戦場の洗礼・前
ルッツ17歳。辺境巡回任務中、初めての実戦。
血の匂いを嗅いだのは、その日が初めてだった。
辺境巡回の三週間目。フェアラント辺境領との境界を走る街道沿いの集落を、巡回部隊が訪れた時のことだ。
集落は焼けていた。
家屋が五つ。そのうち三つが黒く焦げ、壁が崩れ落ちている。残る二つも窓が割られ、扉が蹴破られていた。畑の作物は踏み荒らされ、井戸の縄は切り落とされている。
そして、死体が一つ。
集落の入口に横たわった老人。胸を切り裂かれている。傷口の周囲が赤黒く変色し、蠅がたかっていた。
巡回部隊の先任であるハインツ曹長が、死体の傍にしゃがみ込んだ。
「三日は経ってるな。盗賊団だ」
ハインツは四十代の痩せた男だった。頬がこけ、目の下に深い隈がある。辺境勤務が長いらしく、死体を見ても顔色一つ変えなかった。
「エーベルハルト」
「はい」
「お前、死体は初めてか」
「はい」
「吐くなよ。水が貴重だ」
吐きそうだった。前世を含めても、生身の死体を見たことはなかった。前世では人の死は画面の向こう側にあるもので、自分の死ですら唐突に訪れた。目の前に横たわる肉体が、かつて生きていた人間であるという事実が、腹の底に重く沈む。
巡回部隊は十二人。俺を含めた新兵が四人、ハインツを含めた経験兵が八人。辺境の集落を巡回し、秩序を維持する任務だ。実態は、共和国の支配が及ばない灰色地帯で起きる問題の後始末に近い。
「盗賊の規模は」
ハインツが集落の生存者に聞き取りをした。避難していた農民たちが、森の中から数人ずつ戻ってきていた。
「十五人くらいだ。馬はなかった。徒歩だ。武器は剣と斧。魔法使いが二、三人いた」
「方角は」
「北に抜けた。街道沿いじゃなく、山に入った」
ハインツが地図を広げた。指で北の山間部をなぞる。
「この辺りに拠点があるな。谷間のどこかだろう。三日前に襲撃して、まだこの周辺にいる可能性が高い」
部隊の空気が変わった。経験兵たちの目が鋭くなり、無駄口が消えた。
「盗賊団の掃討は任務範囲内だ。追う」
ハインツの声は淡々としていた。日常業務のように盗賊を追うと宣言する。辺境勤務の古参にとって、これは珍しくない仕事なのだろう。
だが俺にとっては違う。
人を追い、追いつけば戦う。戦えば、傷つけるか傷つけられるか。
心臓が脈打っている。速い。
◇
山間部の道なき道を、部隊は北に進んだ。
辺境の山は深い。首都周辺の整備された森とは違う。道標もなく、木々は鬱蒼と茂り、視界は二十メートルも効かない。足元は枯葉と岩と泥だ。
ハインツは先頭を歩きながら、地面に残った痕跡を読んでいた。折れた枝、踏み固められた土、焚き火の跡。盗賊団は痕跡を消す努力をしていない。訓練を受けた兵士ではないということだ。
「このまま谷に入る。隊列を二つに分ける」
ハインツが手信号で指示を出した。経験兵六人が先行し、残る経験兵二人と新兵四人が後衛を務める。
「新兵は後ろだ。前に出るな。前に出て死んだら、報告書を書くのが面倒だ」
冗談のつもりなのか、本気なのか、判別がつかない声だった。
俺は後衛の列の中で歩いた。
隣に、同じ新兵のフリッツがいた。二十歳の大柄な男で、農家の三男坊だ。軍に入った理由は「食い扶持を減らすため」と言っていた。前世のコンビニの同僚を思い出す目をした男だ。
「エーベルハルト」
フリッツが小声で呼んだ。
「なんだ」
「怖くないか」
「怖い」
「だよな。俺も怖い」
フリッツの手が微かに震えていた。大きな手だ。農作業で鍛えられた手。その手が震えている。
俺の手も同じだった。
前世の三十一年間、暴力とは無縁だった。コンビニに酔っ払いが来て大声を出すことはあったが、殴り合いにはならなかった。配達先で怒鳴られることはあったが、物理的な危険はなかった。
最も暴力に近づいた経験は、深夜のコンビニに酔った男が入ってきて、缶ビールを掴んで出ようとしたのを止めた時だ。男は俺の胸ぐらを掴んで「あ?」と凄んだ。俺は何もできなかった。体が固まって、声が出なかった。結局、奥にいた店長が出てきて事なきを得た。
たったそれだけの経験で、三日間眠れなかった。
今はその比ではない。剣と魔法を持った人間を追っている。追いついたら殺し合いだ。
体が竦む。足が重い。呼吸が浅くなっている。
分かっている。恐怖は正常な反応だ。危険を前にして恐怖を感じない方がおかしい。前世の知識がそう教えている。
だが知識は体を動かさない。
頭では分かっている。体が言うことを聞かない。
◇
谷間に入ったのは、午後の遅い時刻だった。
両側に切り立った斜面が迫り、底に細い川が流れている。川沿いに歩くと、焚き火の跡が新しくなった。灰がまだ温かい。
「近いぞ。警戒しろ」
ハインツの声が緊張を帯びた。
先行部隊が足を止めた。谷が少し開けた場所に、粗末な小屋が数棟見える。木と布で作った仮設の拠点。盗賊団のねぐらだ。
人影は見えない。
「留守か?」
経験兵の一人が呟いた。
「わからん。罠の可能性もある。偵察を――」
ハインツの言葉が終わる前に、世界が動いた。
左の斜面から矢が飛んだ。
先行部隊の経験兵の一人が肩を射抜かれ、悲鳴を上げた。
次の瞬間、右の斜面からも攻撃が来た。赤い光球。火弾だ。新式魔法ではないが、魔法であることに変わりはない。荒く、不安定で、しかし至近距離では十分に人を殺せる威力。
「伏せろ! 待ち伏せだ!」
ハインツが怒鳴った。
部隊が混乱した。狭い谷間での待ち伏せ。両側の斜面から挟撃されている。教科書通りの伏撃だ。
俺は本能的に岩陰に身を隠した。心臓がうるさい。耳の奥で血液が脈打つ音が聞こえる。
斜面の上から、怒声が降ってきた。
「金目のものを出せ! 武器を捨てろ!」
盗賊団だ。だが軍の部隊だと分かれば、略奪ではなく戦闘になる。
ハインツが即座に判断した。
「共和国軍辺境巡回第三部隊だ! 武器を捨てて出てこい! 投降すれば命は保証する!」
返答は火弾だった。赤い光球がハインツの足元で炸裂し、土が弾け飛んだ。
「交渉決裂だ。全員、応戦!」
経験兵たちが動いた。岩陰から身を出し、斜面に向かって火弾を放つ者。地壁を隆起させて盾を作る者。ハインツは剣を抜き、鉄身で体を強化して斜面を駆け上がった。
新兵は動けなかった。
フリッツが俺の隣で体を丸めていた。目を見開き、呼吸が荒い。他の新兵二人も同様だ。訓練では人を狙った火弾を浴びたことなどない。
俺も同じだった。岩に背中を押し付け、膝を抱えている。
動け。動け。動けと頭が命じるが、体が拒否している。
斜面から降りてきた盗賊が、先行部隊の負傷兵に迫っていた。肩を射抜かれた兵士が地面に倒れ、盗賊が斧を振り上げる。
「やめろ!」
ハインツが斜面から叫んだが、距離がある。間に合わない。
別の経験兵が火弾を放ったが、焦りで照準がずれ、岩に当たった。
盗賊の斧が、振り下ろされようとしている。
その時、体が動いた。
考えるより先に、足が地面を蹴っていた。
岩陰から飛び出し、倒れた兵士と盗賊の間に割り込んだ。鉄身。体を硬化させる強化魔法。成功したかどうか分からない。ただ無我夢中で唱えた。
斧が腕に当たった。
鈍い衝撃。鉄身が間に合っていたのか、斬れはしなかった。だが衝撃で体が横に吹き飛んだ。地面に転がる。腕が痺れている。
盗賊の顔が見えた。三十代くらいの男。髭を伸ばし、頬がこけている。目は血走り、追い詰められた獣のような色をしていた。
あの目を、前世で見たことがある。
深夜のコンビニに来る、行き場のない人間の目だ。
「このガキ――!」
盗賊が再び斧を振りかぶった。
俺は地面に転がったまま、掌を向けた。
「――火弾!」
赤い光球が至近距離で放たれた。盗賊の胸に直撃し、男が後方に吹き飛んだ。
地面に叩きつけられた盗賊が、動かなくなった。胸の服が焦げ、肌が赤く爛れている。死んではいない。だが気を失っている。
生まれて初めて、人に向けて魔法を撃った。
手が震えていた。掌が焼けるように熱い。魔力の逆流だ。焦って撃ったから、制御が乱れたのだろう。
戦闘はまだ続いていた。斜面の上から矢と火弾が飛び、経験兵たちが応戦している。
だが俺の意識は、目の前の倒れた男に釘付けだった。
胸が焼けた男。痩せた体。汚れた服。
こいつは、何者なんだ。
なぜここにいる。なぜ盗賊をやっている。どんな人生を歩いてきて、こんな山奥で斧を振るっている。
考えている場合じゃない。
頭では分かっていた。だが体が動かない。さっきまでの竦みとは違う。今度は、自分がやったことの重みで足が止まっていた。
「エーベルハルト! ぼさっとするな!」
ハインツの怒号が谷に響いた。
我に返った。立ち上がった。
まだ戦闘は終わっていない。




