自分が作った混乱を口実にして、他国に侵攻する。
資源確保。これだけが正直な理由だ。共和国の経済は疲弊している。革命から十五年、戦後復興は道半ばで、元勲会の特権層への富の集中が中間層を圧迫している。国内の不満を外に向ける。歴史上、何度も繰り返されてきた手法だ。
前世の記憶が重なった。
戦争を始める国の論理はいつも同じだ。大義を掲げ、脅威を煽り、本当の理由は隠す。そしてその戦争で死ぬのは、決定を下した人間ではなく、名前のない兵士たちだ。
エミルのような人間だ。
文書の下部に、作戦の時間表が記されていた。「第一段階:兵力集中、三ヶ月以内」「第二段階:国境突破、第一段階完了後速やかに」「第三段階:東部制圧、開戦後六十日以内」。
三ヶ月。もう動き始めている可能性がある。辺境巡回中に聞いた「西方国境への増強」の噂。あれはこの作戦の準備だったのだ。
文書の末尾に、署名欄があった。
カール・ドレスラー。共和国総帥。承認済みの印。
その横に、ヴェルナー・グラーンの署名。やはり承認済み。
他に三名の署名があった。元勲会の主要メンバー。全員が承認している。
この国の指導者たちが、全会一致で戦争を始めようとしている。
◇
文書から目を離した。
手が震えていた。
「黎明作戦」。
紅の黎明。母の名だ。
母が命を懸けた革命の、その名前が、侵略戦争に使われようとしている。
母は何のために戦った。魔法教育を万人に開放するためだ。血統による差別を終わらせるためだ。子供たちがどんな家に生まれても、同じ空の下で学べる世界を作るためだ。
その名前が、他国を侵す旗印にされる。
「革命の理念の拡大」。母の理想を、侵略の口実にする。母が生きていたら、何と言っただろう。
日記の言葉が甦った。
「もしこの国が、私の望んだものでなかったら——」
母さん。あなたの望んだものではなかった。この国は、あなたの名を使って戦争を始めようとしている。
足元の石畳が冷たかった。
文書を元の位置に戻した。指紋がつかないよう、袖で角を拭いた。紙の向きと角度をできるだけ正確に再現した。コンビニの在庫管理で培った「元の位置に正確に戻す」技術が、こんな場面で役に立つとは思わなかった。
半開きの扉から退出し、元の位置に戻った。
呼吸を整えた。表情を消した。壁の一部に戻った。
◇
一時間後、ヴェルナーが戻ってきた。
表情は普段通り——穏やかで、温度のない顔だ。だが歩く速度がわずかに速い。元勲会の緊急会合で何があったのか。「黎明作戦」の実行承認だろうか。それとも別の議題か。
「エーベルハルト。異常は」
「ありませんでした」
「そうか」
ヴェルナーが執務室に入った。俺の横を通り過ぎる時、一瞬だけ目が合った。
その目に、何かを探る色があった。
いつものことだ。この男はいつも俺を観察している。だが今日は、その観察の圧が強い。
ヴェルナーが机に向かった。広げたままの書類を見て、動きが止まった。
一秒。二秒。三秒。
ヴェルナーが書類を手に取り、引き出しにしまった。
振り返らなかった。何も言わなかった。
俺は扉の前に立ち続けた。
心臓は平静を保っていた。前世のコンビニで、万引き犯を目撃した後に警察が来るまで平然とレジを打ち続けた経験が活きている。動揺を見せない。見たものを見ていないふりをする。
だがこれは、万引きの話ではない。
戦争の話だ。
◇
勤務が終わった。
夜の首都を歩いた。
エルステモルゲンの街は静かだった。石畳の通りを、酒場の灯りが照らしている。仕事帰りの市民が数人、肩を並べて歩いている。どこにでもある夜の風景だ。
だがこの街の空気が、数ヶ月後には変わる。
兵士の招集。物資の徴発。戦勝を煽る演説。出征する若者。帰ってこない若者。
前世で画面の向こうに見ていた戦争が、この世界では目の前に来ようとしている。
歩きながら、頭の中を整理した。
体制の内部に入った。二年間で均等裁定院の構造を知った。忠誠による教育配分。公正を装った選別。白い壁の裏の色分けされたタグ。
母の死の真相に近づいた。父の告白。ヒルデとヴェルナーの決裂。決戦の時期が操作された疑い。
そして今日、侵攻計画を知った。
知った。
だが——何も変えていない。
知っているだけだ。
構造を理解し、真相に迫り、計画を察知した。それらすべてが、俺の頭の中にある。だが頭の中にあるだけでは、世界は一ミリも動かない。
知っているのに何もしないのは、前世と同じだ。
前世で、社会の理不尽を見て見ぬふりをした。コンビニの客が店員を怒鳴りつけているのを横で聞いていた。配達先の老人が孤独死しているのを発見して、警察を呼んで、それで終わりにした。選挙に行かず、ニュースに文句を言い、でも何もしなかった。
何もしないまま、三十一年間を生きて、バックヤードの冷たい床の上で死んだ。
二度目の人生で、また同じことを繰り返すのか。
知って、黙って、何もしないまま。
足が止まった。
夜空を見上げた。星が出ている。前世では都会の空に星は見えなかった。この世界の空は、暗い分だけ星が多い。
もう見て見ぬふりはできない。
知っているのに黙ることは、共犯だ。
父がそうだった。十六年間、知っていて黙っていた。その沈黙が父をどれだけ蝕んだか、俺は見てきた。酒に溺れ、目の奥が空洞になっていく過程を。
父は「俺には遅い」と言った。「だが、お前には」と。
あの言葉を、受け取ったのだ。受け取った以上、黙っているわけにはいかない。
だが一人では何もできない。
均等裁定院の構造を一人で変えることはできない。侵攻計画を一人で止めることはできない。ヴェルナーに一人で立ち向かうことはできない。
力が足りない。地位が足りない。仲間が足りない。
だが、知っている人間がいる。
壁の向こう側に。
◇
足は自然とそちらに向かっていた。
首都の南東部。隔離区の外壁が月明かりに照らされている。高い壁。こちら側と向こう側を分断する壁。
壁に沿って歩いた。人目を避け、影に紛れながら。十三歳の時に初めてくぐった穴の場所を、体が覚えている。
穴はまだあった。
十八歳の体には、さらに窮屈になっていた。肩を斜めにして、息を止めて、壁の隙間に体を押し込む。石と石の間の冷たい感触。向こう側の空気。土と湿気と生活の匂い。
穴を抜けた。
隔離区の通りは暗かった。灯りはほとんどない。監視塔の上に兵士の姿が見えるが、夜間は数が減る。
レナの家は区画の奥にある。五年間通い続けた道を、足が勝手に辿った。
レナに話さなければならない。
侵攻計画のこと。作戦名のこと。この国が外に向かって戦争を始めようとしていること。
レナなら理解する。この国の構造を、俺とは別の角度から見てきた人間だ。壁のこちら側の論理も、向こう側の痛みも、両方を知っている。
そして、次にどうするかを一緒に考えてほしい。
一人では決められない。一人で決めるべきではない。前世の俺は一人で生きて、一人で死んだ。二度目の人生では、そうしたくない。
レナの家が見えてきた。壁の剥がれた建物。窓辺の鉢植え。紫色の花は、この季節には咲いていない。
扉の前に立った。
手を上げて、二回叩いた。暗号のように間を空けて、もう一回。五年前から変わらない合図。
数秒の沈黙の後、扉が薄く開いた。
薄い紫の瞳が、暗闇の中でこちらを見ていた。
「——ルッツ? こんな時間に」
「話がある。大事な話だ」
レナは俺の顔を見て、何かを読み取った。いつもの、あの鋭い目で。
扉が開いた。
俺は中に入った。
◇
決断の時が、近づいている。
知ることは終わった。ここからは、動くことの番だ。
母さんが最後に書こうとした言葉。「もしこの国が私の望んだものでなかったら——」
その先を、俺が書く。
第2章「均等の裏側」最終話です。ここまでお読みいただきありがとうございます。
次は第3章「旗の色が変わる時」です。




