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二度目の夜明けを <最終章開幕>  作者: ret_riever
2章 均等の裏側 *第16話~第30話

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亀裂・前

ルッツ18歳。エミルとの関係に亀裂が深まる。

エミルの名前を聞いたのは、裁定院の廊下だった。


 書類を運搬中、すれ違った警護班の同僚が言った。


「エーベルハルト、知ってるか。リヒターが鉄鷲に入ったらしいぞ」


 鉄鷲(てつしゅう)。共和国軍の精鋭部隊の一つだ。火力と機動力に優れた少数精鋭の戦闘集団で、辺境巡回などではなく、大規模作戦に投入される直轄戦力。入隊するだけでも相当な実力が必要だが、それ以上に上官からの推薦が重い。つまり、体制に信頼された人間だけが選ばれる。


「そうか」


「そっけないな。同期だろ、お前ら」


「ああ。凄いやつだよ、あいつは」


 嘘ではなかった。エミルは凄い。真っ直ぐに体制を信じ、その信念のままに力をつけ、正当に評価されている。歪みがない。


 歪みがないからこそ、俺との距離が開いていく。


          ◇


 エミルと最後にまともに話したのは、半年以上前のことだった。


 辺境巡回から戻った後、一度だけ酒場で顔を合わせた。だが会話は上滑りし、互いの近況を表面的になぞっただけで終わった。


 あの日の夜、エミルは「お前、最近どうなんだ」と聞いた。俺は「まあ、ぼちぼちだ」と答えた。コンビニの同僚に聞かれた時と同じ返し方だった。


 前世のフリーター時代、「どう?」と聞かれて本当のことを答える人間はいなかった。体がきつい、金がない、将来が見えない。そんなことを言っても場が暗くなるだけだ。だから全員が「まあまあ」と言う。「まあまあ」が最も距離を保つ返答であることを、底辺の人間は知っている。


 だがあの頃の俺と今の俺は違う。今は意図的に距離を取っている。エミルに本当のことを話せないから。


 均等裁定院の実態。母の死の真相。父から聞いた革命末期の裏側。


 それらを話せば、エミルはどうなる。


 二つの可能性がある。


 一つ目は、崩れる。エミルが信じてきたもの——革命の正義、共和国の理念、軍人としての誇り——その土台が揺らぐ。エミルは善良だ。善良な人間は、信じていたものが嘘だと知った時、最も深く傷つく。


 二つ目は、敵に回る。エミルは俺の言葉を体制への攻撃と受け止め、友人ではなく裏切り者として見るようになる。


 どちらに転んでも、今のエミルとの関係は終わる。


 だから俺は「まあまあ」と言い続ける。距離を保ち、嘘をつき、友人を騙し続ける。


 前世で俺がされた側のことを、今度は俺がやっている。社会の理不尽を見て見ぬふりをする側に立っている。


 いや、違う。見て見ぬふりではない。見ている。見た上で、今は黙っている。黙っていることにも理由がある。


 そう自分に言い聞かせるが、胸の底に澱が溜まっていくのが分かった。


          ◇


 エミルとの再会は、唐突に訪れた。


 裁定院の書庫で資料を整理していた午後、背後から声がした。


「よう、ルッツ」


 振り返ると、廊下に軍服姿の男が立っていた。


 一瞬、誰だか分からなかった。


 エミル・リヒターだった。


 だが半年前とは別人のように見えた。


 背が伸びた。肩幅が広くなった。それだけなら成長期の青年として普通だ。変わったのは体格ではない。


 目だ。


 あの曇りのない、まっすぐな目は変わっていない。だがその奥に、以前にはなかったものが宿っていた。冷たさではない。厳しさでもない。


 覚悟(・・)だ。


 人を撃ち、人に撃たれることを受け入れた人間の目。命を預け、命を奪う覚悟を決めた人間の目。


 軍人の顔だった。


「エミル。久しぶりだな」


「半年ぶりか。いや、もっとか」


「鉄鷲に入ったって聞いた。凄いな」


「まあな。死ぬほど訓練したよ。文字通り、何回か死にかけた」


 エミルは笑った。だがその笑い方にも変化がある。以前は無邪気に笑っていた。今は、自分の経験を経た上での笑いだ。軽さの中に重さが混じっている。


「裁定院の視察で来たんだ。ついでにお前の顔を見ようと思って」


「わざわざか」


「わざわざだよ。なかなか会えないだろ、こんな時代」


 こんな時代。その一言に、エミルの見ている世界が透ける。辺境の不安定さ、隣国との緊張、国内の不穏な空気。軍にいれば、嫌でもそれらが肌で感じられるのだろう。


「飯でも食おうぜ。まだ時間あるんだろ」


「ああ。行こう」


          ◇


 裁定院の近くにある食堂に入った。


 官庁街の食堂は安くて味が素っ気ない。前世の社員食堂を思い出す。メニューに選択肢があるように見えて、実質的にはどれも同じ薄味の煮込みだ。


 エミルは肉の入った煮込みを、俺は豆のスープを頼んだ。


 互いの皿が運ばれてきて、しばらくは黙って食べた。


 沈黙が、以前とは質が違う。訓練所にいた頃は、沈黙があっても気にならなかった。互いの間に余白があるだけで、その余白は信頼で満たされていた。


 今の沈黙は違う。言えないことが多すぎて、言葉を選び損ねている沈黙だ。


 先に口を開いたのはエミルだった。


「ルッツ。聞いてもいいか」


「何だ」


「お前、最近どうなんだ。本当のところ」


 また同じ問いだ。だが今回のエミルの目は、半年前の酒場での時とは違っていた。世間話として聞いているのではない。


「何がだ」


「全部だよ。裁定院の仕事はどうなんだ。お前は何をしてるんだ。何を考えてるんだ」


 俺は一拍だけ間を置いた。


「仕事は問題ない。警護と書類整理の繰り返しだ。裁定院の業務を覚えながら、自分の役割を果たしてる」


「そうじゃなくて」


 エミルがスプーンを置いた。


「お前は最近変だぞ、ルッツ」


「変?」


「裁定院にいるくせに、裁定院を疑ってるような目をしてる」


 心臓が一拍だけ速く打った。


 この男は、馬鹿じゃない。


 エミルは頭が良いわけではない。学問の成績は俺の方が上だったし、戦略的な思考も俺の方が得意だ。だがエミルには別の種類の鋭さがある。人の気配を読む力だ。戦場で生き延びる兵士が持つ、動物的な直感。


 俺が何かを隠していることを、エミルは感じ取っている。


「疑ってるって、何を」


「分からない。だからお前に聞いてるんだ」


 エミルの目がまっすぐに俺を見ている。あの目だ。十三年前、七歳の時に初めて会った時と同じ、曇りのない目。


 嘘をつくのが辛い。


 この男は、友人だ。前世を含めた四十九年間の人生で、最も近い存在だ。家族を除けば、俺を「ルッツ」と名前で呼ぶ人間は、エミルとレナしかいない。


 だが真実を話すわけにはいかない。


 均等裁定院は能力ではなく忠誠で子供たちの未来を配分している。母ヒルデは革命末期にヴェルナーと対立し、その直後に死んだ。父はそのことを知りながら十六年間黙っていた。


 これらを話した時、エミルがどう反応するか。予測がつかない。


 いや、予測はつく。だからこそ話せない。


「……見えてるものが違うだけだ」


 それが、俺に言える精一杯だった。


「見えてるものが違う? 何が見えてるんだ、教えてくれよ」


 エミルの声に苛立ちが混じった。


 彼は怒っているのではない。不安なのだ。友人が遠ざかっていることを感じている。だが理由が分からない。分からないことが、エミルの中で苛立ちに変わっている。


「今は言えない」


「今は? じゃあ、いつなら言えるんだ」


 答えられなかった。


 いつなら言える。その問いに対する答えを、俺自身が持っていない。


 エミルは俺の沈黙を見て、ゆっくりと視線を落とした。スプーンを取り上げ、冷めかけた煮込みを一口すくった。


「お前さ」


「うん」


「前から思ってたんだけど、お前って、何か背負いすぎじゃないか」


 予想しなかった角度からの言葉だった。


「紅の黎明の息子ってだけでも重いのに、裁定院に入って、何か余計なもんまで見てるだろ。俺にはわかる。お前が何かに押し潰されそうになってることくらい」


 エミルの声が、優しくなっていた。苛立ちが消え、心配の色に変わっている。


「俺は単純な男だからさ。国を守る、仲間を守る、そのために戦う。それだけ考えてれば済む。でもお前は違う。お前はいつも、全部のことを同時に考えようとする」


「……買い被りだよ」


「買い被りじゃない。お前は昔からそうだ。七歳の時、学校で先生の話を聞きながら、もう別のことを考えてただろ。みんなが『革命万歳』って言ってる時に、お前だけ黙ってた」


 記憶力がいい。この男は、そういうところを覚えている。


「ルッツ。俺はお前の味方だ。何があっても」


 その言葉が、刃のように胸に刺さった。


 味方だと言ってくれている。だがその「味方」という言葉の前提には、俺が共和国の側にいるという暗黙の了解がある。


 エミルにとって「味方」とは、共に共和国を守る仲間のことだ。もし俺が共和国の体制そのものに疑問を抱いていると知ったら、その「味方」は成り立つのか。


「ありがとう、エミル」


 俺は礼を言った。言葉は本心だ。感謝している。この男の真っ直ぐさに。


 だが同時に、その真っ直ぐさが怖い。


 真っ直ぐな人間は折れる時、一気に折れる。曲がることを知らないから。


          ◇


 食事を終えて食堂を出た。午後の日差しが官庁街の石畳を照らしている。


 エミルが立ち止まった。


「ルッツ。一つだけ聞かせてくれ」


「何だ」


「お前は、共和国のために働いてるんだよな」


 直球だった。


 エミルの目を見た。あの目。信じたい目。答えを求めている目。


「俺は、この国のためになると思うことをしてる」


 嘘ではなかった。均等裁定院の実態を知り、母の死の真相に迫ることは、この国のためになる。ただし、エミルが想像する「この国のため」とは方向が百八十度違う。


 エミルは数秒、俺の目を見つめた。


 何かを読み取ろうとしている。だが俺は視線を逸らさなかった。前世のサービス業で鍛えた表情管理だ。客に嘘をつく時ではなく、上司に本音を悟られたくない時の顔。


「……そうか」


 エミルは頷いた。納得したのではない。信じることにしたのだ。


 信じることにした、というのは信じたいから信じるということだ。根拠ではなく、願望に基づいた信頼。


 前世でも見た光景だ。ブラック企業で「うちは社員を大切にしてる」という社長の言葉を、辞めたら行く場所がないから信じることにする社員。信じなければ自分の選択が間違いだったことになるから、信じ続ける。


 エミルは体制を信じている。信じることで自分の軍人としての存在意義を保っている。その信仰を壊すことは、エミルの人生そのものを壊すことに等しい。


「じゃあな、ルッツ。次はいつ会えるかわからんけど」


「ああ。体に気をつけろ」


「お前もな。裁定院の連中に毒されるなよ」


 冗談のつもりだったのだろう。エミルは軽く笑って手を上げ、背を向けた。


 その背中が、以前より広く見えた。肩甲骨の筋肉が盛り上がり、歩く時の重心が低い。戦闘訓練で作り上げた体だ。


 あの背中に向かって「待ってくれ」と言えたら、どれだけ楽だろう。


 全部を話して、一緒に考えて、二人でどうするか決められたら。


 だが話せない。


 エミルの背中が角を曲がって消えた後も、俺はしばらくその場に立っていた。


 前世で、唯一の知り合いだったコンビニの夜勤仲間が辞めた日のことを思い出した。あの時も、引き留められなかった。引き留める理由がなかった。


 今は理由がある。だが理由があるからこそ、引き留められない。


 午後の風が、首筋を撫でた。冬の匂いがした。

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