名前のない朝
第一章「革命の残り香」開幕。
本作は異世界転生ものですが、チート能力や転生特典はありません。
キャラの心情を描きながらテンポよくをモットーでいきます。
死ぬ瞬間に走馬灯が見えるというのは、嘘だった。
見えたのは、コンビニのバックヤードの天井だ。蛍光灯が二本、白い光を放っている。そのうち一本がちらちらと点滅していて、もうずいぶん前から替えなきゃと思っていたのに、結局最後まで替えなかった。
倒れたのだと気づくまでに、数秒かかった。
リノリウムの床が冷たい。頬に、指先に、冷えた床の感触がじわりと染みてくる。体が動かない。動かす気力がないだけかもしれない。どちらでも同じだ。
レジに客が来たら困るな、と場違いなことを考えた。
三十一年の人生だった。短いとも長いとも思わない。ただ、何もなかった。
大学を中退して以来、アルバイトを転々とした。コンビニ、倉庫、配達。どれも長く続かず、続いたとしても時給は変わらない。将来の見通しなど、立ちようもなかった。
半年前から体調がおかしいとは感じていた。だるさが抜けない。時折、視界の端が歪む。胸の奥に鈍い痛みが居座って、日に日に重くなる。
病院に行くべきだとは分かっていた。
だが診察代を払えば今月の家賃が足りなくなる。家賃を削れば住む場所を失う。どちらを選んでも詰みだった。
だから俺は、どちらも選ばなかった。
選ばないまま、ここに倒れている。
友人は、いない。家族とは十年以上連絡を取っていない。明日、俺がシフトに来なければ、店長が怒りの電話をかけてくるだろう。それが、俺の死を最初に知る人間ということになる。
惨めだとは思わない。思うだけの気力も、もう残っていなかった。
――結局、何者にもなれなかったな。
声に出したつもりだったが、音になったかは分からない。
蛍光灯の光がにじんで、ぼやけて、遠ざかっていく。
冷たい。
それが最後の感覚だった。
◇
暗い。
音もない。光もない。温度すらない。
自分が自分であるという認識だけが、暗闘の中に浮かんでいる。
これが死か、と思った。意外と静かなものだ。
怖くはなかった。むしろ、楽だった。何もしなくていい。何も選ばなくていい。何者かになる必要もない。この暗闇の中には、締め切りもシフト表も家賃の督促状もなかった。
このまま、ここにいてもいいかもしれない。
そう思った、次の瞬間だった。
世界が裂けた。
光が、音が、空気が、一度に押し寄せてきた。
何が起きているのか分からない。視界は白くぼやけ、耳元では割れるような叫び声が響いている。甲高く、細く、途切れることなく続く声。
――自分の声だと気づくまでに、また数秒かかった。
泣いている。赤ん坊の泣き声だ。それが、自分の口から出ている。
混乱した。だが混乱の中でも、三十一年分の記憶を持つ意識は状況を組み立てようとしていた。
体が小さい。極端に小さい。手足に力が入らない。視界は焦点を結ばず、光の塊がゆらゆらと揺れているだけだ。
そして――温かい。
誰かに抱かれていた。大きな手。いや、自分が小さいのだ。柔らかい布に包まれ、しっかりと、だが壊れ物を扱うように慎重に支えられている。
前の人生で、こんなふうに抱かれたことがあっただろうか。記憶にない。たぶん、なかった。
視界が少しだけ焦点を結ぶ。
目の前に、誰かの顔があった。
女性だ。汗に濡れた赤い髪が額に張り付いている。頬はこけ、疲労の色が深い。だがその瞳は――燃えるような深い金色をしていて、まっすぐに、俺を見ていた。
強い目だった。
前の人生で、俺を見る人間の目はいつも素通りしていた。コンビニのレジに立つ俺は背景の一部で、客は俺ではなくバーコードリーダーを見ていた。
この女性の目は、違った。俺を見ていた。俺だけを。
涙が頬を伝っていく。女性の頬を。産後の疲労と、それを超える何かが、金色の瞳を潤ませていた。
女性の唇が動く。
「ルッツ」
声は低く、かすれていた。だが芯がある。折れない声だ。
「お前の名前は、ルッツ。ルッツ・エーベルハルト」
言葉の意味はまだ分からない。この世界の言語を、赤ん坊の脳は処理しきれない。
だが声の調子だけは、分かった。
これは、祈りだ。
名前を与えるという行為に込められた、祈り。
前の人生では、名前を呼ばれることなど滅多になかった。職場では「おい」か「すみません」。プライベートで名前を呼ぶ相手など、とうの昔にいなくなっていた。名前なんてあってもなくても同じだった。
だがこの女性は、生まれたばかりの俺に最初にしたことが、名前を与えることだった。
女性の腕にわずかに力がこもる。俺を抱く腕が、ほんの少しだけきつくなる。
「強い子になれ、ルッツ」
声が震えた。疲れだけではない、別の何かを堪えるように。
「この世界は……まだ、夜が明けたばかりだから」
夜が明けたばかり。
その言葉が何を意味するのか、このときの俺には分からなかった。この世界でつい最近、何が起こり、この女性が何を成し、何を失ったのか。彼女の言う「夜明け」が、どれほどの血で購われたものだったのか。
それを知るのは、ずっと先のことだ。
俺はただ、泣き止んだ。
理由は分からない。赤ん坊の体が勝手にそうしたのかもしれない。
でも、たぶん違う。
この温もりが、あまりにも初めてのものだったから。
前の人生では、最後に感じたのは冷たさだった。コンビニの床の、底冷えするような冷たさ。誰にも看取られず、誰の手も借りられず、独りで冷えていった。
今、俺を包んでいるのは、その正反対のものだった。
こんなにも温かいものが、世界にはあったのか。
そう思った瞬間、涙が出た。赤ん坊の生理現象かもしれない。だが俺の中では、三十一年分の、乾ききった何かが、初めて潤った気がした。
母の腕の中で、意識が溶けていく。
温かいまま、眠りに落ちた。
◇
目を覚ますたびに、少しずつ世界が見えてくるようになった。
石造りの壁。木枠の窓から差し込む陽光。窓の外には、見たこともない街並みが広がっていた。尖塔のある建物、石畳の道、荷車を引く人々の姿。空は高く、空気は澄んでいて、排気ガスの匂いがしない。
テレビもコンビニも蛍光灯もない世界。
ここが前世と同じ場所でないことは、すぐに理解した。
そして気づいたこともある。
この家の壁には、赤い旗が飾られている。色褪せた深紅の布に、金糸で太陽の紋章が縫い取られている。家の中のあちこちに、勲章や古い短剣や、額に入った書状が置かれていた。
誰かが、何かを成した家だ。そしてその「誰か」は、おそらくあの赤い髪の女性だ。
俺を抱く母の腕は温かかった。だが彼女の目は、時折、窓の外を見つめてどこか遠い場所に行ってしまう。
何を見ているのか、俺には分からなかった。
分からないことだらけだった。この世界のこと。この国のこと。母のこと。なぜ俺がここに生まれたのかということ。
だが不思議と焦りはなかった。
前の人生では、いつも何かに急かされていた。締め切り、シフト、支払い期限。走り続けて、どこにもたどり着けなかった。
今度は急がない。
この温もりの中で、ゆっくりと、この世界を知っていけばいい。
そう思った。
――それが、俺の二度目の人生の最初の朝だった。
一度目よりマシであることを、心の底から祈っていた。
その祈りがどれほど甘かったか、知るのはもう少し先の話だ。
第1話をお読みいただきありがとうございます。
本作の転生は「死んで、生まれた」、それだけです。転生の神も女神も登場せず、スキルウィンドウも現れません。主人公が持っているのは31年分の「社会の底辺で生きた記憶」だけ。それが唯一にして最大の武器になります。




