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二度目の夜明けを <第2章スタート>  作者: ret_riever
第2章 均等の裏側 *第16話~第30話

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辺境への任務

ルッツ16歳。共和国軍の辺境巡回任務に配属。フェアラント辺境領との境界地帯へ向かう。

辺境巡回任務の辞令が下りたのは、裁定院に配属されて二ヶ月目のことだった。


「警護要員として、北部辺境巡回に同行してもらう。期間は一ヶ月。出発は三日後だ」


 班長のクルトが、そっけなく告げた。


「裁定院の任務ではなく、軍務ですか」


「裁定院も共和国軍の管轄だ。辺境の治安維持は軍務の一環。人手が足りない時は警護班から出向させる。よくあることだ」


 よくあること。その言葉の裏に、何か別の意図があるのかどうかは、分からなかった。


 ヴェルナーの指示か。それとも単なる人員配置か。


 どちらにせよ、辺境に行くこと自体は俺にとって悪い話ではなかった。首都の中だけでは見えないものがある。この国の端を見れば、中心からは見えない構造が見えるかもしれない。


          ◇


 出発の朝、荷を背負って首都の北門を出た。


 巡回隊は十二人。隊長は三十代の中尉で、ゲオルクという名前の痩せた男だった。残りは下士官と兵士。俺は最年少で、最も階級が低い。


 馬車はない。徒歩だ。


 共和国の北部は、首都を離れるほどに景色が変わった。整備された街道が次第に細くなり、石畳が土道に変わり、街路樹が野の草に取って代わられる。


 三日歩いて、最初の村に着いた。


 ハルバッハ村。共和国の行政地図では「北部第七区画」と記される、百人足らずの集落だ。


 村の入口に共和国の旗が掲げてあった。だが色褪せて破れかけている。


「ゲオルク中尉。旗の手入れがされていませんが」


「辺境では珍しくない。旗を替える予算がないんだ」


 ゲオルクの声は淡白だった。辺境巡回を何度も経験しているのだろう。


 村の中を歩いた。家々は木と石の簡素な作りで、首都の建物に比べると二回りは小さい。畑は痩せた土地に麦が植わっている。水路は細く、水量も少ない。


 村人たちが、巡回隊を見ていた。


 歓迎の表情ではなかった。警戒だ。目が硬い。前世のコンビニに来る客の中に、たまにこういう目をした人がいた。店員を「自分のために働く存在」ではなく「自分を監視する存在」として見ている目。


 俺たちは「共和国の兵士」だ。この村の人々にとって、それは守護者ではなく、監視者なのかもしれない。


          ◇


 巡回任務は単調だった。


 村を回り、治安を確認し、住民と面談し、報告書を書く。盗賊の情報があれば警戒態勢を取り、紛争があれば仲裁する。


 だが実際に起きる問題は、そういう劇的なものではなかった。


「税が重い。今年の収穫では払えない」


「配給が二ヶ月届いていない。子供たちの薬が足りない」


水癒(すいゆ)を使える治癒士を送ってくれと三年前に申請した。まだ返事がない」


 ハルバッハ村の長老が、巡回隊に訴えた。六十代の女性で、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。


 ゲオルク中尉は淡々と記録を取った。


「報告書に記載する。本部に上げる」


「前の巡回隊もそう言った。その前の巡回隊も。何も変わっていない」


 長老の声に、怒りよりも疲労が滲んでいた。怒る気力すら残っていない。


 ゲオルクは何も答えなかった。答えられることがないのだ。報告書を上げても、辺境に資源が回ってくることはほとんどない。首都の官僚たちにとって、辺境は地図の端に書かれた小さな文字でしかない。


 前世の記憶が重なった。地方の過疎地域。行政サービスが届かず、病院もスーパーもなくなり、若者が出て行き、老人だけが残る。都会の人間は「自己責任」と言い、政治家は「地方創生」と掲げて予算だけ通し、金は別のところに消える。


 構造は同じだ。中央が末端を見捨てる。どの世界でも。


          ◇


 四つ目の村を過ぎた頃から、景色がさらに変わった。


 共和国の行政が及ぶ範囲の端。ここから先は、フェアラント辺境領との境界地帯だ。明確な国境線はない。共和国の地図では「未確定地域」と記されている。フェアラントの地図にも、おそらく同じように書かれているのだろう。


 どちらの国にも属さない灰色の地帯。


 そこに人が住んでいた。


 小さな集落が、谷間に点在していた。十軒ほどの粗末な家が、水源の近くに寄り集まっている。畑は小さいが手入れされていて、家畜の鳴き声が聞こえる。


「ここは何ですか」


 ゲオルクに訊いた。


「名前のない集落だ。共和国の行政に登録されていない。住民の戸籍もない」


「戸籍がない?」


「ああ。革命の混乱期に各地から流れ着いた人間が住み着いた。共和国の市民ではないし、フェアラントの住民でもない。どこにも属さない人々だ」


 ゲオルクの声は平坦だった。だが、軽蔑の色はなかった。何度もこの地帯を巡回してきた人間の、ある種の諦観が滲んでいる。


「巡回隊は、ここにも立ち寄るのですか」


「立ち寄る。だが介入はしない。この地帯の住民に対する共和国の管轄権は曖昧だ。下手に踏み込めば、フェアラント側との紛争の火種になる」


 管轄権の曖昧さ。それは行政の問題であると同時に、ここに住む人々にとっては存在の曖昧さでもある。どこにも属さないということは、どこからも守られないということだ。


          ◇


 集落に近づくと、住民たちが出てきた。


 武装はしていないが、警戒の目で俺たちを見ている。ハルバッハ村の村人たちよりも、さらに硬い目だった。


 ゲオルクが両手を上げて、敵意がないことを示した。


「巡回だ。立ち入るつもりはない。水を分けてもらえれば、それだけでいい」


 集落の代表と思しき男が出てきた。四十代くらい。右目に古い傷がある。軍人の傷ではない。もっと雑な、喧嘩か事故の傷だ。


「水なら、井戸を使え。金はいらん。代わりに、さっさと去ってくれ」


「承知した」


 やり取りは短く、乾いていた。互いに信頼はないが、敵対もしない。ただ距離を保つだけの関係。


 井戸で水筒を満たしている間、俺は集落の中を観察した。


 子供がいた。五人ほど。裸足で走り回っている。年齢はばらばらで、一番小さい子は四歳くらいか。笑い声を上げて追いかけっこをしている。


 その中に、一人だけ笑っていない子がいた。


 十歳くらいの女の子。黒い髪を短く切り、泥のついた服を着ている。他の子供たちが走り回る中で、木の根元に座って、こちらを見ていた。


 目が合った。


 その目に、俺は見覚えがあった。


 隔離区のレナと同じ目だ。自分がいる場所に未来がないことを、子供なりに理解してしまった目。大人びている、というのとは少し違う。老けている。希望を持つことを学ぶ前に、諦めることを覚えた目。


 俺はその子に近づいた。


「やあ」


「……」


 返事はない。ただ見ている。


「名前は」


「……イルゼ」


 小さな声だった。


「イルゼ。ここにはずっと住んでるのか」


「知らない。生まれた時からここにいる」


「学校は」


「ない」


「魔法は」


 イルゼの目が、一瞬だけ揺れた。怯えだ。


「使っちゃいけないって」


「誰が言った」


「おとなたち。魔法を使うと、兵隊が来るって」


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 この子は魔法の素養を持っている。だが使えば目立つ。目立てば共和国軍が介入する口実になる。だから大人たちが禁じている。


 共和国は「すべての子供に魔法教育を」と掲げている。だがこの子は教育どころか、魔法を使うことすら禁じられている。戸籍がないから、均等裁定院の判定すら受けられない。


 制度の外にいる子供。制度が存在すら認めていない子供。


「エーベルハルト。何をしている」


 ゲオルクの声が飛んだ。


「すみません。すぐ行きます」


 立ち上がった。イルゼは何も言わず、ただ座ったまま俺を見ていた。


 集落を離れる時、一度だけ振り返った。


 イルゼはまだ木の根元に座っていた。小さな影が、午後の光の中で動かない。


          ◇


 集落を離れてから、ゲオルクに訊いた。


「あの集落の住民は、どういう人たちなのですか」


「色々だ。革命時に家を焼かれた平民。脱走兵。隔離区から逃げ出した旧貴族。フェアラントから流れてきた難民。全部混ざっている」


「共和国は彼らを放置しているのですか」


「放置というか、手が回らんのだ。辺境の管轄が曖昧な地帯に、戸籍もない人間が散在している。一人一人を登録して管理するには人も金も足りない。そもそも、彼らは共和国に登録されたがらない」


「なぜです」


「登録されれば管理される。管理されれば統制される。旧貴族の出身者は隔離区に送り返されるし、脱走兵は処罰される。彼らにとって、どこにも属さないことが、唯一の自由なんだ」


 ゲオルクの説明は淡白だったが、正確だった。この男は辺境の現実をよく知っている。


「中尉は辺境巡回が長いのですか」


「五年だ。首都勤務を希望しているが、通らん。辺境要員は慢性的に不足しているからな」


 ゲオルクが皮肉な笑みを浮かべた。


「首都の連中は辺境に来たがらない。昇進に繋がらないし、危険も多い。だが誰かが来なければ、この地帯は完全に放置される。放置すれば、フェアラントに飲み込まれるか、盗賊の温床になる」


「割に合わない任務ですね」


「割に合う仕事を探しているなら、軍に入るべきじゃなかったな」


 ゲオルクの声に刺はなかった。冗談のような、自嘲のような口調だった。


          ◇


 巡回任務は二十日間続いた。


 その間に、俺はさらに三つの名前のない集落を見た。どれも似た構造だった。十軒前後の家、痩せた畑、井戸、子供たち。


 共和国からも旧体制からもはじかれた者たちの、小さな世界。


 彼らは、共和国を憎んではいなかった。旧体制を懐かしんでもいなかった。ただ、どちらにも居場所がなかったのだ。


 前世の記憶がまた浮かんだ。


 ネットカフェ難民。住所不定。住民登録がなく、行政サービスを受けられず、保険もなく、選挙権も実質的に行使できない人々。制度の網から落ちた人間は、制度の中にいる人間からは見えなくなる。


 首都にいた時の俺は、この国を「体制側」と「旧貴族側」の二項対立で捉えていた。均等裁定院の中にいれば、世界はその二つに見える。


 だが辺境に来て、三番目の世界が見えた。


 体制にも反体制にも属さない人々。どちらの旗も掲げず、どちらの保護も受けず、地面に根を張って生きている人間たち。


 彼らの存在は、均等裁定院の書類には載っていない。ヴェルナーの論理の中にも入っていない。「旧貴族に魔法を学ばせれば復讐に使う」という仮定の中に、イルゼのような子供は含まれていない。


 ヴェルナーの論理は精密だ。だがその精密さは、制度の中にいる人間だけを対象としている。制度の外に落ちた人間は、最初から計算に入っていない。


 それはつまり、ヴェルナーの「必要悪」は、すべての人間を対象とした「必要悪」ですらないということだ。一部の人間を最初から切り捨てた上で成り立つ、限定的な正しさに過ぎない。


 この気づきが、十七話で見つけられなかった反論の糸口になるかもしれない。


 まだ形にはできない。だが、種は撒かれた。


          ◇


 任務の最終日、帰路についた。


 首都に向かう道の途中で、ゲオルク中尉が隣に並んだ。


「エーベルハルト。お前、院長の推薦で来た人間にしては、辺境を真面目に見ていたな」


「見るべきものがありましたので」


「ほう。何が見えた」


「この国には、地図に載っていない場所がたくさんあるのだと」


 ゲオルクは少し黙ってから、短く笑った。


「若いのに、嫌なことに気づくな」


「よく言われます」


「首都に戻ったら、辺境のことは忘れた方がいい。覚えていても、辛いだけだ」


「忘れません」


「……そうか」


 ゲオルクはそれ以上何も言わなかった。


 首都の門が見えてきた。深紅の旗が、夕日を受けて翻っている。


 一ヶ月前にこの門を出た時とは、俺の目が変わっていた。


 この旗の下にある国は、旗が示すほど大きくない。旗が届かない場所に、旗を知らない人々が生きている。


 ヴェルナーは言った。「この国を安定させるために統制が必要だ」と。


 だが「この国」とは、どこまでを指すのだろう。首都の中だけか。行政が届く範囲だけか。辺境の名もない集落は「この国」に含まれているのか。


 あのイルゼという子供は、ヴェルナーの「この国」の中にいるのか。


 答えは分かっている。いない。


 ヴェルナーの「必要悪」は、ヴェルナーの見える範囲だけの必要悪だ。見えない場所にいる人間は、最初から存在しないことにされている。


 前世の俺がそうだったように。


 住所が不定で、保険証がなく、病院に行く金がなかった。社会の制度からこぼれ落ちた人間は、制度を設計した人間の想像力の外にいる。


 だからこそ、俺にはあの子供たちの目が分かる。


 同じ目をしていたのだから。前の人生で。


 首都の門をくぐった。石畳の道。街路樹。パン屋の匂い。人々の笑い声。


 この穏やかな風景の外に、別の世界がある。


 それを知ったことが、この一ヶ月の最大の収穫だった。

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