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二度目の夜明けを <第2章スタート>  作者: ret_riever
第2章 均等の裏側 *第16話~第30話

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戦場の洗礼・後

ルッツ17歳。初めての実戦の後。

夜が来た。


 谷間に焚き火が二つ。盗賊の拠点だった小屋を借りて、巡回部隊とエミルの小隊が野営を張っていた。


 捕縛した盗賊五人は、手足を縛って小屋の一つに押し込めてある。見張りは経験兵が交代で担当する。明日、最寄りの駐屯地に護送する手筈だ。


 俺は焚き火から少し離れた場所に座っていた。


 眠れない。


 目を閉じると、さっきの場面が蘇る。盗賊の胸に火弾が直撃する瞬間。服が焼け、肌が爛れる。男が吹き飛び、地面に叩きつけられる。


 あの男は生きている。気を失っただけで、致命傷ではなかった。


 だが、俺は殺すつもりで撃った。


 いや、殺すつもりだったのか。考える余裕はなかった。仲間が斧で殺されそうだった。俺は割り込んで、撃った。結果として殺さなかっただけで、殺していてもおかしくなかった。


 手を見た。右の掌。火弾を放った手。暴発の熱で少し赤くなっている。


 この手で、人を焼いた。


 前世で三十一年、この世界で十七年。合わせて四十八年の人生で、人を傷つけたのは今日が初めてだった。


 前世では、蚊を潰すのすら少し躊躇うタイプだった。コンビニで期限切れの弁当を廃棄する時、もったいないと思う程度の善良さ。暴力とは無縁の、平坦な人生。


 それが、一瞬で変わった。


 人を傷つけることの重みが、腹の底に鉛のように沈んでいる。吐き気ではない。もっと深い場所にある、名前のつかない感覚だ。


          ◇


「おい、エーベルハルト」


 ハインツ曹長が近づいてきた。手に木の椀を持っている。


「飯だ。食え」


 干し肉と穀物を煮た粥だった。食欲はなかったが、受け取った。


 ハインツが隣に腰を下ろした。自分の椀に口をつけ、黙って食べている。


「初めての戦闘の後は、みんなそうなる」


 しばらくして、ハインツが言った。


「そうなる、とは」


「食えない。眠れない。手を見つめる」


「……はい」


「俺もそうだった。革命の初戦でな。十七歳だった。お前と同じ年だ」


 ハインツは粥を啜った。


「最初に人を斬った時、三日間飯が食えなかった。四日目に腹が減って、しぶしぶ食った。人間というのはそういうものだ。どんなことにも慣れる。それが良いことなのか悪いことなのかは、わからんがな」


 慣れる。その言葉が、引っかかった。


 慣れていいのか。人を傷つけることに慣れて、それで本当にいいのか。


「曹長」


「なんだ」


「あの盗賊たちは、何者なんですか」


「盗賊は盗賊だ。辺境を荒らす無法者だ」


「それだけですか」


 ハインツが椀を止めた。横目で俺を見た。


「それだけだ。余計なことを考えるな」


 余計なこと。ハインツにとっては余計なことなのだろう。任務を遂行し、敵を排除し、味方を守る。それが兵士の仕事だ。敵の事情を考えることは任務に含まれない。


 だが俺には、考えずにいることができなかった。


          ◇


 深夜。見張りの交代で目が覚めた。


 眠りに落ちたのは一時間ほど前だったらしい。浅い、断片的な眠りだった。


 焚き火の番はフリッツが担当していた。大きな体を丸めて火の前に座り、暗い顔をしている。


「フリッツ」


「ああ、エーベルハルト」


「眠れないか」


「まあな。お前もか」


「ああ」


 二人で焚き火を見つめた。


 俺は立ち上がった。


「どこに行くんだ」


「小屋を見てくる」


「盗賊の? やめとけよ、気味が悪い」


「少しだけだ」


 盗賊を閉じ込めた小屋に近づいた。入口に立っている見張りの経験兵に声をかけた。


「少し中を見ていいですか」


「何しに」


「負傷者の状態を確認したい」


 見張りは怪訝な顔をしたが、止めはしなかった。


「勝手にしろ。ただし近づきすぎるなよ」


 小屋の中に入った。


 月明かりが隙間から差し込み、薄暗い室内を照らしている。五人の盗賊が壁際に並んで座らされていた。手首を後ろで縛られ、足首も縛られている。全員が俯いていた。


 俺が胸を焼いた男もいた。上半身に応急処置の布が巻かれている。意識は戻っているようだが、目を閉じて壁にもたれていた。


 そして、その隣に座っている若い男に目が止まった。


 若い。俺と同じくらいの年齢。十七か十八。痩せた顔、伸びた髪、汚れた衣服。だがその目が、他の盗賊とは違っていた。


 追い詰められた獣の目ではない。何かを諦めた、静かな目だ。


 男の足元に、所持品が散らばっていた。経験兵が没収して調べた後、雑に戻したのだろう。ナイフ、火打ち石、紐、そして——


 小さな革の袋。中から覗いているのは、紙の切れ端だった。


 俺はそれを拾い上げた。


 紙は折り畳まれていた。開くと、印刷された文字が見えた。古い書式の文書だ。


 隔離区身分証(かくりくみぶんしょう)


 心臓が跳ねた。


 共和国が旧貴族とその家族に発行する身分証だ。隔離区から出ることを禁じられた人々が、唯一持つことを許される公的書類。レナの祖母も同じものを持っていた。


 名前が書いてある。アルベルト・フォン・ヘッセ。フォン。旧貴族の証だ。


 年齢は十八歳。


 俺は若い男を見た。男も目を開いて、俺を見ていた。


「……それ、返してくれないか」


 低い声だった。弱々しいが、卑屈ではない。


「アルベルト・フォン・ヘッセ。これはお前のか」


「ああ」


「隔離区の人間が、なぜここにいる」


 男は黙った。


 長い沈黙の後、口を開いた。


「逃げた。半年前に」


「なぜ」


「なぜって」


 男が笑った。力のない、乾いた笑い。


「隔離区にいれば一生あの壁の中だ。仕事もない。教育もない。出ることも許されない。あと五十年、あの壁の中で朽ちていくだけだ。逃げない方がおかしいだろう」


 反論できなかった。


 俺はレナを知っている。隔離区を知っている。壁の向こうの、絶望に覆われた世界。レナは壁の中に留まりながら尊厳を守ろうとしている。だがすべての人間がそうできるわけではない。


「逃げて、それでどうした」


「どうしようもなかった。隔離区の人間は共和国のどこにも居場所がない。身分証がなければ仕事も住居も得られない。辺境に流れ着いて、そこでクルトに拾われた」


「クルト?」


「クルトはあそこにいる男だ」


 アルベルトが顎で示した先に、俺が火弾で胸を焼いた男がいた。


「クルトも元は隔離区の人間だ。三年前に脱走した。辺境で仲間を集めて、こうやって暮らしている」


「暮らしている、じゃない。略奪だ。あの集落を焼いたのはお前たちだ」


「わかってる」


 アルベルトの声が低くなった。


「わかってやってる。他に手段がなかった。盗みでも略奪でもしなきゃ、飯が食えないんだ。辺境の集落は貧しいが、それでも俺たちよりはましだ。俺たちには畑もない。道具もない。何もない」


「あの集落の老人が殺された」


「……あれは、事故だ。抵抗されて、もみ合って——言い訳になるのはわかってる」


 アルベルトの目から光が消えた。諦めの色が、さらに深くなった。


「お前に何が分かるんだ。共和国の軍服を着た人間に」


 その言葉が、胸に刺さった。


 分かる、とは言えない。俺は共和国側の人間だ。軍服を着て、給料をもらい、命令に従っている。隔離区の壁の外側にいる。


 だがレナの顔が浮かんだ。レナの祖母ヘルミーネの顔が。壁の向こうで、尊厳を保ちながら生きている人々の顔が。


「全部は分からない。だが少しは知ってる」


「何を」


「隔離区がどんな場所か。あの壁の向こうで人がどう暮らしているか」


 アルベルトの目が、わずかに動いた。


「知ってる、だと?」


「友人がいるんだ。隔離区に」


 言うべきではなかったかもしれない。だが、口をついて出た。


 アルベルトは俺を長い間見つめた。


「友人、ね」


 それ以上は何も言わなかった。


 俺は身分証を元の場所に戻し、小屋を出た。


          ◇


 小屋を出ると、エミルが立っていた。


 焚き火の光が、エミルの顔を橙色に照らしている。


「何してたんだ」


「盗賊の様子を見てた」


「物好きだな」


 エミルは焚き火の前に座った。俺もその隣に座った。


「エミル」


「なんだ」


「あの盗賊の中に、隔離区から逃亡した若い男がいた」


 エミルの手が止まった。火の粉を弄っていた棒が、空中で静止した。


「隔離区?」


「旧貴族の身分証を持ってた。十八歳。隔離区から逃げ出して、行き場がなくて、盗賊団に加わったんだと」


 エミルは黙っていた。


「エミル。あいつは盗賊だ。集落を襲って、人を傷つけた。それは事実だ。だが——」


「だが、何だ」


「追い詰められてそうなったんじゃないのか。隔離区に閉じ込めて、仕事も教育も奪って、逃げたら行き場がなくて、食うために盗むしかなかった。盗賊を作ったのは、この国の仕組みじゃないのか」


 長い沈黙が落ちた。


 焚き火がぱちぱちと音を立てていた。


「ルッツ」


 エミルの声は、いつもの明朗さとは違った。低く、重く、どこか苦しそうだった。


「俺は今日、敵を倒した。仲間を守った。それは正しいことだ」


「ああ。正しい」


「お前もそうだ。お前があの時飛び出さなかったら、ヤーコプは斧で殺されてた。お前は仲間を救った。それも正しい」


「ああ」


「なら、それでいいじゃないか」


 エミルが俺を見た。


 目の奥に、いつもの輝きがあった。だがその輝きの下に、見えない蓋がある。蓋の下に何かを押し込めている。


「盗賊の事情がどうだろうと、俺たちは仲間を守った。それが兵士の仕事だ。それ以上のことは、俺たちの管轄じゃない」


「管轄」


「隔離区の話は、政治の問題だろう。俺たちは兵士だ。政治は偉い人たちが考えることだ」


 エミルの言葉は、理屈としては正しかった。


 兵士は命令に従い、任務を遂行する。政策の是非を問うのは兵士の仕事ではない。それは文民統制の原則であり、軍の規律の基本だ。


 だが俺は、その「正しさ」の裏側に何があるかを知っている。


 「政治は偉い人たちが考える」。その偉い人たちが、隔離区を作ったのだ。教育を統制し、旧貴族を壁の中に閉じ込め、逃げた者を犯罪者にした。偉い人たちに任せた結果が、今日の盗賊団だ。


「ルッツ」


「何だ」


「考えすぎるなよ。お前は昔からそうだ。考えすぎて、動けなくなる」


 エミルが立ち上がった。


「今日は生き残った。仲間も生き残った。それだけで十分だろう」


 エミルは焚き火に背を向けて歩いていった。寝場所に向かうのだろう。


 俺は一人、火を見つめていた。


 エミルの「それでいいじゃないか」が耳に残っている。


 いい、のか。本当に。


 盗賊を倒して、仲間を守った。それは正しい。だがその正しさは、もっと大きな不正義の中にある小さな正義に過ぎない。


 仲間を守ることは正しい。だが隔離区を作ったことは正しいのか。盗賊を生む構造を放置して、発生した盗賊を力で叩く。それは問題の解決ではなく、症状の処理だ。


 前世の記憶が蘇った。


 コンビニの深夜シフトで、万引きをする少年を何度も見た。捕まえて警察を呼んだこともある。少年は補導され、数日後にまた来る。繰り返しだ。


 ある夜、常連の万引き少年に聞いたことがある。「なんで盗むんだ」。少年は答えた。「飯がないから」。


 飯がない子供に「盗むな」と言うことはできる。だが飯がない原因を放置したまま盗みを咎めても、何も解決しない。


 あの少年と、アルベルトが重なった。


 社会の仕組みが人を追い詰め、追い詰められた人間が法を犯し、法を犯した人間が罰される。その循環の中で、誰が本当の加害者なのか。


 答えは出ない。


 だが、考えることをやめてはいけない。


 エミルのように「仲間を守った、それでいい」と割り切れれば楽だろう。だが俺は割り切れない。前世で社会の底辺を見た目が、割り切ることを許さない。


 火が低くなっていた。薪をくべた。


 炎が揺れた。赤い光が、腕の上の鉄身の痣を照らした。斧の衝撃を鉄身で受けた時の痕だ。青黒く腫れている。


 初めての戦闘で得たもの。


 仲間を守った経験。人を傷つけた重み。混成型魔法が実戦で使えるかもしれないという手応え。そして、この国の構造がもたらす矛盾の、一つの断面。


 どれも簡単には消化できない。


 エミルとの温度差も、広がった。今日は背中を預けて戦った。だが、戦いが終わった後に見えた景色が、二人で全く違う。エミルは「敵を倒して仲間を守った」と見る。俺は「体制に追い詰められた人間を殴った」と見る。


 同じ戦場にいて、同じ敵と戦って、同じ景色を見ているのに、見えているものが違う。


 それは、どちらかが間違っているという話ではないのかもしれない。エミルの正しさも、俺の疑問も、どちらも本物だ。


 だがいずれ、この温度差は二人の間に壁を作る。隔離区の壁のように、目に見えないが確実な壁を。


 空を見上げた。星が出ていた。辺境の山間部は空気が澄んでいて、首都では見えない小さな星まで見える。


 母さんもこの星を見たのだろうか。革命の最中、戦場の夜に。


 母は日記に書いていた。「問い続けなければ、私たちも彼らと同じだ」と。


 問い続ける。答えが出なくても。割り切れなくても。


 それが今の俺にできる、唯一のことだった。


          ◇


 翌朝、捕縛した盗賊を護送するために部隊は谷を出た。


 アルベルトは俯いたまま歩いていた。手首を縛られ、経験兵に前後を挟まれている。


 すれ違う時、一瞬だけ目が合った。


 アルベルトの目は昨夜と同じだった。諦めと、ほんの僅かな何か。怒りではない。恨みでもない。


 「お前はまだ、壁の外側にいるんだな」と言っているような目だった。


 俺は何も言わずに歩いた。


 エミルが前方で振り返り、俺に手を振った。


「ルッツ、遅いぞ! 昨日疲れたか?」


「少しな」


「情けないな。もっと鍛えろよ」


 エミルが笑った。


 俺も笑った。


 だが心の中の重みは、笑っても消えなかった。


 辺境の朝日が、山間から差し込んでいた。白い光だ。首都の朝日とは色が違う。冷たく、澄んでいる。


 この国は、首都から見えている姿とは違う顔を持っている。辺境にはこの国の矛盾が、剥き出しのまま転がっている。隔離区の身分証が、盗賊の荷物から出てくるような国。


 均等裁定院が作った「均等」の裏側が、ここにある。


 母さんが最後に問いかけたこと。「もしこの国が、私の望んだものでなかったら——」


 望んだものではなかった。それはもう、疑いようがない。


 問題は、それをどうするか、だ。


 まだ答えは見えない。


 だが今日、一つだけ分かったことがある。


 考えることをやめない限り、答えに近づくことはできる。そしてエミルのように割り切れない俺にとって、考え続けることだけが、人を傷つけた手を許す唯一の方法だ。


 部隊は山道を南に下った。首都に向かって。


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