戦場の洗礼・後
ルッツ17歳。初めての実戦の後。
夜が来た。
谷間に焚き火が二つ。盗賊の拠点だった小屋を借りて、巡回部隊とエミルの小隊が野営を張っていた。
捕縛した盗賊五人は、手足を縛って小屋の一つに押し込めてある。見張りは経験兵が交代で担当する。明日、最寄りの駐屯地に護送する手筈だ。
俺は焚き火から少し離れた場所に座っていた。
眠れない。
目を閉じると、さっきの場面が蘇る。盗賊の胸に火弾が直撃する瞬間。服が焼け、肌が爛れる。男が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
あの男は生きている。気を失っただけで、致命傷ではなかった。
だが、俺は殺すつもりで撃った。
いや、殺すつもりだったのか。考える余裕はなかった。仲間が斧で殺されそうだった。俺は割り込んで、撃った。結果として殺さなかっただけで、殺していてもおかしくなかった。
手を見た。右の掌。火弾を放った手。暴発の熱で少し赤くなっている。
この手で、人を焼いた。
前世で三十一年、この世界で十七年。合わせて四十八年の人生で、人を傷つけたのは今日が初めてだった。
前世では、蚊を潰すのすら少し躊躇うタイプだった。コンビニで期限切れの弁当を廃棄する時、もったいないと思う程度の善良さ。暴力とは無縁の、平坦な人生。
それが、一瞬で変わった。
人を傷つけることの重みが、腹の底に鉛のように沈んでいる。吐き気ではない。もっと深い場所にある、名前のつかない感覚だ。
◇
「おい、エーベルハルト」
ハインツ曹長が近づいてきた。手に木の椀を持っている。
「飯だ。食え」
干し肉と穀物を煮た粥だった。食欲はなかったが、受け取った。
ハインツが隣に腰を下ろした。自分の椀に口をつけ、黙って食べている。
「初めての戦闘の後は、みんなそうなる」
しばらくして、ハインツが言った。
「そうなる、とは」
「食えない。眠れない。手を見つめる」
「……はい」
「俺もそうだった。革命の初戦でな。十七歳だった。お前と同じ年だ」
ハインツは粥を啜った。
「最初に人を斬った時、三日間飯が食えなかった。四日目に腹が減って、しぶしぶ食った。人間というのはそういうものだ。どんなことにも慣れる。それが良いことなのか悪いことなのかは、わからんがな」
慣れる。その言葉が、引っかかった。
慣れていいのか。人を傷つけることに慣れて、それで本当にいいのか。
「曹長」
「なんだ」
「あの盗賊たちは、何者なんですか」
「盗賊は盗賊だ。辺境を荒らす無法者だ」
「それだけですか」
ハインツが椀を止めた。横目で俺を見た。
「それだけだ。余計なことを考えるな」
余計なこと。ハインツにとっては余計なことなのだろう。任務を遂行し、敵を排除し、味方を守る。それが兵士の仕事だ。敵の事情を考えることは任務に含まれない。
だが俺には、考えずにいることができなかった。
◇
深夜。見張りの交代で目が覚めた。
眠りに落ちたのは一時間ほど前だったらしい。浅い、断片的な眠りだった。
焚き火の番はフリッツが担当していた。大きな体を丸めて火の前に座り、暗い顔をしている。
「フリッツ」
「ああ、エーベルハルト」
「眠れないか」
「まあな。お前もか」
「ああ」
二人で焚き火を見つめた。
俺は立ち上がった。
「どこに行くんだ」
「小屋を見てくる」
「盗賊の? やめとけよ、気味が悪い」
「少しだけだ」
盗賊を閉じ込めた小屋に近づいた。入口に立っている見張りの経験兵に声をかけた。
「少し中を見ていいですか」
「何しに」
「負傷者の状態を確認したい」
見張りは怪訝な顔をしたが、止めはしなかった。
「勝手にしろ。ただし近づきすぎるなよ」
小屋の中に入った。
月明かりが隙間から差し込み、薄暗い室内を照らしている。五人の盗賊が壁際に並んで座らされていた。手首を後ろで縛られ、足首も縛られている。全員が俯いていた。
俺が胸を焼いた男もいた。上半身に応急処置の布が巻かれている。意識は戻っているようだが、目を閉じて壁にもたれていた。
そして、その隣に座っている若い男に目が止まった。
若い。俺と同じくらいの年齢。十七か十八。痩せた顔、伸びた髪、汚れた衣服。だがその目が、他の盗賊とは違っていた。
追い詰められた獣の目ではない。何かを諦めた、静かな目だ。
男の足元に、所持品が散らばっていた。経験兵が没収して調べた後、雑に戻したのだろう。ナイフ、火打ち石、紐、そして——
小さな革の袋。中から覗いているのは、紙の切れ端だった。
俺はそれを拾い上げた。
紙は折り畳まれていた。開くと、印刷された文字が見えた。古い書式の文書だ。
隔離区身分証。
心臓が跳ねた。
共和国が旧貴族とその家族に発行する身分証だ。隔離区から出ることを禁じられた人々が、唯一持つことを許される公的書類。レナの祖母も同じものを持っていた。
名前が書いてある。アルベルト・フォン・ヘッセ。フォン。旧貴族の証だ。
年齢は十八歳。
俺は若い男を見た。男も目を開いて、俺を見ていた。
「……それ、返してくれないか」
低い声だった。弱々しいが、卑屈ではない。
「アルベルト・フォン・ヘッセ。これはお前のか」
「ああ」
「隔離区の人間が、なぜここにいる」
男は黙った。
長い沈黙の後、口を開いた。
「逃げた。半年前に」
「なぜ」
「なぜって」
男が笑った。力のない、乾いた笑い。
「隔離区にいれば一生あの壁の中だ。仕事もない。教育もない。出ることも許されない。あと五十年、あの壁の中で朽ちていくだけだ。逃げない方がおかしいだろう」
反論できなかった。
俺はレナを知っている。隔離区を知っている。壁の向こうの、絶望に覆われた世界。レナは壁の中に留まりながら尊厳を守ろうとしている。だがすべての人間がそうできるわけではない。
「逃げて、それでどうした」
「どうしようもなかった。隔離区の人間は共和国のどこにも居場所がない。身分証がなければ仕事も住居も得られない。辺境に流れ着いて、そこでクルトに拾われた」
「クルト?」
「クルトはあそこにいる男だ」
アルベルトが顎で示した先に、俺が火弾で胸を焼いた男がいた。
「クルトも元は隔離区の人間だ。三年前に脱走した。辺境で仲間を集めて、こうやって暮らしている」
「暮らしている、じゃない。略奪だ。あの集落を焼いたのはお前たちだ」
「わかってる」
アルベルトの声が低くなった。
「わかってやってる。他に手段がなかった。盗みでも略奪でもしなきゃ、飯が食えないんだ。辺境の集落は貧しいが、それでも俺たちよりはましだ。俺たちには畑もない。道具もない。何もない」
「あの集落の老人が殺された」
「……あれは、事故だ。抵抗されて、もみ合って——言い訳になるのはわかってる」
アルベルトの目から光が消えた。諦めの色が、さらに深くなった。
「お前に何が分かるんだ。共和国の軍服を着た人間に」
その言葉が、胸に刺さった。
分かる、とは言えない。俺は共和国側の人間だ。軍服を着て、給料をもらい、命令に従っている。隔離区の壁の外側にいる。
だがレナの顔が浮かんだ。レナの祖母ヘルミーネの顔が。壁の向こうで、尊厳を保ちながら生きている人々の顔が。
「全部は分からない。だが少しは知ってる」
「何を」
「隔離区がどんな場所か。あの壁の向こうで人がどう暮らしているか」
アルベルトの目が、わずかに動いた。
「知ってる、だと?」
「友人がいるんだ。隔離区に」
言うべきではなかったかもしれない。だが、口をついて出た。
アルベルトは俺を長い間見つめた。
「友人、ね」
それ以上は何も言わなかった。
俺は身分証を元の場所に戻し、小屋を出た。
◇
小屋を出ると、エミルが立っていた。
焚き火の光が、エミルの顔を橙色に照らしている。
「何してたんだ」
「盗賊の様子を見てた」
「物好きだな」
エミルは焚き火の前に座った。俺もその隣に座った。
「エミル」
「なんだ」
「あの盗賊の中に、隔離区から逃亡した若い男がいた」
エミルの手が止まった。火の粉を弄っていた棒が、空中で静止した。
「隔離区?」
「旧貴族の身分証を持ってた。十八歳。隔離区から逃げ出して、行き場がなくて、盗賊団に加わったんだと」
エミルは黙っていた。
「エミル。あいつは盗賊だ。集落を襲って、人を傷つけた。それは事実だ。だが——」
「だが、何だ」
「追い詰められてそうなったんじゃないのか。隔離区に閉じ込めて、仕事も教育も奪って、逃げたら行き場がなくて、食うために盗むしかなかった。盗賊を作ったのは、この国の仕組みじゃないのか」
長い沈黙が落ちた。
焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
「ルッツ」
エミルの声は、いつもの明朗さとは違った。低く、重く、どこか苦しそうだった。
「俺は今日、敵を倒した。仲間を守った。それは正しいことだ」
「ああ。正しい」
「お前もそうだ。お前があの時飛び出さなかったら、ヤーコプは斧で殺されてた。お前は仲間を救った。それも正しい」
「ああ」
「なら、それでいいじゃないか」
エミルが俺を見た。
目の奥に、いつもの輝きがあった。だがその輝きの下に、見えない蓋がある。蓋の下に何かを押し込めている。
「盗賊の事情がどうだろうと、俺たちは仲間を守った。それが兵士の仕事だ。それ以上のことは、俺たちの管轄じゃない」
「管轄」
「隔離区の話は、政治の問題だろう。俺たちは兵士だ。政治は偉い人たちが考えることだ」
エミルの言葉は、理屈としては正しかった。
兵士は命令に従い、任務を遂行する。政策の是非を問うのは兵士の仕事ではない。それは文民統制の原則であり、軍の規律の基本だ。
だが俺は、その「正しさ」の裏側に何があるかを知っている。
「政治は偉い人たちが考える」。その偉い人たちが、隔離区を作ったのだ。教育を統制し、旧貴族を壁の中に閉じ込め、逃げた者を犯罪者にした。偉い人たちに任せた結果が、今日の盗賊団だ。
「ルッツ」
「何だ」
「考えすぎるなよ。お前は昔からそうだ。考えすぎて、動けなくなる」
エミルが立ち上がった。
「今日は生き残った。仲間も生き残った。それだけで十分だろう」
エミルは焚き火に背を向けて歩いていった。寝場所に向かうのだろう。
俺は一人、火を見つめていた。
エミルの「それでいいじゃないか」が耳に残っている。
いい、のか。本当に。
盗賊を倒して、仲間を守った。それは正しい。だがその正しさは、もっと大きな不正義の中にある小さな正義に過ぎない。
仲間を守ることは正しい。だが隔離区を作ったことは正しいのか。盗賊を生む構造を放置して、発生した盗賊を力で叩く。それは問題の解決ではなく、症状の処理だ。
前世の記憶が蘇った。
コンビニの深夜シフトで、万引きをする少年を何度も見た。捕まえて警察を呼んだこともある。少年は補導され、数日後にまた来る。繰り返しだ。
ある夜、常連の万引き少年に聞いたことがある。「なんで盗むんだ」。少年は答えた。「飯がないから」。
飯がない子供に「盗むな」と言うことはできる。だが飯がない原因を放置したまま盗みを咎めても、何も解決しない。
あの少年と、アルベルトが重なった。
社会の仕組みが人を追い詰め、追い詰められた人間が法を犯し、法を犯した人間が罰される。その循環の中で、誰が本当の加害者なのか。
答えは出ない。
だが、考えることをやめてはいけない。
エミルのように「仲間を守った、それでいい」と割り切れれば楽だろう。だが俺は割り切れない。前世で社会の底辺を見た目が、割り切ることを許さない。
火が低くなっていた。薪をくべた。
炎が揺れた。赤い光が、腕の上の鉄身の痣を照らした。斧の衝撃を鉄身で受けた時の痕だ。青黒く腫れている。
初めての戦闘で得たもの。
仲間を守った経験。人を傷つけた重み。混成型魔法が実戦で使えるかもしれないという手応え。そして、この国の構造がもたらす矛盾の、一つの断面。
どれも簡単には消化できない。
エミルとの温度差も、広がった。今日は背中を預けて戦った。だが、戦いが終わった後に見えた景色が、二人で全く違う。エミルは「敵を倒して仲間を守った」と見る。俺は「体制に追い詰められた人間を殴った」と見る。
同じ戦場にいて、同じ敵と戦って、同じ景色を見ているのに、見えているものが違う。
それは、どちらかが間違っているという話ではないのかもしれない。エミルの正しさも、俺の疑問も、どちらも本物だ。
だがいずれ、この温度差は二人の間に壁を作る。隔離区の壁のように、目に見えないが確実な壁を。
空を見上げた。星が出ていた。辺境の山間部は空気が澄んでいて、首都では見えない小さな星まで見える。
母さんもこの星を見たのだろうか。革命の最中、戦場の夜に。
母は日記に書いていた。「問い続けなければ、私たちも彼らと同じだ」と。
問い続ける。答えが出なくても。割り切れなくても。
それが今の俺にできる、唯一のことだった。
◇
翌朝、捕縛した盗賊を護送するために部隊は谷を出た。
アルベルトは俯いたまま歩いていた。手首を縛られ、経験兵に前後を挟まれている。
すれ違う時、一瞬だけ目が合った。
アルベルトの目は昨夜と同じだった。諦めと、ほんの僅かな何か。怒りではない。恨みでもない。
「お前はまだ、壁の外側にいるんだな」と言っているような目だった。
俺は何も言わずに歩いた。
エミルが前方で振り返り、俺に手を振った。
「ルッツ、遅いぞ! 昨日疲れたか?」
「少しな」
「情けないな。もっと鍛えろよ」
エミルが笑った。
俺も笑った。
だが心の中の重みは、笑っても消えなかった。
辺境の朝日が、山間から差し込んでいた。白い光だ。首都の朝日とは色が違う。冷たく、澄んでいる。
この国は、首都から見えている姿とは違う顔を持っている。辺境にはこの国の矛盾が、剥き出しのまま転がっている。隔離区の身分証が、盗賊の荷物から出てくるような国。
均等裁定院が作った「均等」の裏側が、ここにある。
母さんが最後に問いかけたこと。「もしこの国が、私の望んだものでなかったら——」
望んだものではなかった。それはもう、疑いようがない。
問題は、それをどうするか、だ。
まだ答えは見えない。
だが今日、一つだけ分かったことがある。
考えることをやめない限り、答えに近づくことはできる。そしてエミルのように割り切れない俺にとって、考え続けることだけが、人を傷つけた手を許す唯一の方法だ。
部隊は山道を南に下った。首都に向かって。




