亀裂・後
ルッツ18歳。エミルとの模擬戦。
模擬戦の機会は、思いがけない形で訪れた。
裁定院の警護部門と共和国軍の精鋭部隊が合同で行う連携訓練。年に二回実施される定例行事で、実戦を想定した模擬戦形式の演習だ。警護部門は普段、書類仕事と巡回が中心のため、練度維持のためにこうした場が設けられている。
鉄鷲からも数名が参加すると聞いた時、嫌な予感がした。
予感は的中した。
「おう、ルッツ。また会ったな」
訓練場でエミルが手を上げた。三日前に食堂で別れたばかりだ。
「視察のついでか」
「ついでじゃない。むしろこっちが本命だ。鉄鷲の連中と裁定院の警護隊がどれだけ連携できるか、上が見たいらしい」
エミルの軍服には、鉄鷲の紋章が縫い付けられていた。交差する二本の剣の上に翼を広げた鷲。精鋭の証。
訓練場には四十人ほどが集まっていた。裁定院の警護部門から二十名、鉄鷲から十名、その他の部隊から十名。
クルト班長が組み合わせを読み上げる。
「午後の個人戦模擬、第三試合。裁定院警護部門、エーベルハルト対鉄鷲所属、リヒター」
エミルと目が合った。
エミルは笑っていた。だがその笑みの奥に、先日の食堂での会話の続きが見えた。
言葉で聞けなかったことを、別の方法で確かめようとしている。
◇
模擬戦のルールは単純だった。
新式魔法の攻撃は威力を三割に制限。強化魔法は五割。当たりどころが悪ければ痛いが、死にはしない。審判が戦闘不能と判断した時点で終了。または、どちらかが降参を宣言するまで。
訓練場の中央に円形の闘技場が描かれている。直径は二十メートル。円から出れば失格。
俺とエミルが円の中に入った。
周囲の兵士たちが静かになった。エーベルハルト。リヒター。二つの名前の重みを、この場にいる人間は知っている。革命の英雄の息子と、鉄鷲の精鋭。
五メートルの距離を挟んで向き合った。
エミルの構えは正統派だった。両足を肩幅に開き、右手を前に出す。新式魔法の火系統における基本構え。攻撃の起点を右手に集中させ、左手で補助術式を構築する。
教科書通りだ。だがエミルの場合、教科書通りであることが強さの証だ。基本を極めた人間は、基本の中に無限の応用を見出す。
俺も構えた。同じく新式の標準構え。混成を隠すために、ここ二年間ずっとこの構えで通してきた。
審判の腕が上がった。
「始め」
腕が振り下ろされた瞬間、エミルが動いた。
速い。
「火弾!」
赤い光球が真っ直ぐに飛んできた。訓練所時代とは比べものにならない速度と精度。三割制限でもなお、空気が焦げる匂いがする。
俺は右に跳んで回避した。迅駆で足に魔力を流し、瞬間的に加速する。火弾が背後の地面を焼いた。
間髪を入れず、二発目が来た。
今度は避けず、地壁を展開した。足元の石畳が隆起し、盾を作る。火弾が地壁に当たり、砕けた石の破片が散った。
破片を盾にして距離を詰める。右手に魔力を集中し、反撃の火弾を放った。
エミルは火弾を片手で弾いた。
弾いた。素手で。
鉄身を右手だけに集中させ、火弾の威力を相殺している。三割制限だからこそ可能な芸当だが、それでも魔力の制御精度が桁違いだ。
「その程度か、ルッツ」
挑発ではない。純粋な感想だ。
エミルの火系統魔法は正統派の極みだった。火弾一発の威力だけでなく、連射速度が凄まじい。三発、四発、五発。途切れることなく火球が飛んでくる。一発一発が正確に俺の動きを先読みし、逃げ道を塞ぐように配置されている。
連火弾。ただの連射ではない。一つ目で退路を断ち、二つ目で足を止め、三つ目で当てる。戦場で培った実戦的な射撃術だ。
俺は地壁と迅駆を組み合わせて凌いだ。壁を立てて弾き、足に魔力を通して位置を変え、石畳の破片を蹴り上げて視界を遮る。
だが防戦一方だった。
攻撃の手数が違う。エミルの火系統は魔力の流れが一本道で、無駄がない。新式の設計思想そのもの——大量の魔力を最短距離で放出する。蛇口を全開にしたような奔流。
俺の新式は、エミルほど純粋ではない。
二年間、裏で旧式魔法の技法を学んできた影響で、魔力の流し方に癖がついている。新式の術を使う時にも、無意識にアルテの回路を通してしまう。結果として威力は上がるが、速度がわずかに落ちる。
そのわずかな差が、エミルとの戦いでは致命的だった。
◇
七発目の火弾が、地壁の側面を回り込んで飛んできた。
回避が間に合わなかった。
咄嗟に両手を前に出した。
——体が勝手に動いた。
鉄身ではない。両手の前に展開されたのは、薄い膜のような障壁だった。一枚ではない。三枚。重なり合って、わずかにずらして配置された多層の壁。
鉄帳。
旧式魔法の防御術。多層構造の障壁を展開し、衝撃を段階的に吸収する技法。新式の地壁が「硬さで弾く」のに対し、旧式の鉄帳は「柔らかさで受け止める」。
火弾が最初の層に当たった。吸収。二層目に衝撃が伝わる。減衰。三層目で完全に消える。
新式の火弾を、完全に吸収した。
残留する熱も衝撃もない。水が砂に吸い込まれるように、火弾の魔力が障壁の多層構造に溶けて消えた。
静寂が訓練場に落ちた。
観客の兵士たちが、何が起きたのか理解するまで数秒かかった。あれが新式の地壁や鉄身とは明らかに異なる術式だということに気づいた者が、ざわめきを起こした。
エミルの目が見開かれていた。
攻撃の手が止まっている。火弾を構えた右手が、半ばで固まっている。
俺は自分が何をしたか、一拍遅れて理解した。
やってしまった。
追い詰められて、無意識に旧式の技法が出た。体に染み付いた動作が、思考を飛び越えて発動した。
レナの祖母ヘルミーネから教わった基礎理論。それをもとに自分で組み上げた術式。鉄帳の応用——衝撃吸収に特化した多層障壁。
二年間隠してきたものが、一瞬で露呈した。
だが戦闘は続いている。
俺は思考を切り替えた。今さら隠しようがない。であれば、この試合を終わらせることに集中する。
反撃に転じた。地壁で足場を作り、迅駆で距離を詰める。新式の技法で。あくまで新式で。
だがエミルも切り替えた。
初動の驚きから復帰したエミルが、火力を上げた。烈火衝。近距離で爆発的に放出される火系の制圧術。三割制限でも、至近距離では体がよろける。
俺は吹き飛ばされ、地面を転がった。すぐに起き上がったが、エミルはすでに次の攻撃態勢に入っている。
連火弾の波状攻撃。さっきよりも苛烈になっている。感情が乗っている。怒りではない。確かめたいのだ。
俺の防御を崩して、もう一度あの術を出させようとしている。
歯を食いしばった。
新式だけで凌ぐ。地壁を立て、鉄身で衝撃を受け、迅駆で回避する。旧式は使わない。
だがエミルの攻撃は止まらない。
八発。九発。十発。火弾の密度が上がり、地壁を立てる間もなく次が来る。
十一発目が肩を掠めた。鉄身で硬化していた部分に当たったため傷はないが、衝撃で体勢が崩れた。
十二発目。腹部への直撃。
鉄身が間に合った。だが衝撃で息が詰まる。膝が折れた。
膝をついた状態で顔を上げると、エミルが三メートル先に立っていた。
右手に火弾を構えている。三割制限の赤い光が、エミルの顔を照らしていた。
「それまで」
審判の声が響いた。
「戦闘不能判定。勝者、リヒター」
エミルの火弾が消えた。
俺は膝をついたまま、荒い息を吐いた。
負けた。僅差ではなかった。あの一瞬の旧式の露出がなければ、もう少し粘れたかもしれない。だが純粋な火力と速度では、今のエミルには届かない。
エミルが手を差し出した。
俺はその手を取って立ち上がった。
◇
訓練場の端。
水桶の横に座り、汗を拭いていた。
エミルが隣に来た。勝者の顔をしていなかった。
しばらく黙っていた。他の兵士たちは次の試合の準備に移っており、この一角には俺たちしかいない。
「ルッツ」
「何だ」
「お前の魔法、変だぞ」
来た。
「あの防御。新式じゃない」
否定しなかった。否定する意味がない。あの場にいた人間なら、誰でも気づいている。
「あの障壁、多層構造だった。新式の地壁は一枚板だ。衝撃を弾くか砕けるかの二択で、吸収なんてしない」
エミルの分析は正確だった。この男は実戦の中で魔法の原理を体得している。教科書の知識ではなく、何百発もの火弾を撃ち、何百回もの防御を破ってきた経験から導き出した理解だ。
「あれは、吸収していた。魔力を受け止めて、層の中で減衰させていた。新式にはそんな概念がない」
一拍の間。
「どこで覚えた」
俺は黙った。
「まさか」
エミルの声が低くなった。
「旧式魔法か?」
沈黙が答えだった。否定しないことが、肯定になっている。分かっていた。だが嘘をつく気にもなれなかった。
エミルの顔から表情が消えた。怒りでも悲しみでもない。理解が追いつかない時の、空白の顔だ。
「……嘘だと言ってくれ」
声が掠れていた。
「お前が旧い血の魔法を使ってるなんて」
「旧いも新しいもない」
口を開いたら、言葉が出た。
「魔法は魔法だ」
エミルの目が、俺を見た。
あの曇りのない目が、曇っていた。初めて見る表情だった。
「魔法は魔法、か」
エミルの手が握り拳を作り、そしてゆっくりと開いた。殴りたかったのか、それとも何かを掴もうとしたのか。
「お前、いつからだ」
「何が」
「旧式を使い始めたのは、いつからだ。訓練所の時にはもう、変な魔法を使ってたよな。あの的撃ちの時」
記憶力がいい。本当に。
「俺の魔法の使い方が変だったのは、もっと前からだ。子供の頃から」
「子供の頃から。じゃあ、あの壁の向こうの——」
エミルの目がさらに険しくなった。十四歳の時の記憶が繋がっている。俺が「旧い血」の少女と付き合っていると知った日。
「旧貴族に教わったのか」
否定しなかった。
「何を考えてるんだ、お前は」
エミルの声が大きくなりかけて、周囲を気にして抑えた。奥歯を噛む音が聞こえた。
「旧式を使ってることがバレたら、どうなるか分かってるのか。旧い血との通牒。旧式魔法の不法習得。裁定院にいる人間がそれをやるってことは——反逆だぞ」
「反逆か」
「反逆だよ。法律上も、実質的にも」
エミルの言葉は正しい。共和国法において、旧式魔法の習得は届出制だが、旧貴族からの直接伝授は「旧体制の復活に資する行為」として禁止されている。裁定院の人間がそれに手を染めていれば、反逆罪の構成要件を満たす。
正しい。法的には正しい。
だがその法律自体が、俺が問題だと考えているものの一部だ。
「エミル」
「何だ」
「お前に一つだけ聞きたい」
「聞けよ」
「魔法に、旧いも新しいもあるのか」
エミルが黙った。
「火は火だ。どんな術式で放っても、燃える温度は同じだ。水は水だ。旧式で操ろうが新式で操ろうが、同じ水だ。術式の組み方が違うだけで、魔法の本質は変わらない。それなのに、片方を禁じる理由は何だ」
「それは……秩序のためだ。旧式を野放しにしたら、反革命に利用される」
「利用されるかどうかは、使う人間の問題だ。技術の問題じゃない」
「技術の問題じゃなくても、法は法だ」
「その法を作ったのは誰だ」
エミルが口を閉じた。
この先を言えば、取り返しがつかない。
俺はそれ以上言わなかった。
エミルも、それ以上聞かなかった。
二人の間に、目に見えない線が引かれていた。
七歳の時にエミルが差し出した手。十六歳の卒業式で握った手。その手の温もりが、今この瞬間、冷えていくのが分かった。
「……俺は、お前を密告したりしない」
エミルが、低い声で言った。
「十四の時も密告しなかった。今回もしない。お前は俺の友人だ」
「ありがとう」
「でも」
エミルが立ち上がった。俺を見下ろす目は、もう曇っていなかった。曇りの代わりに、硬い光が入っていた。
「お前がどこに向かってるか、俺にはわからない。わからないけど、お前の道と俺の道が重なるところが、どんどん減ってる気がする」
返す言葉がなかった。
エミルの背中を見た。訓練場を横切っていく広い背中。
あの背中を追いかけることは、もうできないのだと分かった。
◇
その夜、宿舎の自室で天井を見つめていた。
模擬戦の再生が頭の中で回っている。だが考えているのは戦闘の内容ではなかった。
エミルの目だ。
あの最後の硬い光。あれは敵意ではない。覚悟だ。友人が敵になるかもしれないという可能性を、初めて本気で想定した人間の目だ。
俺がエミルの立場だったら、どうしただろう。
信じていた国の仕組みの中で出世し、仲間と共に命を懸けて戦い、国を守る誇りを持っている。そんな中で、最も近い友人が敵側の技術を使っていると知ったら。
たぶん、同じ目をする。
エミルは間違っていない。自分の信じるものを守ろうとしているだけだ。
俺も間違っていないと思いたい。見えたものを見なかったことにできないだけだ。
だが、「どちらも間違っていない」では済まない。いずれ、選ばなければならない時が来る。
母さんはそれを知っていたのだろうか。ヴェルナーと決裂した時、何を思ったのだろうか。
かつての戦友が敵に変わる瞬間を、母も経験したのか。
天井の染みを見つめながら、眠れない夜が過ぎていった。




