帰還
ルッツ17歳。辺境任務を終え首都に帰還。
首都エルステモルゲンの城門が見えた時、俺は息を吐いた。
安堵ではない。ここから先が本番だという緊張の吐息だ。
辺境巡回部隊は二十名編成で、そのうち四名が負傷していた。盗賊団との交戦で受けた傷だ。致命傷はなかったが、水癒の応急処置だけでは治りきらず、担架に乗せられている者もいる。
城門の衛兵が敬礼した。門をくぐると、石畳の大通りが真っ直ぐに延びている。初秋の朝陽が建物の壁を白く照らしていた。
辺境とは空気が違う。整えられた街路、行き交う市民、パン屋から漂う焼きたての匂い。すべてが秩序だっている。
だがその秩序が何の上に成り立っているか、辺境を見てきた今の俺には分かる。
◇
帰還報告は、均等裁定院の執務棟で行われた。
ヴェルナー・グラーンは、いつもの灰色の外套を纏って執務室の椅子に座っていた。机の上には書類が積まれ、ペンが一本、正確に揃えて置かれている。この男の周囲は常に整然としている。乱れを許さない性質が、身の回りの物にまで及んでいる。
「戻ったか。報告を」
「はい。フェアラント辺境領との境界地帯を巡回。第三日に盗賊団と遭遇し、交戦しました。敵は十二名。こちらの死者はなし。負傷者四名。敵の死者三名、拘束九名」
ヴェルナーは頷いた。だが、数字には関心がないような目だった。
「盗賊の素性は」
「大半は辺境の流民です。ただ、三名が隔離区からの逃亡者でした。旧貴族の若者です」
ここで初めて、ヴェルナーの目が動いた。わずかに。だが確かに。
「隔離区からの逃亡者か。最近、脱走が増えている」
「はい。辺境の共和国軍の警備が手薄なことが原因かと」
「手薄、か。お前はそう見たか」
試されている。単なる状況報告ではなく、俺がどこまで見ているかを確認している。
「はい。巡回部隊の規模では、あの広さの境界線を維持するのは困難です。辺境の駐留軍が縮小されている印象を受けました」
ヴェルナーは椅子の背に体を預けた。
「お前の観察は正しい。辺境の兵力は、ここ半年で二割ほど削減されている」
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
「配置転換だ。詳細は軍の管轄だが、辺境よりも優先すべき地域がある」
それ以上は語らなかった。だが「優先すべき地域」という言葉が引っかかる。辺境より優先とは、どこだ。
「辺境の不安定化は、旧体制の残滓だ」
ヴェルナーは立ち上がり、窓に歩み寄った。窓から首都の街並みが見える。整然とした屋根の連なり。その向こうに、壁で仕切られた区画がある。隔離区だ。ここからは壁の頂だけが見えるが、中の惨状は見えない。
「革命から十五年。旧体制に依存していた人間たちが、まだ適応できずにいる。盗賊になるのも、逃亡するのも、彼らが新しい秩序に溶け込めないからだ」
綺麗な論理だった。そしてそれは、半分は事実だ。
だがもう半分は嘘だ。
溶け込めないのではない。溶け込ませてもらえないのだ。市民権を剥奪し、就労を制限し、魔法を禁じておいて、「適応できない」と言うのは、鎖に繋いだ犬を「走れない」と嘲笑うのと同じだ。
だがそれを、今ここで口にする段階ではない。
「おっしゃる通りかと思います」
ヴェルナーが振り返った。一瞬、俺を見る目に何かが浮かんだ。失望か、それとも安堵か。
「お前は賢い子だな、ルッツ。戦闘報告も観察も的確だ。ヒルデの血は伊達ではない」
「恐れ入ります」
「しばらくは裁定院の通常業務に戻れ。辺境での経験を消化する時間も必要だろう」
「はい」
執務室を出た。廊下を歩きながら、辺境で聞いた噂を反芻した。
◇
あれは辺境の集落で、駐留していた古参兵から聞いた話だった。
夜営の焚き火を囲んでいた時、隊の副長——三十代の中堅兵士で、名をディーターといった——が酒の勢いで口を滑らせた。
「西の方が騒がしくなるぞ。俺たちがこんな辺境に回されてるのは、本隊が西に集まってるからだ」
「西? ヴェルトハーフェンですか」
「おっと、新兵には早い話だったか」
ディーターは慌てて口をつぐんだ。だが酒で緩んだ舌は、もう少しだけ情報を漏らした。
「まあ、噂だよ噂。国境の防衛強化って話だ。あっちの騎士団が動いてるとかなんとか」
防衛強化。
だがヴェルナーが言った「辺境より優先すべき地域」と重ねると、話が繋がる。辺境の兵力を削減して、西方——ヴェルトハーフェン王国との国境方面に移しているのだ。
防衛のためか、それとも。
まだ断片的な情報だった。断片だけでは絵にならない。
だが断片を集め続ければ、いつか全体像が見える。それは前世の倉庫仕事で学んだ教訓だった。棚卸しの数字が合わない時、一つ一つの箱を確認していけば、必ずどこかに帳簿との差異が見つかる。
この国にも、帳簿に載っていない箱がある。
◇
裁定院の通常業務に戻った翌日、変化に気づいた。
均等裁定院の判定室に、新しい通達が貼り出されていた。
「安全保障強化のための魔法教育適性再判定の実施について」。
内容を読んだ。要約すると、こうだ。
辺境および国境地帯の不安定化を受け、魔法教育の配分基準を見直す。具体的には、「安全保障上の必要性」を理由に、一部の家庭への教育配分を削減し、軍事関連への再配分を行う。
表向きは合理的だ。国防のために資源を集中する。どの国でも戦時にはやることだ。
だがこの通達の真の意味は別のところにある。
「安全保障上の必要性」という名目は、いくらでも拡大解釈できる。忠誠度の低い家庭、元勲会に縁のない家庭、辺境の家庭——そうした「優先順位の低い」市民への教育が、さらに削られる。
そして削られた分は「軍事」に回る。軍事とは何だ。西方への兵力集中と無関係ではあるまい。
教育の配分を絞り、軍事に回す。辺境を見捨て、西方に集中する。
パズルのピースが、少しずつ嵌まり始めている。
まだ完成には遠い。だが絵柄の一部が見えてきた。
◇
昼休み、裁定院の中庭のベンチに座った。秋風が石畳の上を走り、落ち葉を運んでいく。
辺境で初めて人を傷つけた。その重みは、まだ体の奥に残っている。火弾が人体に当たった時の感触。悲鳴。焦げた肉の匂い。
訓練所では的を撃っていた。動かない木板。あれと人間は違う。
当たり前のことだ。だが当たり前のことを、体で理解するまでにはこの経験が必要だった。
前世では暴力とは無縁だった。殴られたことも、殴ったこともない。争いごとがあれば、黙って引き下がる人間だった。
今世で俺は、人を焼いた。
正当な任務だった。仲間を守るためだった。言い訳はいくらでもできる。
だが夜、目を閉じると、あの盗賊の若者の顔が浮かぶ。隔離区から逃げ出した旧貴族の若者。年齢は俺と同じくらいだった。彼は選択肢がなかったのだ。壁の中に閉じ込められ、教育も職も奪われ、逃げた先で盗賊になるしかなかった。
体制が作り出した犯罪者を、体制の兵士が捕らえる。マッチポンプだ。前世の言葉で言えば。
エミルなら「それでも犯罪は犯罪だ」と言うだろう。
間違ってはいない。だが正しくもない。
物事はいつも、そのどちらでもない場所にある。
◇
その夜、宿舎の寝台で天井を見つめた。
辺境から持ち帰ったもの。初めての実戦の経験。西方への兵力集中の噂。体制がさらに締め付けを強めている事実。
そして、もう一つ。
戦闘中、新式と旧式を無意識に混ぜた魔法を使った時の感覚。
あの瞬間、体の中で何かが噛み合った。訓練所の夜間訓練で三回に一回だった成功率が、実戦の極限状態で跳ね上がった。恐怖と切迫感が、思考を飛び越えて体を動かした。
あの感覚を再現できれば、混成は次の段階に進む。
だが再現のためには、あの極限状態を人為的に作り出す必要がある。安全な環境での訓練と、命懸けの実戦では、体の反応が根本的に違う。
しばらくは裁定院の業務に戻れとヴェルナーは言った。
業務の合間に、情報を集める。書類を観察する。体制の設計図の欠片を拾い続ける。
そして夜は、混成型の訓練を続ける。
レナにも会わなければならない。隔離区の状況を確認する必要がある。
やるべきことは山ほどあるのに、使える時間は限られている。
前世のコンビニの掛け持ちを思い出した。朝はコンビニ、昼は倉庫、夜は配達。隙間時間に飯を食って寝る。あの頃と似ている。違うのは、今の掛け持ちには意味がある。
目を閉じた。明日から、体制の内側での情報収集が再開される。
獅子の口の中で、歯の位置を確認する作業だ。
噛まれる前に、構造を把握しなければならない。




