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二度目の夜明けを <第3章スタート>  作者: ret_riever
1章 革命の残り香 *1話〜15話

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英雄の不在

ルッツ5歳。母ヒルデの戦死から3年が経過しています。

英雄の家は、静かだ。


 物心がついてから最初に覚えたのは、その静けさだった。


 石造りの家の中は広い。平民の住居としては立派すぎるほどだ。革命の功績に対して共和国から与えられた家だと、後に知った。玄関の上には深紅の旗が掲げられ、居間の壁には額に入った勲章が三つ並んでいる。暖炉の上には一振りの短剣が飾られていて、その隣に一枚の肖像画があった。


 赤い髪の女性。金色の瞳。唇の端に、かすかな笑みを浮かべている。


 この絵を描いた画家は優秀だったのだろう。前世の記憶と照らし合わせても、あの日、生まれたての俺を抱いていた女性の面影と一致する。


 ヒルデ・エーベルハルト。


 俺の母親であり、この国の英雄だ。


 五歳になった俺は、すでに多くのことを理解していた。赤ん坊の頃はぼんやりとした靄の中にいるような日々だったが、二歳を過ぎたあたりから言葉が分かるようになり、三歳で文字を覚え、四歳で家の中に並ぶ書物を読み始めた。


 三十一年分の前世の記憶がある。言語は違うが、学習能力の下地は残っていた。


 周囲には「早熟な子だ」で通している。この世界にも天才児はいるらしく、特に怪しまれることはなかった。むしろ「さすがヒルデの息子だ」と頷かれる。


 英雄の息子。


 その言葉が、この街ではどれほどの重みを持つか、五歳の俺にもすでに分かり始めていた。


          ◇


 父の名はベルント・エーベルハルト。


 元革命兵士。現在は共和国の戸籍管理局で働く中堅官僚だ。


 毎朝、同じ時刻に起き、同じ制服を着て、同じ道を歩いて役所に向かう。帰宅は日が暮れてから。食卓に夕食を並べ、俺に「今日は何をした?」と訊き、俺の答えに「そうか」と頷く。


 穏やかな人だった。声を荒げることはない。手を上げることもない。


 ただ、夜になると酒を飲んだ。


 俺が寝室に入った後、居間の灯りがいつまでも消えない。壁越しに聞こえてくるのは、杯を置く音と、時折こぼれる独り言だ。


「こんなはずじゃなかった」


 最初に聞き取れた言葉が、それだった。


 前世の俺なら、気にしなかったかもしれない。酒に溺れる大人など珍しくもない。前の人生でも、飲まなければやっていけない同僚を何人も見てきた。深夜のコンビニに缶チューハイを買いに来る常連客の目を、俺は覚えている。疲れて、乾いて、どこか遠くを見ている目。


 父の目は、あれと同じだった。


 違うのは、父の目が向いている先だ。コンビニの常連客たちは、漠然と「ここではないどこか」を見ていた。父の目は、もっと具体的な場所を見ている。


 暖炉の上の肖像画だ。


 父は毎晩、母の絵を見ながら酒を飲んでいた。


          ◇


 ある朝、父が出勤した後で家の中を歩いた。


 前世の癖で、生活空間を観察する習慣がついている。コンビニのバックヤードでも、配達先の家の玄関でも、そこに住む人間の輪郭は空間に滲み出るものだ。


 この家には、二人の人間の痕跡がある。


 一人は父だ。使い込まれた制服のスペア。整頓された書類の束。酒瓶が数本。質素で、必要最低限で、生活の匂いが薄い。


 もう一人は、母だ。


 革命の勲章。短剣。古い革のブーツ。書棚に並ぶ魔法理論の書物。そして壁にかけられた深紅の軍衣。どれも丁寧に手入れされていて、埃一つない。


 父が毎日手入れしているのだと気づいたのは、ある朝、父が出勤前に母の短剣を磨いているのを見たときだった。


 言葉はなかった。ただ黙々と、布で刃を拭いていた。


 三年前に死んだ人間の遺品を、毎日磨き続ける。それが愛情なのか、執着なのか、懺悔なのか、五歳の――いや、前世を合わせて三十六歳の俺にも、判断がつかなかった。


 ただ、一つだけ分かることがある。


 この家に住んでいるのは、二人ではない。父と俺の二人ではなく、父と母の遺品と俺の、三つだ。そして父にとっての優先順位は、おそらく俺が一番ではない。


 それを寂しいとは思わなかった。


 前の人生で、俺は誰かの一番だったことなど一度もない。


          ◇


 外に出ると、この街がどういう場所なのかが、少しずつ見えてきた。


 首都エルステモルゲン。「最初の朝」を意味する名を持つこの街は、十五年前の革命によって生まれた共和国の中心地だ。


 街のあちこちに、革命の痕跡がある。


 中央広場には巨大な石碑が立っていて、革命で命を落とした英雄たちの名が刻まれている。その筆頭に、母の名があった。


 街路の壁には革命を讃える壁画が描かれている。剣を掲げる兵士たち、崩れ落ちる貴族の城、そして朝日を背に立つ女性の姿。赤い髪が風になびいている。母だ。


 学校の名前にも母の名が使われているらしい。「ヒルデ・エーベルハルト記念国民学校」。俺が二年後に通うことになる学校だ。


 英雄の名は街に溢れている。壁画の中で、石碑の上で、学校の看板で、母はどこにでもいた。


 どこにでもいて、どこにもいない。


 壁画の母は笑っている。石碑の母は永遠に立っている。だが家に帰れば、暖炉の上の肖像画が静かにこちらを見ているだけだ。壁画は俺を抱き上げてはくれない。石碑は俺に「おやすみ」を言わない。


 英雄という存在の奇妙さを、俺はこのとき初めて知った。


 死んでから大きくなる人間がいる。生きているときよりも、死んだ後の方が多くの場所にいる人間がいる。


 母さんは英雄だ。


 でも、英雄の家は、こんなに静かだ。


          ◇


 ある晩、いつもより父の帰りが遅かった。


 俺は居間で本を読みながら待っていた。この世界の歴史書だ。前世の知識と照らし合わせながら、この世界の成り立ちを少しずつ理解しようとしていた。


 玄関の扉が開いたのは、窓の外が完全に暗くなった後だった。


 父は制服のまま、居間に入ってきた。靴も脱がず、椅子に崩れるように座った。酒の匂いが、すでに漂っている。帰る前にどこかで飲んできたらしい。


 今日は、革命記念日だった。街中が祝祭の空気に包まれ、至る所で花火が上がり、軍楽隊が行進していた。その喧騒を避けるように、父は遅くまで帰ってこなかった。


「父さん」


 声をかけると、父は少し驚いたように目を向けた。


「ルッツ。まだ起きていたのか」


「うん」


 父は俺を見て、一瞬だけ目を細めた。それから視線を逸らした。いつものことだ。俺を見て、何かを見つけて、そしてそれに耐えられなくなって目を逸らす。


 前世の経験が、その理由を教えてくれる。


 俺の目は、金色だ。鏡で確認した。母と同じ、深い金色。


 父が俺を見るたびに逸らすのは、たぶん、この目のせいだ。


「今日は記念日だったね」


 俺が言うと、父は杯を手に取った。


「ああ。十五回目の、記念日だ」


 その声には、祝いの色は欠片もなかった。


 十五年前、母が命を懸けた革命。その記念日を、父は一人で酒を飲んで過ごしている。


 訊きたいことは山ほどあった。母はどんな人だったのか。なぜ戦ったのか。何を信じていたのか。そして――なぜ死んだのか。


 だが五歳の子供がそれを訊くのは、不自然だ。前世の記憶を悟られるわけにはいかない。


 だから俺は、五歳らしいことだけを言った。


「母さんは、すごい人だったの?」


 父の手が止まった。杯を持つ手が、微かに震えた。


 長い沈黙の後、父はゆっくりと口を開いた。


「ああ。すごい人だった」


 それだけだった。


 それ以上は何も言わず、父は杯を空にした。


 俺はそれ以上訊かなかった。


 まだ、早い。この人の傷を暴くには、俺はまだ何も知らなすぎる。


          ◇


 寝室に戻り、窓の外を見た。


 革命記念日の花火が、まだ遠くの空で瞬いている。赤と金の光が夜空に散って、一瞬だけ街を昼のように照らし、そしてすぐに消える。


 歓声が聞こえる。この国の人々は、十五年前の革命を誇りに思っている。


 だが、この家に歓声はない。


 英雄を最も近くで見ていた人間が、英雄の記念日を祝えない。


 それが何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。分からなかったが、前世の経験が一つの仮説を囁いている。


 英雄というのは、必要とされた人間のことだ。国が、民衆が、革命が必要としたから、母は英雄になった。


 だが家族が必要としていたのは、英雄ではなく、母親だったはずだ。


 国は英雄を得た。父と俺は、母を失った。


 その取引が正しかったのかどうか、俺には判断できない。


 ただ一つ、確かなことがある。


 この家には、英雄はいない。母は壁画の中と石碑の上にしかいない。ここにあるのは、磨かれた短剣と、色褪せない軍衣と、空の杯だけだ。


 ――前の人生で、俺は何者にもなれずに死んだ。


 この人生で、母は英雄になって死んだ。


 どちらが幸せだったのかと問われたら、俺は答えに詰まるだろう。


 花火の残光が消え、夜が戻ってくる。


 静かな家の中で、父の杯を置く音だけが、いつまでも続いていた。

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