ヴェルナーの論理
ルッツ16歳。均等裁定院長ヴェルナー・グラーンが、自らの思想をルッツに語り始める。
均等裁定院に配属されて三週間が過ぎた。
仕事には慣れた。巡回、本人確認、書類運搬。警護班の同僚たちとも、必要最低限の関係は築けている。班長のクルトは相変わらず無駄口を叩かないが、俺の仕事ぶりに不満はないらしく、余計な干渉もしてこない。
居心地が良くなりかけていることが、逆に危うかった。
体制の内側に入ると、体制の合理性が見えてくる。書類は整理され、手続きは効率的で、裁定官たちは真面目に仕事をしている。忠誠度で教育を選別しているという構造的な歪みは確かにある。だが日常の中では、その歪みは書類の一枚にしか現れない。
目の前の風景が穏やかだと、問題の深刻さを忘れそうになる。
前世でもそうだった。ブラックな職場でも、慣れてしまえば異常が日常になる。十二時間労働が「普通」になり、サービス残業が「当たり前」になる。
慣れは毒だ。少しずつ感覚を麻痺させる。
だから俺は、毎晩寝る前に、あの色分けされたタグのことを思い出すようにしていた。赤、青、緑、灰色。子供たちの未来を仕分ける四つの色。あれを忘れたら、俺がここにいる意味がなくなる。
◇
その日、ヴェルナーが俺を食事に誘った。
「今夜、私と食事をしないか。堅い話じゃない。ヒルデの息子と、たまには酒を酌み交わしたいだけだ」
断る理由がない。断れば不自然だし、ヴェルナーの考えに近づく機会を逃すことにもなる。
「喜んで」
院長の私邸は、庁舎から歩いて十分ほどの場所にあった。二階建ての石造りの家。元勲会のメンバーにしては質素だが、一般市民の住居よりは明らかに広い。
食堂のテーブルに、焼いた肉と黒パンと根菜の煮込みが並んでいた。質素だが、量は十分だ。
ヴェルナーが酒を注いだ。琥珀色の蒸留酒だ。
「飲めるか」
「少しなら」
「ヒルデは強かった。革命軍で一番の大酒飲みだった」
ヴェルナーが杯を掲げた。俺も合わせた。
酒は辛かった。前世ではビールくらいしか飲んだことがない。蒸留酒の強さに喉が焼ける。
ヴェルナーは一口で半分を空け、杯をテーブルに置いた。
「三週間、裁定院を見てきたな。改めて訊く。どう思った」
前回と同じ問いだ。だが今回は、前回とは違う答えを求められている。
ヴェルナーの目を見た。穏やかだが、奥に刃物がある。この男は、俺が何に気づいたかを知りたがっている。気づいていないのか、気づいて黙っているのか、気づいて反発しているのか。
どの反応を返すべきか。
三つの選択肢を三秒で計算した。
気づいていないふりを続ければ、ヴェルナーは失望するか、俺を無能と見なすだろう。ヒルデの息子として期待しているものがある以上、鈍い子供では用がない。
反発すれば、危険だ。まだこの場所での立場が弱すぎる。
三番目の選択肢。気づいたことを認めつつ、判断は保留する。
「……教育配分に、裁定官の判断以外の基準があるように見えました」
ヴェルナーの表情は変わらなかった。
「具体的に」
「面談前に、教育レベルがほぼ決まっています。家庭の貢献度に基づいて」
沈黙が落ちた。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、部屋に響いた。
ヴェルナーは酒を一口含み、ゆっくりと飲み下した。
「よく見ている。ヒルデの目だ」
褒めているのか、警戒しているのか。
だがその目が、一瞬だけ別の色を帯びた。品定めでも警戒でもない。まるで、合わないはずの歯車が噛み合っているのを見たような——微かな困惑。すぐに消えた。気のせいかもしれない。
「それで、お前はどう思う。それが不正だと思うか」
ここが分水嶺だ。
「わかりません。だから、訊きたいのです。なぜそうしているのか」
ヴェルナーの唇の端が、わずかに上がった。それは微笑と呼べるものだったが、温かさの中に、教師が生徒を試す時の冷たさが混じっていた。
「正直な問いだ。答えよう」
◇
ヴェルナーは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「革命が終わった時、私たちは理想に燃えていた。魔法教育を全国民に開放する。血統による差別を撤廃する。すべての子供が平等に学べる世界を作る。ヒルデも、私も、カール総帥も、全員が本気でそう思っていた」
声は穏やかだった。回想の声だ。
「実際にやってみてわかった。平等な教育には、途方もない資源が要る。教師、施設、教材、そして何よりも時間。魔法教育は一朝一夕にはいかん。旧貴族が数百年かけて蓄積した教育体系を、一世代で万人に行き渡らせるのは、物理的に不可能だった」
「それは理解できます」
「理解できるか。それは良い。世の中には、不可能だと言うだけで怒る人間がいるからな」
ヴェルナーが杯に酒を注ぎ足した。
「資源が限られている以上、配分が必要になる。誰に優先的に教え、誰を後に回すか。その判断をどう下す」
「能力で選別する、というのが公正な方法だと思いますが」
「そうだ。私もそう考えた。だが問題がある」
ヴェルナーの目が、暖炉の火を映して光った。
「能力の高い人間に優先的に高等教育を与える。合理的だ。では訊こう。能力が高い人間は、誰だ」
「……」
「旧貴族だ」
その一言に、俺は言葉を失った。
「数百年にわたって魔法教育を受けてきた家系の子供と、昨日まで魔法を禁じられていた平民の子供。同じ適性試験を受ければ、どちらが上だ。答えるまでもないだろう」
ヴェルナーが身を乗り出した。
「革命直後、能力主義で教育配分を行った。結果、高等教育の席の七割を旧貴族の子供が占めた。平民の子供は基礎教育止まり。革命前と何も変わらない。変わったのは、平民が学べる可能性が理論上はあるという、体裁だけだ」
「それは……」
「革命兵士たちが怒った。当然だ。命を懸けて貴族から魔法を奪い返したのに、結局は貴族の子供が上に立つ。俺たちは何のために戦ったんだ、と。暴動が起きかけた」
ヴェルナーは酒を飲み干した。
「そこで私は決断した。能力だけでは配分できない。体制への貢献度を加味する。革命のために戦った家庭の子供を優先する。それが、この国を安定させる唯一の方法だった」
◇
反論が、喉まで出かかっていた。
だが俺は口を閉じたまま、ヴェルナーの論理を咀嚼した。
一理ある。
それが恐ろしかった。
ヴェルナーの言っていることには、論理の筋道がある。能力主義が旧貴族の優位を温存する、という指摘は正しい。教育の蓄積がある家系の子供が試験で上に来るのは当然の結果だ。革命が生んだ平等を実質的に無効化する結果になりかねない。
だが、その「一理」を盾に、忠誠による選別が正当化されている。
前世の記憶が甦った。
配送会社の上司。俺が残業代を請求した時の答え。「みんな我慢してるんだよ。会社が潰れたら、誰も給料をもらえないだろう。全体のためを考えろ」。
論理は通っていた。会社が潰れれば確かに全員が困る。だがその「全体のため」という言葉の裏で、上司は自分の管理職手当を守っていた。
ヴェルナーの「この国を安定させる」は、あの上司の「全体のためを考えろ」と同じ構造だ。
正しい前提から、歪んだ結論を導く。その歪みに、本人すら気づいていないのか、それとも気づいた上で使っているのか。
「エーベルハルト。反論があるなら聞く」
ヴェルナーの声が、試すような色を帯びていた。
「一つだけ、伺いたいことがあります」
「何だ」
「旧貴族への教育制限は、一時的な措置ですか。それとも恒久的なものですか」
ヴェルナーが目を細めた。
「なぜそれを訊く」
「もし一時的な措置であれば、いずれ能力主義に移行する計画があるはずです。もし恒久的なものであれば、それは統制であって均等ではない」
沈黙が降りた。
暖炉の薪が崩れ、火の粉が舞った。
ヴェルナーはゆっくりと立ち上がり、窓際に歩いた。背を向けたまま、外を見ている。
「お前の母も、同じことを訊いた」
背中越しの声は、静かだった。
「ヒルデは言った。『ヴェルナー、これは移行期の措置なのか、それとも恒久的な支配なのか。どちらだ』と。革命が終わって三年目のことだ」
「母は何と答えたのですか」
「答えを聞く前に、次の問題が起きた。辺境の離反だ。フェアラントが独立を宣言し、国境の安定が揺らいだ。外の脅威がある時に、内部の統制を緩めるわけにはいかない」
ヴェルナーが振り返った。
「それが十三年前だ。それ以来、外の脅威が消えたことは一度もない。フェアラントの独立、ヴェルトハーフェン王国の敵意、国内の反革命分子。この国は常に脅威に囲まれている。だから統制を解けない。解けば、旧貴族は魔法を取り戻し、復讐に使うだろう。それは希望的観測ではなく、現実の危険だ」
「統制を解くための条件が、永遠に満たされないのでは——」
「そうだ」
ヴェルナーは、あっさりと認めた。
「条件は永遠に満たされない。外の脅威が消える日は来ない。だから統制は続く。これは必要悪だ。私はそれを背負って生きている」
必要悪。
その言葉を聞いた時、前世の上司の顔がまた浮かんだ。「規則には理由がある」。そう言い続けた男の顔。
規則には確かに理由がある。だが十年経ち、二十年経つうちに、理由が忘れられ、規則だけが残る。あるいは理由が変質し、「理由」という名の「支配」にすり替わる。
ヴェルナーの「必要悪」は、十五年前は確かに必要悪だったのかもしれない。だが今は——。
◇
「もう一つ、訊いてもいいですか」
「構わん」
「あなたは、今の裁定院の仕組みが正しいと信じていますか」
ヴェルナーが微かに笑った。寂しそうな、疲れたような笑みだった。
「正しいかどうかは問題じゃない。機能するかどうかが問題だ。この国を十五年間維持してきた仕組みは、少なくとも機能している。正しくはないかもしれない。だが、正しさだけでは国は動かん」
「母はそう思わなかったのでは」
踏み込みすぎたかもしれない。だが引っ込められなかった。
ヴェルナーの目が、一瞬だけ鋭くなった。だがすぐに、穏やかな表情に戻った。
「ヒルデは理想主義者だった。この世で最も美しく、最も危険な種類の人間だ。彼女の理想は正しかった。だが正しい理想を、正しいまま実現する方法を、誰も知らなかった。私も、カールも、ヒルデ自身も」
ヴェルナーがテーブルに戻り、椅子に座った。
「エーベルハルト。お前に一つ、教えておくことがある」
「何でしょうか」
「この世界で最も恐ろしいのは、悪意ではない。善意だ。善意を持つ人間は、善意のために何でもする。ヒルデも、私も、革命の指導者たちは全員、善意で動いていた。その善意が、この国を作った。そしてこの国が今どうなっているか、お前はすでに見ただろう」
俺は答えなかった。
答える必要がなかった。ヴェルナーの言葉は、問いではなく、告白に近いものだった。
この男は知っている。自分がやっていることの矛盾を。理想が腐敗していく過程を。善意が支配にすり替わっていく構造を。
知っていて、なお続けている。
それが最も恐ろしいことだった。
無知な暴君なら、倒せば済む。だが自分の罪を知りながら、それでも「これしか方法がない」と信じて走り続ける人間を、どう止める。
「今日は遅い。帰って休め」
ヴェルナーの声は、また穏やかに戻っていた。
「ありがとうございました。勉強になりました」
「勉強か。——お前が何を学んだか、楽しみにしている」
私邸を出た。夜の風が冷たかった。
歩きながら、頭の中でヴェルナーの論理を分解し続けた。
一理ある。それは認めなければならない。ヴェルナーは馬鹿ではないし、悪人でもない。少なくとも、出発点においては。
だが「一理ある」ことの恐ろしさを、俺は前世で学んでいる。
ブラック企業の経営者は、社員を使い潰しながら「会社を守るためだ」と本気で信じていた。パワハラ上司は、部下を追い詰めながら「お前のためだ」と本気で思っていた。
善意と正論を兼ね備えた支配は、悪意の支配よりもはるかに強固だ。なぜなら支配される側すら「確かにそうかもしれない」と納得してしまうから。
ヴェルナーの論理に対抗するには、単なる怒りでは足りない。感情ではなく、論理で上回らなければならない。
だが今の俺には、その論理がまだない。
「統制は必要悪だ」に対する、具体的な対案がない。
旧貴族に自由に魔法を学ばせれば、復讐に使う者が出る。それは否定できない。ヴェルナーの懸念は現実に根ざしている。
では、統制なしにどうやって安定を保つのか。
答えが見つからないまま、宿舎に戻った。
寝台に横になり、目を閉じた。
ヴェルナーの言葉が、暗闇の中で繰り返し響いていた。
「善意を持つ人間は、善意のために何でもする」。
その通りだ。そしてだからこそ、善意を止めるのは誰よりも難しい。
答えはまだ見えない。
だが問いだけは、はっきりとした。
必要悪を終わらせる方法を、俺は見つけなければならない。




