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二度目の夜明けを <完結済み>  作者: Studio Flint
2章 均等の裏側 *第16話~第30話

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父の告白・前編

ルッツ18歳。帰省。父ベルントの容態が悪化している。

久しぶりに実家の扉を開けた時、最初に気づいたのは匂いだった。


 酒の匂いだ。以前からこの家には酒精の残り香があった。だが今は、それが壁や床板にまで染みついている。換気をしていない部屋特有の、澱んだ空気の層。


 二番目に気づいたのは、台所の流しに積まれた食器の量だった。父は几帳面な男だ。戸籍管理局の書類を分類するのと同じ正確さで、食器を洗い、乾かし、棚に戻す。それが父の日常だった。


 流しに食器が溜まっている。三日分はある。


 三番目に気づいたのは、靴だった。玄関に並ぶ父の革靴。片方が横倒しになっている。これも、以前の父ならありえないことだった。


 前世の経験が、嫌な記憶を引きずり出す。コンビニの深夜勤で、常連だった中年の男がいた。最初は身なりの整った会社員だった。半年後、シャツの襟が黄ばみ始めた。一年後、髭を剃らなくなった。二年後、来なくなった。あの男がどうなったか、俺は知らない。知らないまま、自分も死んだ。


 生活が崩れる時、人は小さなところから壊れていく。靴の並べ方、食器の片づけ、部屋の換気。些細なことを一つずつ手放していって、やがて自分自身を手放す。


 居間に入った。


 父がいた。


          ◇


 椅子(いす)に座っている、というよりも、椅子に沈んでいた。


 痩せていた。前回の帰省から半年。その間に、父の体からさらに肉が落ちている。頬がこけ、首筋の腱が浮き出ている。四十七歳。だが今の父は、六十を超えた老人のように見えた。


 テーブルの上に、酒瓶が四本。うち三本が空だ。残りの一本には琥珀色の液体が三分の一ほど残っている。杯は一つ。底に薄く液体が光っている。


 以前は二本だった。空の瓶が二本あれば、父にとっては「飲みすぎた夜」だった。四本。それが今の基準になっている。


「おかえり」


 父が顔を上げた。目の下に濃い(くま)がある。白目が赤い。酒で血管が膨らんでいるのだろう。


「ただいま」


 椅子に座った。父との間にテーブルがある。テーブルの上の四本の瓶が、二人の間の距離を測っているように見えた。


「任務は」


「順調だ。辺境から戻って、今は本庁の警護に復帰してる」


「そうか」


 それだけだ。息子の仕事について、それ以上は訊かない。俺が均等裁定院にいることを、父がどう感じているのか。訊いたことはない。訊けば、答えなければならないことが増える。父にとっても、俺にとっても。


「飯は」


「食った」


 嘘だろう。流しの食器を見た。鍋は使われていない。皿の汚れは酒の(さかな)のもの——乾いたパンと、塩漬けの肉の脂。まともな食事を摂っていない。


「何か作るよ」


「いい。座っていろ」


「父さん、ちゃんと食べてるのか」


「食べてる」


 嘘だ。だが追及しても、父は認めない。認めることは弱さを見せることで、この人は息子の前で弱さを見せることを恐れている。


 台所に立った。食材を確認する。(いも)が少しと、干した豆と、古くなりかけた玉葱。これだけあれば汁物は作れる。


 鍋に水を張り、芋を切る。前世でも今世でも、料理は得意ではない。だがコンビニの廃棄弁当と缶詰で生きていた前世に比べれば、芋を煮るくらいのことはできるようになった。


 背中越しに、父が酒を注ぐ音が聞こえた。


          ◇


 母の命日が近い。


 毎年この時期になると、父の酒量が増える。十六年前の冬——母が最後の決戦で倒れた季節。首都の街路樹が葉を落とし、灰色の空が低く垂れ込める頃になると、父の目から光が消える。


 今年は、例年よりひどい。


 汁物を二つの椀に分けて、テーブルに置いた。父の前と、自分の前。


「食べてくれ」


 父は杯をテーブルに置き、椀を手に取った。一口啜って、小さく頷いた。


「……味が薄い」


「塩が足りなかった」


「ヒルデも、最初はそうだった」


 不意に、母の名が出た。


 父が母の名を口にするのは稀だ。七歳の夜に壁越しに聞いた独り言。革命祭の日に杯を掲げた時。数えるほどしかない。


「母さんも料理が下手だったのか」


「下手だった。戦場では何でも食えたくせに、台所に立つと妙に緊張して、塩を入れすぎるか足りないかのどちらかだった」


 父の口元が、ほんの僅かに緩んだ。笑みというには弱すぎる。記憶の中の誰かに向けた、無意識の反応だった。


 すぐに消えた。杯に手を伸ばし、残った酒を飲み干した。


「父さん」


「何だ」


 俺は椀を置いた。


 ここで言うべきかどうか、裁定院に向かう列車の中で何度も考えた。今がその時なのかも分からない。だが父の姿を見て、先延ばしにすることの危うさを感じていた。


 この人は壊れかけている。体だけではなく、中身が。酒で薄めて、薄めて、最後には何も残らなくなる。その前に、一つだけ訊かなければならないことがある。


「屋根裏で、見つけた」


 父の手が止まった。瓶を掴んだまま、指が白くなるほど握り締めている。


「何をだ」


「母さんの日記」


 沈黙が落ちた。


 時計の音が聞こえる。壁掛けの古い時計。母が生きていた頃から動いている時計だ。振り子(ふりこ)が左右に揺れる音だけが、部屋を満たしている。


 父の顔から、血の気が引いていた。赤かった目が、別の理由で見開かれている。


「……いつだ」


「六年前。十二の冬だ」


「六年——」


 父が俺を見た。驚き。それから恐怖。何を読んだ。どこまで知った。それを誰かに話したのか。裁定院の人間に見せたのか。ヴェルナーに——。


 父の目の中で、いくつもの恐れが渦を巻いているのが見えた。


「全部、読んだ」


 俺はそう言った。静かに、だがはっきりと。


 父の肩から、力が抜けた。


 恐怖の後に来たのは、諦めだった。そしてその諦めの奥に、俺が予想していなかったものがあった。


 安堵だ。


 誰かが、あの日記を読んだ。ヒルデの言葉を受け取った人間がいる。自分以外に、あの問いを知っている人間がいる。


 その事実が、この人の中で長年凍りついていた何かを溶かしたのかもしれない。


「……読んだか。そうか」


 父は目を閉じた。深く、長い息を吐いた。


          ◇


「最後のページが途切れてた」


 俺は言った。


「『もしこの国が、私の望んだものでなかったら——』。その先に何があったか、父さんは知ってるのか」


 父は目を開けた。杯を見つめている。空の杯。底に残った液体の薄い膜を、じっと見ている。


「……知らん」


「嘘だ」


「嘘じゃない。あの日記は、ヒルデが死んだ後で俺が見つけた。最後のページを読んだ時、お前と同じことを思った。この先に何を書くつもりだったのか、と」


 父の声は低かった。酔ってはいるが、言葉は明瞭だ。長年飲み続けた人間特有の、酒に耐性のある酔い方。体は蝕まれているのに、意識だけは保っている。


「だが、ヒルデが何を書こうとしていたかは——推測はできる」


「推測」


「ああ。あいつを知っていたから。あの文を書いた夜、ヒルデが何を考えていたか。俺は隣にいたから」


 父が瓶を手に取った。残っていた酒を杯に注ぐ。手が震えている。小さく波打った酒が、杯の(ふち)から一滴こぼれた。


「お前の母は……最後の戦いの前に、ヴェルナーと激しく対立していた」


 心臓が打った。


 母の日記に書かれていた断片。「ヴェルナーが言う『必要な統制』とは何だ」「統制する者が決まった時点で、均等は死ぬ」。あれは対立の予兆だった。そして父は今、その対立の中身を語ろうとしている。


「対立、というのは」


「意見の違い、なんて生やさしいもんじゃなかった」


 父が杯を口に運んだ。一口含み、喉を鳴らして飲み込んだ。


「怒鳴り合いだ。俺が知る限り、ヒルデがあそこまで声を荒らげたのは、あの時が最初で最後だった」


 母が怒鳴る姿を想像した。壁画の中の母は凛として、穏やかで、揺るぎない。だが日記の中の母は違った。迷い、恐れ、泣く人間だった。その母が声を荒らげるほどの対立。


「何があった」


 父は答えなかった。杯をテーブルに置き、両手で顔を覆った。


 しばらくそのままだった。時計の振り子が五往復、六往復する間、父は顔を覆ったまま動かなかった。


 前世で、こういう大人を何人も見た。語りたくて、語れない人間。言葉が喉の奥でつかえている。押し出すには痛みが要る。だが飲み込むにも、もう限界が来ている。


「父さん」


「……少し待ってくれ」


 父の声が震えていた。掌の下で、くぐもっている。


「十六年、誰にも話さなかった。話せなかった。話したら——」


 言葉が途切れた。


「話したら、全部、本当になる気がした」


 俺は黙って待った。


 前世で学んだことがある。人が本音を語ろうとする時、最も邪魔になるのは相手の言葉だ。相槌も、励ましも、沈黙の中で生まれかけた言葉を殺す。


 深夜のコンビニで、泣きながらレジに来た女がいた。俺は何も言わなかった。商品をスキャンして、袋に入れて、釣り銭を渡した。女は釣り銭を受け取る時に「ありがとう」と言った。あの時、余計なことを言わなかったのは正しかった。


 今も同じだ。黙って、待つ。


 時計が十往復した頃、父が顔から手を離した。


 目が赤い。泣いたのではない。泣く前の、涙を堪えている目だ。この人は、息子の前では泣かない。泣くのは一人の夜だけだ。


「……話す」


 父が言った。


「もう、黙っていられん。体がもたん。頭がもたん。十六年、この話を腹の中に抱えて、酒で蓋をして、そうやって生きてきた。だがもう蓋が腐ってきた。中身が漏れ出してる。お前も気づいてるだろう」


 気づいている。この家の匂い、流しの食器、横倒しの靴。すべてが、父の内側の崩壊を映している。


「革命末期のことだ」


 父が語り始めた。


          ◇


「最後の決戦の二ヶ月前だった」


 父の声は、ぽつぽつと途切れながら進んだ。言葉と言葉の間に、沈黙が挟まる。酒の杯に口をつける間。過去を思い出す間。思い出したくない記憶を押し返す間。


「戦況は俺たちに傾いていた。王城が陥落して、旧体制側の主力はほぼ壊滅。残っているのは各地に散った残党と、南方の要塞に立てこもった最後の軍団だけだった」


「勝ちが見えていた時期だ」


「ああ。だからこそ、問題が起きた。勝った後のことを考える余裕が出てきたんだ」


 父が杯を傾けた。喉が鳴る。


「ヴェルナーが構想を出した。革命後の統治体制。均等裁定院の原型だ。魔法教育の配分を一元管理し、旧体制の残滓を排除し、新しい秩序を作る。文書にまとめられた、精緻な計画だった」


「それに母さんが反対した」


「……反対した。だが最初は穏やかだった。ヒルデは議論する女だった。感情ではなく理屈で話す。ヴェルナーの構想のどこに問題があるか、箇条書きにして指摘した」


 母の日記の筆跡を思い出した。力強く、丁寧な文字。論理的で、感情を抑制した文章。その人が、箇条書きで反論する姿は容易に想像できた。


「ヴェルナーは最初、聞いていた。だが三日目の会議で、ヒルデがある一点を突いた時、空気が変わった」


「何を」


「『元勲会の構成員に教育配分の優先権を与える案は、新しい貴族制度と同じだ』。ヒルデはそう言った。会議室に、革命の指導者が二十人ほどいた。全員が元勲会の構成員だ。つまりヒルデは、その場にいる全員の利権を否定した」


 沈黙が落ちた。父が目を閉じた。


「あの瞬間、ヒルデは孤立した。味方は——俺と、マグヌスだけだった」


 マグヌス・シュタイン。母の日記にも名前があった。旧貴族出身でありながら革命に参加した将軍。


「マグヌスは黙っていた。あいつは元貴族だ。革命の場で貴族出身の人間が発言権を主張すれば、それ自体が攻撃の材料になる。だから黙るしかなかった」


「父さんは」


 父が目を開けた。俺を見た。その目の中に、十六年分の後悔が凝縮されていた。


「俺も——黙った」


 声が(かす)れていた。


「ヒルデの隣にいて、ヒルデが正しいと分かっていて、俺は口を開かなかった。二十人の目が俺を見ていた。ヒルデの夫。英雄の伴侶。お前はどちら側だ、と。あの目に——」


 父の手が震えた。杯が鳴った。


「怖かったんだ。ルッツ。俺は怖かった。ヒルデは怖くなかった。あいつは怖くても口を開ける人間だった。俺は違った。俺は、怖い時に黙る人間だった」


 前世の記憶が、父の言葉と重なった。


 俺も黙る人間だった。配送会社で、同僚が不当に解雇された時。コンビニで、店長が売上を誤魔化しているのを見た時。見て、知って、黙った。声を上げれば自分の立場が危うくなる。だから黙った。


 父と同じだ。


 違うのは、父には声を上げるべき理由があったことだ。隣にいる妻が一人で戦っていた。その妻を、援護しなかった。


「あの夜——」


 父の声が途切れた。杯を置き、テーブルに両手をついた。


「会議が終わった後、ヒルデが俺に言った。怒ってはいなかった。あいつは俺に怒ったことがない。ただ、静かに言った」


「何て」


「『ベルント。あなたは優しい人だ。でも、優しいだけでは足りない時がある』」


 父の目から、一筋の水が落ちた。


 泣いている。この人が、俺の前で泣くのを見るのは初めてだった。


 花火の夜、頬に光の筋が走ったことはあった。あれが涙だったのか光だったのか、俺は訊かなかった。


 今は、間違いなく涙だった。


「ヒルデは——あの一言の後、何も言わなかった。怒鳴ってくれた方が楽だった。責めてくれた方がまだ救われた。あいつは俺を責めなかった。ただ、分かっていたんだ。俺がそういう人間だということを」


 俺は黙っていた。


 何も言えなかった。前世の三十一年と、今世の十八年を合わせた四十九年分の言葉を探しても、この瞬間に言うべき言葉が見つからなかった。


「その三日後に、最後の決戦が決まった。急だった。南方の要塞の守備隊が動いたという情報が入って、こちらから先に仕掛けることになった。ヒルデは先鋒を志願した」


 先鋒。最も危険な位置。


「止められなかったのか」


「……止めなかった」


 父が俺を見た。


「止めなかったんだ、ルッツ。あの時も俺は、口を開かなかった」


 部屋が静かだった。時計の音。父の呼吸。窓の外で風が木の枝を揺らす音。それだけが、この家に存在する音のすべてだった。


「理由は分かってる。ヒルデは最強の戦士だった。先鋒に立つのは合理的だった。だがそれは言い訳だ。合理的だから止めなかったんじゃない。止める言葉を持っていなかったんだ。会議で黙った男が、どの口で妻を引き留める。『行くな』と言う資格を、俺はあの会議室で手放した」


 父の声が、(しわが)れていた。酒と涙で喉が潰れかけている。


「ヒルデは出陣の朝、お前を抱いた。二歳だったお前を、長いこと抱いていた。それから俺を見て言った。『日記を頼む』と」


「日記を」


「ああ。『全部書いてある。もし私が戻れなかったら、いつかルッツに渡してくれ』と」


 息が詰まった。


 あの日記は、母が俺に宛てたものだったのか。


「……渡さなかったのか」


「渡せなかった」


 父が首を振った。


「読んだ。ヒルデが死んだ後で、読んだ。そして——怖くなった。あの日記には、ヴェルナーへの批判が書かれている。元勲会への疑念が書かれている。あの内容が表に出たら、英雄の名が政治の道具にされる。ヴェルナーが黙っていない。お前の安全が脅かされる」


 父は両手で顔を覆った。


「だから屋根裏に隠した。お前に渡す代わりに、隠した。ヒルデの遺言を——俺は裏切った」


 沈黙。


 時計の振り子だけが動いている。


 父の肩が小さく揺れていた。声は出していない。この人は声を出して泣くことすらできない。十六年間、声を出さずに泣き続けてきた人間の、その習慣が今も体に染みついている。


 俺は椅子から立ち上がり、父の杯を取った。


 瓶の最後の酒を注ぎ、父の前に置いた。


「飲んで。続きは、明日でいい」


 父が顔を上げた。赤い目で俺を見た。


「……明日」


「ああ。俺は明後日の朝まで帰らない。時間はある」


 父は杯を手に取った。震える手で口に運び、一口だけ飲んで、杯をテーブルに戻した。


「ルッツ」


「何だ」


「お前は——怒ってないのか。日記を隠していたこと」


 怒っているかと訊かれた。


 怒りはある。十二歳のあの冬、屋根裏で日記を見つけた時、父がこれを隠していたことに気づいて、怒りを覚えた。母の言葉を握り潰した男だと思った。


 だが今、目の前にいるのは、握り潰した重さに押し潰されかけている男だった。


「怒ってない。——嘘だ。怒ってる。でも、それ以上に訊きたいことがある」


「訊きたいこと」


「ヴェルナーとの対立の中身だ。母さんが何を主張し、ヴェルナーが何を主張したのか。日記には断片しかなかった。全体が知りたい」


 父は俺を見つめていた。酒で濁った目の奥に、微かな光があった。


「……明日、話す。今日は——もう、ここまでだ」


「分かった」


 俺は自分の椀を流しに持っていった。水で軽くすすぎ、布巾で拭いた。ついでに溜まっていた食器も洗った。鍋を磨き、棚に戻した。横倒しの靴を直した。


 小さなことだ。食器を洗っても、父の十六年は戻らない。靴を直しても、母は帰ってこない。


 だが前世で学んだことがある。壊れていく生活は、小さなことから崩れる。ならば立て直すのも、小さなことからだ。


 二階の自分の部屋に上がった。子供の頃と変わらない部屋。窓から見える街の灯りも変わらない。


 寝台に横たわり、天井を見つめた。


 母の日記の最後の一文が、頭の中で繰り返されている。


「もしこの国が、私の望んだものでなかったら——」


 あの先に何を書こうとしたのか。母は父に「日記を頼む」と言い残して、戦場に向かった。日記を息子に渡してくれ、と。


 母は知っていたのだ。自分が書いた問いの答えを、自分では出せないかもしれないと。だから息子に託そうとした。


 そして父は、その託されたものを隠した。恐怖から。息子を守るために。


 父を責めることはできない。前世の俺なら、同じことをしただろう。いや、前世の俺なら日記を読みすらしなかった。見なかったことにして、蓋をして、酒ではなくコンビニの廃棄弁当で腹を満たして、翌日もシフトに入る。


 父は少なくとも、読んだ。読んで、苦しんだ。苦しみながら、十六年間持ち続けた。


 明日、続きを聞く。


 ヴェルナーとの対立の全容。母が何を守ろうとし、何に敗れたのか。


 そしてその先に、母が書けなかった答えのかけらがあるかもしれない。


 目を閉じた。眠りは、すぐには来なかった。

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