最初のひび
ルッツ14歳。エミルとの友情に、初めての亀裂が入ります。
それは放課後の教室だった。
エミルが俺の前に立っていた。いつもの笑顔がなかった。
「ルッツ。訊きたいことがある」
声が低い。エミルが声を落とすのは珍しい。大抵は教室の端にいても聞こえるような大声で話す男だ。
「何だ?」
「お前、旧い血と付き合ってるのか」
空気が変わった。
教室には他の生徒もいたが、エミルは意図的にこの場を選んだわけではないだろう。衝動的に口に出してしまったのだ。それが分かるくらいには、俺はこの友人を知っている。
「誰に聞いた」
「答えろよ。東区画の壁の近くで、お前を見たって奴がいる。何度も通ってるって」
否定するか。
一瞬だけ考えて、やめた。エミルに嘘をつくのは、この六年間の友情に対する冒涜だ。
「レナっていう子がいる。隔離区の子だ」
エミルの顔が強張った。
「やっぱりか。ルッツ、それは危ないぞ。密告されたら、お前の立場が……」
「密告って、誰が誰に?」
「隔離区との接触は規則違反だ。均等裁定院に報告が行ったら、お前の評価が下がる。英雄の息子って立場があるだろ」
エミルの目には、本気の心配があった。嫌悪ではない。友人を案じる、純粋な心配だ。それが分かるからこそ、余計に言葉を選ぶのが難しくなる。
「レナは敵じゃない。あの壁の向こうにいるのは、ただの子供だ」
「そりゃ子供かもしれないけど……でも、連中は革命を覆そうとしてる。大人たちがそう言ってる」
連中。
その言葉が、俺の中の何かに触れた。
「エミル」
「何だよ」
「会ったこともない人間を『連中』と呼ぶのは、あの貴族たちが平民を『下民』と呼んだのと何が違う?」
エミルの表情が凍った。
言い過ぎたかもしれない。だが引っ込められなかった。前世の俺なら黙っていた。波風を立てず、適当に流して、何も変わらない関係を維持していた。今はそうしたくなかった。
「俺は……」
エミルが口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
言葉を探している。反論したいが、的確な反論が見つからない。図星を突かれた人間の反応だ。
長い沈黙が落ちた。
六年間の友情の中で、初めての沈黙だった。
エミルとの間に言葉が途切れたことは一度もなかった。いつもエミルが話し、俺が聞き、時々俺が口を挟み、エミルが笑う。その繰り返しで六年が過ぎた。
今、その流れが止まった。
「……俺は、お前のことが心配なんだ」
ようやくエミルが言った。声から怒りは消えていた。代わりに、困惑と、傷ついた響きがあった。
「分かってる」
「分かってるなら」
「エミル。お前は正しいことを言ってる。規則上は、隔離区との接触は違反だ。俺の立場に良くないのもその通りだ」
「だったら」
「だけど、規則が正しいとは限らない」
また沈黙。
エミルは俺を見ていた。その目は、初めて出会った日の目とは違っていた。七歳の時、「お前の母さんは最高の英雄だ」と輝いていた目。あの曇りのない目に、初めて翳りが差している。
「お前は変わったな、ルッツ」
「変わったかもしれない」
「昔はもっと……普通だったのに」
普通。エミルにとっての「普通」は、共和国を信じ、革命を誇り、規則に従って生きることだ。それが「普通」であることが、この国の教育の成果であり、問題でもある。
「エミル。一つだけ約束してくれ」
「何だよ」
「レナのことは、誰にも言わないでくれ」
エミルは黙った。
これは大きな頼みだった。規則違反を知りながら報告しないことは、エミル自身も共犯にする。正義感の強いエミルにとって、それがどれほどの負荷か、俺には分かっていた。
「……言わない」
長い間を置いて、エミルが言った。
「お前は俺の友達だ。友達を密告するような真似はしない」
「ありがとう」
「でも、ルッツ」
エミルの声が硬くなった。
「正直、お前が何を考えてるのか分からなくなった。俺は共和国を守りたい。お前はどうなんだ」
答えなかった。答えられなかった。
俺が守りたいのは共和国ではない。かといって、壊したいわけでもない。この国の中にある良い部分は守りたいし、悪い部分は変えたい。だがそんな中途半端な答えは、エミルの問いに対する回答にはならない。
「考えさせてくれ」
「……ああ」
エミルは鞄を手に取り、教室を出て行った。
振り返らなかった。
◇
帰り道、一人で歩いた。
いつもはエミルと並んで帰る道を、今日は一人で。
エミルは密告しない。それは信じている。あいつは卑怯な人間ではない。友情を裏切る人間ではない。
だが、友情にひびが入った。
六年間、積み上げてきたものに、細い亀裂が走った。今はまだ表面だけかもしれない。だがこの亀裂は、これから広がるだろう。
俺とエミルは、見ている世界が違い始めている。
エミルは壁のこちら側だけを見て、こちら側を守ろうとしている。俺は壁の両側を見て、壁そのものを問題だと思っている。
同じ景色を見ていた二人が、違う方を向き始めた。
前世には友人がいなかった。だから友人との対立の痛みも知らなかった。
今、初めて知った。
友人に嘘をつくのは辛い。だが友人に本当のことを言って、友人を傷つけるのは、もっと辛い。
「連中」という言葉。エミルは悪意で使ったのではない。この国の教育が、あの言葉を自然に口にさせている。エミルは被害者でもある。
だからこそ、余計に苦い。
家の前に着いた。門の上に、深紅の旗が夕風に揺れている。
母さん。
あなたの革命が作ったこの国で、俺は今日、友達を一人失いかけた。
完全には失っていない。まだ戻れるかもしれない。だが、前と同じ関係には、もう戻れない。
これが、何かを変えようとすることの代償なのだと、十四歳の俺は学んだ。




