灰色の報告
ルッツ17歳。裁定院での業務の中で、不穏な情報の断片を掴む。
均等裁定院の警護任務は、退屈な仕事だった。
判定室の前に立ち、出入りする裁定官と市民を確認する。異常がなければ何もしない。八時間の勤務のうち、実際に体を動かすのは巡回の時だけだ。
だが俺にとって、この退屈は好都合だった。
立っているだけの時間を、観察に使える。
裁定院の内部は、表向きは整然とした行政機関だ。書類が決められた手順で処理され、判定結果が淡々と通知される。新式魔法の教育配分、職業適性の判定、居住地の割り当て。共和国市民の人生を左右する決定が、この建物の中で毎日下されている。
俺が観察しているのは、書類の流れだ。
判定室から出てくる裁定官が抱える書類束。その表紙に記されたカテゴリ番号。送り先の部署名。封印の色。些細な情報だが、積み重ねれば全体の構造が見えてくる。
最初の一週間で分かったことがある。裁定院の書類には三段階の機密レベルがある。
白い封印は一般文書。教育配分の通知、市民への連絡、定型の行政処理。
青い封印は管理文書。裁定基準の改訂、部門間の連絡、人事関連。俺のような警護兵には閲覧権限がない。
赤い封印は機密文書。何が書かれているかは分からない。ただ、赤い封印の書類を運ぶのは特定の裁定官だけで、その裁定官はヴェルナーの執務室に直接出入りしている。
赤い封印の書類が増えている。
着任した頃は一日に二、三通だった。辺境から戻った今週は、五通以上が毎日運ばれている。
何かが動いている。
◇
転機は五日目に訪れた。
判定室の前で立哨していると、裁定官の一人が書類を落とした。
若い男だった。二十代の半ば。眼鏡をかけた神経質そうな顔。名はフーゴ。ヴェルナーの直属ではないが、赤い封印の書類を頻繁に扱う部署にいる。
書類が廊下に散らばった。フーゴは慌てて拾い集めている。
「お手伝いします」
俺は自然に膝を折り、書類を拾い上げた。
一瞬だ。視線が紙面を走ったのは、一秒にも満たない時間だった。
だがそれで十分だった。
表紙には「西方配備計画 第三次修正案」と記されていた。その下に、リストが見えた。箇条書きの断片。
——第七補給廠:冬季用装備三千組
——第四連隊:十月末までに西方前線へ移動完了
——魔導砲部隊:エルステモルゲン駐屯地より転属
フーゴが書類をひったくるように受け取った。
「あ、ありがとう。すまない」
「いえ、お気をつけて」
フーゴは小走りに去っていった。
俺は立哨の位置に戻り、何事もなかったかのように正面を見据えた。
心臓が速く打っていた。
冬季用装備三千組。十月末までの移動完了。魔導砲部隊の転属。
これは防衛計画の書類ではない。
防衛なら、装備は前線に備蓄するものだ。わざわざ首都から「移動」させる必要はない。前線に新たな装備を「送り込む」という行為は、今ある装備では足りないことを意味する。
つまり、今まで前線にいなかった規模の兵力を、これから西方に展開しようとしている。
侵攻だ。
まだ確定ではない。断片的な情報で結論を急ぐのは危険だ。だが辺境で聞いた噂——西方への兵力集中——と、この書類の断片は、同じ絵柄の別のピースだ。
ヴェルトハーフェン王国への軍事行動。その準備が、この建物の中で粛々と進められている。
◇
勤務が終わった後、裁定院の記録室に足を向けた。
記録室は判定結果の保管場所で、一般文書であれば警護兵にも閲覧が許されている。表向きは業務の参考資料を確認するという名目だ。
探したのは、過去半年間の物資移動の記録だった。裁定院は魔法教育の配分だけでなく、国家予算の配分にも関与している。教育予算と軍事予算の調整は裁定院の管轄だ。
書架の間を歩き、帳簿を引き出した。
教育予算の推移。半年前と比較して、全体額は変わっていない。だが内訳が変わっている。
基礎魔法教育への配分が八パーセント減。高等魔法教育への配分が三パーセント減。
削られた分はどこに行ったか。軍事訓練予算が十一パーセント増。
数字は嘘をつかない。辻褄が合う。
教育を削って軍事に回している。それも、一般の基礎教育から優先的に削っている。高等教育の削減が少ないのは、元勲会の子弟が通う学院の予算は守られているからだ。
削られるのはいつも、声の小さい者の分だ。
前世の会社でも同じだった。経営が苦しくなると、まずパートの時給が凍結され、福利厚生が削られ、末端の人員が減らされる。上層部の報酬は最後まで手つかず。構造は同じだ。
帳簿を棚に戻し、記録室を出た。
◇
その夜、隔離区に向かった。
壁の穴は、まだ辛うじて通れた。十七歳の体では肩が擦れるが、横向きになれば抜けられる。
レナは待っていた。壁の内側、いつもの路地の角に立っている。
四年前と同じ場所。だがレナの姿は変わっていた。銀色の髪は背中の半ばまで伸び、顔立ちはすっかり大人びている。薄い紫の瞳だけが変わらない。闇の中でも、あの目だけは光って見える。
「辺境から戻ったの」
「ああ。一週間前に」
「怪我は」
「ない」
「そう」
レナの声は平坦だった。だが、俺の全身を一瞥した目の動きに、確認の意図がこもっている。怪我がないことを、自分の目で確かめた。
「隔離区の様子はどうだ」
「悪くなった」
レナが歩き出した。俺は隣に並ぶ。
通りを歩くと、以前よりも暗かった。街灯が消えている。
「灯油の配給が減った。先月から半分になったの」
「半分?」
「理由は知らない。ただ通達が来ただけ。『国家的な資源調整のため、一時的に配給量を削減する』と」
国家的な資源調整。裁定院で見た書類の内容と符合する。物資が軍事に回されている。その皺寄せが、最も弱い場所に来ている。
「食料は」
「パンの配給も減った。週に三回だったのが二回になった。乾燥豆は二ヶ月前からない」
レナの声に怒りはなかった。報告している。事実を、淡々と。
だがその淡々さが、逆に重い。怒る気力すら削がれるほど、これが日常になっている。
「子供たちは」
「痩せてきた子が増えた。特に小さい子。祖母が自分の分を分けているけど、限界がある」
ヘルミーネが自分の食事を子供たちに分けている。元公爵夫人が、飢えた子供たちのために自分の皿を差し出している。
それを美談にしてはいけない。
そうせざるを得ない状況が異常なのだ。
「レナ。配給が減った理由、心当たりはあるか」
「予算が軍事に回されている。祖母はそう言っていた。壁の外で何かが起きようとしている、と」
「ヘルミーネさんの推測か」
「推測というより、経験よ。祖母は旧王国時代に二度の戦争を経験している。戦争の前は、いつも末端の配給が先に削られると」
経験に基づく分析。ヘルミーネは旧体制の崩壊を内側から見た人物だ。権力が何かを準備する時、最初に何が犠牲になるか。その構造を身をもって知っている。
「ルッツ。裁定院で何か見たの」
レナは正面を向いたまま訊いた。
「断片だけだ。西方への兵力移動。物資の集積。教育予算から軍事予算への流用。一つ一つは小さいが、全体を並べると一つの方向を指している」
「戦争?」
「分からない。だが、その可能性は高い」
沈黙が落ちた。
暗い通りを歩き続けた。灯油が切れた街灯の下を通り過ぎる。影しかない道を、二人で歩く。
「もし戦争になったら」レナが言った。「この区画はどうなると思う」
答えは分かっていた。だが口にするのは重い。
「配給はさらに減る。監視は強まる。最悪の場合、旧貴族が『潜在的な敵』として、もっと厳しい扱いを受ける可能性がある」
「外に敵を作れば、内の締め付けが正当化される」
「そうだ」
レナは立ち止まった。
振り向いた。月光が薄い紫の瞳を照らしている。
「ルッツ。あなたは裁定院の中にいる。あなたしか見えないものがある。だから、見続けて」
「ああ。そのつもりだ」
「それと」
「何だ」
「無理はしないで。あなたがいなくなったら、この壁の中と外を繋ぐ人間がいなくなる」
感情の薄いレナが、そういう言い方をするのは珍しかった。
「大丈夫だ。前の人生で学んだことがある。限界の手前で休むこと。限界を超えたら、体は動かなくなる」
「前の人生で死んだ人間の台詞とは思えないけど」
「だからこそ、学んだんだよ」
レナが微かに口の端を上げた。笑みとは呼べない、ほんの僅かな変化だった。だが俺には見えた。
◇
壁の穴をくぐって、こちら側に戻った。
夜の首都を歩く。石畳は月光に濡れている。
頭の中で、今日集めた情報を並べ直した。
西方配備計画。物資の移動。兵員の再配置。教育予算の軍事転用。辺境の兵力削減。隔離区への配給削減。
すべてが一つの方向を指している。共和国は、ヴェルトハーフェン王国に対して何かを仕掛けようとしている。
まだ証拠は足りない。断片を結ぶ線が見えていない。
だが線を引くのに必要なのは、もう一つか二つのピースだ。
明日も裁定院で立哨する。退屈な仕事だ。だが退屈の中にこそ、見逃されやすい真実が転がっている。
前世のコンビニ夜勤で学んだ。一番大事な情報は、一番退屈な時間に手に入る。深夜三時の監視カメラが映す万引きの瞬間。誰も見ていないと思っている時に、人は本性を見せる。
裁定院もそうだ。警護兵は壁の一部だと思われている。見ていないと思われている。
だが俺は見ている。




