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二度目の夜明けを <第2章スタート>  作者: ret_riever
1章 革命の残り香 *1話〜15話

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名前のない朝

第一章「革命の残り香」開幕。

本作は異世界転生ものですが、チート能力や転生特典はありません。

キャラの心情を描きながらテンポよくをモットーでいきます。


 死ぬ瞬間に走馬灯が見えるというのは、嘘だった。


 見えたのは、コンビニのバックヤードの天井だ。蛍光灯が二本、白い光を放っている。そのうち一本がちらちらと点滅していて、もうずいぶん前から替えなきゃと思っていたのに、結局最後まで替えなかった。


 倒れたのだと気づくまでに、数秒かかった。


 リノリウムの床が冷たい。頬に、指先に、冷えた床の感触がじわりと染みてくる。体が動かない。動かす気力がないだけかもしれない。どちらでも同じだ。


 レジに客が来たら困るな、と場違いなことを考えた。


 三十一年の人生だった。短いとも長いとも思わない。ただ、何もなかった。


 大学を中退して以来、アルバイトを転々とした。コンビニ、倉庫、配達。どれも長く続かず、続いたとしても時給は変わらない。将来の見通しなど、立ちようもなかった。


 半年前から体調がおかしいとは感じていた。だるさが抜けない。時折、視界の端が歪む。胸の奥に鈍い痛みが居座って、日に日に重くなる。


 病院に行くべきだとは分かっていた。


 だが診察代を払えば今月の家賃が足りなくなる。家賃を削れば住む場所を失う。どちらを選んでも詰みだった。


 だから俺は、どちらも選ばなかった。


 選ばないまま、ここに倒れている。


 友人は、いない。家族とは十年以上連絡を取っていない。明日、俺がシフトに来なければ、店長が怒りの電話をかけてくるだろう。それが、俺の死を最初に知る人間ということになる。


 惨めだとは思わない。思うだけの気力も、もう残っていなかった。


 ――結局、何者にもなれなかったな。


 声に出したつもりだったが、音になったかは分からない。


 蛍光灯の光がにじんで、ぼやけて、遠ざかっていく。


 冷たい。


 それが最後の感覚だった。


          ◇


 暗い。


 音もない。光もない。温度すらない。


 自分が自分であるという認識だけが、暗闘の中に浮かんでいる。


 これが死か、と思った。意外と静かなものだ。


 怖くはなかった。むしろ、楽だった。何もしなくていい。何も選ばなくていい。何者かになる必要もない。この暗闇の中には、締め切りもシフト表も家賃の督促状もなかった。


 このまま、ここにいてもいいかもしれない。


 そう思った、次の瞬間だった。


 世界が裂けた。


 光が、音が、空気が、一度に押し寄せてきた。


 何が起きているのか分からない。視界は白くぼやけ、耳元では割れるような叫び声が響いている。甲高く、細く、途切れることなく続く声。


 ――自分の声だと気づくまでに、また数秒かかった。


 泣いている。赤ん坊の泣き声だ。それが、自分の口から出ている。


 混乱した。だが混乱の中でも、三十一年分の記憶を持つ意識は状況を組み立てようとしていた。


 体が小さい。極端に小さい。手足に力が入らない。視界は焦点を結ばず、光の塊がゆらゆらと揺れているだけだ。


 そして――温かい。


 誰かに抱かれていた。大きな手。いや、自分が小さいのだ。柔らかい布に包まれ、しっかりと、だが壊れ物を扱うように慎重に支えられている。


 前の人生で、こんなふうに抱かれたことがあっただろうか。記憶にない。たぶん、なかった。


 視界が少しだけ焦点を結ぶ。


 目の前に、誰かの顔があった。


 女性だ。汗に濡れた赤い髪が額に張り付いている。頬はこけ、疲労の色が深い。だがその瞳は――燃えるような深い金色をしていて、まっすぐに、俺を見ていた。


 強い目だった。


 前の人生で、俺を見る人間の目はいつも素通りしていた。コンビニのレジに立つ俺は背景の一部で、客は俺ではなくバーコードリーダーを見ていた。


 この女性の目は、違った。俺を見ていた。俺だけを。


 涙が頬を伝っていく。女性の頬を。産後の疲労と、それを超える何かが、金色の瞳を潤ませていた。


 女性の唇が動く。


「ルッツ」


 声は低く、かすれていた。だが芯がある。折れない声だ。


「お前の名前は、ルッツ。ルッツ・エーベルハルト」


 言葉の意味はまだ分からない。この世界の言語を、赤ん坊の脳は処理しきれない。


 だが声の調子だけは、分かった。


 これは、祈りだ。


 名前を与えるという行為に込められた、祈り。


 前の人生では、名前を呼ばれることなど滅多になかった。職場では「おい」か「すみません」。プライベートで名前を呼ぶ相手など、とうの昔にいなくなっていた。名前なんてあってもなくても同じだった。


 だがこの女性は、生まれたばかりの俺に最初にしたことが、名前を与えることだった。


 女性の腕にわずかに力がこもる。俺を抱く腕が、ほんの少しだけきつくなる。


「強い子になれ、ルッツ」


 声が震えた。疲れだけではない、別の何かを堪えるように。


「この世界は……まだ、夜が明けたばかりだから」


 夜が明けたばかり。


 その言葉が何を意味するのか、このときの俺には分からなかった。この世界でつい最近、何が起こり、この女性が何を成し、何を失ったのか。彼女の言う「夜明け」が、どれほどの血で購われたものだったのか。


 それを知るのは、ずっと先のことだ。


 俺はただ、泣き止んだ。


 理由は分からない。赤ん坊の体が勝手にそうしたのかもしれない。


 でも、たぶん違う。


 この温もりが、あまりにも初めてのものだったから。


 前の人生では、最後に感じたのは冷たさだった。コンビニの床の、底冷えするような冷たさ。誰にも看取られず、誰の手も借りられず、独りで冷えていった。


 今、俺を包んでいるのは、その正反対のものだった。


 こんなにも温かいものが、世界にはあったのか。


 そう思った瞬間、涙が出た。赤ん坊の生理現象かもしれない。だが俺の中では、三十一年分の、乾ききった何かが、初めて潤った気がした。


 母の腕の中で、意識が溶けていく。


 温かいまま、眠りに落ちた。


         ◇


 目を覚ますたびに、少しずつ世界が見えてくるようになった。


 石造りの壁。木枠の窓から差し込む陽光。窓の外には、見たこともない街並みが広がっていた。尖塔のある建物、石畳の道、荷車を引く人々の姿。空は高く、空気は澄んでいて、排気ガスの匂いがしない。


 テレビもコンビニも蛍光灯もない世界。


 ここが前世と同じ場所でないことは、すぐに理解した。


 そして気づいたこともある。


 この家の壁には、赤い旗が飾られている。色褪せた深紅の布に、金糸で太陽の紋章が縫い取られている。家の中のあちこちに、勲章や古い短剣や、額に入った書状が置かれていた。


 誰かが、何かを成した家だ。そしてその「誰か」は、おそらくあの赤い髪の女性だ。


 俺を抱く母の腕は温かかった。だが彼女の目は、時折、窓の外を見つめてどこか遠い場所に行ってしまう。


 何を見ているのか、俺には分からなかった。


 分からないことだらけだった。この世界のこと。この国のこと。母のこと。なぜ俺がここに生まれたのかということ。


 だが不思議と焦りはなかった。


 前の人生では、いつも何かに急かされていた。締め切り、シフト、支払い期限。走り続けて、どこにもたどり着けなかった。


 今度は急がない。


 この温もりの中で、ゆっくりと、この世界を知っていけばいい。


 そう思った。


 ――それが、俺の二度目の人生の最初の朝だった。


 一度目よりマシであることを、心の底から祈っていた。


 その祈りがどれほど甘かったか、知るのはもう少し先の話だ。


第1話をお読みいただきありがとうございます。


本作の転生は「死んで、生まれた」、それだけです。転生の神も女神も登場せず、スキルウィンドウも現れません。主人公が持っているのは31年分の「社会の底辺で生きた記憶」だけ。それが唯一にして最大の武器になります。

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